その日の夜は、紅と一緒に寝ることになった。
楪に頼んだら少し渋い顔をしたけれど、今日だけと頼み込んだら渋々承諾してくれた。
しかし、夜、寝室に入っても紅は騒々しかった。
桃李はねちっこいだの、言いかたが気に入らないだのと、桃李の愚痴を散々喚き散らした。
寝落ちるまで、ひっきりなしに。
蜂というより雲雀のあやかしなのではないかと思ったくらいだ。けれど、その彼女らしい騒々しさが懐かしく、睡蓮の心に安心を与えた。
紅がいると、暗く寒い部屋に優しい光が灯ったような心地になるのだ。不思議だ。
楪といても、こうはならない。楪といるのは落ち着くし、安らぐ。だが、同時にとても緊張してしまう。じぶんがどう見られているかが気になって、目を合わせるのが怖くなるのだ。
それがどうしてなのか、睡蓮はまだよく分からない。
楪のことも紅のことも、愛している。
それなのに、楪にだけ緊張したり、不安になってしまうのはどうしてなのだろう……。
ふわり、とあくびが出る。眠くなってきた。
その日、睡蓮は久しぶりに深い眠りについたような気がした。
***
その翌日から、社の空気が変わった。空気に色がついたように華やかに、かつ忙しなくなったのである。
四六時中、紅がぺちゃくちゃとおしゃべりしているということもあるが、紅が戻ってきたことで睡蓮の緊張もいい具合に解けたのである。
楪を前にすると、未だに緊張して萎縮気味になってしまう睡蓮も、紅とのおしゃべりでは明るい笑い声を響かせる。
表情の明るくなった睡蓮に、楪はほっとしていた。
そして、忙しなくなった理由はもうひとつ。
いよいよ、神渡り式の支度に取り掛かり始めたのだ。
式を明日に控えた睡蓮一行はいよいよ今日、式典が行われる月の京へ向かう。
「睡蓮。ごはんだよ」
「はーい」
朝食の支度を終えた紅が、部屋に睡蓮を呼びにやってくる。
紅はいつもの小さなあやかし姿ではなく、人間の姿をしていた。
基本、紅は夜寝るとき以外の時間は、人間の少女に変化している。料理や洗濯のとき、人間姿のほうがなにかと勝手がいいからだ。
人間姿の紅は相変わらず小柄だが、睡蓮と同じくらいの年齢に見える。赤毛は自然な栗色に変化し、頭の高い位置でふたつに結えられている。
小町鼠色の生地に銀杏の葉が描かれた単衣に身を包み、帯は藍色の縦縞しじら織半幅帯だ。
人間姿の紅と話していると、ふつうの女子学生に戻ったような気になる。あの頃には経験できなかった友だちとのひとときを過ごしているようで、睡蓮はそれが少し嬉しかった。
紅が用意してくれた朝食を食べ終えると、着替えに入る。
以前、楪とともに出かけた着物屋で仕立ててもらった、特別な着物だ。
白地の生地に、薄紅色の梅の蕾と鶯が描かれた清楚な着物だ。帯は深緑色の薄い市松模様で、帯留めは梅の花だ。蕾の単衣に帯留めの花。つまり一輪だけ咲いた演出である。
梅の枝に止まった鶯が今にも飛び立ちそうで、睡蓮はこの着物が大のお気に入りだが、勇気が出ず、まだ一度も着ていなかった。
髪は紅が結ってくれた。髪には梅の実色の簪を挿して、完成だ。
「できたよ、睡蓮」
紅が満足そうに言う。
「う、うん……」
姿見を見る。やはり、すごく可愛い着物だ。
……けれど。果たしてじぶんに似合っているのだろうか、と不安に思ってしまう。
「紅……私、変じゃないかな?」
「どこが? この世のすべての男が見惚れるって保証する」
「そ、それはないよ……」
自信満々な紅に、睡蓮は苦笑する。
「もう、いいからほら、行くよ。楪さま、待ってるでしょ。あたしも着替えなきゃだし」
「う……うん」
紅にせっつかれ、睡蓮はそろそろと部屋を出る。
着物の裾からは、ひらひらとした布地が見えている。プリーツスカートという西の都で流行っているものだ。
これは、西の素材もなにか取り入れたほうがいい、という桃李の提案である。この式の前夜祭で、薫に紅の雇用の許諾を得るつもりだからだ。
しかしそのおかげで着物特有の重々しさがなくなり、一気に華やかな装いになった。丈が短いため歩きやすい。
「……おまたせしました」
着付けを済ませた睡蓮が楪のいる座敷へ向かうと、楪は睡蓮を見たまま硬直した。
「……どうでしょうか?」
「……あぁ、いや、すみません。あまりにも似合っているものだから……」
まっすぐな褒め言葉に、睡蓮は頬を染めて俯いた。
「ありがとうございます……その、楪さんも……」
そういう楪だって、今日は一段とお洒落に決めている。薄藍色の着物に光沢のある銀色の帯は品がありながらも涼しげで、墨色の羽織りにほどこされた植物の模様は雅やかさを演出している。
とても似合っている。
そのひとことが言いたいだけなのに、どうしても言えない。
――だって……私なんかに言われたって、きっと嬉しくもなんともないだろうし……。
睡蓮は足元を見やる。
昨晩、紅に言われたことを思い出していた。
紅は睡蓮の枕元で散々桃李の文句を言ったあと、ふと我に返ったように言ったのである。
『――で、睡蓮。楪さまとはどうなの?』
『んっ?』
突然話を振られ、それまで愚痴聞き係でこっくり船を漕いでいた睡蓮は、目をしばたたかせた。
『んっ? じゃないよ。ここんとこ、ずっと楪さまとふたりきりだったんでしょ? ね、口づけはした? その先は?』
詰め寄ってくる紅に、睡蓮はぎょっとする。
『しっ……しないよ! そんなことするわけないでしょ!』
真っ赤になって言い返す睡蓮に、紅は呆れた顔をする。
『そんなことってなによ』
紅の呆れたような言いかたに、睡蓮は唇を尖らせる。
『睡蓮は楪さまのことが好きなんだよね? 楪さまだって睡蓮のこと大好きなんだし……それなら、口づけもそれ以上のことも、べつにふつうじゃない。ふたりは夫婦なのよ? してないほうが変だよ』
『それは……』
分かっている。でも、勇気が出ないのだ。
戸惑う睡蓮をよそに、紅は続ける。
『睡蓮、もしかして楪さまのこと好きじゃないんじゃない?』
『えっ……まさか!』
睡蓮はぶんぶんと首を振る。楪のことは好きだ。それだけは間違いない。……はず。
だんだん不安になってきた。好きなのに触れられるのが怖い、と思ってしまうのは、ふつうではないのだろうか。
紅が心配そうな顔をして、睡蓮を覗き込む。
『ねぇ、睡蓮はただ、楪さまに恩を感じてるだけなんじゃないの? それなら触れられたくないっていうのは分かるし』
『そ……そんなわけないよ。手紙だって、私の宝物だし』
