現人神の花嫁〜離縁からはじまる運命の恋物語〜


 それから花柳家の離れに戻った睡蓮と楪は、あらためて結婚することを睡蓮の両親に告げた。
 睡蓮側の家族はすっかり龍桜院家との縁は切れたと思っていたため、ずいぶんと驚いていたものの、特に疑問を口にするでもなく、あっさりじぶんたちの結婚を了承した。
 どうしてあらためて結婚をするのか。
 これまで契約でじぶんの娘を縛っておいて、この期に及んで結婚とはどういうつもりなのか。
 そんな怒号が飛んできたほうが、まだ安心したかもしれない。
 しかし睡蓮の両親は、ちゃんと結婚できることになったのね、よかったね、と、まるで親戚の子の結婚を祝うかのような口調で笑っていた。
 それを見て、楪はようやく彼女の苦しみを理解した気がした。
 睡蓮にとっては、これがいつもどおりの態度なのだろう。動じている様子はない。
 ちら、ととなりを見る。
 睡蓮はただじっと、まばたきすらせずに楪のとなりに座っていた。感情を抑えているというより、顔の筋肉が弛緩して、本当になにも感じていないような顔だ。
 いつも朗らかな彼女のその表情は、彼女がこれまでこの家でどう生活してきたのかを物語っているようで、楪は胸が苦しくなった。
 きっといつもこうして、なにも感じないようにしてきたのだろう。
 どうして、という疑問を抱いても、答えは分かりきっているから。感じれば感じるほど、絶望するから。
 机の下で、そっと睡蓮の手を握る。ようやく、睡蓮が顔を上げた。楪を、大きな目をさらにまんまるにして見上げている。
 必ず幸せにする。
 楪は、そう伝えるように一度まばたきをした。睡蓮がわずかに口角を緩ませた。

 その夜、楪は夢を見た。
 今から、約三年半前のことだ。
 当時、楪は次期龍桜院の当主として、引き継ぎの仕事に追われていた。
 現人神は、二十歳を迎えると同時に即位する。つまり、二十歳になる前に花嫁を迎えなければならないということだ。
 自室で父親のこれまでの仕事の内容の確認をしていると、桃李がやってきた。
『楪さま、件の詳細についてですが』
 挨拶抜きで、桃李は本題に入る。
『花嫁が決まりましたか?』
 楪は手元の資料に目を落としたまま訊ねた。
『はい。花柳家のご息女、花柳睡蓮さまがいちばん花嫁にふさわしいおかたかと』
 答えながら、桃李は花嫁候補となっている女性の資料を差し出す。
 しかし、楪はそれを受け取ることなく、
『分かりました。では、その通達を花柳家に』
 と言い放った。
『……お顔などは拝見されなくてよろしいのですか?』
『興味ありません。そんなことより桃李。契約のことは、相手がたには必ず漏れなく伝えてくださいね。間違っても、俺に変な期待をしないように』
『……かしこまりました』
 現人神の子としてこの世に生を受けた楪は、生まれたその瞬間から特別だった。
 冷めた子どもだったことは、楪自身自覚している。けれど、こんな環境で育てば、だれもがこうなるのではないだろうか。
 幼い頃から、楪のもとには大人たちが群がってきては取り入ろうとしてきた。
 理由はひとつ。楪が現人神となったとき、側近に選ばれるためだ。生まれながらに定められた現人神に、年齢は関係ない。とにかく、我先に楪に気に入られようと、必死だった。
 そしてそれは、女も例外ではなかった。女たちは、楪の花嫁に選ばれようと必死だった。
 幼いうちから可愛がっておけば、もしかしたらとくだらない夢を見る女。さらに、じぶんの娘を引き合わせようとする愚かな母親もいた。
 いっそのこと、本当のことを言ってしまいたかった。何度、〝花嫁〟の話をしようと言葉が込み上げたことか。
 うんざりした。
 失望した。
 人間は、なんと醜いのだろう。
 どうして神は、じぶんに人間の器を与えたのだろう。
 どうせなら、ひとの身でない本物の神として生まれたかった。それならじぶんがこんな醜い者たちと同族だなんて、絶望せずに済んだのに。
 人間もあやかしも、本質は同じだ。意思がある生き物は、すべて等しく醜い。
 あやかしは人間ほど欲にまみれてはいなかったが、一方で人間を無能と見下している。
 それは、人間の器を持つ楪についても例外ではなく、幽世へ行けば、楪は常にあやかしからの妨害に遭う。
 そのため、現人神は幼い頃から訓練に明け暮れる。神の力を正しく、正確に操り扱うための訓練だ。
 大きな力は、暴発すれば己すらも滅ぼす可能性がある。
 己の能力に呑み込まれぬよう、万が一にも能力を暴発させ、じぶんや周りに危害をくわえることがないように。
 しかし、それだけでは不十分ということで、さらに現人神自身の保険として、花嫁に関する掟が定められた。
 それが、現人神に関する掟のふたつめとみっつめである。
 ふたつ、現人神となるときに伴侶を迎え、式典にはふたりそろって参加すること。
 そしてみっつ。伴侶は、必ず自身の守る土地から選ぶこと――。
 この掟には裏がある。
 公にはされていないが、現人神の花嫁には、現人神を補助するという重要な役割があるのだ。
 神が四つに世界を分けた理由は、勢力の分散のためだ。
 四つの世界はそれぞれ友好関係を築きながらも、常にお互いを監視している。
