楪は睡蓮の腕をぐいっと引いて薫から引き剥がすと、前に立った。
「白蓮路さまは、こんな時間にどのような要件で?」
「んー? まあね。君の花嫁が悲しんでいたみたいだから、慰めてあげようかなって」
 飄々とした声で、薫が言う。それに対して、楪は硬い声で返した。
「心配は無用です。睡蓮のことは、俺が分かってますから」
 くっという声がした。楪の背中越しに薫を見ると、彼は楽しそうに笑っていた。
 楪の妖気がさらに強くなるのを感じる。
「分かってる? そうかな?」
 楪は眉を寄せる。
「なにか?」
 楪は、あまり感情を表に出さない。そんな彼が不機嫌を隠そうとしないのは珍しい。
 ――どうしてそんなに……。
 薫と目が合う。
「花嫁の顔を見てみなよ。わたしのところに挨拶に来たときから、泣きそうな顔をしてるっていうのに、君はまったく気付いてない」
 楪が睡蓮を見やる。睡蓮は咄嗟に下を向く。その目を見返すことはできなかった。
「さっき、挨拶に来てくれたとき、あんまりこの子の様子がおかしいものだから、心の中覗いちゃったんだよね。睡蓮ちゃんの過去はなかなか刺激的だったな」
「心の中……?」
 睡蓮が呟く。
 なんとなく、彼にはすべてを見透かされているような気がしていたけれど、その理由はこれか。
「現人神の花嫁に術を使うのは、禁忌のはずですよ。悪趣味な術を、俺の花嫁に使わないでいただきたい」
 咎める楪に、薫は肩を竦める。
「防衛だよ。わたしたちは同盟関係にあるけれど、お互い適度に張り詰めてなきゃならないだろ。わたしの奥さんがずいぶん睡蓮ちゃんに懐いてたものだから、心配になっちゃったのさ」
「快楽主義のあなたがよく言う」
 これはさすがに癇に障ったのか、薫も表情を厳しくした。
「おや……それを言うなら君こそ。俺の花嫁、だなんてよく言うよ。そんなに言うなら彼女の本心、教えてあげようか。ねぇ、睡蓮ちゃん?」
 薫が睡蓮を流し見る。
「結構です。睡蓮とは直接話しますから」
 薫が再びくっと笑う。
「あそ? じゃあ、わたしは帰ろっかな。愛しい奥さんが待ってるし。――まぁ、きっと無理だけどね。今の君たちじゃ、想いはぜったいに交わらない」
 そう言い残し、薫は衣をひるがえして殿舎を出ていった。
 あとには、静寂だけが残された。
 月光の下、気まずさがふたりのあいだに横たわっている。楪がゆっくり睡蓮のほうを向いた。
「睡蓮。大丈夫でしたか」
 ひっそりとした声に、睡蓮は小さく笑みを浮かべ、頷く。
「はい。お騒がせしてすみませんでした」
 まずい。上手く笑顔が作れない。
「あの、睡蓮」
 睡蓮が顔を上げる。
「なにか悩みがあるなら、俺に――」
 話してほしい、と言葉が続く前に、睡蓮は首を振った。
「……いえ、大丈夫です」
 出鼻をくじかれ、楪は言葉を呑む。
「ちょっと眠れなかったんです。その……明日が式だと思うと、ちょっと緊張してしまって。でも、大丈夫ですから。ちゃんと覚悟は決めてますし」
 期待をしないのは慣れている。
 それに、楪にはせめて安心して仕事をしてほしい。楪の気を煩わせるようなことはしたくない。
「睡蓮――」
 睡蓮は決意が揺らがないうちに、と楪を見据えた。
「楪さん。私、式が終わったら、以前のお屋敷に戻りたいです。あの社はやっぱり私にはちょっと荷が重いっていうか……合わない、気がするので」
 楪が息を呑む音がした。わずかな沈黙のあと、楪が言う。
「それは、つまり……俺とはべつで……ひとりで過ごしたいということですか」
 睡蓮は胸の痛みを堪えながら頷いた。
「はい。楪さんも、お仕事忙しいでしょうから。あ、でも大丈夫です。安心してください。私、もう二度と離縁したいなんて言いませんか――」
 言い終わる前に、不意に楪が睡蓮の腕を引き寄せた。そのまま、楪は睡蓮に覆い被さるようにして、強引に口づけをした。
 睡蓮は驚きに目を見張る。
 拒む間もなく、楪は睡蓮を強く腕の中に閉じ込めた。次第にその力は弱まり、力なく離れていく。
「ゆず……」
「……俺があなたを傷付けたから……? 俺には、あなたを愛することさえ許されないんですか」
「え……」
 楪の悲しげな顔を見た瞬間、睡蓮の心に深いひびが入った。
 ――どうしてそんな顔をするの? 私はただの花嫁で……魂しか価値はないはずなのに。あなたが私を好きになる理由なんてないでしょう?
 それなのにどうしてそんな顔を……。
 訊ねる前に、楪が言う。
「……分かりました。睡蓮が望むなら、そうします」
「あの……楪さま」
 睡蓮がその手を取るが、楪はそれを拒むように睡蓮の手をそっと剥がした。
 はっきりとした拒絶を感じ、睡蓮は絶望した。