昔からソレが見えた。
初めて見たのは四歳のころだったと思う。母に連れられていった近所の公園。そこのベンチに座ってぼおっとあたりを見渡すおばあさん。
ソレはその傍らに立っていた。
いや、傍らというのは違う。ソレはおばあさんの目の前でおばあさんを見下ろしていた。立ち位置的におばあさんにもソレが見えているはずだったが、おばあさんは気にするそぶりもなく、ソレを含めた公園の風景を眺めていた。
どうやらおばあさんにはソレが見えていないようだった。
シルクハットにタキシード。一昔前の英国紳士のようなソレの姿はあまりおぞましいものとは言えなかったが、見慣れないその風貌は幼い私に漠然とした恐怖をおぼえさせた。
ふとソレがこっちを向いた。目が合ったソレの顔を僕はよく覚えていない。ソレは私が"見えている"と分かると、こちらに向かって腕を振り回して走ってくる。
私は一心不乱に逃げた。ただ走った。
バフッ。
だが必死に逃げるのもむなしく、私は捕まったのだった。
「ちょっと! 勝手にどっか行っちゃだめでしょ!?」
私を捕まえたのが母だと分かったとき、どれだけ安心したことか。
そして、その数日後。公園で見たおばあさんが亡くなったと聞いたとき、ソレがいわゆる「死神」だったんだと分かった。
それから二十年の間。多くの死神を見た。だが、その全てに対して私は見えていないフリをしてきた。それが自分を守る最善の策であったからだ。
慣れとは怖いもので、二十年も経てばあいつらも怖くなくなる。結局は他人みたいなもので、見えていても簡単にスルーできる。
「あぁ、あいつも死ぬんだな」
最近はただ淡々とそんなことをつぶやけるようになった。
さぁ、ここで本題に入ろう。
今、私の前に死神がいる。死神の世界に年齢という概念があるのか分からないが、この世界の基準で言えば三十代前半の男性といった感じだろう。衣装はおなじみの英国紳士風。
いつもと違うのは、そいつが誰に追従するわけでもなくただじっと目の前に立っていること。
私は思わず、死神をじっと見てしまった。
「おや?」
ふと、死神が首をかしげた。
私は心の中で「しまった」とつぶやく。
「ほうほう。これは面白い。見えているんだろう? この私が」
死神がそう言うと、私は諦めたように小さくため息をついた。
「ずいぶん長いことこの仕事をやってきたが、死神が見えている人間に会うのは初めてだ。どうかな? 少し話そうではないか」
私はもう一度、今度は深くため息をついた。
〇
「あなたたちも普通に話すんですね」
死神とともに訪れた公園。そのベンチのうちひとつに腰かけ、私はそう言った。
「そりゃあ話せるさ。ただこちらの世界で話す相手がいないというだけで。私なんかはわりと無口なほうなんじゃないかな」
死神はそう言いながらおおらかに笑った。正直なところ、私は拍子抜けだった。避けて、見ないで。ときには恐れもした死神と、私は今こうして雑談にふけっている。
そんな妙ちくりんな感覚と死神のなんとも言えない親しみやすさにほだされて、私は死神と数十分ほどとりとめのない会話を繰り広げた。そしてそのさなか、私が幼少期に死神に追いかけられたこととそれから自分がどう生きてきたかを話していたのである。
「ふむ……なるほど」
死神は一瞬、私の言葉を聞いて表情を曇らせた。しかしそれもつかの間のこと。死神はぷっと吹き出して今日一番の大笑いをしたのだった。
「それはそれは大変だったことだろう。だが許しておくれ。彼にも悪気があったわけではないんだよ」
「どういうことです?」
私が死神に問いかけると、彼はかぶっていたシルクハットを外して膝の上に置き、右手の人差し指でその縁をなぞった。
「そもそも我々の仕事はね、死ぬタイミングが近い人間のそばにいき、いざその瞬間になったとき、魂をちゃんと送り届けるというものなんだよ」