 それは、ひとつの世界が力を得過ぎないようにするためだ。
 権力に目が眩むと、人間はほかを征服、支配したがる。そしてその力を、現人神は持ってしまっている。
 そのため神は世界を分け、それぞれを監視し合うようにした。どこかがその枠から外れようとすれば、ほかが牽制するように。
 現人神は基本、気高く、自尊心が強い傾向にある。それは、じぶんの世界を守るという信念を民に強く示すためである。
 その理由付けとして、現人神は己の世界から花嫁を選ぶことになっているのだ。それがみっつめの掟である。
 そして、もうひとつ。
 なにより重要なのは、その花嫁についてである。
 花嫁になるには絶対条件が存在する。
 それは、現人神にも負けぬ強い妖気を持っていなければならないということだ。
 すさまじい妖気を持つ現人神との釣り合いを考えてのことと、幽世へ行くために妖気が必要になってくるからだ。
 睡蓮は無自覚だが、桁外れの妖気をふだんから放っていたため、桃李が花嫁候補に入れた。
 そして、花嫁のいちばんの決め手となるのが、幻花と呼ばれる特別な魂を持つかどうかということ。
 歴代の現人神の伴侶は、例外なく特殊な魂を持つと言われていた。
 それは美しい花の形をし、現人神と番になることで、特殊な能力を現人神に与えると言われている。
 ゆえに、〝花嫁(はなよめ)〟、〝花婿(はなむこ)〟と呼ばれるのである。
 睡蓮はあやかしを見、触れることができる。さらに、あやかしを引き寄せるという体質を持っていた。
 睡蓮自身もそれは自覚していた。彼女は、自らにその力があったために花嫁候補になったと思っている。
 だが、実際は違う。
 睡蓮は、紛れもなく〝花嫁〟だった。〝花嫁〟である彼女には、楪といるときにだけ生まれるもうひとつの力がある。
 もとより妖力の分析に優れた桃李から報告を受けていたものの、幽雪との戦いで楪はそれを直に理解した。
 睡蓮の魂を幽雪の身体から取り出したとき、その魂は本当に花の形をしていた。
 そして同時に、楪は睡蓮をそばに置くことで、幽雪の邪気を祓うこともできた。あの最悪の妖狐が、あっさり戦意を喪失したのだ。
 睡蓮が楪にもたらしたのは、あやかしの邪気を祓う力だった。
 その力が実証されたのは、幽雪だけではない。紅の中にわだかまっていた邪気の浄化もそうだった。
 紅はもともと自身の生い立ちや西の世界に不満を抱いていた。その鬱屈とした感情を、桔梗として睡蓮のそばにいた楪が知らず知らずのうちに浄化していたのである。こちらもあとから桃李に聞いたことである。
 もともと鬼は、生き物の妖気について詳しい種族だ。鬼が現人神の側近であることには、能力が高いということだけでなく、正しい花嫁を選ぶ力があるという側面がある。
 さらに戦闘能力も高く、護衛としての任務も完遂できるとあって、現人神はそれぞれ鬼を従えているのである。
 とにかく、睡蓮は現人神の花嫁として唯一無二の存在だ。能力ももちろんのことだが、今では、それ以上に睡蓮の存在自体が、楪にとってかけがえのないものとなっている。
 だが、本人の感覚は違った。睡蓮は、極端に自己評価が低い。
 じぶんなんかが、現人神さまの花嫁に。
 場違いな場所へ来てしまった。
 睡蓮は、そう考えては不安になっているようだった。
 睡蓮は生まれながらに捨てられた過去があるせいか、じぶんに自信がまるでない。
 睡蓮の過去を知り、睡蓮の家庭環境を知り、そしてなによりじぶんのしたことを考えれば、当然と言えば当然かもしれない。
 睡蓮を花嫁にすることが正式に決まると、さすがに楪も睡蓮のことはあらかた確認した。
 不遇の環境に身を置いているらしいということは、すぐに分かった。
 だが、当時楪は、可哀想な環境に身を置く睡蓮に同情こそしたものの、特別な感情は抱かなかった。
 むしろ、睡蓮に婚姻契約を持ちかけたことは、正解だったと思っていたくらいだ。家に未練がなければ、契約破棄なんてことにはならないだろうから。
 睡蓮とは花嫁の神渡りという婚姻行事のときに初めて顔を合わせるはずだったが、生憎、その直前に南の現人神が崩御されたため、行事は無期延期となっていた。
 おかげで楪は、睡蓮から離縁届を突き付けられるまで彼女の顔を拝んだことはなかったのである。

 場面が変わった。
『楪さま!』
 いつもと変わらず仕事をこなしていた楪のもとに、ふだん冷静な桃李が珍しく慌てた様子で駆け込んできた。
『どうしました?』
『睡蓮さまが、突然このような手紙を……』
『手紙?』
 手紙ならば、以前から毎月のように届いているはずだ。楪はひとつも目を通していないが。
『手紙については、桃李に一任しているでしょう? 今さらなんです?』
『今回は、そうはまいりません。届いたのは――離縁届ですから 』
 一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。
『……離縁?』
 これは、つい数ヶ月前の夢だ。
 睡蓮から離縁の願いが出されたと桃李から聞いたとき、楪は耳を疑った。
 契約結婚とはいえ、現人神の花嫁はだれもが欲しがる地位。それを自ら捨てようなどというとは、思わなかったのだ。
