恋がしたい、と思う理由はなんだろうか。
 ドラマやアニメに憧れたから? 友達が楽しそうだったから? 世間の圧力を感じるから?

 私は、夢を叶えるためだった。

***

 私は幼い頃からずっと女優になりたかった。自分ではない誰かになりたかった。けれど堅実志向な両親は、娘が若くして芸能界に進むことを反対した。素直な子になるように、直子(なおこ)と名付けられた私は、反抗を許されなかった。それでも何度も何度もしつこく頼み込む私に、両親はこう言った。
「きちんと大学を出て、大人になって、自分で全ての責任が取れるようになったら好きにしなさい」
 その言葉通りに、私は真面目に勉強をして、未成年のうちはアルバイトもできなかった。両親の納得するレベルの大学に進学し、そこでやっとアルバイトを始めて、学業と両立しながらも一生懸命にお金を貯めた。
 そうして大学卒業後。晴れて自由の身になった私は、貯めたお金で上京し、一人暮らしを始めて、アクターズスクールに通うことになった。

 つまり、私がやっと芝居の勉強を始められた時には、既に二十二歳だったのである。

 この令和の時代、いくつになってからでも夢は追える、などというが現実はそうではない。そういう人間が悪く言われる風潮が薄れている、というだけであって、世の中が欲しているのはいつだって若人だ。特に芸能界は、逆行して更に低年齢化が進んでいると言ってもいい。女は特に。

 アクターズスクールで私が振り分けられたクラスは、半数以上が十代だった。現役高校生、現役大学生。十五歳以下はジュニアクラスに振られる。ここに居ないだけで、彼らより若い子たちもたくさんいた。
 私は歯噛みした。自分が出遅れていることはわかっていた。そもそも、スクールには入れたものの、一般のオーディションをほとんど受けなかったのは年齢制限に引っかかったからだ。表向きは年齢制限を設けていなくとも、過去の合格者は全て十代ということもある。
 しかしこれは採用視点から見れば当然と言える。いったい誰が田舎から出てきた未経験の年増を育てて売り出そうなどと思うのか。
 輝かしい実績も絶世の美貌も持たない私がとれる道は限られる。お金を払ってスクールで演技を基礎から学び、芝居の実力でオーディションに合格するしかない。
 今の時代ではSNSや配信で一発逆転を狙うことも可能ではあるが、これは諸刃の剣だ。もし一度でも炎上やコンプライアンス違反をすれば、それはデジタルタトゥーとなって一生ネットに残り、まともな事務所なら絶対に所属させない。爆弾を抱えるようなものだからだ。容姿や特殊技能で人目を引けない私がこの手段を取るメリットは何もない。
 私は絶対にここから成り上がるのだと決意した。今までの人生全て、この時のために努力してきたのだから。

***

 スクールに通い出して二年。私は二十四歳になっていた。
 芝居の実力は確実に上がったと思う。得意な芝居では演出家にOKを出してもらえることも増えた。ただ、私には決定的に苦手な分野があった。

「だからそうじゃねぇって言ってるだろうが!」

 演出家が台本を机に叩きつけた。ばしん、という大きな音に数名のクラスメイトの肩が跳ねる。

「色気が全然感じられねぇ! ベッドシーンだぞ!? そんな芝居で男が誘えるか!」

 舞台のためベッドシーンと言っても実際に絡むわけではないが、意図するところは同じである。女の情欲、相手に向ける狂おしいほどの恋情。それが私には表現できない。

「お前なんか歳食ってんだから、若いやつらに勝てるとしたらこういうところしかねぇだろうが! 人生経験の深み! 大人の女の色気! それが出せなきゃ使い道なんかねぇぞ!」

 乱暴な言葉に聞こえるが、演出家や事務所にとって役者は商品だ。商品価値が見出せなければ切り捨てられる。これは、生き残るために必要な条件を提示してくれているのだ。
 私にも必要性はわかっている。けれども、台本の女の感情が、私には理解できない。国語の問題のように頭で理解して文字にすることはできても、真に心で感じることができない。