「送り届ける?」
「そう。死後に体から抜け出た魂を他の悪しきものたちに持ち去られる前に送り届ける。まぁ「死」にとりつくわけだから「死神」と呼ばれても差しつかえないが、我々は決して人間に危害を加えたいとは思っていないよ」
この話を聞いたとき、私はなんだか申し訳ない気持ちになった。今まで私が考えていたことは上辺だけで考察した偏った持論だったのだと。
「じゃあ……なぜあいつは……」
「私と同じように、キミと話したかったんじゃないかな。さっきも言ったように、我々が見える人間は稀だからね」
死神はそう言うと、シルクハットをかぶり直しながら立ち上がる。
「少ししゃべりすぎたね。ここらへんでおひらきにしようか」
「ちょっと待ってください。あなたが現れたということは私ももうすぐ死ぬんでしょうか」
この場から立ち去ろうとする死神に向かって、私はそう問いかけた。死神は少し首を傾けて微笑んだあとこう答えた。
「我々が召喚されるのはあくまで死ぬ”タイミング”が近い人間だ。だから運よくそれを回避する人間もいる。現にキミは私と話すという選択をしたことでいったんは無事に済んだようだよ」
「いったんということは……これからもタイミングはあるということですか?」
「そうだね」
「じゃあ、私はそれをどう回避したらよいのでしょう」
死神は変わらない微笑みのまま、私に向かって最後にこう残した。
「今を大切に、楽しく生きることだ。いつだって、自分がこうしたいと思ってすることがキミにとって正解であることに変わりはない。人に流されず、群れの羊のままではなく、自分の心のままにね。こんどキミに会うときは、キミが悔いなき人生を送ったあとにしよう」
次にまばたきしたとき、死神はうっすらとした黒い煙を残し消えた。
そしてその煙も風に乗ってどこかへと消えていく。
私はその光景を娘や孫に囲まれた病床の上で静かに思い出していた。
初めて見たのは四歳のころだったと思う。母に連れられていった近所の公園。そこのベンチに座ってぼおっとあたりを見渡すおばあさん。
ソレはその傍らに立っていた。
いや、傍らというのは違う。ソレはおばあさんの目の前でおばあさんを見下ろしていた。立ち位置的におばあさんにもソレが見えているはずだったが、おばあさんは気にするそぶりもなく、ソレを含めた公園の風景を眺めていた。
どうやらおばあさんにはソレが見えていないようだった。
シルクハットにタキシード。一昔前の英国紳士のようなソレの姿はあまりおぞましいものとは言えなかったが、見慣れないその風貌は幼い私に漠然とした恐怖をおぼえさせた。
ふとソレがこっちを向いた。目が合ったソレの顔を僕はよく覚えていない。ソレは私が"見えている"と分かると、こちらに向かって腕を振り回して走ってくる。
私は一心不乱に逃げた。ただ走った。
バフッ。
だが必死に逃げるのもむなしく、私は捕まったのだった。
「ちょっと! 勝手にどっか行っちゃだめでしょ!?」
私を捕まえたのが母だと分かったとき、どれだけ安心したことか。
そして、その数日後。公園で見たおばあさんが亡くなったと聞いたとき、ソレがいわゆる「死神」だったんだと分かった。
それから二十年の間。多くの死神を見た。だが、その全てに対して私は見えていないフリをしてきた。それが自分を守る最善の策であったからだ。
慣れとは怖いもので、二十年も経てばあいつらも怖くなくなる。結局は他人みたいなもので、見えていても簡単にスルーできる。
「あぁ、あいつも死ぬんだな」
最近はただ淡々とそんなことをつぶやけるようになった。
さぁ、ここで本題に入ろう。
今、私の前に死神がいる。死神の世界に年齢という概念があるのか分からないが、この世界の基準で言えば三十代前半の男性といった感じだろう。衣装はおなじみの英国紳士風。
