ひとりで入るには大き過ぎる露天風呂を堪能したあと、楪が用意しておいてくれた、無地の藍色の浴衣に着替えた。
 長い廊下を一歩歩くたび、木がかすかに軋む音がする。
 こんなに立派で大きなお屋敷でも、木の匂いは優しくあたたかい。それに、この音。離れと同じ音に、どこか心がほっとした。
 歩きながら、開かれた襖の奥を覗き、楪の姿を探す。
 三室目くらいで、楪の姿が見えた。手招きされ、そばまで歩み寄りながら礼を言う。
「お風呂、ありがとうございました」
 すると楪は目をすっと細めて、睡蓮を見つめた。
「その浴衣、やっぱりあなたは椿なんですね」
「え?」
 睡蓮は首を傾げた。
 不思議そうにする睡蓮に、楪がくいっと顎を動かす。
 ――見ろってこと?
 睡蓮はじぶんの姿を見下ろした。
 浴衣を見て、小さく声を上げる。
 着付けたときはたしかに無地だったはずの浴衣には、どういうわけか美しい紅色椿の柄が咲いている。しかも、ひとつではなくいくつも。溢れるほどに咲く真っ赤な椿が美しい。
「どうして……」
 驚く睡蓮に、楪が説明する。
「それは、花嫁のためにあつらえられた一点物の浴衣なんですよ。妖力が込められているから、その浴衣は着る者を選ぶ……花嫁でない者が着れば、取り憑かれて命を落とすとまで言われています」
「そ、そうなんですか?」
 なんといういわく付きの浴衣。ぎょっとして浴衣を見下ろす睡蓮に、楪はふっと笑う。
「ま、迷信ですよ。ついでに言えば、花嫁を気に入れば、浴衣はどこまでも花嫁を美しく飾ってくれる。その浴衣は、睡蓮をとても気に入ったようですね。さすがです」
 とりあえず憑き殺されなくてよかった、と睡蓮は胸を撫で下ろしつつ、浴衣をそっと撫でる。
「気に入ってくれてありがとう」
 と、小さく呟く。
「それより、体調はどうですか?」
「あぁ、はい。お風呂に浸かったからか、ずいぶん楽になりました。さっきまで、ちょっと身体が重かったんですけど……」
 言いながら、睡蓮は両手を見下ろした。不思議と、手足のだるさは消えていた。心が落ち着いたのだろう。おそらく。
「それはよかった。実は、あの風呂には身体を癒す効能があるんです」
「えっ」
 睡蓮は驚いて楪を見た。
 では、心が落ち着いたからというわけではなく、さっき入った風呂のおかげなのか。
「……もしかして、楪さんは私が疲れてると思って、わざわざ……?」
「えぇ、まあ。そもそもあなたの身体は、ただ疲れているわけではなく、結構危険な状態だったんですよ。妖狐に魂を抜かれてずいぶん弱っていたところ、さらにそこへ魂を戻したことで、より身体に大きな負荷がかかってしまっていましたから。ふつうのひとであれば、死んでいたかもしれません」
「えっ……そんなに?」
「はい。だからとにかく、あなたをこの風呂に入れたかったんです。……心配で」
「……しん、ぱい……」
「……いや、すみません。俺にそんなことを言う資格、ないですね」
 楪はどこか自信なさげに目を逸らし、言った。
 その視線の流れに深い後悔を感じ、睡蓮は唇を引き結ぶ。
 彼に、後悔をさせてしまっている。気にしなくていいと睡蓮が言ったところで、効果はないだろう。
 こんな顔をさせたいわけではなかったのに。
 睡蓮は楪の手を掴んだ。
「……あ、あの、楪さん。ありがとうございます。楪さんのおかげで私、すごく元気になりました、今」
 若干、声が上擦ってしまった。楪がきょとんとした顔で睡蓮を見る。
「え、今? なんで今……いや、まぁいいです。……それより睡蓮。ついて来てもらえますか?」
 そう言って、楪は睡蓮の手を取り直した。睡蓮は握られた手に僅かに身を強ばらせたものの、楪の柔らかなぬくもりにふっと力を抜く。
「……はい」
 おずおずとその手を握り返す睡蓮を見て、楪はふっと微笑むと、その手を引いて歩き出す。
 そうして楪が向かったのは、社の最上階だった。
 この社は、大きく分けると地下一階、地上六階建ての構造になっている。といっても、この城自体地上には存在していないが。
 六階は階自体ががらんとした座敷になっていて、大きな窓が東側と反対の西側にひとつづつあるのみだ。
 階段を上がり切ると、楪は睡蓮の手を離し、東側の窓へ進む。
「来て、睡蓮」
 睡蓮がそばへ行くと、楪は正面の窓を開け放った。
「っ!!」
 窓の向こうに現れた景色に、睡蓮は目を見張る。
 睡蓮の視界には、これまで睡蓮が暮らしてきた東の街並みがいっぱいに広がっていた。
 どうして。ここは、ずいぶんと高い場所にあるはずなのに。頭に浮かんだ疑問も、うまく言葉にできない。
 感動とは、こういうものなのだろうか。睡蓮は思った。
「今見ているあの町が、俺が治める東現世です。反対側の窓を開けると、東幽世が見えます。実は、睡蓮をここへ呼んだのは、この景色を見せるためでもあるんです」
「この景色を?」
「はい。あなたをここの風呂で睡蓮の体力を回復させたかったこともありますが、俺があなたをここへ連れてきたのは、なによりこの景色を見てほしかったからなんです」
「この景色を……」
「今日からあなたは、正式な俺の花嫁ですから」
 楪の言葉に、睡蓮はきゅっと唇を引き結んだ。
「……私、本当に花嫁……なんですね」
「はい」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「とんでもない! ……正直俺は、あなたにはひどいことをたくさんしてしまいましたから……本当なら、俺にはあなたを愛する資格なんてない。そう、分かっているんですけど」
 睡蓮は首を横に振る。
 そんなことはない。
 睡蓮は楪のおかげで今ここにいる。それだけは疑いようのない事実だ。
 おそらく睡蓮は、楪がいなければとうの昔に挫けていただろう。あの、孤独すぎる環境に。
「……でも、それでも愛したい。愛させてほしい。俺のすべてをかけて、幸せにするから」
 楪の言葉は、小さな炎となってじわじわと睡蓮の胸に広がっていく。……優しくも熱い火花を散らして。
「睡蓮、どうかな」
 楪か問う。睡蓮の答えは、既にはっきりと決まっていた。
「はい。末永く、よろしくお願いします」
 今度こそ、睡蓮は笑顔で頷いた。