使用人として睡蓮のもとで働くことになった楪は、家事をすることになった。
 しかし、楪はこれまで家事などやったことはない。身の回りのことは、当たり前のように妖力で使役していた式神にやらせていた。
 使用人として入ったはいいものの、楪はなにもできなかった。
 しかし、なにもできない楪に睡蓮は呆れることなく、何度もそのやりかたを教えてくれた。優しく、丁寧に。
 睡蓮を注意深くうかがった結果、楪はじぶんの考えをあらためざるを得なかった。
 睡蓮は清らかな少女だった。
 ただ、朗らかで人当たりがいいけれど、彼女の心の最奥にある最後の扉は、どうしても開けなかった。
 睡蓮は、さびしくなってもだれかにぬくもりを求めることなく、ただじっとその場にうずくまって膝を抱えているような、そんな性格をしていた。
 睡蓮を知れば知るほど、楪は彼女が気になって仕方なくなった。
 なにが好きで、なにがきらいか。なにに興味があって、なににつまらないと思うのか……。
 気になってたまらない。
 ある日、楪は思い切って結婚のことを訊ねた。睡蓮は一度は楪を拒むように目を伏せ、黙り込んでしまった。
 しまった、と内心焦る。
 慎重に睡蓮の様子を窺った。
 まだ、ここまで立ち入った話ができるような関係性ではなかったのだ。
 しかし、聞くなら今しかないとも思った。
『……すみません。出過ぎたことを聞いてしまって』
 楪は謝りつつ、もう少し踏み込んでみる。
『失礼ながら、実家でこのような扱いを受けているのは、龍桜院との婚姻を破棄したからではないかと』
 睡蓮はゆっくりと目を開けた。
 楪の言葉に、睡蓮は困ったように微笑み、呟く。
『それは違います。この生活は私にとってはふつうなんですよ。……いいえ、むしろ以前よりずっといいかもしれません』
『以前よりいい……? これが、ですか』
 楪は言っている意味が分からず、怪訝な顔をした。
 だって、彼女が置かれている今の状況は、控えめに見ても最悪な待遇に思うのだが。
『実は私、もともと花柳家の子どもじゃないんです』
 知っていた。だが、さも知らなかったふりをする。
『ですが、あなたはこの花柳家のご長女で……』
『養子なんです。十五年前、子供に恵まれなかった両親が、孤児だった私を家族に迎え入れてくれたんです。でも、そのあとすぐに妹ができて……うちはそこそこ有名な家でしたから、今さら私を捨てることは体裁が悪かったんだと思います。だから、表向きは長女として育てられました』
 そう、睡蓮は話した。ときおり言葉を詰まらせたり、泣きそうな笑みを浮かべながら。
 睡蓮は孤児で、花柳家の養子。そのため家に居場所がない。
 その内容は桃李がくれた書類にすべて記載されているとおりだったけれど、彼女の口から直接聞くと、書面の文字と違って、心臓が握り潰されているかのようにひどく苦しくなった。
 このとき楪は思い知った。
 書類の上で分かるのは、事実のみ。
 当事者の感情までは分からない。
 睡蓮がこれまでどんな気持ちでいたのか。
 楪からの契約の話を、どんなふうに思っていたのか。
 楪のことを、どう思っていたのか……。
 ――彼女のことが、好きだ。
 楪は睡蓮の思いを聞いてようやく、己の思いに気付いた。
 彼女が不安げな顔をすれば、抱き締めてやりたくなる。
 背中を向けられれば、その名前を呼んで、振り向かせたくなる。
 俯いていれば、そっとその柔らかそうな頬に触れて、目を合わせたくなる。
 睡蓮を前に、だれかを愛おしいと思う感情を楪は初めて自覚した。
 そんな彼女は、いつも手紙を大切そうに抱えていた。
 見覚えがある。
 結婚していたとき、桃李が楪の代わりにやり取りしていた手紙だ。
 あのときは、くだらないことをしていると思っていた。手紙なんかでなにが分かるのかと。
 でも、睡蓮は……。
 楪のことが書かれたその手紙を、なにより大切にしている。じぶんではない、ほかの男からの手紙を。
 悔しい。もしこのやり取りをじぶんがしていれば、睡蓮はじぶんに、最後の扉を開いてくれたかもしれない。
 今さら、そんなことを思ったところでどうにもならないのに……。