『でもさ、好きだったら触れたいって思うんじゃないの?』
睡蓮は考える。
楪に、触れる。
あまり考えてこなかったことだ。そばにいられれば幸せで、それだけでじゅうぶんだと思っていた。
――私、変なのかな……。
……と、そんなことを昨日、紅に言われた。一晩考えてみたけれど、睡蓮は結局、じぶん自身の感情がよく分からないままだった。
ふと暗い影を落とした睡蓮に、楪が眉を寄せる。
「――睡蓮? どうかしました?」
睡蓮はハッとする。
「いえっ……なんでもないです!」
「……そう?」
いけない、しっかりしなきゃ、と睡蓮は両手で軽く頬を張る。
「私、紅を呼んできますね」と、動く。
すると、「あたしならここにいるよ」と、声が飛んできた。そこには既に紅がいた。
「紅!」
いつの間に、と驚く睡蓮は、紅の格好を見てさらに驚いた。
「おまたせ」
「それって、護衛のときに着るって言ってた?」
「うん! そう!」
紅はさっきまで着ていた着物と違って、不思議な衣を身にまとっていた。
紅色の桜の刺繍がほどこされた、いわゆる軍服だ。きゅっとした首元、紅色の花の文様が描かれた肩掛けに、腰には同じく紅色のベルト。スカートは末広がりになっていて、中は花柄のレースがほどこされたふわっとしたフリル。
「どうどう?」
とても可愛い。
「すごく似合ってる」
西の雰囲気が濃い衣だ。おそらく、桃李の配慮だろう。紅はこう見えて、東と西にとってはかなり重要な役割を担っている。
「えへへ! でしょ。このきゅっとした袖とか、ネクタイっていう飾りも素敵でしょ! 腰には剣も収められるんだよ!」
紅は得意げに言いながら、くるくるとその場で回ってみせる。新しい玩具を与えられて喜ぶ無邪気な子どものようで、睡蓮は微笑ましさに目を細めた。
「馬子にも衣装、ですかね」と、桃李。
辛辣だ。彼らしくない、と睡蓮は思いかけて首を傾げる。どうだろう。これが本当の彼なのかもしれない。桃李と知り合って日が浅い睡蓮には分からない。
ちりん、と柳の鈴が鳴る。窓の向こうへ目を向けると、牛車が見えた。牛車を運ぶのは月の使者である。
「月の使者の迎えが来たようですね」
桃李が窓のほうへ目をやったまま、言う。
「そうですね。では、行きましょうか」
四人は牛車に乗り込んだ。
いよいよ、睡蓮にとって初めての式典が始まる。
睡蓮は今日までに、花嫁の神渡り式に関してひととおりの説明を受けていた。
式は明日の午前十時から小一時間ほどで終わる予定だが、その前に今晩、現人神と花嫁たちで晩餐会が行われることになっている。
実質、そのときが睡蓮のお披露目会だ。晩餐会の前には睡蓮と楪で各現人神への挨拶回りに行く。西の現人神への挨拶の際、紅のことも話す予定だと、睡蓮は楪から聞いている。
道中、睡蓮は幽雪のことを思い出していた。
彼が化けていたのが、薫だったからだ。
薫は、天女のように美しい男性だった。楪もそうだが、現人神の容姿は睡蓮の知る美という次元を逸している。
睡蓮は、ちらりと楪を見上げる。
「あの、楪さん。白蓮路さまというのは、どんなおかたなのですか?」
睡蓮が訊ねると、楪は眉を寄せた。
「ひと当たりのいい色男……というのが、世間一般の白蓮路薫の印象でしょうか」
「……というと?」
「俺には、彼の考えていることが分かりません。彼は腹の底が見えない。正直、睡蓮には会わせたくなかったんですけど」
楪がそこまで言うとは。
白蓮路薫とはいったいどんな男なのだろう。
睡蓮は紅に目を向けた。
「紅は会ったことある?」
「うん。薫さまがご即位されてすぐだったかな。あたしの家に視察に来たんだ。そのときに一度だけ。その頃まだ子どもだったあたしにも、優しく話しかけてくれたよ。お菓子もくれたし、あたしはいいひとだったと思うけどなぁ」
まあたしかに、思ってたことを言い当てられて驚いた記憶もあるけど、と紅が付け足す。
「あの男は、笑顔が胡散臭いんです。どうも、すべてを見透かされている気がして」
言いながら、楪は睡蓮を見つめる。
「睡蓮。白蓮路には、くれぐれも気を付けるんですよ。もしなにか不安なことがあったら、すぐに俺に言って」
睡蓮は帯留めをそっと握った。
「はい」
がたん、と牛車が揺れた。
「どうやら、月の京に入ったようですね」
楪が窓を見やる。といっても、窓には外側から深藍色の暗幕が垂れていて、外の様子は見えない。
月の京が存在する場所は、現人神にさえ教えられていない。
月の京には、凰月家という月の京を管理する一族がいて、彼らは現人神たちがさまざまな式典を行うこの月の京の管理人であり、すべての現人神に仕える公式従者である。
牛車を下りると、小花柄の着物の少女が立っていた。顔の上半分にはうさぎの耳付き仮面を付けている。
少女は恭しく頭を下げながら、挨拶をする。
「わたくし、今回龍桜院家の世話係として仕えさせていただく凰月葉織と申します」
月の京の管理人だ。抑揚のない、淡々とした声だった。
仮面をつけているので顔は分からないが、声を聞く限り、若そうに思える。といっても、彼女があやかしなら、人間の常識とはかけ離れた年齢だろうが。
葉織に案内されながら、睡蓮たちはじぶんたちが寝泊まりすることになる殿舎へ向かう。
「こちらが水晶殿にございます」
水晶殿は、中庭に大きな蓮池と竜胆が咲く美しい殿舎だった。この水晶殿が、式典中睡蓮たちが泊まる殿舎となる。
「晩餐会は午後六時からを予定しております。その頃また、お迎えに上がります」
そう言って、葉織が出ていく。
「では、これからの日程についてですが……」
葉織が出ていくと、桃李が仕切り出す。
楪と睡蓮はこれから、各現人神へ挨拶回りに向かう。付き添いには葉織がつくため、桃李と紅は留守番だ。そのあいだ、桃李は紅に式の日程の再確認をするということだった。
睡蓮と楪はまず、南の宮――蛍煌殿に向かった。
蛍煌殿は鮮やかな唐葵の花が美しい絢爛な宮殿だ。月の京にある殿舎は、それぞれの現人神を彷彿とさせる造りになっているとか。
蛍煌殿は、炎の魂を持つ朱鷺風家にふさわしい朱色が印象的な殿舎だった。
「そなたが花嫁か」
殿舎へ赴くと、さっそく南の現人神、朱鷺風詠火が出迎えた。
燃えるように赤い衣装――壺装束と呼ばれるらしい――をまとったその神は、まだ少女というほかない姿をしていた。歳はおそらく十四、五あたり。
――このおかたが、朱鷺風詠火さま……!?
