場面が変わった。
『楪さま!』
 いつもと変わらず仕事をこなしていた楪のもとに、ふだん冷静な桃李が珍しく慌てた様子で駆け込んできた。
『どうしました?』
『睡蓮さまが、突然このような手紙を……』
『手紙?』
 手紙ならば、以前から毎月のように届いているはずだ。楪はひとつも目を通していないが。
『手紙については、桃李に一任しているでしょう? 今さらなんです?』
『今回は、そうはまいりません。届いたのは――離縁届ですから 』
 一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。
『……離縁?』
 これは、つい数ヶ月前の夢だ。
 睡蓮から離縁の願いが出されたと桃李から聞いたとき、楪は耳を疑った。
 契約結婚とはいえ、現人神の花嫁はだれもが欲しがる地位。それを自ら捨てようなどというとは、思わなかったのだ。
 理由は、ひとりでいるのが寂しくなったからとか、家族が恋しくなったからとか、そんな曖昧なことだった。
 そんな理由では、到底納得できるわけがない。
 だって、睡蓮は――。
『しかし、彼女は〝花嫁〟です。つなぎ止めなければ……』
『……〝花嫁〟なんて今どき……〝花嫁〟も掟も、もはや古い迷信でしょう。彼女を花嫁にしたからといって、俺になにか特別な力が生まれたかと言えば、そうは思いませんし』
『それは、楪さまが花嫁さまと一緒におられないから……』
『そもそも、身勝手な契約を持ちかけたのはこちらなんですし、彼女が破棄したいと言っているのであれば、これ以上拘束することはできません。離縁も致しかたないことでしょう』
『しかし今、この地に彼女の妖気に並ぶ乙女はほかにおりません。それに、掟を破った現人神はまだいない。〝花嫁〟を失ったことが知れたら、楪さまの地位が危ぶまれますよ。……それから、最近彼女の住む屋敷の周囲で目撃されている男ですが……目撃情報の特徴から考えると、西の現人神――白蓮路薫さまではないかと』
 楪はようやく顔を上げた。
『まさか。現人神が無断で来ることなど有り得ないでしょう』
 現人神は、それぞれの土地に赴く際には必ず事前に従者をその土地の現人神へ送ることに定められている。現人神が、勝手にほかの現人神の土地に踏み込むことなど、ぜったいに有り得ない。
 楪がぴしゃりと言うと、桃李も頷く。
『えぇ。ですので、もしかしたらその男は……あやかしかもしれません』
 楪は眉を寄せた。
『……あやかしがなぜ俺の花嫁に』
『……花嫁を利用しようとしているとか』
『…………』
 楪は黙り込み、手早く手元の離縁届に自らの情報を記入すると、桃李へ突きつけた。
『桃李、あとで出しておいてください』
 桃李は困惑の眼差しを楪に向ける。
『……本当に離縁なさるおつもりなんですか? こう言ってはなんですが、彼女は楪さまが思うようなおかたではありません。これまで送られてきた手紙を見ていただければ……』
 楪はじろりと桃李を睨んだ。その圧に、さすがの桃李も黙る。
『俺は、〝花嫁〟などいなくても、ひとりでやっていけます。……ですが、彼女がなにか企んでいるのであれば、それはまたべつ問題です。あやかしがかかわっているというならなおさら……彼女を野放しにはしておけませんね』
 楪はすっと目を細める。
『楪さま?』
 睡蓮にはなにか裏がある。
 直感でそう思った楪は、花嫁を探ることに決めた。
 彼女がなにか企てていた場合、その責任の矛先は必ず元夫であり現人神である楪に向く。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。
『楪さま。調べものなら私が……』
『いえ、桃李にはもうずいぶん仕事を任せていますし。花嫁についてはじぶんでやります』
 これ以上、桃李に任せてはおけない。
 そもそも、桃李に任せたこと自体間違いだったのかもしれない。
 桃李は睡蓮と文通していて、花嫁ともずいぶん仲良くなっていた。ただの仕事間での関係しかない楪より、睡蓮側に情が傾いてしまっている。
 最終的に楪は離縁に応じたあと、自ら睡蓮に近付き、探ることに決めた。
 また、場面が変わった。
 見慣れた和風の家がある。花柳家の離れだ。
『お初にお目にかかります。桔梗と申します』
 楪が睡蓮と出会った日である。
 仮面越しに初めて見る己のかつての花嫁は、美しいというより可愛らしいひとだった。
 薄い色素の瞳は、光の加減によって青みがかって見える。まるであやかしめいた瞳だ。
 つややかな漆黒の髪になめらかな白い肌、写真で見た睡蓮は無感情な雰囲気だったが、実際の睡蓮はどこか小動物のように弱々しく見えて、目を離しがたく思えた。
 睡蓮は楪がここで働かせてほしい、と頼むと、困惑気味に目を泳がせていた。断りたいが、申し訳ない。そんな感情がひしひしと伝わってくる。
 睡蓮は押しに弱かった。
 行き場をなくした青年の演技をする楪に、あっさり騙された。
 その日から楪は、桔梗という孤独な青年のふりをして、睡蓮のもとに身を寄せるようになった。
 それから三ヶ月、楪は睡蓮と過ごした。日常をともにする中で、彼女の本音を探るつもりだった。