どうして千世子をそばに置いているのか。

 独り身でもの寂しかったから? 千世子の容姿に惹かれたから? 境遇に興味を持ったから?

 理由なんてたくさんあった。でもそれを詳しく探ることに、俺はずっと二の足を踏んでいる。

「千世子が、いい子だからだよ」

 身体を洗う用のスポンジを泡立てながら俺は言った。その答えに、千世子の肩はピクリと反応する。こちらを振り返るように右へと向いた横顔。それと一緒に、千世子は右手を差し出した。

「ひみかんじ」
「ん?」
「からだ、洗う」
「うん」

 俺は泡立てたスポンジをその手に置いた。小さな手から溢れんばかりの泡を眺める千世子のまつ毛が、キラキラ光る。

 あと何度、こうして彼女の髪を洗えるだろう。
 そんなことを考えながら浴室を出れば、数分後には下着を身につけた千世子が脱衣所から出てきた。

「服も着て来いって」
「ひみかんじ、あれ歌って」
「あれって、また? 俺、苦手なんだよな」
「ききたい。歌って」

 服を着せ、濡れた髪をタオルで丁寧に拭きながら、遠慮がちに口ずさむ。
 
 その歌は某チャリティ番組で長距離マラソンを必死に走る人に贈られる、応援歌。女性の歌でキーも高いし、正直サビ以外よく分からない。

「へたくそ」
「悪かったな。自分で歌ったら?」
「歌うと、涙出る。とわこが泣く」
「とわこ?」
「とわこが走れ言った。だから走った」

 聞けば、とわこはよくこの曲を千世子に歌い聴かせてくれたらしい。千世子はとわこを慕い、懐いていた。

「ひみかんじに出会った日、とわこ泣いてた。血だらけで泣いてた。たぶん千世子が歌を歌ったから、泣いた」
「何で血だらけだったか、わかる?」
「水飲んだら、血を吐いた」

 あまり触れたくない。知りたくない。でも、知らなきゃ千世子を(まも)れない。

「とわこは千世子のお姉さん?」
「ちがうよ」
「じゃあ、友達?」
「ちがうよ、商品。千世子、とわこ、ももこ、みんな商品。ゴロウに声をかけられたとわこたち、もう何人もお別れした」
「え、とわこって何人も居るの?」
「いるよ」

 商品——とわこ、ももこ、そしてゴロウ。頭の中に羅列する名前に、俺は瞬時に蓋をした。これ以上考えれば、間違いなく俺はその先の真実に辿り着く。

「よし。俺が切る。だから髪、短くしよう」
「ひみかんじ、歌へたくそ」
「歌は関係ないでしょ。手先は器用だから」

 ビニールを敷き、カッパを着せて準備をする。
 シャクっと刃先が重なるたびに、まだ乾き切ってなかった髪が床のビニールに落ちる。その様子を見たくて千世子が頭を動かすから、俺はその度に顔をまっすぐ直した。

「髪、死んだ」
「死んでないよ」
「殺した」
「人聞き悪いこと言うなって」

 その後も千世子は何か言っていたような気がしたが、俺は無心で千世子の髪を切り続けた。

 切り落とされる髪が増えるたびに、心の騒めきもゆっくりと静まっていくのを感じて。俺は千世子の髪を整えることに、今ある集中力の全てを注いだのだった。