その夜、楪は夢を見た。
 今から、約三年半前のことだ。
 当時、楪は次期龍桜院の当主として、引き継ぎの仕事に追われていた。
 現人神は、二十歳を迎えると同時に即位する。つまり、二十歳になる前に花嫁を迎えなければならないということだ。
 自室で父親のこれまでの仕事の内容の確認をしていると、桃李がやってきた。
『楪さま、件の詳細についてですが』
 挨拶抜きで、桃李は本題に入る。
『花嫁が決まりましたか?』
 楪は手元の資料に目を落としたまま訊ねた。
『はい。花柳家のご息女、花柳睡蓮さまがいちばん花嫁にふさわしいおかたかと』
 答えながら、桃李は花嫁候補となっている女性の資料を差し出す。
 しかし、楪はそれを受け取ることなく、
『分かりました。では、その通達を花柳家に』
 と言い放った。
『……お顔などは拝見されなくてよろしいのですか?』
『興味ありません。そんなことより桃李。契約のことは、相手がたには必ず漏れなく伝えてくださいね。間違っても、俺に変な期待をしないように』
『……かしこまりました』
 現人神の子としてこの世に生を受けた楪は、生まれたその瞬間から特別だった。
 冷めた子どもだったことは、楪自身自覚している。けれど、こんな環境で育てば、だれもがこうなるのではないだろうか。
 幼い頃から、楪のもとには大人たちが群がってきては取り入ろうとしてきた。
 理由はひとつ。楪が現人神となったとき、側近に選ばれるためだ。生まれながらに定められた現人神に、年齢は関係ない。とにかく、我先に楪に気に入られようと、必死だった。
 そしてそれは、女も例外ではなかった。女たちは、楪の花嫁に選ばれようと必死だった。
 幼いうちから可愛がっておけば、もしかしたらとくだらない夢を見る女。さらに、じぶんの娘を引き合わせようとする愚かな母親もいた。
 いっそのこと、本当のことを言ってしまいたかった。何度、〝花嫁〟の話をしようと言葉が込み上げたことか。
 うんざりした。
 失望した。
 人間は、なんと醜いのだろう。
 どうして神は、じぶんに人間の器を与えたのだろう。
 どうせなら、ひとの身でない本物の神として生まれたかった。それならじぶんがこんな醜い者たちと同族だなんて、絶望せずに済んだのに。
 人間もあやかしも、本質は同じだ。意思がある生き物は、すべて等しく醜い。
 あやかしは人間ほど欲にまみれてはいなかったが、一方で人間を無能と見下している。
 それは、人間の器を持つ楪についても例外ではなく、幽世へ行けば、楪は常にあやかしからの妨害に遭う。
 そのため、現人神は幼い頃から訓練に明け暮れる。神の力を正しく、正確に操り扱うための訓練だ。
 大きな力は、暴発すれば己すらも滅ぼす可能性がある。
 己の能力に呑み込まれぬよう、万が一にも能力を暴発させ、じぶんや周りに危害をくわえることがないように。
 しかし、それだけでは不十分ということで、さらに現人神自身の保険として、花嫁に関する掟が定められた。
 それが、現人神に関する掟のふたつめとみっつめである。
 ふたつ、現人神となるときに伴侶を迎え、式典にはふたりそろって参加すること。
 そしてみっつ。伴侶は、必ず自身の守る土地から選ぶこと――。
 この掟には裏がある。
 公にはされていないが、現人神の花嫁には、現人神を補助するという重要な役割があるのだ。
 神が四つに世界を分けた理由は、勢力の分散のためだ。
 四つの世界はそれぞれ友好関係を築きながらも、常にお互いを監視している。
 それは、ひとつの世界が力を得過ぎないようにするためだ。
 権力に目が眩むと、人間はほかを征服、支配したがる。そしてその力を、現人神は持ってしまっている。
 そのため神は世界を分け、それぞれを監視し合うようにした。どこかがその枠から外れようとすれば、ほかが牽制するように。