 理由は、ひとりでいるのが寂しくなったからとか、家族が恋しくなったからとか、そんな曖昧なことだった。
 そんな理由では、到底納得できるわけがない。
 だって、睡蓮は――。
『しかし、彼女は〝花嫁〟です。つなぎ止めなければ……』
『……〝花嫁〟なんて今どき……〝花嫁〟も掟も、もはや古い迷信でしょう。彼女を花嫁にしたからといって、俺になにか特別な力が生まれたかと言えば、そうは思いませんし』
『それは、楪さまが花嫁さまと一緒におられないから……』
『そもそも、身勝手な契約を持ちかけたのはこちらなんですし、彼女が破棄したいと言っているのであれば、これ以上拘束することはできません。離縁も致しかたないことでしょう』
『しかし今、この地に彼女の妖気に並ぶ乙女はほかにおりません。それに、掟を破った現人神はまだいない。〝花嫁〟を失ったことが知れたら、楪さまの地位が危ぶまれますよ。……それから、最近彼女の住む屋敷の周囲で目撃されている男ですが……目撃情報の特徴から考えると、西の現人神――白蓮路薫さまではないかと』
 楪はようやく顔を上げた。
『まさか。現人神が無断で来ることなど有り得ないでしょう』
 現人神は、それぞれの土地に赴く際には必ず事前に従者をその土地の現人神へ送ることに定められている。現人神が、勝手にほかの現人神の土地に踏み込むことなど、ぜったいに有り得ない。
 楪がぴしゃりと言うと、桃李も頷く。
『えぇ。ですので、もしかしたらその男は……あやかしかもしれません』
 楪は眉を寄せた。
『……あやかしがなぜ俺の花嫁に』
『……花嫁を利用しようとしているとか』
『…………』
 楪は黙り込み、手早く手元の離縁届に自らの情報を記入すると、桃李へ突きつけた。
『桃李、あとで出しておいてください』
 桃李は困惑の眼差しを楪に向ける。
『……本当に離縁なさるおつもりなんですか? こう言ってはなんですが、彼女は楪さまが思うようなおかたではありません。これまで送られてきた手紙を見ていただければ……』
 楪はじろりと桃李を睨んだ。その圧に、さすがの桃李も黙る。
『俺は、〝花嫁〟などいなくても、ひとりでやっていけます。……ですが、彼女がなにか企んでいるのであれば、それはまたべつ問題です。あやかしがかかわっているというならなおさら……彼女を野放しにはしておけませんね』
 楪はすっと目を細める。
『楪さま?』
 睡蓮にはなにか裏がある。
 直感でそう思った楪は、花嫁を探ることに決めた。
 彼女がなにか企てていた場合、その責任の矛先は必ず元夫であり現人神である楪に向く。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。
『楪さま。調べものなら私が……』
『いえ、桃李にはもうずいぶん仕事を任せていますし。花嫁についてはじぶんでやります』
 これ以上、桃李に任せてはおけない。
 そもそも、桃李に任せたこと自体間違いだったのかもしれない。
 桃李は睡蓮と文通していて、花嫁ともずいぶん仲良くなっていた。ただの仕事間での関係しかない楪より、睡蓮側に情が傾いてしまっている。
 最終的に楪は離縁に応じたあと、自ら睡蓮に近付き、探ることに決めた。
 また、場面が変わった。
 見慣れた和風の家がある。花柳家の離れだ。
『お初にお目にかかります。桔梗と申します』
 楪が睡蓮と出会った日である。
 仮面越しに初めて見る己のかつての花嫁は、美しいというより可愛らしいひとだった。
 薄い色素の瞳は、光の加減によって青みがかって見える。まるであやかしめいた瞳だ。
 つややかな漆黒の髪になめらかな白い肌、写真で見た睡蓮は無感情な雰囲気だったが、実際の睡蓮はどこか小動物のように弱々しく見えて、目を離しがたく思えた。
 睡蓮は楪がここで働かせてほしい、と頼むと、困惑気味に目を泳がせていた。断りたいが、申し訳ない。そんな感情がひしひしと伝わってくる。
 睡蓮は押しに弱かった。
 行き場をなくした青年の演技をする楪に、あっさり騙された。
 その日から楪は、桔梗という孤独な青年のふりをして、睡蓮のもとに身を寄せるようになった。
 それから三ヶ月、楪は睡蓮と過ごした。日常をともにする中で、彼女の本音を探るつもりだった。
 使用人として睡蓮のもとで働くことになった楪は、家事をすることになった。
 しかし、楪はこれまで家事などやったことはない。身の回りのことは、当たり前のように妖力で使役していた式神にやらせていた。
 使用人として入ったはいいものの、楪はなにもできなかった。
 しかし、なにもできない楪に睡蓮は呆れることなく、何度もそのやりかたを教えてくれた。優しく、丁寧に。
 睡蓮を注意深くうかがった結果、楪はじぶんの考えをあらためざるを得なかった。
 睡蓮は清らかな少女だった。
 ただ、朗らかで人当たりがいいけれど、彼女の心の最奥にある最後の扉は、どうしても開けなかった。
 睡蓮は、さびしくなってもだれかにぬくもりを求めることなく、ただじっとその場にうずくまって膝を抱えているような、そんな性格をしていた。
 睡蓮を知れば知るほど、楪は彼女が気になって仕方なくなった。
 なにが好きで、なにがきらいか。なにに興味があって、なににつまらないと思うのか……。
