翌日、朝餉を乗せた配膳台車を押しながら、朱璃は廊下をとぼとぼ歩いていた。
 その目の下にはくっきりと寝不足の痕が刻まれている。
 昨夜の出来事が頭から離れず、眠ろうとすればするほど鮮明に思い出されてしまった。
 蓮の香に包まれながら、キツく抱きしめられた時の感覚。
 それが朝まで残っていたのだから、眠れなかったのも無理はない。
 しかし仕事は疎かにできない。朱璃は何度も気を引き締め直し、伯蓮の部屋の扉を開けた。

「……失礼いたします」

 朱璃が恐る恐る顔を上げると、起床直後の伯蓮が眠そうに目を閉じて椅子に座り、傍らには背筋を伸ばした関韋が困った様子で控えていた。
 しかし朱璃の声に気がついた途端、伯蓮はパッと目を開けて立ち上がる。
 そして朱璃の元に近づいて、花が舞うような柔らかい笑顔を咲かせた。

「朱璃、おはよう」
「お、おはようございます」
「昨夜はよく眠れたか?」
「は、はい……」

 いつも通りの伯蓮の態度に、少し安堵した朱璃がにこりと返事をした。
 しかし朱璃の顔がよく眠れたようには見えなかった伯蓮が、そっと手を伸ばしてくる。
 朱璃の目元を親指でスッと優しくなぞると、心配そうに声をかけた。

「嘘だな。あまり眠れていないだろう」

 見破られた上に突然の接触が合わさって、朱璃の心臓の鼓動は一気に加速する。
 いつも通りだと思っていたけれど、いつにも増して距離の詰め方が早い。
 それだけでなく、伯蓮から注がれる視線は以前より熱を帯びているよう。
 初心な朱璃は慣れないことの連続で戸惑うばかりだった。

「あ、朝餉の準備をいたしますね」

 料理が盛られた皿を円卓に並べていく朱璃の手が、変な緊張で震えてしまう。
 その間、関韋は伯蓮に業務連絡をはじめた。

「尚華妃の謹慎の件は三省に周知済みです」
「ご苦労。あとは豪子からの抗議を待つのみだな」

 三省とは、政治機関の重要な三本柱。皇帝の補佐的存在の宰相とは別の、法案を審査したり行政化したりする機関。
 しかし朱璃は、尚華の謹慎という言葉に一番の衝撃を受けて、朝餉の準備に勤しむ手が止まる。

「伯蓮様に薬を盛ったにもかかわらず謹慎のみとは、少々ぬるい気もしますが」
「尚華妃は餌だ。親玉を表舞台に出させるための」

 伯蓮と関韋の会話内容は、おそらく自分が捕らわれている間にあった出来事。
 そう思った朱璃が、目が飛び出るくらい大きく見開きながら伯蓮に尋ねた。

「尚華妃に薬を盛られたのですか⁉︎」
「あ、ああ。すまぬ、朱璃には言ってなかったな」
「そんな、今はもう大丈夫なんですか⁉︎ どこかお辛いところは……」

 勢いの凄まじい質問責めに、伯蓮も少し押され気味で戸惑っていた。
 その助け舟のつもりで、関韋がわかりやすく詳細を語りはじめる。

「薬といっても体に害はないものです」
「え……そうですか、良かったです……」

 説明を聞いて心底安心した朱璃が、胸を押さえて口元を緩ませた。
 ただ、真面目すぎる関韋が必要以上の情報まで口にする。

「服薬直後は動悸と発汗で、体が燃えるように熱くなったようですが」
「え! それは本当に大丈夫なのですが⁉︎」

 とんでもない症状を知り、朱璃は伯蓮の体を上から下まで視線を配って心配した。

「大丈夫です。何せその薬は催淫――」
「関韋!!」

 慌てて関韋の口を塞いだ伯蓮は、なぜか顔を紅潮させる。
 薬に詳しくない朱璃は、キョトンとした表情で首を傾げていた。
 その様子に、伯蓮がほっと肩を撫で下ろす。
 催淫薬を飲まされたなんて、できれば朱璃に知られたくない。
 伯蓮は容赦なく関韋を睨むと、その圧を感じ取りつつも悪びれもない様子。
 そして関韋はぺこりと頭を下げるのだから、なんとも肝が据わった侍従だと思った。