その容姿に、睡蓮は驚いた。現人神だというから、もっと壮齢のひとを想像していたのだ。
だが、若いからといっても彼女はれっきとした現人神。その小さな身体からも、とんでもない圧を感じる。
楪のときはそう感じたことはなかった。おそらく、睡蓮の身のために抑えてくれていたのだろう。現人神は多少の妖気の調節なら自在にできると聞く。
睡蓮は背筋を伸ばし、挨拶を述べる。
「はい。睡蓮と申します」
首にかけた大きな朱色の数珠飾りがしゃらっと音を立てて揺れる。
顔を上げると、思いの外優しい笑みをたたえた詠火と目が合う。
「そうかしこまらずとも良い」
「は、はい。これからよろしくお願いいたします」
「それよりもそなた、よく決断したな」
詠火は、なぜか一瞬、悲しげな顔をして睡蓮を見つめた。
「え?」
なんのことだろう。
その表情の意味も言葉の意味も分からず、首を傾げていると、詠火が「いや、なんでもない」と言う。
「突然現人神の伴侶となって慣れぬこともあるだろう。なにかあったら、遠慮なく参れ」
「……はい。ありがとうございます」
今のは気のせいだろうか。
凛とした佇まいのわりに詠火は優しい言葉をかけてくれる。睡蓮の中の不安が少し小さくなった。
そういえば、詠火は姉の炎禾が崩御されて現人神の地位を引き継いだと言っていた。
引き継いだ、ということはその場合、彼女にも既に〝花婿〟がいるということか。
こんな幼いのに?
そもそも、炎禾の花婿のほうもどうなったのだろう。疑問に思っていると、詠火がふっと背後へ視線をやった。
「すまない、詠火。遅くなった」
奥から、臙脂色の袴姿の男が出てきた。歳の頃は三十前後くらいだろうか。人当たりの良さそうな笑みを浮かべた好青年だ。
整った顔立ちをしているが、着物を崩して着ていたり軽く寝癖が残っていたりするせいか、柔らかな印象を受ける。
「これは、焔さま。お久しぶりです」
楪が親しみの笑みを浮かべる。
「おっ?」
珍しい。だれかにこんな笑みを向けるのを、睡蓮は初めて見たような気がする。
楪は彼を焔、と呼んだ。ということは、彼が詠火の花婿なのだろう。
「なんだ、楪じゃないか!」
焔は楪を見るなり、さわやかに破顔した。
「結婚おめでとう。ええと……」
焔がちらりと睡蓮へ目を向ける。すかさず楪が睡蓮の肩を抱き、紹介する。
「花嫁の睡蓮です。睡蓮、彼が詠火さまの花婿の焔さんですよ」
楪に紹介された睡蓮は、ぺこりと頭を下げた。
「睡蓮さん。会えて嬉しいよ。このたびは結婚おめでとう。いや、それにしても君たちはもう結婚してずいぶん経ってるのに、炎禾の件で神渡り式を延期にしてしまって申し訳なかったね。無事、今日という日が迎えられてよかった」
「いえ、とんでもないです」
焔の言うとおり、契約結婚時代を合わせれば睡蓮と楪の夫婦生活はたしかにずいぶん経つ。だが、思いを通じ合わせてからは、まだ一ヶ月ほどだ。むしろ早すぎる式だとすら思っている。
「炎禾さまの件は、残念でした」
楪が言うと、詠火はなにも言わずに目を逸らした。代わりに焔が反応する。
「いや……まあな。仕方なかった。炎禾は昔から、身体が弱かったからな……神の力に、その身が耐えられなかったんだろう」
「……焔。余計なことを申すな」
詠火が言う。驚くほど低い声だった。見ると、詠火は焔を睨んでいた。
「あ、あぁ……すまない」
これにはさすがに、焔だけでなく楪も黙り込んだ。
空気がひりつく。
「気分が悪い。わらわは先に部屋に戻る」
「おい、詠火。せっかく挨拶に来てくれたのにその態度はないだろ」
詠火を焔がたしなめるが、楪はかまわない、と言った。
「まだほかへの挨拶も済んでいませんし。睡蓮、そろそろ俺たちも帰りましょう」
「はい」
「なんか、悪いな。最近の詠火はずっとあんな感じで。前はもっと素直な子だったんだけど」
彼女の背中を見送りながら、焔がため息を着く。
「……詠火さまはまだ、お姉さまのことを引きずっておられるのですか」
楪の言葉に、焔は「あぁ」と頷いた。
「……まぁ、詠火は炎禾のことが大好きだったからな。詠火は炎禾が崩御してから、ずっとムスッとしてるんだ」
「……そうですか」
今度はしんみりとしてしまった。
「いや、こんなおめでたいときにする話じゃなかったな。失礼、忘れて」
「いえ」
「さて、それじゃあ俺たちはそろそろ行きましょうか」
「あぁ。じゃあ、また晩餐会でな」
睡蓮は蛍煌殿を出ると、楪に訊ねた。
「あの……楪さん。焔さまと詠火さまって、ご夫婦なんですよね?」
「えぇ。建前上は」
「建前?」
睡蓮の問いに楪はしばし黙り込んだあと、「睡蓮にも、話しておいたほうがいいですね」と言う。
「焔さまは、もともと炎禾さまの花婿だったのですよ」
「えっ!?」
睡蓮が思わず声を上げる。
つまり、焔は炎禾が崩御されたあと、義妹であった詠火のもとへ嫁いだということか。それはなんというか、だいぶ複雑だ。