 気になってたまらない。
 ある日、楪は思い切って結婚のことを訊ねた。睡蓮は一度は楪を拒むように目を伏せ、黙り込んでしまった。
 しまった、と内心焦る。
 慎重に睡蓮の様子を窺った。
 まだ、ここまで立ち入った話ができるような関係性ではなかったのだ。
 しかし、聞くなら今しかないとも思った。
『……すみません。出過ぎたことを聞いてしまって』
 楪は謝りつつ、もう少し踏み込んでみる。
『失礼ながら、実家でこのような扱いを受けているのは、龍桜院との婚姻を破棄したからではないかと』
 睡蓮はゆっくりと目を開けた。
 楪の言葉に、睡蓮は困ったように微笑み、呟く。
『それは違います。この生活は私にとってはふつうなんですよ。……いいえ、むしろ以前よりずっといいかもしれません』
『以前よりいい……? これが、ですか』
 楪は言っている意味が分からず、怪訝な顔をした。
 だって、彼女が置かれている今の状況は、控えめに見ても最悪な待遇に思うのだが。
『実は私、もともと花柳家の子どもじゃないんです』
 知っていた。だが、さも知らなかったふりをする。
『ですが、あなたはこの花柳家のご長女で……』
『養子なんです。十五年前、子供に恵まれなかった両親が、孤児だった私を家族に迎え入れてくれたんです。でも、そのあとすぐに妹ができて……うちはそこそこ有名な家でしたから、今さら私を捨てることは体裁が悪かったんだと思います。だから、表向きは長女として育てられました』
 そう、睡蓮は話した。ときおり言葉を詰まらせたり、泣きそうな笑みを浮かべながら。
 睡蓮は孤児で、花柳家の養子。そのため家に居場所がない。
 その内容は桃李がくれた書類にすべて記載されているとおりだったけれど、彼女の口から直接聞くと、書面の文字と違って、心臓が握り潰されているかのようにひどく苦しくなった。
 このとき楪は思い知った。
 書類の上で分かるのは、事実のみ。
 当事者の感情までは分からない。
 睡蓮がこれまでどんな気持ちでいたのか。
 楪からの契約の話を、どんなふうに思っていたのか。
 楪のことを、どう思っていたのか……。
 ――彼女のことが、好きだ。
 楪は睡蓮の思いを聞いてようやく、己の思いに気付いた。
 彼女が不安げな顔をすれば、抱き締めてやりたくなる。
 背中を向けられれば、その名前を呼んで、振り向かせたくなる。
 俯いていれば、そっとその柔らかそうな頬に触れて、目を合わせたくなる。
 睡蓮を前に、だれかを愛おしいと思う感情を楪は初めて自覚した。
 そんな彼女は、いつも手紙を大切そうに抱えていた。
 見覚えがある。
 結婚していたとき、桃李が楪の代わりにやり取りしていた手紙だ。
 あのときは、くだらないことをしていると思っていた。手紙なんかでなにが分かるのかと。
 でも、睡蓮は……。
 楪のことが書かれたその手紙を、なにより大切にしている。じぶんではない、ほかの男からの手紙を。
 悔しい。もしこのやり取りをじぶんがしていれば、睡蓮はじぶんに、最後の扉を開いてくれたかもしれない。
 今さら、そんなことを思ったところでどうにもならないのに……。
 ――ぱちん、と火が爆ぜるような音がした。
 また場面が変わっている。
 まだ鳥の声もしない早朝。
 あの日である。
 楪は、朝早くから離れにやってきた桃李に睡蓮の状況を聞いていた。
『先ほど、彼女の親友を名乗るあやかしから、証言を得ました』
『親友……?』
 楪は眉を寄せ、考える。瞬時に理解した。
 親友とは、睡蓮がよく縁側で話している赤蜂のあやかしだ。おそらく、あのあやかしは不法滞在している者。そのため、睡蓮は楪にもその存在を話していない。
 まったく、どこまでも優しい乙女である。
 桃李が続ける。
『睡蓮さまは、楪さまが以前封印したあやかしの妖狐に騙されています。妖狐は〝花嫁〟の幻花を狙い、近付いたもよう……おそらく、睡蓮さまをうまく騙して、魂の契約をしたものと思われます』
『なるほど……それで体調が悪かったのですね』
 楪の声が暗くなる。
『これではっきりしました。彼女の離縁のわけは、おそらく楪さまのお命と、地位を守るためかと』
 睡蓮の離縁の理由は、ほかでもない楪の命と、地位を守るためだった。
 花嫁が死ぬということはつまり、現人神である楪が力不足であったと民に思われかねないからである。下手したら、神の力を没収され、現人神としての地位をなくしてしまうかもしれない。
 睡蓮はそれを危惧して、自ら離縁を申し出たのだ。
 すべては、楪のために……。
『驚きました。まさかここまで、睡蓮さまが考えていたとは……〝花嫁〟はやはりお強い』
 なにが強い、だ。楪は桃李を怒鳴りつけたくなる衝動を必死にこらえた。
 睡蓮を危険に巻き込んでいたのは、ほかでもないじぶんだった。
 それなのに楪は、睡蓮がなにかを企んでいるのではないかなどと考えて……おろかにもほどがある。
 しかし、嘆いている暇はない。一刻も早く、彼女の妖狐の居場所を聞いて、睡蓮の魂を取り戻さなくては。
『睡蓮に確認します』
 急いで、睡蓮の部屋に向かう。
 軽く声をかけ、襖を開ける。……が、睡蓮はいなかった。布団は整頓され、荷物もきれいに片付けられている。