 現人神は基本、気高く、自尊心が強い傾向にある。それは、じぶんの世界を守るという信念を民に強く示すためである。
 その理由付けとして、現人神は己の世界から花嫁を選ぶことになっているのだ。それがみっつめの掟である。
 そして、もうひとつ。
 なにより重要なのは、その花嫁についてである。
 花嫁になるには絶対条件が存在する。
 それは、現人神にも負けぬ強い妖気を持っていなければならないということだ。
 すさまじい妖気を持つ現人神との釣り合いを考えてのことと、幽世へ行くために妖気が必要になってくるからだ。
 睡蓮は無自覚だが、桁外れの妖気をふだんから放っていたため、桃李が花嫁候補に入れた。
 そして、花嫁のいちばんの決め手となるのが、幻花と呼ばれる特別な魂を持つかどうかということ。
 歴代の現人神の伴侶は、例外なく特殊な魂を持つと言われていた。
 それは美しい花の形をし、現人神と番になることで、特殊な能力を現人神に与えると言われている。
 ゆえに、〝花嫁(はなよめ)〟、〝花婿(はなむこ)〟と呼ばれるのである。
 睡蓮はあやかしを見、触れることができる。さらに、あやかしを引き寄せるという体質を持っていた。
 睡蓮自身もそれは自覚していた。彼女は、自らにその力があったために花嫁候補になったと思っている。
 だが、実際は違う。
 睡蓮は、紛れもなく〝花嫁〟だった。〝花嫁〟である彼女には、楪といるときにだけ生まれるもうひとつの力がある。
 もとより妖力の分析に優れた桃李から報告を受けていたものの、幽雪との戦いで楪はそれを直に理解した。
 睡蓮の魂を幽雪の身体から取り出したとき、その魂は本当に花の形をしていた。
 そして同時に、楪は睡蓮をそばに置くことで、幽雪の邪気を祓うこともできた。あの最悪の妖狐が、あっさり戦意を喪失したのだ。
 睡蓮が楪にもたらしたのは、あやかしの邪気を祓う力だった。
 その力が実証されたのは、幽雪だけではない。紅の中にわだかまっていた邪気の浄化もそうだった。
 紅はもともと自身の生い立ちや西の世界に不満を抱いていた。その鬱屈とした感情を、桔梗として睡蓮のそばにいた楪が知らず知らずのうちに浄化していたのである。こちらもあとから桃李に聞いたことである。
 もともと鬼は、生き物の妖気について詳しい種族だ。鬼が現人神の側近であることには、能力が高いということだけでなく、正しい花嫁を選ぶ力があるという側面がある。
 さらに戦闘能力も高く、護衛としての任務も完遂できるとあって、現人神はそれぞれ鬼を従えているのである。
 とにかく、睡蓮は現人神の花嫁として唯一無二の存在だ。能力ももちろんのことだが、今では、それ以上に睡蓮の存在自体が、楪にとってかけがえのないものとなっている。
 だが、本人の感覚は違った。睡蓮は、極端に自己評価が低い。
 じぶんなんかが、現人神さまの花嫁に。
 場違いな場所へ来てしまった。
 睡蓮は、そう考えては不安になっているようだった。
 睡蓮は生まれながらに捨てられた過去があるせいか、じぶんに自信がまるでない。
 睡蓮の過去を知り、睡蓮の家庭環境を知り、そしてなによりじぶんのしたことを考えれば、当然と言えば当然かもしれない。
 睡蓮を花嫁にすることが正式に決まると、さすがに楪も睡蓮のことはあらかた確認した。
 不遇の環境に身を置いているらしいということは、すぐに分かった。
 だが、当時楪は、可哀想な環境に身を置く睡蓮に同情こそしたものの、特別な感情は抱かなかった。
 むしろ、睡蓮に婚姻契約を持ちかけたことは、正解だったと思っていたくらいだ。家に未練がなければ、契約破棄なんてことにはならないだろうから。
 睡蓮とは花嫁の神渡りという婚姻行事のときに初めて顔を合わせるはずだったが、生憎、その直前に南の現人神が崩御されたため、行事は無期延期となっていた。
 おかげで楪は、睡蓮から離縁届を突き付けられるまで彼女の顔を拝んだことはなかったのである。