花婿は花嫁より稀な存在と言われているとはいえ。姉妹に順に婿入りする、というのは焔のほうも複雑な思いだろう。まだ年端もいかない詠火が相手では、なおさら。
「まぁ、政略結婚というのはそういうものですから」
「…………」
冷めた口調で言う楪に、睡蓮は無言になる。
楪は以前、結婚は契約だと言っていた。
それは楪だけでなく、ほかの現人神も同じ認識らしい。
考えてみれば、じぶんが恋した相手が幻の花を持つ者である確率など、ないに等しいのだから当然だ。
睡蓮はなんとなく、詠火のさきほどの表情の意味を理解した気がした。同情していたのだ。
詠火は、睡蓮と楪のあいだにあったできごとを知らない。睡蓮と楪の結婚も、愛のないものだと思っているのだろう。
睡蓮は楪をちらりと見る。
おそらく、楪も詠火の誤解に気付いていた。
……でも。楪は、それを否定しなかった。
「…………」
――考え過ぎかもしれないけど……。
ほんの少し、寂しさを感じた。
「さて、睡蓮。次は玄都織家へ挨拶に行きましょう」
楪が言う。
「あ……は、はい」
睡蓮は慌てて歩き出す――が、急いだせいでつんのめってしまった。前のめりに倒れそうになる睡蓮を、楪が受け止める。
「わ……あ、す、すみません」
「いえ」
楪は睡蓮が顔を上げると、すっと手を離した。あっさりと離れていくぬくもりに、睡蓮の胸になんとも言えない寂しさが募っていく。
玄都織家が滞在するのは、向日葵が壮大な香林殿と呼ばれる殿舎だった。元気な向日葵が、太陽へ向かってすっと背を伸ばしている。美しさだけでなく、たくましさを備えた花である向日葵は、玄都織家を象徴しているようだ。
玄都織楓夜。現在最年長の現人神である。
「おーおー、よく来たなぁ」
出迎えた玄都織楓夜は、中性的な雰囲気を漂わせる美しいひとだった。
ひとつに束ねられた黒橡色の髪はつややかで、まるで川の流れのように緩くウェーブがかっている。
歳は三十代半ばくらいだろうか。漆黒の衣に身を包んでいる。珍しい形の衣装だ。以前、睡蓮はよく似た衣装を町で見かけた。ドレスという衣装なのだと楪に教えてもらった。
黒の中にも、きらきらと光の加減によって煌めく布や宝石がちりばめられていて、品がありながらも美しい。
「やあ、いらっしゃい」
一方、楓夜のとなりで柔和な笑みをたたえているのは、楓夜の花婿、玄都織十明である。
こちらもまた、上品な物腰の男性だ。歳はおそらく楓夜とそう変わらなそうだが、その物腰のせいか年齢よりも落ち着いて見える。
「ご無沙汰しております、楓夜さま、十明さま」
楪が頭を下げる。睡蓮も続いて頭を下げた。
「うむ。まあ、中に入れ」
睡蓮は、十明が出してくれた紅茶を静かに飲みながら、楪と楓夜の会話を聞いていた。
「いやぁ、それにしても子供の成長とはあっという間だ。前に会ったときはこんな小さかったのになぁ。しかも、こんなきれいな花嫁をもらうとは。うむ! 母は嬉しいぞ」
「ありがとうございます……」
びっくりするほど幼かったり、美しい顔をして豪快に笑ったり……現人神は、案外見かけによらない、と、睡蓮は思った。薫はどうなのだろう。
酔っ払いのように楪に絡む楓夜を、睡蓮は紅茶を飲みつつ眺める。
楓夜はひとしきり楪にじゃれたあと、つと睡蓮を見た。目が合い、睡蓮は思わず姿勢を正した。楓夜は立ち上がり、テーブルの周りをぐるりと回って睡蓮の目の前までやってくる。
「さて」
片膝をつき、楓夜は睡蓮の顔をまじまじと見つめる。品定めするかのような眼差しに、睡蓮はごくりと息を呑んだ。
「あ……あの……?」
「うん! 可愛いな!」
楓夜は突然大きな声で言うと、睡蓮を軽々と抱き上げた。
突然浮遊した身体に、睡蓮はわっと声を漏らす。思わず楓夜の首に手を回すと、至近距離で目が合った。
楓夜が微笑む。
「くっ……玄都織さま!」
「楓夜でよいよい」
「楓……楓夜さま。私その、重いので……」
というか、美しいが過ぎる。麗しきその眼差しに、睡蓮は目眩がした。
「……そなた、なんともないのか?」
楓夜がまじまじと睡蓮を見る。
「え……?」
……なんだろう。
美しいひとに見つめられると落ち着かない。
「……いや」
楓夜はなにかを言いかけて、やめた。
「うん、可愛い花嫁だ! 母は気に入ったぞ、楪!」
やはりその美顔に似合わないからっとした声で、楓夜が言った。語尾が弾んでいる。相当嬉しいらしい。
「あ……あの、楓夜さま。そろそろ下ろしていただけると……私、本当に重いですから」
「どこが? ぜんぜん重くないぞ。むしろ軽過ぎて仔猫を抱いているようだよ」
「いっ……いやいや……」
さすがにそれはないだろう。
「楓夜さま、睡蓮は……」
さすがの楪も止めに入ろうとするが、楓夜は知らんぷりをして、睡蓮を抱いたままくるくると回っている。目が回る。
「よしよし。可愛らしいそなたには菓子をやろう。さて、どこにあったかな。私の部屋だったかな?」
楓夜はマイペースに座敷を出ていく。
「えっ!?」
――まさか、このまま!?