いつもと違うのは、そいつが誰に追従するわけでもなくただじっと目の前に立っていること。
私は思わず、死神をじっと見てしまった。
「おや?」
ふと、死神が首をかしげた。
私は心の中で「しまった」とつぶやく。
「ほうほう。これは面白い。見えているんだろう? この私が」
死神がそう言うと、私は諦めたように小さくため息をついた。
「ずいぶん長いことこの仕事をやってきたが、死神が見えている人間に会うのは初めてだ。どうかな? 少し話そうではないか」
私はもう一度、今度は深くため息をついた。
〇
「あなたたちも普通に話すんですね」
死神とともに訪れた公園。そのベンチのうちひとつに腰かけ、私はそう言った。
「そりゃあ話せるさ。ただこちらの世界で話す相手がいないというだけで。私なんかはわりと無口なほうなんじゃないかな」
死神はそう言いながらおおらかに笑った。正直なところ、私は拍子抜けだった。避けて、見ないで。ときには恐れもした死神と、私は今こうして雑談にふけっている。
そんな妙ちくりんな感覚と死神のなんとも言えない親しみやすさにほだされて、私は死神と数十分ほどとりとめのない会話を繰り広げた。そしてそのさなか、私が幼少期に死神に追いかけられたこととそれから自分がどう生きてきたかを話していたのである。
「ふむ……なるほど」
死神は一瞬、私の言葉を聞いて表情を曇らせた。しかしそれもつかの間のこと。死神はぷっと吹き出して今日一番の大笑いをしたのだった。
「それはそれは大変だったことだろう。だが許しておくれ。彼にも悪気があったわけではないんだよ」
「どういうことです?」
私が死神に問いかけると、彼はかぶっていたシルクハットを外して膝の上に置き、右手の人差し指でその縁をなぞった。
「そもそも我々の仕事はね、死ぬタイミングが近い人間のそばにいき、いざその瞬間になったとき、魂をちゃんと送り届けるというものなんだよ」
「送り届ける?」
「そう。死後に体から抜け出た魂を他の悪しきものたちに持ち去られる前に送り届ける。まぁ「死」にとりつくわけだから「死神」と呼ばれても差しつかえないが、我々は決して人間に危害を加えたいとは思っていないよ」
この話を聞いたとき、私はなんだか申し訳ない気持ちになった。今まで私が考えていたことは上辺だけで考察した偏った持論だったのだと。
「じゃあ……なぜあいつは……」
「私と同じように、キミと話したかったんじゃないかな。さっきも言ったように、我々が見える人間は稀だからね」
死神はそう言うと、シルクハットをかぶり直しながら立ち上がる。
「少ししゃべりすぎたね。ここらへんでおひらきにしようか」
「ちょっと待ってください。あなたが現れたということは私ももうすぐ死ぬんでしょうか」
この場から立ち去ろうとする死神に向かって、私はそう問いかけた。死神は少し首を傾けて微笑んだあとこう答えた。
「我々が召喚されるのはあくまで死ぬ”タイミング”が近い人間だ。だから運よくそれを回避する人間もいる。現にキミは私と話すという選択をしたことでいったんは無事に済んだようだよ」
「いったんということは……これからもタイミングはあるということですか?」
「そうだね」
「じゃあ、私はそれをどう回避したらよいのでしょう」
死神は変わらない微笑みのまま、私に向かって最後にこう残した。
「今を大切に、楽しく生きることだ。いつだって、自分がこうしたいと思ってすることがキミにとって正解であることに変わりはない。人に流されず、群れの羊のままではなく、自分の心のままにね。こんどキミに会うときは、キミが悔いなき人生を送ったあとにしよう」
次にまばたきしたとき、死神はうっすらとした黒い煙を残し消えた。
そしてその煙も風に乗ってどこかへと消えていく。
私はその光景を娘や孫に囲まれた病床の上で静かに思い出していた。