晩餐会のあと、深夜のことである。
 睡蓮は紅が眠ったのを確認して、そっと部屋を出た。
 眠れずに、外の空気を吸おうと思ったのだ。外は風が冷たく、少し肌寒い。
 外廊に腰掛け、墨で塗られたような庭をぼんやりと眺める。
 睡蓮は家族のことを思い出していた。
 杏子――睡蓮の義妹である。
 杏子は、生まれた頃から睡蓮がほしいものすべてを与えられていた。
 おもちゃも、着物も、食べ物も、両親の愛も……。
 杏子が生まれたとき、睡蓮は素直に妹ができたことが嬉しかった。
 でも、両親はどんどん杏子優先になって、睡蓮のことをないがしろにするようになった。
 跡取りができたから、お前はもういらない。
 杏子を抱き、笑みを浮かべる母親を見るたび、睡蓮の心には小さな傷ができた。
 楪との結婚の話が持ち上がったとき、睡蓮は嬉しかった。
 この家を出られるからではない。
 現人神の花嫁になれば、今度こそ両親に認めてもらえるのではないかと思ったからだ。愚かな考えであったが。
 でも、それでも当時は、そこに光を見出していた。じぶんは邪魔ではなかったと、思えるような気がしていた。
 ただ、存在価値がほしかった。それだけのために、睡蓮は楪と結婚したのだ。
「利用してたのは私も同じ……」
 じぶんのことは棚に上げて、傷付くなんて間違っている。
 いつの間にこんなに欲深くなってしまったのだろう。以前は、ただ楪を想えるだけで幸せだったのに……。
 考えて、あのときと同じだ、と、思う。
 孤児であったじぶんが、花柳家に引き取られたとき。
 あの頃、睡蓮は初めてのことばかりだった。じぶんのために出された豪華な食事も、じぶんにだけ向けられた愛情も。初めてのことで感動して、あっという間にそれに順応してしまった。愛なしではいられないほどに。
 だから、杏子に嫉妬して、楪のもとへ逃げた。
 でも、当時楪には愛されていなかったから、片想いでも耐えられた。
 今は――無理だ。一度、楪の愛に触れてしまったから。たとえそれが偽りだとしても。
 ――……知らなければ、幸せだったのかな。
『桔梗ですよ、睡蓮さま』
 妖狐に魂を取られそうになったとき、助けに来てくれた楪の姿が、まだ睡蓮のまぶたの裏に焼き付いている。
 あのときの感動は、今も鮮明に睡蓮の心を震わす。
 楪の懺悔も、楪の優しい眼差しも、ふと見せてくれるようになった眼差しも、ぜんぶ……。
 明日、睡蓮は楪の花嫁になる。
 花嫁は、現人神にとって特別な存在。それ以上を望んではだめ。睡蓮を必要としてくれるだけでじゅうぶんだと思わねばならない。
 もともと不釣り合いだったのだ。
 睡蓮が楪を好きになるのは当然。だけど、楪が睡蓮を好きになる要素なんて、これっぽっちもない。
「睡蓮ちゃん」
 吸い込まれそうなほどの静けさの中、声が降ってきた。顔を上げると、薫がいた。
 どうして、と驚く睡蓮に、薫がうっそりと微笑む。甘美な笑みだった。
「少し気になってね。晩餐会のときも寂しそうな顔をしてたから」
 睡蓮は薫から目を逸らした。
「そんなことは」
 ない、と言う前に、薫が睡蓮の手を取り、引き寄せる。突然濃くなった薫の気配に、睡蓮は息を詰めた。
「あの……」
 小さく身動ぎをすると、薫が力を強めた。睡蓮は動けなくなる。
「君の心は泣いてる。愛してほしいって叫んでる。君は花嫁に向いてない。純粋すぎるんだ」
「……そんなこと……」
 ないと言えず、唇を噛む。
 唇を噛み締めて堪えていないと、涙が溢れそうになってしまう。
「……そんなこと、思ってません」
 それでもようやく、震える声で睡蓮は否定する。薫から逃れようと、必死に身体を捩った。
「離して……」
「強がらないでよ。君は――」
「なにしてるんですか」
 背後から、空気を裂くような低い声がした。
 ハッとして振り向くと、楪が立っていた。顔は影になっていてよく見えない。でも、深藍色の妖気が楪の身体から溢れ出しているのが見える。
「睡蓮の妖気に乱れを感じて来てみましたが……やはりあなたですか」
 雲間から月光がふりそそぐ。それが、不意に楪を影から炙り出した。楪は険しい顔をして、薫を見ている。楪は静かに怒っていた。
「あ、あの……楪さん」
 楪は睡蓮をちらりと一瞥したものの、なにも言わず薫へ視線を戻した。
 ――え……。
 いつもと違う冷ややかな眼差しに、睡蓮は急激に心が冷たくなるのを感じる。まるで、冷水を浴びせられたように。