「楓夜さま、申し訳ありませんが……」
さすがに部屋を出ようとする楓夜を見て楪が腰を上げたが、
「すまないねぇ。うちのは可愛い子に目がなくって。少しの間だけ付き合ってやってくれ、睡蓮さん。――さて、楪くん。楪くんは僕と庭を散歩でもしようか」
十明ののんびりとした声に遮られてしまった。
楪は、睡蓮が消えた廊下に心配そうな眼差しを向けつつ、十明とともに外へ出た。
楓夜は外廊を進み、最奥の部屋に入ると、ようやく睡蓮を下ろした。
「さて、連れ出して悪かったな、睡蓮」
「いえ……」
睡蓮は着物を整え、その場に座り直した。その正面に楓夜も座ると、にこっとして言った。
「睡蓮。そなたは素晴らしい妖気を持っているな」
「えっ? 妖気……ですか?」
困惑する睡蓮に、楓夜はふっと微笑む。
「あぁ。神渡りの式ではな、実は私たち現人神には、花嫁や花婿の力を試す役割があるんだよ。資格のない者を伴侶にするわけにはかないからな」
そうだったのか。
まさか、ほかの現人神たちに試されているだなんて知らなかった。楪は知っていたのだろうか。
考えていると、楓夜が言った。
「さて、睡蓮。そなたは、楪をどう思っているのかな?」
「え……?」
パッと顔を上げる。
「楪さんですか?」
突然の問いに、睡蓮は困惑する。
「そなたらは契約結婚なのだろう?」
「えっ……」
睡蓮は楓夜をじっと見つめた。すると睡蓮の警戒心を悟ったのか、楓夜がふっと息を吐くように笑った。
「楪はひとを愛さない。付き合いが長い私には分かる。楪がいずれ現人神になる日が来たら、こうなるだろうと思っていたからな」
「えっと……それは」
たしかに、以前はそういう考えだった。だが、今は違うはずだ。だって楪は、睡蓮を愛していると言ったのだから。
しかし、睡蓮が否定する前に、楓夜は続ける。
「あやつは昔からひとを信用しないくせに、信用させるのだけは上手いからな」
「え……」
楓夜は、睡蓮を同情するような眼差しで見つめた。
「それ、は……」
たしかに始まりはそうだったけれど……。
――違う、はず……だよね。
睡蓮の中の不安が大きくなっていく。
ふと、疑問が浮かんだ。
そういえば、睡蓮はいつから、楪に愛されていると感じていたのだろう。
妖狐から救われたとき?
ふと、じぶんの魂の形を思い出す。
「幻の花……」
楪は本当に、睡蓮を愛しているだろうか?
ただ、花嫁を手放したいだけじゃなくて?
不安ばかりが広がっていく。
「現人神にとって、花嫁や花婿というのは、どんな存在ですか?」
楓夜は少し黙ってから、静かに言った。
「……特別だ。特別だからこそ、一線を置く。楪はそういう男だろう。あやつは根が真面目だから、とにかく土地を守ることしか考えていなかった。そのために女を利用することは多々あったが、決して特別な存在というのは作らなかった。特別な存在を作れば、守らねばならなくなる。守るというのは、そう容易いことではない」
楪は東の土地を守る現人神である。今さら思い出した。楪は物腰柔らかだが、ああ見えて合理主義者だ。楪はどんなときも現人神としての利益をまずいちばんに考えている。
そんなひとが、睡蓮を好き?
そんなことがあるだろうか。
「楪はおそらく、土地を守るためならそなたのことも切り捨てるだろう。そなたにその覚悟はあるか?」
ごく、と喉が鳴る。
――利用……。
楪は、睡蓮を利用している。
そもそも、楪が睡蓮に契約を持ちかけたのは、睡蓮が幻の花を持つ花嫁だからだ。
楪が睡蓮を妖狐から守ろうとしたのも、睡蓮を守るためではなく、花嫁を守るため。花嫁は珍しいから。楪にとって利益になるから。
楪が愛してると言ったのも、贈り物をくれるのも、口づけはふりでいいと言ったのも――愛しているからではなく、すべては睡蓮を逃がさないためであったとしたら……。
すべての辻褄があってしまった。
こんなじぶんが愛されるわけないのに。いつの間にか、ずいぶん傲慢になっていたらしい。
睡蓮の心に暗い翳が落ちた。
「でも、私は……楪さんのことが好きです……」
これだけは、変えられない事実である。
今にも消え入りそうな声でぽつりと漏らす睡蓮を、楓夜がそっと抱き締める。
「それはもちろんかまわない。だが、たとえ愛されなくてもどうか楪を責めないでやってくれ。現人神の花嫁になるということは、そういうことだ」
睡蓮は顔を上げた。その顔には、あの頃得意にしていた長女の笑顔が浮かんでいる。
「……分かっています」
楪を責めるつもりなんてない。
ただひとつ、欲を言っていいのなら。
――今度こそ、愛されたかった……。
楓夜と十明と別れたふたりは、西の現人神の殿舎へ向かっていた。
細い坂道を登ってゆく。次第にうっすらと霧が立ちこめ始める。鳥が羽ばたく音がして、睡蓮は顔を上げた。
月の京には、生き物がいると桃李が言っていた。
羽音のあとは、落ち葉を踏み締めるような音もする。鳥だけでなく、獣もいるのか。
なんて思っていると、
「睡蓮。楓夜さまとは、どのような話をしたのですか?」
黙り込んだまま足を進めていた睡蓮に、楪が訊ねた。
「あ……ええと、軽い世間話……のようなものですかね?」
睡蓮は慌てて笑みを繕い言った。
楪はあっさり「そうですか」と言うと、それ以上はなにも言わなかった。
歩くたび、睡蓮の心は、水を含んだように重くなっていた。
「……あの」
「ん?」
悟られないよう、睡蓮は明るい声を出す。
「楓夜さまは、とても優しいおかたですね」
「……えぇ。玄都織家は、現人神の中でも特に古い歴史を持つ家ですからね」
そういえば、そんなことが資料庫の本に書かれていたような気がしなくもない。
「問題は次です」
「次……?」
次は、白蓮路薫とその花嫁、白蓮路美風への挨拶である。
「白蓮路家は、俺は正直あまり好きではありません」
「どうしてですか?」
「……白蓮路薫は、快楽主義といいますか。花嫁のほかに、何人も妻がいるんです」
「何人も……」
「ひとの愛のかたちを否定するつもりはありませんが……厄介なのは、気に入ればひとのものでも盗ろうとするところです」
「ひとのもの?」