「もうお前十人でも二十人でも男捕まえて抱かれて来い! 変わったら見てやる」

 演出家が大きな溜息を吐いて、その日の私の出番は終了となった。私は唇を噛みしめたまま、他の人たちの芝居を見ていた。今は、十六歳の現役女子高生の番だった。
 若く瑞々しい芝居。可憐な乙女心。これが、スタンダードな女優だろう。清楚なヒロインとして売り出して、国営放送やゴールデンタイムのドラマの主演を務め、知名度が上がったら個性的な役もやらせてみる。そうして元ヒロインが歳を重ねた結果が、実力派の脇役だ。歳が上なら美味しい脇役を狙えばいい、なんて簡単な話ではない。
 私はもう王道は辿れない。ならば新人で素直な大人の女として、使い勝手の良い役者になるしかない。
 日本の作品において、恋愛要素を含まないものはほとんどない。つまり、女優が恋愛を演じることは絶対条件と言ってもいい。

 しかし。私は、人生において一度も恋愛をしたことがない。

***

 家族の男か、教師の男か、それとも性加害をしてくる不特定多数の男のせいか。私は男性を魅力的だと思ったことが一度もなかった。嫌悪感すらあったと言ってもいい。
 学生の頃は女子のグループに話を合わせるため、適当に好きな相手をでっちあげたり、合コンに参加したりもした。しかし、恋人が欲しいとは思わなかったので、告白をしたこともアプローチをかけたことも一度もない。
 それでも告白をされたことはあった。私は女優になると決めていたので、できるだけ色んな体験をしたいと思っていた。だから当然恋愛経験は必要だと思い、生理的嫌悪感のない相手とは交際したこともあった。
 ところが、交際を始めても相手に好感を抱くことは一切なかった。普通に男性と接していて、相手を人間として好ましく思うことはあったのに、交際相手にはそれすらなかった。おそらく、最初から性的な目で見られていたからだろう。
 恋人なのだから、そのことを責めるつもりは全くない。下心は承知の上で付き合っているのだ。私の方も、相手を自分の目的のために利用している。お互い様だろう。ただ、私は結局何度デートを重ねても、相手に恋することはなかった。だからだろうか。
 手を繋いでも、どきどきしない。キスをしても、気持ち良くない。どう触れられても全く濡れず、セックスを最後までしたことがなかった。なので私は未だに処女である。
 別段セックスがしたいと思ったことはなかった。できなければできないでいいや、と思っていたが、大半の男性にとっては非常に重要な問題らしい。セックスできないとなると、相手から別れを切り出された。私は相手に執着もなかったので、引き留めたことはなかった。

 恋はできなかったが、恋人とする体験はいくらかできた。恋愛作品はたくさん見たし、色気の研究のためにAVも見た。幅広い男性心理を知るためにキャバクラでも働いた。
 演じられると思った。でも駄目だった。やはり、経験がなければ心には響かないのだろうか。

***

 レッスンを終え、カフェで休憩しながら私はスマホを眺めていた。
 急に恋はできない。二十四年間一度も動かなかった心が、急激に変化するわけがない。でも、今すぐにできることが一つだけある。

 処女を、捨てよう。

 それは肉体の変化であり、肉体が変化すれば心が変化する可能性は十分にあった。
 出会い系で探すのはリスクが大きい。相手が暴力を振るってくるかもしれないし、病気を持っているかもしれない。一番安全なのは知人だが、今後の関係に影響するかもしれないのに知人を頼る気にはなれなかった。
 私はフェミニストだが、だからこそまともな男性も存在することを知っている。男性の友人は普通にいる。そして彼らのことは友人として大切に思っている。自分の都合で利用するようなことはしたくない。
 私は女性用風俗を検索した。どこまで信用できたものかは定かでないが、こういったところは性病の検査を済ませている。多くの女性を相手にし、ある程度の技術があると思われる。処女の相手もできるだろう。
 本番行為は禁止、と記載があるが、これは男性用風俗でも同じこと。疑似的に経験できれば良し、本番をOKしてくれそうなら頼むも良し。口コミを見れば、女性用風俗の本番OKはそこそこあるようだった。勿論無理強いするつもりはないが、相手の様子を見て打診してみるくらいはできるだろう。
 私はスマホを操作して、今晩の予約を入れた。

