――ぱちん、と火が爆ぜるような音がした。
 また場面が変わっている。
 まだ鳥の声もしない早朝。
 あの日である。
 楪は、朝早くから離れにやってきた桃李に睡蓮の状況を聞いていた。
『先ほど、彼女の親友を名乗るあやかしから、証言を得ました』
『親友……?』
 楪は眉を寄せ、考える。瞬時に理解した。
 親友とは、睡蓮がよく縁側で話している赤蜂のあやかしだ。おそらく、あのあやかしは不法滞在している者。そのため、睡蓮は楪にもその存在を話していない。
 まったく、どこまでも優しい乙女である。
 桃李が続ける。
『睡蓮さまは、楪さまが以前封印したあやかしの妖狐に騙されています。妖狐は〝花嫁〟の幻花を狙い、近付いたもよう……おそらく、睡蓮さまをうまく騙して、魂の契約をしたものと思われます』
『なるほど……それで体調が悪かったのですね』
 楪の声が暗くなる。
『これではっきりしました。彼女の離縁のわけは、おそらく楪さまのお命と、地位を守るためかと』
 睡蓮の離縁の理由は、ほかでもない楪の命と、地位を守るためだった。
 花嫁が死ぬということはつまり、現人神である楪が力不足であったと民に思われかねないからである。下手したら、神の力を没収され、現人神としての地位をなくしてしまうかもしれない。
 睡蓮はそれを危惧して、自ら離縁を申し出たのだ。
 すべては、楪のために……。
『驚きました。まさかここまで、睡蓮さまが考えていたとは……〝花嫁〟はやはりお強い』
 なにが強い、だ。楪は桃李を怒鳴りつけたくなる衝動を必死にこらえた。
 睡蓮を危険に巻き込んでいたのは、ほかでもないじぶんだった。
 それなのに楪は、睡蓮がなにかを企んでいるのではないかなどと考えて……おろかにもほどがある。
 しかし、嘆いている暇はない。一刻も早く、彼女の妖狐の居場所を聞いて、睡蓮の魂を取り戻さなくては。
『睡蓮に確認します』
 急いで、睡蓮の部屋に向かう。
 軽く声をかけ、襖を開ける。……が、睡蓮はいなかった。布団は整頓され、荷物もきれいに片付けられている。
 楪は息を呑んだ。
 背後に控えていた桃李が、失礼しますと断ってから、中へ入る。
『楪さま、こちらが……』
 文机からなにかを見つけたらしい桃李が、楪のもとへやってくる。
『これは……』
 桃李が見せてきたのは、手紙だった。
《桔梗さんへ
 睡蓮です。いきなりお手紙なんて書いてごめんなさい。
 ただ、あなたにはどうしても伝えなければならないことがあります。どうか、私の声に少しだけ付き合ってください。
 実は私は、もうこの家に戻ることはありません。
 あなたを雇っておきながら、勝手なことをして本当にごめんなさい。
 あなたと過ごしたこの数ヶ月、夢のような時間でした。
 お恥ずかしながら、私はあまり家族と上手くいっておらず、これまでふつうの生活を送ったことがありませんでした。
 団欒というものを知らない私にとって、だれかと目を合わせて話したり、一緒にご飯を作ったり食べたり……。
 幸せでした。
 何気ない日常なのかもしれないけれど、私には初めてのことばかりで、本当に、本当に楽しかった。
 ありがとう。
 以前、桔梗さんに話したと思いますが、私は現人神の龍桜院楪さまと結婚しておりました。
 離縁こそしてしまいましたが、私は今でも楪さまを愛しています。
 だから、居場所のない私を必要としてくれた楪さまに、少しでも恩返しがしたいのです。
 私はゆきます。
 桔梗さん、巻き込んでしまってごめんなさい。
 少ないですが、私の持っているすべてのお金を置いていきます。
 どうか、お元気で。
 睡蓮》
 手紙を持つ手が震えた。
 ――楪さま。もう少し、花嫁さまのことも気にかけてやってください。
 桃李には、何度もそう言われていた。でも、無視した。
 ばかだった。ばか過ぎてじぶん自身を殴り飛ばしたくなる。
 ――離縁届です。
 渡された離縁届。
 睡蓮とは、三年も夫婦だったのに。三年もあったのに。
 なんで一度も、顔を見にいかなかったのか。
 なんでもっと、ちゃんと睡蓮と向き合ってやらなかったのか。
 なんで。なんで。なんで……。
 彼女が妖狐とふざけた契約をする前に、気付けたはずなのに……。
『楪さま、落ち込んでいる暇はありません』
『……分かっています』
 楪は仮面を外し、懐から煙管を出す。
 口をつけ吸い込むと、ふうっと息を吐いた。細い煙が立ち上る。
 楪はその煙をじっと見つめた。
 煙はしばらくふわふわとして、そして意志を持ったように窓の外へ抜けていく。苦手な追跡術だったが、成功した。いざとなるとできるものだ。
『追います』
『はい』
 桃李を気遣っている暇はなかった。楪は容赦なく、空を駆ける。