「そんなに辛いお体で私を助けに来てくれたんですね……」

 体の不調を抱えながらも、伯蓮は助けに来てくれた。
 感動と感謝の思いが溢れてきた朱璃は、その懐の深さにじんわりと胸を熱くさせる。

「も、もういいのだ。朱璃が監禁されたのは私のせいでもあるのだし」
「帰り道もずっと抱えてくださって……」
「当然のことだ。朱璃が気にすることではない」

 伯蓮は変わらず、優しい瞳と柔らかな声で朱璃を気にかけた。
 文句も言わず疲れも見せない姿に、朱璃が言葉を失っていたとき。
 いつもと様子が違う、胸の鼓動を感じていた。

「朱璃殿、朝餉の準備は整いましたか?」
「……あ、お待たせしました! どうぞ召し上がってください!」

 関韋の声かけに我に返った朱璃は、慌てて朝餉の準備完了を告げた。
 邪魔にならない部屋の隅で待機すると、伯蓮がニコリと微笑んで「いただきます」と食事を開始する。
 相変わらず綺麗な作法で皿と箸を持ち、静かに咀嚼する伯蓮。
 その姿をじっと見つめているだけで呼吸は浅く、鼓動はますます加速していく。

 *

 朝餉を終えると、伯蓮は毎日鍛錬場に向かって体を動かしている。
 その間、執務室を清掃する朱璃は、遊びにやってきた三々に相談した。
 伯蓮を眺めたり会話をしていたりすると、自分の身に起こってしまう変化を。
 すると三々は、あっけらかんとして言い放つ。

「それは恋だな」
「え⁉︎ ケホ……ケホ!」

 埃を吸ってしまったのか、掃除中の朱璃が大袈裟に咳き込む。
 それを気に留めない三々が、やっと動き出した二人の関係をまとめはじめた。

「昨夜、伯蓮に“妃になればいい”と言われた」
「冗談だったかもしれないけど」
「伯蓮の心臓の音を聞いたら、めちゃくちゃ速かった」
「……たまたまかも」

 三々に改めて尋ねられると、冷静に“じゃない方”を考えられた。
 やはり勘違いの可能性が大きい気がして、朱璃は三々に話したことを少し後悔する。

「伯蓮を見ているとドキドキする、抱きしめられた感覚が忘れられない」
「う……声に出されると恥ずかしい」

 熱を帯びた頬を両手で包み込む朱璃は、慣れない話に眉を下げた。
 それらを総合的に判断した三々は、確信を持って朱璃をじっと見つめる。

「二人とも、恋だな」
「やめてよー!」

 朱璃はとうとう耐えきれなくなって、床に手をついて崩れ落ちた。
 生まれて十七年、恋とは無縁に生きてきたし、後宮で働く自分には関係ない話だと思っていた。
 ましてやお相手は皇太子。許される相手ではないことだけは、朱璃が一番よくわかっている。

「朱璃も伯蓮も好き同士なら良いじゃん」
「良くないよ! 私は侍女で、伯蓮様は皇太子! 身分が全然違うのーっ」
「じゃあ妃になれば?」

 それで問題は解決すると思って、三々は悪びれもなく朱璃が妃になることを勧めた。

「……そんな簡単に言わないで、私には荷が重すぎるよ」

 特別美しいわけでも、楽器や舞の才能があるわけでもない。
 そんな人間が突然妃になっても、誰にも認めてもらえない。
 朱璃は、そんなことになってしまうと伯蓮の評価を下げると思った。
 表情に影が落ちた朱璃を気遣って、三々は励ますように説明する。

「朱璃を妃に指名するなんざ、伯蓮なら簡単だろ。それをしないのはなぜだと思う?」
「え……と。本気ではないから……?」
「伯蓮が不憫だな。朱璃の気持ちを尊重しているからに決まってんだろ」

 言いながら、三々は呆れたため息を漏らす。
 皇太子なのだから、朱璃を妃にするなんてことは簡単なはず。
 そうしないのは、朱璃が何よりも大切で嫌われたくないからだと、三々にも理解できた。

「てことで、俺は伯蓮を応援するぜ」
「ええ……⁉︎」

 高貴な身分でありながら、朱璃のような優しい人間を大切に思う。
 そんな伯蓮の恋が叶うことを三々は望んだが、ますます困惑する朱璃は、でもだってを繰り返していた。
 そのとき、微かに執務室に近づいてくる足音に気づいて、三々が声を上げる。