 利用料金が三万円。ホテル代と交通費で一万円。男性向け風俗に比べると高いな、と私は顔を顰めた。一度きりだと思えば、必要経費か。
 現れた男性は、至って普通だった。急な予約のため指名をしなかったせいか、人気者として打ち出された者たちには劣る容姿で、歳のいった中肉中背の男だった。高いお金を払ったのに、とは思うものの、特にイケメンに拘りはない。相手に好意も嫌悪もない。私はそのまま男を連れてホテルへ向かった。
 歩きながら男と会話したが、大して面白い話もしない。会話スキルは不要なのだろうか。ホストとは違うな、とぼんやり思った。逆に私の方が、まるで接待をするかのように気をつかって会話してしまった。こういう時、給料も発生していないのに、キャバクラの仕事をしている気分になる。キャバクラでは仕事だから仕方ないが、どうしてか女性の方が会話で楽しませるべき、もてなすべきと考える男性は多い。何故客の私の方が空気の悪さを気にしなければならないのか。早くも私は帰りたい気分になっていた。

 ホテルの部屋に入ると、NG事項や希望などの打ち合わせを済ませ、シャワーを浴びて歯を磨き、私はベッドに転がった。男の手が私に触れる。仕事だからか、一応丁寧に肌をなぞって、急なことはしない。それでも、なんとなく不快感があって、私は目を閉じて意識を切り離した。
 自分の体と心を、切り離す。肉体を捨てて、私の意識はどこかへ飛んでいく。そうすると、自分の体の感覚が鈍くなって、痛みや不快感が和らぐ。神経を遮断できるレベルではないので完全にはなくならないが、かなりマシになる。
 これは意図的に習得したのではなく、昔から自然にできた。痛みや苦しみから逃れるための防衛反応なのかもしれない。だから私はよく痛みに強いと言われていた。皆当たり前にできると思っていた。そうではないと、大人になってから知った。

 誰かに体を触られる時はいつもそう。自分で望んでお金を払ってまでしていることなのに、この感覚になるということは、私にとってこれは不快で苦痛な行為なのだ。
 そのことに気づいて、私は過去の恋人たちに少しだけ申し訳なく思った。彼らに触れられた時も、同じような感覚だった。つまり私は、表面上は受け入れながらも、本心では彼らを拒絶していたのかもしれない。彼らは仕事ではないのだから、そんな女の相手はしたくないだろう。
 逆に言えば、今回お金を払ったことは正解だった。こちらが報酬を払っていると思えば、私のような女の相手をさせる罪悪感は多少薄れた。

 女性に快楽を与えることでお金を得ているはずのプロに体を触れられても、私の体は全く反応せず、濡れることもなかった。潤滑剤で無理やり指をねじ込んでみるものの、異物感と違和感を覚えるばかりだった。(はら)の中を探られるというのは、内臓を搔きまわされるということだ。医者でもないのに他人の中身に無遠慮に触れられるなんて、考えようによっては凄い行為だ。ぐちぐちと抉られて吐き気すらしてきた私は、全然色っぽい気分にはなれなくて、牛の直腸検査を思い出していた。

「不感症なのかなぁ」

 疲れたように言われて、私は申し訳ない気分になった。と同時に、少しだけ相手を責める気持ちもあった。心がついていかなくても、うまくすれば肉体は反応するものだと思っていた。技術が不足しているのではないか。
 それとも、やはり女性は心と体の繋がりが強い、ということなのだろうか。そう思えば、余計に肉体が快楽を得られないのに心が感じられるものなのだろうか、と不安が増した。私の目的は、行為のその先にある心の変化だ。

「君、処女なんだっけ。本番してみる?」

 相手からの提案に、私は驚いた。多分、感じない相手に奉仕し続けるのが面倒になったのだろう。面倒くさいと本番する、と風俗嬢から聞いたことがある。
 時間はまだかなり残っている。終盤で気持ちがのったならともかく、この段階で言い出すということはおそらく他にない。本番をしてしまえば店のNG行為に当たるので、私は共犯になる。そうなれば、私は店にクレームを入れられない。低評価もできない。相手を満足させられず、技術不足と報告されたら困るのだろう。そこも狙っていると思われる。

「……そうですね、お願いします」

 別にいいか、と私は冷めた感情で答えた。二度と利用することはないだろうし、元々クレームなど入れる気もない。本番をしてくれたら、とは私が狙っていたことでもある。断る理由はない。
 芝居のためなら何でも投げ出す覚悟があった。この体でさえも。

