一週間後——
「最近チョコちゃん見ないね」
「ああ。あの子、うち辞めたんですよ」
「そうなの。看板娘だったのにねえ」
テーブル席。常連の主婦が三人、生ハムやチーズを突きながらワインを飲む。
「ねえねえ知ってる? 最近この辺りをウロウロしてる不審者の男の話」
「なにそれ」
俺は食器を洗いつつ、話半分に耳を傾けていた。
「それがどうも、夜出歩いてる若い女子に片っ端から声をかけてさ、肩掴まれては『違う』って」
「やだ、怖いわね。うちの子最近遊び盛りだし、心配だわ」
「大丈夫よ、おたくの娘さん金髪でショートヘアでしょう? 声かけられる子は決まって、青みがかるくらいの黒髪でロングヘアらしいから」
——思わず、皿を落とす。
「寛治くん大丈夫?」
「あ、いや……すみません」
割れた破片を拾いながら、動悸がした。
その男が探しているのは十中八九、千世子だ。
家に帰ったんじゃなかったのか? いや、だいたい千世子に身寄りがあるようには思えなかったじゃないか。唯一口にした“とわこ”や“ももこ”は姉でも友達でもなく商品だと千世子は言っていた。
なぜ目を瞑った? なぜもっと探さなかった? なぜなかったことにしたんだ、俺は。
ああ……そうだ。理由なんて明白だ。
考えられる心当たりが、俺にあったからだ。
閉店作業を終えた俺は車を走らせた。自宅から約二十分。裏路地に入った先のぼろアパートの前に停車する。
明かりがついていることを確認し、チャイムを鳴らした。
「はい……って、え? うーわ、めっちゃ久しぶりじゃん氷見! どうしたんだよ急に」
「話がある。中に入れろ」
「え? あー、はいはい。でも今ちょっと取り込み中で」
「いいから」
俺は靴も脱がずに無理やり室内に足を踏み入れた。
ヤニの染みついた壁、混ざる甘ったるい香水の臭い。転がる無数のペットボトルにゴミ袋の山。
その先に、ズタボロに傷ついた女の子が二人、肩を寄せ合って震えていた。
「最近噂になってる不審者ってお前か秦野」
「え、俺噂になってんの? 有名人?」
ガハハっ、と下品な笑い声と共に、秦野は室内にいた男二人に目配せした。男の手元の刃物が、座り込む女の子たちに向いている。
「ふざけてる場合じゃない。こんな事して、犯罪だぞ」
「はあ? お前に言われたかねーよ。お前だって現役の頃はこれくらい……いや、これ以上のこと鼻くそほじるみたいに平気でやってただろーが。シロウさんにうまく取り入って、金までもらって足抜けした奴がよ、今更どのツラ下げて来やがった」
「お前、俺と同い年だったよな。いつまでこんな事してんだよ、いい加減目を覚ませ!」
その瞬間、秦野が振り上げたビール瓶がガラステーブルに打ち付けられ、砕け散った。響く、涙まじりの悲鳴。
「うるせえんだよ! ああむかつく。上から目線で説教かよ。大体てめえが抜けてから上手くいかなくなったんだ。シロウさんは組を解体しようなんて寝ぼけちまって、キレたゴロウさんに刺されて死んじまうし、ゴロウさんに代替わりしてからしのぎは更にキツくなって……もう俺らも首まわんねーの」
「シロウさん、死んだのか」
「ああ?! 全部てめえのせいだろ氷見!」
秦野は割れたビール瓶を俺に向けた。
「帰れ。もうここにお前の居場所はないんだ、ほっとけ」
「無理だ。人を探してる。お前らも探してんだろ? 藍色のロングヘアの女の子」
秦野の目つきが変わった。奥の男たちも互いに目を合わせ、ゆっくり立ち上がる。
秦野が突き出したビール瓶を左に避け、腕をロックする。右膝で蹴り上げれば、瓶はあっさり手から落ちた。
「氷見。なんでお前がその女を知ってる」
「説明する義務はない」
互いに距離をとった一瞬の隙で、俺は秦野の左顔面を思い切りぶん殴った。積み上げられたゴミ袋の山に沈む秦野。それを見て、奥の男たちも一斉に向かってくる。
肩を掴み頭突き。怯んでガラ空きになった顎先に下から拳を振り抜けば、男は口から歯を二本吐き出して真後ろに倒れた。
「す、すいません。俺まじでこんな事するつもりなくて……」
後退る、最後の男。ぎゅっと唇を噛み締めたと思えばくるっと振り返り、手を伸ばす。俺はその手が女の子に触れるより先にシャツの襟を掴み、引き寄せた首を腕で締めた。
「早く逃げて。大通りに出れば何とかなるから」
女の子たちは怯えた様子で何度か頷くと、玄関にあったハイヒールを掴み取り部屋を駆け出して行った。
男の腕がだらんと垂れ下がったのを確認して、手を離す。
ゴロウ。そいつの元に行けば、千世子に会える。俺は足元のゴミを蹴飛ばしながら玄関に向かった。
ゴンっ
頭に受けた衝撃で、視界がぐらつく。半開きになる口。舌を噛まないようにその口を閉じたと同時に、目の前がぐるっと暗転した。
「クソ野郎が。てめえは、ゴロウさんへの手土産だ」
