場面が変わる。
 おそらく、これが最後だろう、と楪は心のどこかで思った。
 能力を全開放し、空を駆ける。
 間一髪のところで睡蓮の姿を見つけ、その小さな身体を抱き寄せる。
 よかった、間に合った。
 睡蓮は、たった今魂を差し出すところだった。
 彼女を覆う影を取り払い、その手にたしかに抱きとめる。
 睡蓮は、驚いた顔をしていた。
 なぜだろう、と思って、すぐにずっと隠していた素顔のことを思い出す。
 そうだ。
 楪はずっと、桔梗として仮面を被って過ごしていた。睡蓮はこの顔を知らないのだ。
『桔梗ですよ、睡蓮さま』
 正体を伝えると、睡蓮はさらに目を大きくした。
 そして、すべてを打ち明けて懺悔をして、妖狐と対峙する。
 妖狐――幽雪。
 睡蓮の魂を騙し取ろうとしたあやかし。
 楪は容赦なく幽雪を妖力の氷で凍らせ、魂を引き抜いた。
 そしてそれを見て、楪は確信した。
 睡蓮は、本当に幻花の魂を持つ花嫁だった。睡蓮の魂は、美しい椿の花の形をしていたのだ。
 楪は、幽雪から睡蓮の魂を奪い返すと、氷漬けになった幽雪を見やる。
 さて、この腐ったあやかしをどうしようか。
 睡蓮のことを考えないのであれば、もちろん今すぐ溶岩へ閉じ込めるのだが。
 ――しかし……。
 彼女の前ではあまり、手荒なことはしたくない。
 ちらり、と睡蓮を見る。
 楪は苦笑した。やはり、睡蓮はそれは望んでいないようだ。
 もう悪さをできないよう、楪は幽雪の妖力をできる限り己の中に吸い込んでから、彼を閉じ込める氷にふっと息を吹きかけた。
 氷がゆっくり融解していく。
 術を解かれた幽雪がその場に崩れ落ちると、睡蓮が駆け寄った。
 睡蓮は、相変わらず優しい。
 事件が一段落して力を奪われた幽雪は、去り際、睡蓮に言った。
 ――お前もともに来るか、と。
 睡蓮は戸惑いながら、楪を見る。
 楪は、やるせなく目を伏せた。楪には、睡蓮を引き止める権利はこれっぽっちもない。
 睡蓮とはもう離縁してしまっているし、そうでなくとも彼女にはひどいことばかりしている。
 今さら愛しているなんて、どの口が言えようか。
 しかし、睡蓮は。
『……ごめんなさい。素敵なお誘いですが、あなたと一緒に行くことはできません』
 はっきりと、じぶんの言葉で断った。
 楪は唇を引き結ぶ。
 ――やめてほしい。
 だってそんなことを言われたら、楪はどうしても期待してしまう。手を伸ばしたくなってしまう。
『……睡蓮……』
 胸が痛い。心臓を鷲掴みにされたように。目の奥が熱い。焼けるように。どうして?
 ……分かっている。
 愛しているからだ。睡蓮のことを、どうしようもなく。
 その後、幽雪が去った銀杏のトンネルの中で、楪と睡蓮は心を通わせた。
 楪は、これまでの謝罪と後悔を、情けなくも言葉にした。
 そして。
『今さらこんなこと、都合が良過ぎると分かっています。でも……あなたを失いそうになってあらためて、自覚しました。俺は、あなたが好きです。これからもずっと、あなたのそばにいたい』
 もう一度告白をした。今度こそ、心から愛を込めて。
『睡蓮さま。……離縁の話を、破棄させてほしい。……もう一度、俺と生きてもらえませんか。今度は契約じゃない、本物の……愛の結婚をしてほしいんです』
 びっくりした。
 告白とは、こんなにも勇気をともなうものなのか。こんなに怖くて、心が震えるものなのか。
 楪は目を瞑る。
 これまで楪に想いを伝えてくれてきたひとたちの顔を思い浮かべる。彼女たちも、今の楪と同じ気持ちだったのだろうか。
 もしそうならば、悪いことをしてしまったと思う。
 そんなことを思いつつ顔を上げると、涙ぐんだ睡蓮と目が合った。
『私も……私も、楪さまとずっと一緒にいたいです』
 睡蓮の言葉に、楪はどうしようもない感動を覚える。
 睡蓮を抱き締め、噛み締めた。
 そうか。これが、〝幸せ〟なのか……と。
 なにもかも初めての感情をくれた睡蓮に、楪は誓う。この先、どんなことが起ころうとも命をかけて守り抜く。
 眩しい朝日の中、楪は睡蓮を抱き寄せて、そう心に決めた。