 楪は息を呑んだ。
 背後に控えていた桃李が、失礼しますと断ってから、中へ入る。
『楪さま、こちらが……』
 文机からなにかを見つけたらしい桃李が、楪のもとへやってくる。
『これは……』
 桃李が見せてきたのは、手紙だった。
《桔梗さんへ
 睡蓮です。いきなりお手紙なんて書いてごめんなさい。
 ただ、あなたにはどうしても伝えなければならないことがあります。どうか、私の声に少しだけ付き合ってください。
 実は私は、もうこの家に戻ることはありません。
 あなたを雇っておきながら、勝手なことをして本当にごめんなさい。
 あなたと過ごしたこの数ヶ月、夢のような時間でした。
 お恥ずかしながら、私はあまり家族と上手くいっておらず、これまでふつうの生活を送ったことがありませんでした。
 団欒というものを知らない私にとって、だれかと目を合わせて話したり、一緒にご飯を作ったり食べたり……。
 幸せでした。
 何気ない日常なのかもしれないけれど、私には初めてのことばかりで、本当に、本当に楽しかった。
 ありがとう。
 以前、桔梗さんに話したと思いますが、私は現人神の龍桜院楪さまと結婚しておりました。
 離縁こそしてしまいましたが、私は今でも楪さまを愛しています。
 だから、居場所のない私を必要としてくれた楪さまに、少しでも恩返しがしたいのです。
 私はゆきます。
 桔梗さん、巻き込んでしまってごめんなさい。
 少ないですが、私の持っているすべてのお金を置いていきます。
 どうか、お元気で。
 睡蓮》
 手紙を持つ手が震えた。
 ――楪さま。もう少し、花嫁さまのことも気にかけてやってください。
 桃李には、何度もそう言われていた。でも、無視した。
 ばかだった。ばか過ぎてじぶん自身を殴り飛ばしたくなる。
 ――離縁届です。
 渡された離縁届。
 睡蓮とは、三年も夫婦だったのに。三年もあったのに。
 なんで一度も、顔を見にいかなかったのか。
 なんでもっと、ちゃんと睡蓮と向き合ってやらなかったのか。
 なんで。なんで。なんで……。
 彼女が妖狐とふざけた契約をする前に、気付けたはずなのに……。
『楪さま、落ち込んでいる暇はありません』
『……分かっています』
 楪は仮面を外し、懐から煙管を出す。
 口をつけ吸い込むと、ふうっと息を吐いた。細い煙が立ち上る。
 楪はその煙をじっと見つめた。
 煙はしばらくふわふわとして、そして意志を持ったように窓の外へ抜けていく。苦手な追跡術だったが、成功した。いざとなるとできるものだ。
『追います』
『はい』
 桃李を気遣っている暇はなかった。楪は容赦なく、空を駆ける。
 場面が変わる。
 おそらく、これが最後だろう、と楪は心のどこかで思った。
 能力を全開放し、空を駆ける。
 間一髪のところで睡蓮の姿を見つけ、その小さな身体を抱き寄せる。
 よかった、間に合った。
 睡蓮は、たった今魂を差し出すところだった。
 彼女を覆う影を取り払い、その手にたしかに抱きとめる。
 睡蓮は、驚いた顔をしていた。
 なぜだろう、と思って、すぐにずっと隠していた素顔のことを思い出す。
 そうだ。
 楪はずっと、桔梗として仮面を被って過ごしていた。睡蓮はこの顔を知らないのだ。
『桔梗ですよ、睡蓮さま』
 正体を伝えると、睡蓮はさらに目を大きくした。
 そして、すべてを打ち明けて懺悔をして、妖狐と対峙する。
 妖狐――幽雪。
 睡蓮の魂を騙し取ろうとしたあやかし。
 楪は容赦なく幽雪を妖力の氷で凍らせ、魂を引き抜いた。
 そしてそれを見て、楪は確信した。
 睡蓮は、本当に幻花の魂を持つ花嫁だった。睡蓮の魂は、美しい椿の花の形をしていたのだ。
 楪は、幽雪から睡蓮の魂を奪い返すと、氷漬けになった幽雪を見やる。
 さて、この腐ったあやかしをどうしようか。
 睡蓮のことを考えないのであれば、もちろん今すぐ溶岩へ閉じ込めるのだが。
 ――しかし……。
 彼女の前ではあまり、手荒なことはしたくない。
 ちらり、と睡蓮を見る。
 楪は苦笑した。やはり、睡蓮はそれは望んでいないようだ。
 もう悪さをできないよう、楪は幽雪の妖力をできる限り己の中に吸い込んでから、彼を閉じ込める氷にふっと息を吹きかけた。
 氷がゆっくり融解していく。
 術を解かれた幽雪がその場に崩れ落ちると、睡蓮が駆け寄った。
 睡蓮は、相変わらず優しい。
 事件が一段落して力を奪われた幽雪は、去り際、睡蓮に言った。
 ――お前もともに来るか、と。
 睡蓮は戸惑いながら、楪を見る。
 楪は、やるせなく目を伏せた。楪には、睡蓮を引き止める権利はこれっぽっちもない。
 睡蓮とはもう離縁してしまっているし、そうでなくとも彼女にはひどいことばかりしている。
 今さら愛しているなんて、どの口が言えようか。
 しかし、睡蓮は。
『……ごめんなさい。素敵なお誘いですが、あなたと一緒に行くことはできません』
 はっきりと、じぶんの言葉で断った。
 楪は唇を引き結ぶ。
 ――やめてほしい。
 だってそんなことを言われたら、楪はどうしても期待してしまう。手を伸ばしたくなってしまう。
『……睡蓮……』
 胸が痛い。心臓を鷲掴みにされたように。目の奥が熱い。焼けるように。どうして?