***

 シャワーを浴びて、ホテルを出て、男と別れて駅へと向かう途中で私は座り込んだ。
 虚しかった。結局覚えたのは不快感と痛みだけで、心は何も変化しなかった。
 これの何が楽しいのだろう。何が気持ち良いのだろう。恋をしていれば、これらは全て心地の良い幸せな行為なのだろうか。
 無気力だった。ここまでしても、何も得られなかった。私は変わらない。変われない。変わらなければ、演出家に見てもらえない。
 やはり無理な話だったのだろうか。恋愛感情が理解できないのに、女優になりたいなどと。馬鹿な女の夢想だったのだろうか。

 ずっと女優になりたかった。それだけを夢見てきた。他の道など考えたこともなかった。職歴もない、新卒から二年以上経過した女なんて、今更一般企業もとらない。派遣かアルバイトがせいぜいだろう。
 二十五歳も目前にして、生き方に迷うなんて。私は自嘲した。そしてきらきらとした十代のクラスメイトを思い出して、歯ぎしりした。羨ましい。恨めしい。妬ましい。

 お門違いだとわかっていて、それでもこの二年間で、両親を恨む気持ちが僅かながら生まれていた。
 当然と言えば当然だが、十代で学校に通いながら高額なアクターズスクールに通える子どもたちは、皆親に応援されている。学校が終わってから放課後の部活に来るような気軽さで稽古場に来れる。もしうまくいかなかったら、今のうちに才能がないのだと思い知れたら、新卒で就職活動をすることもできるのだ。
 親の協力があること。東京に住んでいること。それがどれほどのアドバンテージか。

 私が全てを振り切って東京に来たのは、情熱だと思っていた。女優しか生きる道がないと自分を追い込むのは、信念だと思っていた。
 けれども。もっと早くに芸能の世界に飛び込めていたら。子役なら、恋愛など関係のない芝居ができたかもしれない。芝居を続けていくうちに、価値観が凝り固まる前に、恋愛感情が理解できたかもしれない。そうして大人になる頃には、自分の才能のなさを痛感して、早々に見切りをつけて普通の職に就いていたかもしれない。そんな風に青春を使えていたら、私は何の後悔もなく世間で言う「普通の大人」として順風満帆に生きていたのかもしれない。
 所帯を持って、自分の子どもに「お母さん昔は女優だったのよ」なんて。

 何もかも全て、若い内に始められていたら。

 それができなかったから。禁止されていたから。その反動で、執着しているだけなのかもしれない。大人になって、やっと自分のことを全て自分で決められるようになって、今更青春を取り戻そうとしているだけなのかもしれない。
 あれほどに焦がれたエネルギーを、自分で決めた自分の道を疑ってしまうほどに、私は何もかもに懐疑的になっていた。
 意味のない「かもしれない」を頭の中で繰り返して。うまくいかないことの原因を他人に求めて。どろどろとした感情だけが、目の前を埋め尽くしていく。
 未来が、見えない。

 実家には戻れない。結婚もできない。一人きりで、夢を失って、その日暮らしの生活をこの先ずっと続けていかなくてはならないのか。
 そんな生き方をするくらいなら、いっそ。

「おねーさん今ちょっといいですかー?」

 軽い口調に、私は舌打ちした。終電も近いこんな時間に、女一人、しかも一カ所に留まっていれば目をつけられて当然か。私は立ち上がって歩き出した。

「やだなー無視しないでよ。おねーさんさぁ、芸能界とか興味ない? おねーさんならすごい女優になれると思うんだけど!」

 女優。そのワードに、私は僅かに反応を見せてしまった。それに目を光らせたスカウトが、行く手を塞ぐように立ちはだかる。

「あ、興味ある? これ、俺の名刺なんだけど。良かったらこのあと事務所で話さない?」

 上京して二年。私も馬鹿ではない。このスカウトが言う「女優」とは、「AV女優」のことだ。本物の芸能スカウトがこんな時間にこんな場所でこんな女に声をかけるわけがないだろう。
 鼻で笑って、私は俯いた。
 AV女優。それも、いいかもしれない。
 女優は女優だ。AV女優なら、恋愛感情を演じる必要はない。感じる演技さえすればいい。それも、繊細な演技は必要ない。あれはカメラ映えするように動く技術であって、心情を表しているのではない。プロとして継続収入を狙うのならともかく、素人が企画モノに数本出る程度ならその技術すら求められないだろう。
 どんな形でも。女優として出られるのなら。私の夢の証を残せるのなら。