「わ、やべ!」
「え?」

 突然、窓の外へと飛んで行ってしまった三々に、朱璃が唖然とする。
 同時に執務室の扉が開いて、神妙な面持ちの伯蓮が入ってきた。

「あ、伯蓮様! おかえりなさいませ」
「朱璃、清掃中か?」
「はい。もうすぐ終わりますので」

 少し息を切らし慌てた様子の伯蓮。その額には汗が滲み出ていた。
 なんとも色っぽく魅力的な姿に、朱璃の心臓が大きく反応する。
 しかし黙って眺めるわけにもいかないので、すぐに巾を用意した。

「これをどうぞ」
「ああ、ありがとう」

 受け取った伯蓮は牀に腰掛けて汗を拭き取る。そんな姿もまた美しくて、眩しさを感じた朱璃が後退りしそうになった。
 ただ 朝餉の時とは打って変わって、伯蓮には緊張感が漂っていた。
 それが気掛かりとなり、朱璃は尋ねてみた。

「何か、あったのですか?」
「……先ほど従者がやってきた。これから豪子と会ってくる」

 謹慎中の尚華の件で、ついに豪子から連絡があったという。
 待ちに待った最終決戦前だというのに、伯蓮の表情は少し不安な表情を浮かべていた。
 朱璃から受け取った巾も握りしめたまま、じっと床に視線を落とす。

(……伯蓮様、緊張しているんだ……)

 朱璃は昨夜、宰相の豪子が陰謀を企てていることを初めて知った。
 それを阻止するため、伯蓮と貂々が各々動いていたということも。
 いずれ政権を乗っ取ろうとしている豪子を、このまま野放しにはできない。
 その事情を理解している朱璃は、両手に拳を作って伯蓮を励ました。

「きっと大丈夫です! 全てうまくいきます!」

 なんの根拠もなければ自信もない。けれど、朱璃はどんなことがあっても伯蓮の味方であることは変わりない。
 それに貂々の正体は十代皇帝の鮑泉。彼も豪子の陰謀を阻止するために、暗躍していた。
 伯蓮は正しい。正しい者には、必ず明るい未来が待っていることを、朱璃は信じている。

「……はは、朱璃に言われると、不思議と力が湧いてくるな」
「そ、そうですか?」
「ああ、本当に……」

 不安げだった伯蓮の顔から、ふっと力が抜けていく。
 いつもの優しい笑みを浮かべて、朱璃に感謝の念を抱いていた時。
 互いに目を離す機会を失い、見つめ合ったまま緊張した空気が流れていく。
 さらには、三々の“恋だな”という言葉も蘇ってきて、朱璃は変に意識してしまう。
 心臓が慌ただしく大きな音を鳴らして、収まる気配もなく頬が熱くなる。
 すると、朱璃の異変に気付いたのか、伯蓮が呟くように話しはじめた。

「……豪子の件が、無事に終わったら」
「え……?」
「朱璃に伝えたいことがある」

 真摯な態度と熱意のこもった伯蓮の眼差しは、朱璃に息の仕方を忘れさせた。
 伯蓮が朱璃に伝えたいこと。それは豪子の件が無事に終われば明かされる。
 しかし今の朱璃は、その言葉を聞いて期待せずにはいられなかった。

「……わ、わかりました」

 朱璃はギュッと喉に力を入れながら、なんとか返事をする。
 その間も、心臓の鼓動が激しく波打ちどうにも収まらなかった。
 それは伯蓮に恋をしているのかもしれないと、ついに自分を疑いはじめてしまったから。

(私なんかが皇太子様に恋をするなんて、いったいどうしちゃったの……⁉︎)

 今まで認めるわけにはいかないと頑なだったせいか、疑った途端に制御不能になりかける思考。
 どうやって伯蓮と接していたかもわからなくなりそうで、朱璃は頭を抱えた。
 すると伯蓮が笑いながら立ち上がり、朱璃の頬にそっと触れる。

「楽しみだな」
「っ……!」

 挙動不審な朱璃を可愛らしいと思いながら、伯蓮は不敵な笑みを浮かべた。
 無邪気さと確信的な意味を含んだ笑顔が、再び朱璃の鼓動を加速させる。
 これから行われる宰相豪子との最終決戦。
 その陰謀を暴くために、想いを寄せる朱璃から立ち向かう力を分けてもらった。