流れるテレビは消音。スマートフォンの電源が切れ、ジャックに繋いで聴いていた店内のBGMも消えた。

「もう、こんな時間か」

 時刻は深夜一時半。食器に弾かれシンクに飛んだ水飛沫を拭っていると、店の戸が引かれた。

「開いた……」

 そう呟きながら店に入ってきたのは、一人の小柄な女性。クローズの看板は出したはず。

 俺は一瞬手を止めたが、なぜだか彼女を咎める気にはならなかった。

 そばにあったワイングラスを手に取る。それを拭き上げながら横目で確認すれば、彼女はその小さな身体のキャパを超えるほどに激しく肩を上下させていた。

「みず、ある?」
「あるよ」
「のめるみず?」

 変な訊き方をする、そう不思議に思いながらもグラスに(そそ)いで出せば、彼女は震える手で口元まで持っていく。でも、その手はすんでで止まった。

「のめない」
「どうして?」
「できない」
「出来ないって……変なもんは入っちゃいないよ」

 俺が言えば、彼女はギュッと目を瞑りながら一気にグラスを傾ける。グッと喉を鳴らして飲むその動作は余りにぎこちなく、薄い口の端に流れた水がそのまま床にぽたぽた落ちた。

 本来ならば、水を差し出す前にもっと訊かなければならないことがあったように思う。でも、俺は彼女の要求を満たすことを優先した。

 グレーの質素なワンピース。そこから伸びる手足があまりにも白く細いせいで、膝の擦りむき傷や足の爪が割れて血が滲んでいるのが目立つ。

 だがそれよりも目についたのは、腰まで伸びた藍色の髪だ。顔も腕もすすだらけ。なのにそのウェーブした髪だけは(なまめ)かしく風を含み、風呂上がりに(くし)を通したみたいにふわっと揺れていた。

「逃げてきた?」
「うん」
「誰かに追われてる?」
「わかんない」
「そう」

 俺はキッチンから出て、既に片付けていた椅子をひとつ、テーブルから降ろした。

「ここに座ってて。外を見てくる」

 俺は入り口の扉に手をかけ、ゆっくり引く。そっと顔を出せば、目視できる距離に赤いポルシェが停まっていた。ボンネットに寄りかかって話し込む男が、二人。

 この辺りは田舎の住宅街だ。その閑散とした街には違和感のある高級車。夜の(とばり)に包まれる中、ちらほらしかない街灯でうっすら光るサングラス。その奥の瞳に捕まる前に、俺はそっと店のシャッターを降ろした。

「あれ」

 店内に戻ると、彼女の姿がない。キッチンやトイレにも居ないようだ。店はカウンター五席、四人掛けのテーブル席が二つあるだけで手一杯のこぢんまりした造りで、他に隠れられる場所もない。

(まさかな)

 俺は入り口とは別の、もう一つの扉を開けた。店は二階建て。上は十畳一間の住居になっている。

 急な階段を登り、ジャラジャラと玉の連なる暖簾(のれん)(くぐ)れば、目の前に彼女。

「何してるの」
「ねむい」
「いや、場所」

 彼女は部屋の中心に置かれた、小さなちゃぶ台の上にいた。三角座りした膝に肘を立て、両手のひらに(あご)を乗せた状態で目を(つむ)る。その身体を這うように、煌びやかに垂れ伸びる髪。

「布団そこにあるよ、敷こうか?」
「わかんない」
「ああ、いつもはベッド?」
「わかんない」
「……とにかく、そこは降りて。傷も消毒しないと」

 俺が近づこうと一歩踏み出せば、少女は驚いたことに膝の傷を自分の舌で舐め始めた。

 その姿は、まるで猫。

「へんな味する」
「あ、ああ」
「これで治る?」
「どうかな」

 季節は秋。まだ暑さの残る、静かな夜。

 こうして千世子(ちよこ)は、俺の元へとやって来た。