 ……分かっている。
 愛しているからだ。睡蓮のことを、どうしようもなく。
 その後、幽雪が去った銀杏のトンネルの中で、楪と睡蓮は心を通わせた。
 楪は、これまでの謝罪と後悔を、情けなくも言葉にした。
 そして。
『今さらこんなこと、都合が良過ぎると分かっています。でも……あなたを失いそうになってあらためて、自覚しました。俺は、あなたが好きです。これからもずっと、あなたのそばにいたい』
 もう一度告白をした。今度こそ、心から愛を込めて。
『睡蓮さま。……離縁の話を、破棄させてほしい。……もう一度、俺と生きてもらえませんか。今度は契約じゃない、本物の……愛の結婚をしてほしいんです』
 びっくりした。
 告白とは、こんなにも勇気をともなうものなのか。こんなに怖くて、心が震えるものなのか。
 楪は目を瞑る。
 これまで楪に想いを伝えてくれてきたひとたちの顔を思い浮かべる。彼女たちも、今の楪と同じ気持ちだったのだろうか。
 もしそうならば、悪いことをしてしまったと思う。
 そんなことを思いつつ顔を上げると、涙ぐんだ睡蓮と目が合った。
『私も……私も、楪さまとずっと一緒にいたいです』
 睡蓮の言葉に、楪はどうしようもない感動を覚える。
 睡蓮を抱き締め、噛み締めた。
 そうか。これが、〝幸せ〟なのか……と。
 なにもかも初めての感情をくれた睡蓮に、楪は誓う。この先、どんなことが起ころうとも命をかけて守り抜く。
 眩しい朝日の中、楪は睡蓮を抱き寄せて、そう心に決めた。
 ぱっと目が覚めた。
 優しい木目の天井が目に入って、楪はまばたきをする。
 ――ここは。
 ゆっくり起き上がり、となりを見る。楪が贈った椿柄の浴衣を着た睡蓮が可愛らしい寝息を立てていた。
 睡蓮の寝顔を見て、じぶんが離れにいることを自覚する。
 昨日はいろんなことがあった。
 睡蓮の命が妖狐に狙われ、危機一髪彼女を助けて。しかしそのおかげで弱ってしまった彼女の体力を心配して、楪は睡蓮を自らの社に連れてきたのだった。そして、その後すぐ花柳家に戻って、結婚の挨拶をして……その日は、離れに泊まることになったのだった。
 昨晩、ふたつ並べられた布団を見て顔を真っ赤にしていた睡蓮を思い出して、楪は思わず口元を緩ませた。
 睡蓮はおそらく、今までどおりお互いべつの部屋で眠る気だったのだろうが、そうはさせまいと楪が自ら睡蓮の部屋に布団を運んだ。
 睡蓮はまるきり初心だった。
 もちろんなにもしないと言って布団に入っても、睡蓮は緊張が抜けないのかあまりに頻繁に寝返りを打つものだから、楪は最終的に睡蓮の手をぱっと掴んだ。
「じっとして、寝てください」――と、わざと耳元で囁いた。案の定、暗がりの中でも睡蓮は顔を真っ赤にしていた。
 そのまま楪が手を離さずにいると、睡蓮は分かりやすく動揺していた。
 正直、可愛すぎてどうにかしてやろうかと思った楪だったが、やめた。
 大事にすると決めたのだから、と心に言い聞かせる。
 ……が。あんまり意識されるものだから、我慢できなくなった。
「……睡蓮。口づけくらいは、いいですか?」
 欲に抗えず、正直に聞くと、
「ひぇっ?」
 思わぬ声が飛んできて、楪は一瞬きょとんとなる。
「くっ……口づ……で、すか……えと……」
 どこまでも奥ゆかしい花嫁だ。この状態の彼女に迫るのはさすがにかわいそうだろうか。
「冗談ですよ」と笑って、睡蓮から手を離す。
「さて、寝ましょうか」
 本当はまったく冗談ではなかったが、新婚のうちからきらわれるのはいやだからやめた。それに、今は暗いからもったいない。
 初めては、睡蓮の顔をちゃんと見たい。
 そんなことを思っていると、
「もう、ね、眠れそうにありません……」
 なんて呟いている。
「では、おやすみの口づけをもう一回しますか?」と言う楪に、睡蓮は黙り込み、恥ずかしそうに布団を頭まで被ってしまった。
 やり過ぎただろうか。これでも我慢しているのだが。
 と、思いつつ目を瞑ろうとすると、すっと手にぬくもりを感じた。睡蓮の手だ。きゅっと縋るように楪の指先を掴んでいるのがいじらしい。
「……手、だけ繋いだままでもいいですか」
 おずおずとした声が聞こえて、楪は危うくその手を強く引きそうになる。
 なんとかこらえて、「はい」とだけ告げた。若干、声が掠れていた。
 以前、桃李が言っていたことを思い出す。
『〝花嫁〟はお強い』
 まったく、そのとおりだった。楪はとなりで寝息を立てる睡蓮に白旗を上げて、そっと目を閉じるのだった。

 無事、睡蓮が楪の花嫁となって一週間が過ぎた。
 睡蓮は既に、本拠地を花柳家の離れから楪が住まう天空の社へと変えている。