 OKを返そうかと口を開いたところで、スカウトと私の間に一人の男が割って入った。

「ごめんごめん直子! 待たせたな!」

 謝るポーズをしたその男は、同じアクターズスクールの圭太(けいた)だった。

「やっとバイト終わったところでさぁ。んじゃ、行こうか」
「おにーさんそりゃないでしょ。彼女まだ俺と話してるんだけど」
「はぁ?」

 ヤクザのような凄みで睨み上げた圭太に、スカウトは慌てた様子で謝ってすぐに立ち去った。さすが、逃げ足が速い。
 ふん、と鼻を鳴らして、圭太はぱっと笑顔を作った。

「大丈夫?」
「うん、ありがと」

 さすが役者だ。瞬時の切り替えである。圭太はアクション俳優を目指しているので、ガタイがいい。先ほどのようにガンを飛ばすとヤクザにしか見えないが、性格は人懐っこく温厚である。十代が多いクラスで、同年代の私に声をかけてくれたのも圭太からだった。そして私のフェミニズムに理解を示してくれる貴重な男友達の一人でもある。

「駅まで? 送るよ」
「いや、いいよ」
「けど」
「今日は、朝まで飲みたい気分なの」

 今家に帰っても、ろくなことにならない。暗い部屋に一人でいたら、何をするかわからない。もう酒の力で全てを忘れてしまいたかった。
 私の言葉に、圭太は困ったように眉を下げた。そしてスマホを取り出し、数秒何かを確認すると、またポケットにしまった。

「よし。じゃぁ選択肢は三つ。いち、居酒屋。に、カラオケ。さん、俺の家。どうする?」

 圭太の提案に、私は泣くのを堪えるような顔で笑った。朝まで付き合ってくれるつもりなのだ。さきほどのは、おそらく予定を確認していたのだろう。
 一緒にいることは前提で、確認は取らない。けれど場所の選択肢はくれる。こういうところだ、この男のいいところは。
 居酒屋は、明るく開けていて人目がある。安全だが、内緒話には向かない。
 カラオケは、密室になるがカメラがあり、店員の目もある。込み入った話もできる。
 圭太の家は、完全に相手のテリトリーになるが、一番気を抜いて話ができる。寝落ちしても問題ない。
 圭太は私を理解している。家に行くことが性的同意ではないことも承知しているし、実際に昼間には行ったこともある。泊まっても何も起こらないだろう。それでも、相手への信頼とは別に生じる警戒心も理解している。だから私に、選ばせてくれている。

「うーん……カラオケ、かな。大声出してすっきりしたいかも」
「おっけ。んじゃ行こっか」

 先ほどまでより少し軽くなった気持ちで、私は圭太と歩き出した。

***

 カラオケの個室で、私と圭太は乾杯した。それを一気に呷ると、くらりと目が回った。

「おいおい、飲み放題だからって最初から飛ばすなよ」
「だいじょーぶ、私吐いたことないから」
「そりゃお前、普段あんまり飲まないからだろ」

 芸能関係者というのは飲み会が好きなものである。だが飲み会とはイコール営業の場でもあるので、はめを外すことがないよう、私はいつも量をセーブしている。
 しかし今日はそんなことを気にする必要はない。ここには圭太しかいないし、明日のバイトは午後からだ。多少寝過ごしても問題ない。
 早々に二杯目を頼んで、それに口をつけてから私は話を切り出した。

「私ねぇ、男の人、買っちゃった」

 圭太が盛大にむせた。咳き込んでいるのを、きゃらきゃらと笑って眺める。

「おま、それ」

 勢いで喋ろうとした圭太が、一度黙った。それから、低いトーンで返した。

「……馬鹿じゃねぇの」
「そうだね、馬鹿だったかも」

 言って、くるくるとグラスをマドラーでかき混ぜた。

「そもそも、女優を目指したのが、馬鹿だったかなぁ」
「なんでだよ」
「私、人を好きになれないの。アセクシャル、ってやつかな」

 これを人に言うのは初めてだった。フェミニストであるということは、私の生き方で考え方でもある。言うことに抵抗はなかった。
 でも、アセクシャルであるということは。私が望んだことではない。愛したいのに、愛せない。そのことを、私自身が欠陥だと思っている。何より夢に影響を及ぼしている。