首を傾げる睡蓮に、楪はなにかを言いかけて、やめた。
「……いや、まぁ、行きましょう」
白蓮路家の宮は夜麗殿と呼ばれ、白百合が美しい庭園の殿舎だった。
ふたりを出迎えたのは、薫ではなくその花嫁だった。
白蓮路美風。
美風は睡蓮より少しばかり歳上の、美しく明るい女性だった。
例えるなら蝶に似ている。体重を感じさせない軽やかな身のこなしも、その衣装も。
彼女はふんわりとした光沢のある銀色のブラウスに、紺碧のドレープスカートを着ていた。ほかの現人神やほの伴侶と比べて、ずいぶんラフな格好である。
髪色は薫と同じ薄紫色で、黄金色の瞳も濡れたように艶めいている。そしてその瞳は、まっすぐ睡蓮を捕らえて離さない。
「まあまあ、可愛らしい! ねぇ花嫁さま、あなたお名前は? ……そう、睡蓮って言うの。可愛い名前ね。私はね、美風っていうの。白蓮路美風よ。これからよろしくね。ねぇ、睡蓮って呼んでもいいかしら? 私のことは美風って呼んでくださいな」
弾丸のようなおしゃべりは、どことなく紅に似ているように思う。
底抜けに明るい美風は、素直に好感が持てた。
人妻というより女学生といった雰囲気であるが。
「美風さま。薫さまはいらっしゃるでしょうか」
楪がやんわりと彼女の話をさえぎって、訊ねた。
「あぁ、薫くんね。彼なら今部屋にいますわ。ささ、どうぞお上がりになって」
美風がスカートを翻して歩き出す。
「では、お邪魔します」
睡蓮と楪は夜麗殿の中へ進んだ。殿舎の造りはだいたい睡蓮たちの滞在する水晶殿と同じような造りになっている。
座敷に通された睡蓮たちは、美風と向かい合わせに座る。美風はお付に薫を呼んでくるよう伝えると、また弾丸のようなおしゃべりを始めた。
「まぁ、そんな固くならないで。そうだ。クッキーはお好き? ほろほろとした口溶けでとっても美味しいのよ。すぐ用意させるわね」
「あ、いえおかまいなく……」
もうすぐ晩餐会だし、楓夜のところでも一杯飲んできたからお腹はいっぱいだ。
忙しなく喋る美風の相手をしていると、ふわりと良い香りがした。
「あら、薫くん」
美風がパッと話をやめて、襖のほうを見る。そこに、ひとりの青年が立っていた。
薫だ。
「いらっしゃい」
「ご無沙汰しております、薫さま」
頭を下げる楪と、そのとなりで同じように会釈した睡蓮を、薫はにこやかな笑みを浮かべて見下ろした。その美しさに、睡蓮はうっかりまばたきを忘れていた。
薫はやはり、幽雪が化けていた姿そのものであった。つややかな薄紫色の髪に、黄金色の瞳。何度見てもため息が出るほど美しい。
「あぁ、君が花嫁か。さすが、ゆずくんが偉んだだけあってきれいな子だ」
薫が睡蓮に微笑みかける。
「いやぁ、それにしても羨ましいなぁ。ゆずくん、こんな可愛い子を花嫁にするなんて」
軽い声音で薫が言う。睡蓮はひやひやしながら美風の様子をうかがった。美風は薫の言動を気にする素振りはない。きっと、こういう言動が日常茶飯事なのだろう。
薫はたくさんの妻を囲っているというが、正式な妻は美風である。美風以外の女性は、幻の花を持たない少しばかり妖力が強いだけの一般の女性だったり、あやかしであると楪がここへ来るとき言っていた。
となりでお茶を飲みながら、楪は呆れた視線を送っている。楪は基本どんなときも笑顔を作っている。そんな彼が本心を隠そうとしない姿は珍しい。
「そんなことより薫さま。実は折り入って頼みがありまして」
「頼み? なんだい?」
楪はそのまま紅の話を始めた。紅の不法滞在と転居許可についてである。相変わらず、楪は話題を変えるのが上手い。
その間、睡蓮はふたりの邪魔はせず、やはり忙しなく話しかけてくる美風に付き合っていた。
紅について、薫はあっさり許可を出してくれた。
民が土地をまたぐことや移住することに関しては、基本的に自由らしく、それについて現人神がとやかくいうことはまずない。ただ、紅の場合は、あやかしであることと半ば家出状態であったために、現人神にひとこと話しておく必要があったというわけだ。
挨拶を終え、睡蓮と楪はそろって立ち上がった。
「あら、もう帰るの?」
美風が残念そうに言う。
「一度帰って支度をしなければいけませんので」
「じゃあ、また晩餐会でね」
「はい。また――」
楪に続いて、頭を下げたときだった。
「あ、睡蓮ちゃん。ちょっと忘れ物」
「え――」
殿舎を出てふたりに背を向けると、薫が不意をついて睡蓮の肩を抱き寄せた。ハッと振り向いたときにはもう薫の顔がすぐ目の前にあった。一瞬で距離が近付き、睡蓮は薫の香りに身を固くした。
かまわず、薫は睡蓮を誘惑する。
「君、心が泣いてるね。愛してほしいって言ってる」
睡蓮は弾かれたように顔を上げた。
「そ、そんなことは……」
「大丈夫だよ、分かってるから」
「え……」
「どうせ、ゆずくんとは契約なんでしょ?」
身体が凍りついたように動けなくなった。
「ゆずくんが女の子を愛するなんて有り得ないもんね。君も可哀想に。愛してくれないひとを愛するなんて、無駄だよ。その点、わたしなら君を爪の先まで愛してあげる。こんなに強い妖気を持つ子なら大歓迎だ」
また、この話。
楓夜だけでなく、薫にまで言われるとは。
どんどん気持ちが沈んでいく。
「おい」
パッと、視界が揺れた。顔を上げると、薫の手を楪が掴んでいる。楪はどこか険しい顔つきで、薫を見ていた。
「やだな。怒らないでよ。ただの挨拶だろ」
薫は食ったような笑みを浮かべ、睡蓮から離れた。楪は厳しい顔つきのまま薫をひと睨みして、睡蓮へ視線を戻した。
「睡蓮、大丈夫ですか」
話しかけられ、どくんと胸が弾む。
「……はい、大丈夫です」
はらはらした。
うまく笑えていただろうか。不安になるけれど、確かめることはできない。楪の顔が見れない。
だって、今見たら、きっと言葉に詰まってしまう。笑顔が崩れてしまう。
睡蓮は楪を置いて歩き出す。
「……睡蓮?」
楪は一瞬呆気に取られたように固まったが、我に返ったように睡蓮を追いかけた。
ふたりの調和は、ずれていくばかりだった。
そのあとの晩餐会は、なにごともなく終了した。