 最近の睡蓮は、社にある現人神や花嫁に関する資料を読み、勉強していることが多い。
 現人神をそれぞれ加護する神獣のこと。それぞれの現人神が得意とする術式。花嫁の役割と、幻花と呼ばれる特別な魂について――。
 現人神の花嫁として学ぶべきことは、たくさんある。
 楪や薫たち〝現人神〟についても、じぶん自身である〝花嫁〟についても、睡蓮はまだまだ知らないことが多過ぎる。
 睡蓮に与えられた部屋は、座敷と板間が襖ひとつで仕切られた二部屋。
 しかし、睡蓮はいつも資料が保管されている資料庫の窓際にある洋風机と椅子を使って勉強している。
 ぱら、と(ページ)をめくる音が響いた。
 そういえば、雨の音が消えている。
 八角格子窓のほうへ目を向けると、しっとりとした水のにおいが濃くなった。
 窓の向こうには、紫陽花がある。青、桃、白の花びらが灰色の空に鮮やかに映える。
 近くにある柳の木も、いつもの乾いた葉音ではなく、生き返ったようにみずみずしい葉音に変わる。
 睡蓮はそんなささいな変化が好きだった。
 水と言えば、東の現人神について調べ始めて、分かったことがある。
 楪は水を司る現人神だという。
 ほかの現人神――たとえば白蓮路家は風、朱鷺風家は炎、玄都織家は土、である。
 そしてひとびとは、その土地を治める現人神が司る力と同じ質の魂を持つと言われている。そのため、現人神は同じ系統の魂を持つ土地から花嫁を選ばなければならない。違う系統の魂では、番となり得ないからである。となると睡蓮は楪と同じ、水の魂を持っているらしい。しかも、その中でも特に稀有な幻の花と呼ばれる魂を。
 ふと、資料庫の扉が音を立てて開いた。睡蓮は窓の外から、扉へ目を向ける。
 だれだろう、と思って見ていると、入ってきたのは楪だった。社には今のところ、楪と睡蓮しかいないから当たり前と言えば当たり前なのだが。
 楪は、紅と桃李もいずれここへ呼ぶつもりだと言っていたが、今のところはふたり暮らしだ。
 紅と桃李は今、絶賛特訓中だからである。
 なんでも、紅は護衛としての基礎を身につけるため、護衛任務に長けた桃李が特別に特訓するのだという。
 しかし桃李の訓練は文字どおり鬼の訓練らしく、紅は半泣きになりながらこなしている、と楪は言っていた。
 紅の武運を祈りつつ、睡蓮は毎日勉強している。
「睡蓮、少しいいですか?」
 入ってきた楪が睡蓮を呼ぶ。睡蓮は資料を閉じ、立ち上がって楪のもとへ行く。
「どうかしましたか?」
 楪は睡蓮と自室に移動すると、言った。
「花嫁の神渡り式が行われることが決まりました」
「花嫁の神渡り?」
 睡蓮が首を傾げる。
「はい。以前の契約結婚時も行われる予定だったのですが。覚えていませんか?」
 言われてみれば、と思い出す。
「そういえば……前のときはたしか、南の前現人神さまが崩御されて延期になったって、桃李さんから手紙で聞きました。えっと……花嫁の神渡り式って、いわゆる結婚式のことですよね?」
「そうです」
 睡蓮と楪は、結婚式がまだなのである。
「そういえば、今南の現人神さまって……」
「炎禾さまが崩御されてからは、双子の妹である詠火さまが務めています」
「えっ! 現人神さまって、みんな男性なんじゃ……」
「まさか。現人神の中でも、朱鷺風家と玄都織家は代々、当主は女性ですよ。龍桜院家と白蓮路家は代々男が継いでいますが」
「なるほど……じゃあ、南と北の土地で幻花を持つのは、花婿さまとなるのですか?」
 睡蓮が訊ねると楪は「はい」と微笑んだ。
「神渡り式は二週間後の夜、新月のもとで行われます。式自体は難しいことはないのですが、ただひとつ、睡蓮には話しておかなければならないことがありまして」
「話しておかなければならないこと?」
 なんだろう。難しいことじゃなければいいが。
 睡蓮はごくりと息を呑む。楪は説明を続ける。
「神渡り式は、月の京という特別な場所で行われます。月の京へは式前日に入って、その日はまず各現人神とその伴侶への挨拶回りがあり、そのあと晩餐会。翌日に式をして、式のあとは現人神と伴侶別れてのお茶会をして、解散……という流れになります」
「は、はい」
 なかなか目まぐるしい。
 ――花嫁の神渡り。
 現人神の〝花嫁〟が決まると、まずいちばんに行われる行事のひとつである。
 世間で言う、いわゆる結婚式だ。
 ただしかし、神事である花嫁の神渡りは、ふつうの結婚式とは少し違うところがある。
 それは……。
「神渡り式では、現人神たちが一堂に会します。睡蓮は、この意味が分かりますか?」
「……いえ、えっと……?」
 睡蓮は、楪の言葉の意味が分からず首を傾げる。