「最近チョコちゃん見ないね」
「ああ。あの子、うち辞めたんですよ」
「そうなの。看板娘だったのにねえ」
テーブル席。常連の主婦が三人、生ハムやチーズを突きながらワインを飲む。
「ねえねえ知ってる? 最近この辺りをウロウロしてる不審者の男の話」
「なにそれ」
俺は食器を洗いつつ、話半分に耳を傾けていた。
「それがどうも、夜出歩いてる若い女子に片っ端から声をかけてさ、肩掴まれては『違う』って」
「やだ、怖いわね。うちの子最近遊び盛りだし、心配だわ」
「大丈夫よ、おたくの娘さん金髪でショートヘアでしょう? 声かけられる子は決まって、青みがかるくらいの黒髪でロングヘアらしいから」
——思わず、皿を落とす。
「寛治くん大丈夫?」
「あ、いや……すみません」
割れた破片を拾いながら、動悸がした。
その男が探しているのは十中八九、千世子だ。
家に帰ったんじゃなかったのか? いや、だいたい千世子に身寄りがあるようには思えなかったじゃないか。唯一口にした“とわこ”や“ももこ”は姉でも友達でもなく商品だと千世子は言っていた。
なぜ目を瞑った? なぜもっと探さなかった? なぜなかったことにしたんだ、俺は。
ああ……そうだ。理由なんて明白だ。
考えられる心当たりが、俺にあったからだ。
閉店作業を終えた俺は車を走らせた。自宅から約二十分。裏路地に入った先のぼろアパートの前に停車する。
明かりがついていることを確認し、チャイムを鳴らした。
「はい……って、え? うーわ、めっちゃ久しぶりじゃん氷見! どうしたんだよ急に」
「話がある。中に入れろ」
「え? あー、はいはい。でも今ちょっと取り込み中で」
「いいから」
俺は靴も脱がずに無理やり室内に足を踏み入れた。
ヤニの染みついた壁、混ざる甘ったるい香水の臭い。転がる無数のペットボトルにゴミ袋の山。
その先に、ズタボロに傷ついた女の子が二人、肩を寄せ合って震えていた。
「最近噂になってる不審者ってお前か秦野」
「え、俺噂になってんの? 有名人?」
ガハハっ、と下品な笑い声と共に、秦野は室内にいた男二人に目配せした。男の手元の刃物が、座り込む女の子たちに向いている。
「ふざけてる場合じゃない。こんな事して、犯罪だぞ」
「はあ? お前に言われたかねーよ。お前だって現役の頃はこれくらい……いや、これ以上のこと鼻くそほじるみたいに平気でやってただろーが。シロウさんにうまく取り入って、金までもらって足抜けした奴がよ、今更どのツラ下げて来やがった」
「お前、俺と同い年だったよな。いつまでこんな事してんだよ、いい加減目を覚ませ!」
その瞬間、秦野が振り上げたビール瓶がガラステーブルに打ち付けられ、砕け散った。響く、涙まじりの悲鳴。
「うるせえんだよ! ああむかつく。上から目線で説教かよ。大体てめえが抜けてから上手くいかなくなったんだ。シロウさんは組を解体しようなんて寝ぼけちまって、キレたゴロウさんに刺されて死んじまうし、ゴロウさんに代替わりしてからしのぎは更にキツくなって……もう俺らも首まわんねーの」
「シロウさん、死んだのか」
「ああ?! 全部てめえのせいだろ氷見!」
秦野は割れたビール瓶を俺に向けた。
「帰れ。もうここにお前の居場所はないんだ、ほっとけ」
「無理だ。人を探してる。お前らも探してんだろ? 藍色のロングヘアの女の子」
秦野の目つきが変わった。奥の男たちも互いに目を合わせ、ゆっくり立ち上がる。
秦野が突き出したビール瓶を左に避け、腕をロックする。右膝で蹴り上げれば、瓶はあっさり手から落ちた。
「氷見。なんでお前がその女を知ってる」
「説明する義務はない」
互いに距離をとった一瞬の隙で、俺は秦野の左顔面を思い切りぶん殴った。積み上げられたゴミ袋の山に沈む秦野。それを見て、奥の男たちも一斉に向かってくる。
肩を掴み頭突き。怯んでガラ空きになった顎先に下から拳を振り抜けば、男は口から歯を二本吐き出して真後ろに倒れた。
「す、すいません。俺まじでこんな事するつもりなくて……」
後退る、最後の男。ぎゅっと唇を噛み締めたと思えばくるっと振り返り、手を伸ばす。俺はその手が女の子に触れるより先にシャツの襟を掴み、引き寄せた首を腕で締めた。
「早く逃げて。大通りに出れば何とかなるから」
女の子たちは怯えた様子で何度か頷くと、玄関にあったハイヒールを掴み取り部屋を駆け出して行った。
男の腕がだらんと垂れ下がったのを確認して、手を離す。
ゴロウ。そいつの元に行けば、千世子に会える。俺は足元のゴミを蹴飛ばしながら玄関に向かった。
ゴンっ
頭に受けた衝撃で、視界がぐらつく。半開きになる口。舌を噛まないようにその口を閉じたと同時に、目の前がぐるっと暗転した。
「クソ野郎が。てめえは、ゴロウさんへの手土産だ」