「恋愛したことがないのに、恋愛感情を演じるって……無謀だよね」

 空笑いした私に、圭太は顔を顰めた。

「関係ないだろ。人殺したことなくたって、殺人鬼は演じられるじゃん」
「それは現実と乖離してるからでしょ。職業モノがその職の人からおかしく見えるようにさ。自分に近いものは解像度が高いから、違和感が目につくんだよ。恋愛なんて、世の中の大半の人が経験してるじゃん」
「でも職業モノだって、ちゃんと研究してやればそう見えるだろ。死ぬほど調べて、考察して演じてるんだよ」

 圭太はぐっと酒を呷って、強めにテーブルにグラスを置いた。

「お前、役者だろ」

 圭太の気迫に、私は鳥肌が立った。

「どんな人間も演じるんだろ。恋愛だけ別とかあるかよ。観察して、研究して、演じられるだろ」
「それは……私だって、恋愛ドラマとか、山ほど見たよ。だけどどうやっても、同じようにできなくて」
「同じって、どこまで?」
「どこ……って」
「表情は? 眉はどれだけ傾いてた? 瞬きは何回した? 相手の目を何秒見てた? 口角はどれだけ上がってた? 呼吸は? 一つの台詞で何回区切った? 相手の台詞の何秒後に返した? 台詞の頭の音は何だった? 終わりの音は? 相手との距離は何センチだった? 肩はどれだけ上がってた? 指先はどこにあった?」

 立て板に水のごとく質問攻めにする圭太に、私は答えられなかった。
 見ていたのに。ただのワンシーンでさえ、私はこの問いかけ全てに正確に答えられるだろうか。

「全部盗めよ。真似しろよ。恋愛してる人間の、反応を。現実の人間も観察して、映像の人間も観察して、いくらだってやってみせろよ。お前の本心である必要なんかない。本物と全く同じリアリティも要らない。俺たちは、最高に上手く嘘を吐いて魅せる人種だろ」

 圭太の言葉に、私は自分が恥ずかしくなった。できるだけの努力をしたつもりでいた。やれるだけやって駄目だったのだ、と思っていた。
 馬鹿馬鹿しい。やれることなど、いくらでもあるのに。人一人の人生では、足りないくらいに。
 圭太の言うとおりだ。本物である必要はないのだ。まるで本物のように嘘を見せる。そして観客が望む姿を魅せる。それこそ、私が憧れた輝きだった。
 失いかけた熱が、胸を焼くのを感じていた。

「私、まだ、諦めなくていいのかな」
「当たり前だろ。お前、上手いよ。刑事とかすげー迫力あるもん。刑事モノと医療モノはずっとサイクル回ってるから、バリキャリ女も絶対需要あるって」
「っはは、私も、そういうのやりたい」
「だから、やりたいものをやれるようになるまでは、何でもできるようにとにかく研究しとけよ。俺も体鍛えるばっかじゃなくて、これでも恋愛モノ研究してるんだからな」
「えぇ、うっそだー」

 笑いながら、私は心がすっきりしていることに気づいた。
 ああ、圭太は、いい男だ。
 こういう人を、好きになりたかった。こんな人と恋人になれたら、きっと幸せになれるだろう。
 けれど私は、圭太に恋人のように触れてほしいとは思わない。圭太が可愛い彼女を連れてきたら、何ら含むところなく純粋に祝福できる。
 これほどに人として好意を持てるのに、恋愛になることはない。そのことに寂しさがないわけではない。
 けれど、私には最高の友人がいる。
 恋でなくとも、心は満たされる。人を想える。

 私は、そういう私を肯定しよう。
 恋を遠ざけるのではなく。無理にするのでもなく。
 それでも、いつか変化が訪れたのなら。それもまた、自分だと受け入れたい。
 自分が何者であったのかなど、死ぬまでわかるものではないのだから。