「現人神は、ひとのかたちをした神です。あくまで、神。そのため、ひととは桁違いの妖気を放っている」
「あっ……!」
 それは、睡蓮も勉強した。
 楪の言葉の意味を睡蓮はようやく理解する。
「現人神は凄まじい妖気を放つ。ひとの地に降りるときは神の力を封じるため、必ず仮面を被らなければならない」
睡蓮は資料に書かれていた文面を復唱した。楪が頷く。
「そのとおりです。妖気を抑える仮面は、現人神に限らず、強い妖気を持つあやかしには義務づけられています」
「つまり……現人神さまたちの妖気に、私が耐えられるのかが試されているということですか?」
「花嫁や花婿には、まずいちばんに求められる要素ですからね。彼らは式中、仮面は被りません。つまり、式のあいだそれに耐えられなければ、伴侶失格……と、なり得るということになります」
 現人神について調べるまで、仮面に妖気を抑える力があるだなんて知らなかった。
 高貴なあやかしが仮面を付けている理由は、ただ己の権力を誇示するためだと思っていたが、ちゃんとした理由があったらしい。しかも、ひとに配慮したものだったなんて。
「私に耐えられるでしょうか……」
「おそらく、問題はないかと思います。俺と過ごしてもまるでふつうでしたし、なにより幽雪と対峙したとき、俺は能力を解放していましたが、睡蓮は魂をほぼ失くした状態でも耐えていましたから」
「それはそうですけど……」
 楪の話に、睡蓮の顔はみるみる青ざめていく。
 楪はともかくとして、ほかの三神たちに認められる。
 そんなこと、なんの取り柄もないじぶんにできるのだろうか。
 途端に暗い顔になった睡蓮の背に、楪がそっと手を当てる。
「そう暗い顔をしないで、睡蓮。きっと大丈夫ですよ」 楪の言葉にも、睡蓮の中の不安はまだ消えない。
 なぜなら睡蓮はじぶん自身が〝幻花の花嫁〟であると言われても、あまりぴんと来ていない。
 幽雪との戦いのとき、己の魂のかたちを見て、それはたしかに、花のかたちをしていたのだけれど。
 それだけではない。
 睡蓮が楪にもたらしたという、あやかしの邪気を祓う力。
 そんなすごい力が本当にじぶんにあるのか、睡蓮は未だに半信半疑だった。
「それからもうひとつ、睡蓮には覚悟していただかないといけないことが」
「ま、まだ覚悟することが?」
 今度はなんだろう、とびくびくする睡蓮に、楪は控えめに続ける。
「正式に結婚を認められた場合、誓いの口づけがあるんです」
「く、くち、づけ……!?」
 目を白黒させる睡蓮に、楪が小さくため息をつく。
 睡蓮は未だに楪との距離感に慣れず、唇への口づけはおろか、楪の手が触れるだけでも身を固くしてしまう。それなのに、口づけだなんて。しかも、大勢のひとの前で。
 無茶だ。ぜったい。
 あわあわとする睡蓮を見つめ、楪は小さく吹き出した。
 睡蓮との夫婦の営みについては、正直楪はもどかしい日々を送っていた。だが、楪は案外それも心地よいと思っていた。
 なにしろ、楪だって心から通じ合った乙女は初めてなのである。触れたい反面、なにより大事にしたい存在に変わりない。
 ……ただ、神事となればべつである。
 恥ずかしいからできません、はさすがに許されないだろう。
 だが……。
 楪はちらりと睡蓮を見た。
 睡蓮はただ口づけと言葉にしただけで、顔を真っ赤にしている。
 ふたりきりのときでこうなのだ。このままでは、人前で口づけなどおそらく無理に等しい。
「……睡蓮。そんな顔しないでください」
 かちこちになってしまった睡蓮に、楪は苦笑混じりにそっと囁く。
「大丈夫ですよ、俺は、あなたがいやがることはぜったいにしません。だから心配しないで」
「え……本当、ですか?」
 なおも不安そうな顔をする睡蓮に、楪は優しく微笑みかける。
「当日は、ふりにしましょう」
「えっ……ふり?」
 驚く睡蓮に、楪が頷く。
「はい。口づけは式の最後……祭壇の上で行われます。現人神たちの前ではありますが、距離もありますし、ふりでもきっと見えませんよ」
「……そうですか」
「えぇ。だから心配しないで」
「はい……」
 睡蓮がふっと息を吐く。どこか安堵したような表情をする睡蓮に、楪は少しの寂寥感を覚える。
 睡蓮と思いを通じ合わせたものの、ふたりの間にはまだ距離がある。こうあからさまにホッとされてしまうと、寂しいものがある。
 だが、あまり焦って距離を詰めても、彼女を怯えさせるだけだろう。楪は込み上げそうになる感情をぐっと抑えて、笑みを浮かべる。
「……そんなことより睡蓮。今から少し出かけませんか?」
「えっ? お出かけですか?」
「はい。さ、行きましょう」
 楪は睡蓮に、いつもどおりの美しい仮面を被った。