睡蓮と楪はまず、南の宮――蛍煌殿(けいこうでん)に向かった。
 蛍煌殿は鮮やかな唐葵(からあおい)の花が美しい絢爛(けんらん)な宮殿だ。月の京にある殿舎は、それぞれの現人神を彷彿とさせる造りになっているとか。
 蛍煌殿は、炎の魂を持つ朱鷺風家にふさわしい朱色が印象的な殿舎だった。
「そなたが花嫁か」
 殿舎へ赴くと、さっそく南の現人神、朱鷺風詠火(えいか)が出迎えた。
 燃えるように赤い衣装――壺装束(つぼしょうぞく)と呼ばれるらしい――をまとったその神は、まだ少女というほかない姿をしていた。歳はおそらく十四、五あたり。
 ――このおかたが、朱鷺風詠火さま……!?
 その容姿に、睡蓮は驚いた。現人神だというから、もっと壮齢のひとを想像していたのだ。
 だが、若いからといっても彼女はれっきとした現人神。その小さな身体からも、とんでもない圧を感じる。
 楪のときはそう感じたことはなかった。おそらく、睡蓮の身のために抑えてくれていたのだろう。現人神は多少の妖気の調節なら自在にできると聞く。
 睡蓮は背筋を伸ばし、挨拶を述べる。
「はい。睡蓮と申します」
 首にかけた大きな朱色の数珠飾りがしゃらっと音を立てて揺れる。
 顔を上げると、思いの外優しい笑みをたたえた詠火と目が合う。
「そうかしこまらずとも良い」
「は、はい。これからよろしくお願いいたします」
「それよりもそなた、よく決断したな」
 詠火は、なぜか一瞬、悲しげな顔をして睡蓮を見つめた。
「え?」
 なんのことだろう。
 その表情の意味も言葉の意味も分からず、首を傾げていると、詠火が「いや、なんでもない」と言う。
「突然現人神の伴侶となって慣れぬこともあるだろう。なにかあったら、遠慮なく参れ」
「……はい。ありがとうございます」
 今のは気のせいだろうか。
 凛とした佇まいのわりに詠火は優しい言葉をかけてくれる。睡蓮の中の不安が少し小さくなった。
 そういえば、詠火は姉の炎禾が崩御されて現人神の地位を引き継いだと言っていた。
 引き継いだ、ということはその場合、彼女にも既に〝花婿〟がいるということか。
 こんな幼いのに?
 そもそも、炎禾の花婿のほうもどうなったのだろう。疑問に思っていると、詠火がふっと背後へ視線をやった。
「すまない、詠火。遅くなった」
 奥から、臙脂色の袴姿の男が出てきた。歳の頃は三十前後くらいだろうか。人当たりの良さそうな笑みを浮かべた好青年だ。
 整った顔立ちをしているが、着物を崩して着ていたり軽く寝癖が残っていたりするせいか、柔らかな印象を受ける。
「これは、(ほむら)さま。お久しぶりです」
 楪が親しみの笑みを浮かべる。
「おっ?」
 珍しい。だれかにこんな笑みを向けるのを、睡蓮は初めて見たような気がする。
 楪は彼を焔、と呼んだ。ということは、彼が詠火の花婿なのだろう。
「なんだ、楪じゃないか!」
 焔は楪を見るなり、さわやかに破顔した。
「結婚おめでとう。ええと……」
 焔がちらりと睡蓮へ目を向ける。すかさず楪が睡蓮の肩を抱き、紹介する。
「花嫁の睡蓮です。睡蓮、彼が詠火さまの花婿の焔さんですよ」
 楪に紹介された睡蓮は、ぺこりと頭を下げた。
「睡蓮さん。会えて嬉しいよ。このたびは結婚おめでとう。いや、それにしても君たちはもう結婚してずいぶん経ってるのに、炎禾の件で神渡り式を延期にしてしまって申し訳なかったね。無事、今日という日が迎えられてよかった」
「いえ、とんでもないです」