ただ、それは表向きで、睡蓮の心はさらにざわつくこととなった。
原因は、美風である。
美風はやはり睡蓮のことがかなり気に入ったようで、終始睡蓮に絡んできた。
そこで美風は、とんでもない爆弾を落としたのである。
「――初恋のひと?」
フォークを動かしていた手がぴたりと止まった。
「えぇ。睡蓮はご存知? 楪さまの初恋のおかた」
困惑しつつ、睡蓮は首を横に振る。楪にそんなひとがいただなんて、桃李からも聞いていない。
そもそも楪は、ひとぎらいではなかったのか。
女なんて信用していなかったと……。
「まぁ、私もさっき薫さまから聞いたのだけど」
「あの、そのおかたはどのような」
「さぁ。ただ、相当想っていたそうよ。あのひとぎらいの楪さまが、信じられないけれどね」
「…………」
「それにしても、現人神さまって恋をしてもそのひととはぜったい添い遂げられないのだから可哀想よね」
「……でも、美風さまと薫さまは、仲が良さそうですね」
睡蓮は一度躊躇ってから、美風へ訊ねた。
「薫さまは、その……いろんなおかたと仲がいいと聞きましたが」
「えぇ、そうね」
美風は笑顔を崩さずに、平然と答える。
「……その、美風さまはそういうの、いやではないのですか?」
「そうねぇ……西はほかと違って、独特の恋愛観を持つ土地でもあるからね」
そういえば、そんなことを楪も来るときに言っていた気がする。
「私は薫さまが好きだし、薫さまも私の魂を気に入ってくれてる。よそでどれだけ女と遊んでも、最終的には私の元へ戻って来ざるを得ないって分かってるから、優越感もあるしね」
……そう、美風はうっそりと微笑んだ。
「そ……そうですか」
無邪気な少女のように思っていたが、案外強かというか豪胆というか。
「睡蓮。あなたもほかの女なんかに負けちゃだめよ。あなたは楪さまにとって特別なの。なんと言ったって幻の花をその身体に宿しているのだから!」
睡蓮はただ曖昧に笑った。
『魂を気に入ってくれてる』
美風はそう言った。現人神である薫がそういう認識であるとすれば、おそらく、楪もそうだ。
睡蓮の魂を気に入ってくれている。睡蓮を、ではなく。
「これで、お世継ぎができればもっと安泰よ」
お世継ぎ。
さらに崖から突き落とされたような感覚になる。
そうだ。すっかり忘れていたが、楪は現人神なのだ。じき、後継者となる者を残さなければならない。
その役目は、睡蓮にもあった。
いつまでも契約のままでは子は成せない。
だから睡蓮に、愛していると言った?
子が欲しいから。
胸が引き裂かれそうな痛みを覚える。
苦しくてたまらない。苦悶の表情で美風を見ると、彼女は涼しい顔をしてスープを飲んでいた。
「美風さんは、お強いですね……」
思わず本音を漏らす睡蓮に、美風が笑う。
「大人なんて、こんなものじゃない?」
そうなのか。美風とは、ほんの一、二歳くらいしか変わらないはずなのに。
いずれ、睡蓮もこのように思える日が来るのだろうか。
……いや。
来ない気がした。
だって睡蓮には、圧倒的に愛された記憶が少な過ぎるから。
期待をするななんて、息をするなと言っているようなものだ。
晩餐会の食事は、とんでもないごちそうであったはずなのに、睡蓮はひとつもその味を感じることができないのだった。
晩餐会のあと、深夜のことである。
睡蓮は紅が眠ったのを確認して、そっと部屋を出た。
眠れずに、外の空気を吸おうと思ったのだ。外は風が冷たく、少し肌寒い。
外廊に腰掛け、墨で塗られたような庭をぼんやりと眺める。
睡蓮は家族のことを思い出していた。
杏子――睡蓮の義妹である。
杏子は、生まれた頃から睡蓮がほしいものすべてを与えられていた。
おもちゃも、着物も、食べ物も、両親の愛も……。
杏子が生まれたとき、睡蓮は素直に妹ができたことが嬉しかった。
でも、両親はどんどん杏子優先になって、睡蓮のことをないがしろにするようになった。
跡取りができたから、お前はもういらない。
杏子を抱き、笑みを浮かべる母親を見るたび、睡蓮の心には小さな傷ができた。
楪との結婚の話が持ち上がったとき、睡蓮は嬉しかった。
この家を出られるからではない。
現人神の花嫁になれば、今度こそ両親に認めてもらえるのではないかと思ったからだ。愚かな考えであったが。
でも、それでも当時は、そこに光を見出していた。じぶんは邪魔ではなかったと、思えるような気がしていた。
ただ、存在価値がほしかった。それだけのために、睡蓮は楪と結婚したのだ。
「利用してたのは私も同じ……」
じぶんのことは棚に上げて、傷付くなんて間違っている。
いつの間にこんなに欲深くなってしまったのだろう。以前は、ただ楪を想えるだけで幸せだったのに……。
考えて、あのときと同じだ、と、思う。
孤児であったじぶんが、花柳家に引き取られたとき。
あの頃、睡蓮は初めてのことばかりだった。じぶんのために出された豪華な食事も、じぶんにだけ向けられた愛情も。初めてのことで感動して、あっという間にそれに順応してしまった。愛なしではいられないほどに。
だから、杏子に嫉妬して、楪のもとへ逃げた。
でも、当時楪には愛されていなかったから、片想いでも耐えられた。
今は――無理だ。一度、楪の愛に触れてしまったから。たとえそれが偽りだとしても。
――……知らなければ、幸せだったのかな。
『桔梗ですよ、睡蓮さま』
妖狐に魂を取られそうになったとき、助けに来てくれた楪の姿が、まだ睡蓮のまぶたの裏に焼き付いている。
あのときの感動は、今も鮮明に睡蓮の心を震わす。
楪の懺悔も、楪の優しい眼差しも、ふと見せてくれるようになった眼差しも、ぜんぶ……。
明日、睡蓮は楪の花嫁になる。
花嫁は、現人神にとって特別な存在。それ以上を望んではだめ。睡蓮を必要としてくれるだけでじゅうぶんだと思わねばならない。
もともと不釣り合いだったのだ。
睡蓮が楪を好きになるのは当然。だけど、楪が睡蓮を好きになる要素なんて、これっぽっちもない。
「睡蓮ちゃん」
吸い込まれそうなほどの静けさの中、声が降ってきた。顔を上げると、薫がいた。
どうして、と驚く睡蓮に、薫がうっそりと微笑む。甘美な笑みだった。
