その後楪に連れられ、睡蓮は社の中へ足を踏み入れた。
玄関先で下駄を脱ごうとして、睡蓮はじぶんが泥だらけであることを思い出す。
そういえば、幽雪との一件でだいぶ身体を汚してしまった。このまま入ったら、きっと歩くたび、乾いた泥がぽろぽろ落ちて床を汚してしまう。
「……あ」
そういえば、さっき楪に抱き締められたとき――楪の着物を汚してしまったかもしれない。
どうしよう。楪の着物は睡蓮のものと違って、きっととても高いものなのに。
ちらりと楪を見ると、ちょうど目が合う。楪も、上がろうとしない睡蓮を怪訝そうに振り返っていた。
「どうしました?」
「その……私、着物とか汚れてて……さっき」
触れ合ったとき、汚してしまったかもしれない、そう言いかけて、口を噤む。
ついさっきの出来事を思い出す。じぶんたちは、なんてことをしていたんだろう。今さらながら恥ずかしくなって、じわじわと耳まで熱くなっていくのが分かった。睡蓮の様子に気付いた楪が、「あぁ」と意味深に口角を上げる。
「さっき、抱き合ったときに汚れてしまったかもって?」
「!」
楪は抱き合ったとき、の部分をわざと強調して、しかも耳元で囁いた。思わず後退りして恥ずかしがる睡蓮を、楪はどこか楽しげに観察している。
「ゆ……楪さん」
やめてほしい。本当に。
楪はひとしきり睡蓮の表情で楽しんだあと、優しい声で言った。
「すみません。たしかに睡蓮の着物は少し汚れてしまいましたかね……」
「う……すみません」
「いえ。でも、気になるならこうしましょうか」
楪はにこりと笑うとそばへ来て、ひょいと睡蓮を横抱きにした。
「っ!」
「まずは、お風呂に入りましょうか?」
「おっ……お風呂!?」
――まさか、ふ、ふたりで!?
楪が笑みを浮かべる。その笑みはどこか意味深に思えて、睡蓮は身を固くした。
――ど、どどどどうしよう。結婚しているんだからこういうことはふつうなのかもしれないけど……でも!
いきなり過ぎて、心がぜんぜん追い付かない。
だって、桔梗が楪だと知ったのも、その楪に告白されたのも、ついさっきのことなのだ。心構えしろというほうが無理である。
しかし、ときは待ってくれない。
睡蓮が脳内でぐるぐる考えているそのあいだにも、楪はどんどん風呂場へ歩いていく。とうとう脱衣所につき、楪はゆっくり睡蓮を下ろす。
そして、睡蓮の帯に手をかけた。
「!!」
その瞬間、睡蓮はさらに石のようにかちこちになった。
「……っく」
石と化した睡蓮を見下ろして、楪がわずかに声を漏らした。
「……?」
睡蓮が顔を上げると、楪は目に涙をためて、肩を揺らしている。そして、言った。
「まさか、一緒に入ると思いました?」
「えっ……」
違うの!? と、睡蓮は心の中でつっこむ。
「可愛いなぁ、睡蓮は」
「…………」
どうやら、睡蓮の早とちりだったようだ。
「もちろん俺はぜんぜん嬉しいけど。……どうする? 一緒に入る?」
不意に、砕けた口調で楪が訊く。
「なっ……は、入りません!」
勘違いだと気付いた睡蓮は、全身の体温が急激に上昇するのを感じた。さっきから熱くなったり冷えたりと忙しい。
「そう? 残念」
「ざ……残念って……」
「冗談ですってば、もう。ふっ……くく」
楪が堪えきれなくなったように笑う。
――もう、なにこれ。恥ずかし過ぎる。
恥ずかしさになにも言えず、俯いていると、笑いをやめた楪がふぅ、と息を吐く。
「……さて。これ以上からかったらさすがにきらわれてしまいそうですね」
なにを今さら、と思うが、言えない。睡蓮はただじっと楪を睨んだ。口には出せないけれど、伝われ、と思って。
しかし、楪は相変わらず涼しい顔だ。悔しい。
「……睡蓮。ここからは、ひとりで大丈夫ですか?」
「……はい」
睡蓮は少しだけむくれながらも頷いた。楪が苦笑する。
「では、風呂から上がったら、ここの廊下をまっすぐ左手に進んでください。俺は座敷にいますので」
そう言って、楪は出ていく。
睡蓮は楪が出ていくと、その場にしゃがんで悶絶した。
――はっ……恥ずか死ぬーっ!!
しばらく悶絶してから、睡蓮はお風呂へ入った。豪華な露天風呂だ。見上げれば、黄金色の月が見える。
白い湯気の中、睡蓮はふうっと息を吐く。
今日一日、いろんなことが起こり過ぎて、睡蓮の頭の中はぱんぱんだ。
本当なら今頃、睡蓮はこの世から消えているはずだったのに。
どういうわけか睡蓮は今、大好きなひとに愛されている。
それだけじゃない。紅という親友までできて、こんな立派なお屋敷に招かれて、極上の露天風呂に浸かっている。
――ぜいたく……。
目の下まで湯船に浸かり、細く息を吐くと、ぶくぶくと泡が目の前に浮かび上がっては弾ける。
あたたかいお湯は、睡蓮の疲れ切った身体に優しく沁みた。