 焔の言うとおり、契約結婚時代を合わせれば睡蓮と楪の夫婦生活はたしかにずいぶん経つ。だが、思いを通じ合わせてからは、まだ一ヶ月ほどだ。むしろ早すぎる式だとすら思っている。
「炎禾さまの件は、残念でした」
 楪が言うと、詠火はなにも言わずに目を逸らした。代わりに焔が反応する。
「いや……まあな。仕方なかった。炎禾は昔から、身体が弱かったからな……神の力に、その身が耐えられなかったんだろう」
「……焔。余計なことを申すな」
 詠火が言う。驚くほど低い声だった。見ると、詠火は焔を睨んでいた。
「あ、あぁ……すまない」
 これにはさすがに、焔だけでなく楪も黙り込んだ。
 空気がひりつく。
「気分が悪い。わらわは先に部屋に戻る」
「おい、詠火。せっかく挨拶に来てくれたのにその態度はないだろ」
 詠火を焔がたしなめるが、楪はかまわない、と言った。
「まだほかへの挨拶も済んでいませんし。睡蓮、そろそろ俺たちも帰りましょう」
「はい」
「なんか、悪いな。最近の詠火はずっとあんな感じで。前はもっと素直な子だったんだけど」
 彼女の背中を見送りながら、焔がため息を着く。
「……詠火さまはまだ、お姉さまのことを引きずっておられるのですか」
 楪の言葉に、焔は「あぁ」と頷いた。
「……まぁ、詠火は炎禾のことが大好きだったからな。詠火は炎禾が崩御してから、ずっとムスッとしてるんだ」
「……そうですか」
 今度はしんみりとしてしまった。
「いや、こんなおめでたいときにする話じゃなかったな。失礼、忘れて」
「いえ」
「さて、それじゃあ俺たちはそろそろ行きましょうか」
「あぁ。じゃあ、また晩餐会でな」
 睡蓮は蛍煌殿を出ると、楪に訊ねた。
「あの……楪さん。焔さまと詠火さまって、ご夫婦なんですよね?」
「えぇ。建前上は」
「建前?」
 睡蓮の問いに楪はしばし黙り込んだあと、「睡蓮にも、話しておいたほうがいいですね」と言う。
「焔さまは、もともと炎禾さまの花婿だったのですよ」
「えっ!?」
 睡蓮が思わず声を上げる。
 つまり、焔は炎禾が崩御されたあと、義妹であった詠火のもとへ嫁いだということか。それはなんというか、だいぶ複雑だ。
 花婿は花嫁より稀な存在と言われているとはいえ。姉妹に順に婿入りする、というのは焔のほうも複雑な思いだろう。まだ年端もいかない詠火が相手では、なおさら。
「まぁ、政略結婚というのはそういうものですから」
「…………」
 冷めた口調で言う楪に、睡蓮は無言になる。
 楪は以前、結婚は契約だと言っていた。
 それは楪だけでなく、ほかの現人神も同じ認識らしい。
 考えてみれば、じぶんが恋した相手が幻の花を持つ者である確率など、ないに等しいのだから当然だ。
 睡蓮はなんとなく、詠火のさきほどの表情の意味を理解した気がした。同情していたのだ。
 詠火は、睡蓮と楪のあいだにあったできごとを知らない。睡蓮と楪の結婚も、愛のないものだと思っているのだろう。
 睡蓮は楪をちらりと見る。
 おそらく、楪も詠火の誤解に気付いていた。
 ……でも。楪は、それを否定しなかった。
「…………」
 ――考え過ぎかもしれないけど……。
 ほんの少し、寂しさを感じた。
「さて、睡蓮。次は玄都織家へ挨拶に行きましょう」
 楪が言う。
「あ……は、はい」
 睡蓮は慌てて歩き出す――が、急いだせいでつんのめってしまった。前のめりに倒れそうになる睡蓮を、楪が受け止める。
「わ……あ、す、すみません」
「いえ」
 楪は睡蓮が顔を上げると、すっと手を離した。あっさりと離れていくぬくもりに、睡蓮の胸になんとも言えない寂しさが募っていく。