「少し気になってね。晩餐会のときも寂しそうな顔をしてたから」
睡蓮は薫から目を逸らした。
「そんなことは」
ない、と言う前に、薫が睡蓮の手を取り、引き寄せる。突然濃くなった薫の気配に、睡蓮は息を詰めた。
「あの……」
小さく身動ぎをすると、薫が力を強めた。睡蓮は動けなくなる。
「君の心は泣いてる。愛してほしいって叫んでる。君は花嫁に向いてない。純粋すぎるんだ」
「……そんなこと……」
ないと言えず、唇を噛む。
唇を噛み締めて堪えていないと、涙が溢れそうになってしまう。
「……そんなこと、思ってません」
それでもようやく、震える声で睡蓮は否定する。薫から逃れようと、必死に身体を捩った。
「離して……」
「強がらないでよ。君は――」
「なにしてるんですか」
背後から、空気を裂くような低い声がした。
ハッとして振り向くと、楪が立っていた。顔は影になっていてよく見えない。でも、深藍色の妖気が楪の身体から溢れ出しているのが見える。
「睡蓮の妖気に乱れを感じて来てみましたが……やはりあなたですか」
雲間から月光がふりそそぐ。それが、不意に楪を影から炙り出した。楪は険しい顔をして、薫を見ている。楪は静かに怒っていた。
「あ、あの……楪さん」
楪は睡蓮をちらりと一瞥したものの、なにも言わず薫へ視線を戻した。
――え……。
いつもと違う冷ややかな眼差しに、睡蓮は急激に心が冷たくなるのを感じる。まるで、冷水を浴びせられたように。
楪は睡蓮の腕をぐいっと引いて薫から引き剥がすと、前に立った。
「白蓮路さまは、こんな時間にどのような要件で?」
「んー? まあね。君の花嫁が悲しんでいたみたいだから、慰めてあげようかなって」
飄々とした声で、薫が言う。それに対して、楪は硬い声で返した。
「心配は無用です。睡蓮のことは、俺が分かってますから」
くっという声がした。楪の背中越しに薫を見ると、彼は楽しそうに笑っていた。
楪の妖気がさらに強くなるのを感じる。
「分かってる? そうかな?」
楪は眉を寄せる。
「なにか?」
楪は、あまり感情を表に出さない。そんな彼が不機嫌を隠そうとしないのは珍しい。
――どうしてそんなに……。
薫と目が合う。
「花嫁の顔を見てみなよ。わたしのところに挨拶に来たときから、泣きそうな顔をしてるっていうのに、君はまったく気付いてない」
楪が睡蓮を見やる。睡蓮は咄嗟に下を向く。その目を見返すことはできなかった。
「さっき、挨拶に来てくれたとき、あんまりこの子の様子がおかしいものだから、心の中覗いちゃったんだよね。睡蓮ちゃんの過去はなかなか刺激的だったな」
「心の中……?」
睡蓮が呟く。
なんとなく、彼にはすべてを見透かされているような気がしていたけれど、その理由はこれか。
「現人神の花嫁に術を使うのは、禁忌のはずですよ。悪趣味な術を、俺の花嫁に使わないでいただきたい」
咎める楪に、薫は肩を竦める。
「防衛だよ。わたしたちは同盟関係にあるけれど、お互い適度に張り詰めてなきゃならないだろ。わたしの奥さんがずいぶん睡蓮ちゃんに懐いてたものだから、心配になっちゃったのさ」
「快楽主義のあなたがよく言う」
これはさすがに癇に障ったのか、薫も表情を厳しくした。
「おや……それを言うなら君こそ。俺の花嫁、だなんてよく言うよ。そんなに言うなら彼女の本心、教えてあげようか。ねぇ、睡蓮ちゃん?」
薫が睡蓮を流し見る。
「結構です。睡蓮とは直接話しますから」
薫が再びくっと笑う。
「あそ? じゃあ、わたしは帰ろっかな。愛しい奥さんが待ってるし。――まぁ、きっと無理だけどね。今の君たちじゃ、想いはぜったいに交わらない」
そう言い残し、薫は衣をひるがえして殿舎を出ていった。
あとには、静寂だけが残された。
月光の下、気まずさがふたりのあいだに横たわっている。楪がゆっくり睡蓮のほうを向いた。
「睡蓮。大丈夫でしたか」
ひっそりとした声に、睡蓮は小さく笑みを浮かべ、頷く。
「はい。お騒がせしてすみませんでした」
まずい。上手く笑顔が作れない。
「あの、睡蓮」
睡蓮が顔を上げる。
「なにか悩みがあるなら、俺に――」
話してほしい、と言葉が続く前に、睡蓮は首を振った。
「……いえ、大丈夫です」
出鼻をくじかれ、楪は言葉を呑む。
「ちょっと眠れなかったんです。その……明日が式だと思うと、ちょっと緊張してしまって。でも、大丈夫ですから。ちゃんと覚悟は決めてますし」
期待をしないのは慣れている。
それに、楪にはせめて安心して仕事をしてほしい。楪の気を煩わせるようなことはしたくない。
「睡蓮――」
睡蓮は決意が揺らがないうちに、と楪を見据えた。
「楪さん。私、式が終わったら、以前のお屋敷に戻りたいです。あの社はやっぱり私にはちょっと荷が重いっていうか……合わない、気がするので」
楪が息を呑む音がした。わずかな沈黙のあと、楪が言う。
「それは、つまり……俺とはべつで……ひとりで過ごしたいということですか」
睡蓮は胸の痛みを堪えながら頷いた。
「はい。楪さんも、お仕事忙しいでしょうから。あ、でも大丈夫です。安心してください。私、もう二度と離縁したいなんて言いませんか――」
言い終わる前に、不意に楪が睡蓮の腕を引き寄せた。そのまま、楪は睡蓮に覆い被さるようにして、強引に口づけをした。
睡蓮は驚きに目を見張る。
拒む間もなく、楪は睡蓮を強く腕の中に閉じ込めた。次第にその力は弱まり、力なく離れていく。
「ゆず……」
「……俺があなたを傷付けたから……? 俺には、あなたを愛することさえ許されないんですか」
「え……」
楪の悲しげな顔を見た瞬間、睡蓮の心に深いひびが入った。
――どうしてそんな顔をするの? 私はただの花嫁で……魂しか価値はないはずなのに。あなたが私を好きになる理由なんてないでしょう?
それなのにどうしてそんな顔を……。
訊ねる前に、楪が言う。
「……分かりました。睡蓮が望むなら、そうします」
「あの……楪さま」
睡蓮がその手を取るが、楪はそれを拒むように睡蓮の手をそっと剥がした。
はっきりとした拒絶を感じ、睡蓮は絶望した。