身体をちぢこませ、ぎゅっと目を閉じる睡蓮に、楪が声をかける。
「睡蓮。目を開けて」
 まるで子猫に問いかけるような優しい声に、睡蓮はおそるおそる片目を開ける。
 その目に映ったのは、まるで未明の濃紺色と薄明の桃色がとろりと混ざり合ったような、神秘的な空だった。
「わっ……」
 ――きれい。
 見事な景色に、睡蓮は息を呑む。
「こんな空、見たことない……」
 睡蓮の視界の中には、余計なものはなにもない。
 花も、鳥も、家も、ひとも。けれど、それがかえって空の美しさを引き立てている……が。
「あの、楪さま。いったいどこへ……」
 向かっているのですか、と訊ねようとする睡蓮に、楪は意味深に口角を上げる。
「着いてからのお楽しみです」
 睡蓮はそれ以上は聞かずに、不思議な色をした空を眺めていた。
 そうして辿り着いたのは、天空にそびえる荘厳な城だった。
 雲の上に建つその城の周囲は、さっきまでのなにもない空間ではなく、みずみずしい草花に彩られている。
 漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の白壁は目に鮮やかで、いぶし瓦は太陽の光を受けて銀色に輝いている。
 大きな門扉の周りには柳の木が植えられ、さわさわと優しい風に揺れていた。
「ここ……」
「ここは、現人神の社です」
「やしろ?」
 つまり楪の家、ということだろうか。
「行きましょう」
 楪は睡蓮を下ろすと、そのまま睡蓮の手を引いて門扉をくぐる。睡蓮は大人しくあとに続いた。
 中には、美しく手入れされた庭があった。
 植えられている和花は鮮やかに咲き、紅葉はみずみずしい葉を茂らせている。松の影が落ちる池には生き物の姿はないものの、その代わり、池をとり囲む石についた苔の緑を美しく水面に映していた。
「すごい……」
「これからあなたは、ここで俺と暮らすことになります」
「えっ! あの、前に住まわせてもらった家では」
「あれは別邸ですから。ここが本家。ここには、現人神である俺と、俺が妖力で生み出した人形(ひとかた)しかいません。基本的にここに入ることができるのは、現人神が認めた者だけです」
 特別、と言われたようで、嬉しさが込み上げてくる。紅や楪にもらったあたたかな感情たちに胸がいっぱいになっていると、ふと大切なことを思い出す。
 まだ、紅のお礼を言えていなかった。
「あの……楪さま。紅のこと、私の護衛にしてくれて本当にありがとうございます。それから……ずっと紅のこと隠していてすみませんでした」
「俺もじぶんを偽っていたのだから、お互いさまですよ。……それに、睡蓮にあんな不安な顔はもうさせたくないですからね」
 睡蓮は困惑する。
「……私、そんな不安な顔してましたか?」
「まぁ、そうですね……夫が妬いてしまうくらいには?」
 楪がいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「う……」
 睡蓮はどぎまぎしながら、瞬きを繰り返した。楪にまっすぐ見つめられると、どうも落ち着かない。
 すると頭上から、ふっとかすかな笑い声が降ってきた。
 顔を上げると、
「冗談ですよ。……彼女については、睡蓮がずいぶん信頼しているようでしたし……彼女が相談に来たあと、すぐに桃李が素性をすべて調べましたからね。心配はしていませんでした。それにしても……本当に彼女のこと、信頼しているんですね」
「紅は、私に初めてできた親友、ですから」
 楪が柔らかく笑う。どうにも気恥ずかしくなって、睡蓮は話を変えた。
「……そうだ。ところで楪さまは、私と契約結婚していたとき、ずっとこのお社に?」
「はい。ここは唯一、俺の心の休まる場所です」
「そんな大切な場所なのに、いいんですか?」
 私なんかが、と続ける前に、楪が言う。
「あなたと出会って、少し心境が変わったんです」
「心境?」
「……その、睡蓮とは、片時も離れたくないな……と。睡蓮がいやでなければ、ここで一緒に暮らしたい」
「いやだなんてそんな……嬉しいです。ただ、私なんかがこんな特別な場所に来てしまっていいのかなっていう不安はやっぱりありますけど」
 ……と、未だにこの状況を信じられず、おどおどとする睡蓮に、楪は柔らかな笑みを浮かべる。
「当たり前です。あなたは俺の、唯一無二の花嫁なんですから。……俺は、あなたに出会って恋をして……ずいぶん変わりました」
 ひとに興味が湧いた。
 ひとを信頼できるようになった。
 愛されることを心地良いと思えた。
 愛したいと思った。
 ……強く。
 そう、楪は目を細めながら、しみじみと語る。
「ぜんぶあなたのおかげです」
「……そんなことありませんよ」
 睡蓮はくすぐったい気持ちになった。
「ねぇ、睡蓮」
 楪が睡蓮の名を呼ぶ。楪が砕けた口調で話しかけてくるのはまだ慣れなくてどきどきする。
「は……はい。なんですか」
 どきどきしながら楪を見上げる。
「楪、と呼んでくれませんか」
「えっ」
「俺は、あなたの前では現人神でなく、ただの俺でありたいんです」
 まっすぐな眼差しに、睡蓮は息を呑む。
「睡蓮」
 もじもじしていると、楪が優しく催促する。
「ゆ、ずりは……さん」
 勇気を出して名前を呼ぶと、楪は嬉しそうに頬を緩め、睡蓮を抱き寄せた。
「あ、あの……?」
 少し強引だったが、触れかたは優しい。ただ、恥ずかしさで息が止まりそうになった。
 楪はさらに無茶を言う。
「……もういっかい」
「えっ!?」
 耳元で、まさかのおかわり。
「は、恥ずかしいです」
 拒む睡蓮にも、楪は譲らない。
「大丈夫。ここには俺しかいない。俺しか聞いてないから」
「そ、そういう問題では……」
 ないのだが。
「……お願いします。もういっかいだけ」
 楪は言いながら、睡蓮の肩に顔をうずめる。首筋に楪の滑らかな銀髪が流れてくすぐったい。声が漏れそうになる。
「呼んでくれるまで離しませんから」
「!?」
 とうとう子どものようなことを言い出す楪に、睡蓮は軽く絶望する。
「……楪さん」
 仕方なく恥ずかしさをこらえ、もう一度名前を呼んだ。
「……うん、睡蓮」
「く、くすぐったいです……」
「ごめん」
 くすぐったいけど、いやじゃない。
 恥ずかしいけど、嬉しい。
 こんな気持ちは初めてだ。
 ただ名前を呼ぶだけのことが、こんなにも恥ずかしくて幸せだなんて、睡蓮は知らなかった。