思いあり、強すぎたるは、毒になり
病得た我、得たもの一つ
なんだか、よくわからないという方もいるかもしれませんね。
今月、2024年4月は、演奏を週に一度こなすという、怒涛の四週間でした。
内訳を話すことはできませんが、土曜か日曜に演奏があって、遠方まで電車とバスを乗り継いで出かけました。車の運転はできないため、電車かバスでいきますが、四回とも大きな電車のトラブルがなかったのが、今思えばよかったなと思えることでもあります。
他の理由で三島に行ったときは、倒木が線路に倒れるなどし、1時間以上待たされると言うこともありましたから、演奏の日に、それがなくて良かったです。
一回目の演奏のときには、演奏会の直前に近所で葬儀があり、練習ができなくなると言うことも体験しました。そのときは、練習ができないと困るなど主張して家族と大喧嘩をして、また不安感をコントロールできず、ものを壊すなどもしてしまいました。多分、演奏をきちんとやりたいという思いがあったのだと思いますが、それが強すぎたために、自分の体を怪我をするまで殴るなどしてしまいました。こうひきたいとか、うまくやりたいと言う思いは持っていると良いのかも知れませんが、こうして毒になることもあるのだと言うことも、身を持って知りました。事実はただあるものである、とかんがえること、人間にできることは、事実に対しどうしたら良いのかを考えるだけであるということも、改めて教えて頂いたきがします。家族には、もうしわけないことをしてしまいましたが、そう言うことが、学べて良かったです。
私は、大学や高校受験を乗り切ることはできませんでしたが、理由の一つに思いが強すぎたのかなということもあったのではないかと思いました。もちろん、音楽大学に行くのは目標として掲げてきましたが、それに対してまわりの人たちは、無理腕ままでした。特に高校はまるで地獄のような環境で、先生がとにかく生徒を黒板に向かわせたいために、ありとあらゆる汚い言葉をつかって怒鳴る、怒鳴る、怒鳴るの環境でしたので、本当に大学へ行きたい思いを募らせましたが、それも自分の体を守れなかったといういみでは、毒になりました。大学へ行ったあとは足がわるくなり、ハタラクという基本的なことができない人間になってしまったからこそ、言えることなんですが、十代で、進路のシナリオのすべてを決めさせるような教育は、なんの役にもたちはしないんだなと思います。そんなことは、いまになってからわかることですけど、そのとおりになることは、絶対ないですから。それよりも、自分には何ができて、何を必要としているかを考えることが、進路選びには重要です。社会では、どんな人が必要なのか、どんな人間を必要としているのかを考えるのが重要です。なにに、なりたいか、というのはあまり必要ありません。それより、社会が求めていることを考える方が得策ですよね。
だから、学校に密封して入れてしまうような教育よりも、すぐに外にだして、社会とかかわらせる方が大切です。もちろん学力がどうのもわかるんですけどそれだけじゃないですよね。人間が生きていくのに必要なのは行動力、そして自立です。学校というところは、せっかく集団で集まっていろんなところを体験できる、すごいところなんですよ。それを大切にしてほしいと思う。上級学校に進ませる、学校の評価を上げる、そればかり考えている先生方は、やっぱりおかしいなと思うわけです。
本当に私が受けた教育は、酷いものだったのでしょう、30代になって、しかも障害者になって、こういう大事なことにきづけるようになりましたからね。本当はもっとはやく、このあたりに気付いてあげたらよかったね。自分も、存在意義に苦しまなくてよかったかもしれない。
一度、長期入院などして、社会から弾き飛ばされてしまいましたが、なんとなく、こういうことがわかるようになりました。私自身できることが限られてしまっている人間なので、果たして社会のために何ができるかわかりませんが、でも、時間をただ消費してしまうだけではなく、できることをやれるような人生にしたいと思います。
今日は、四週間演奏が続いた最後の日でしたが、もっと疲れるかなと思っていたけど、こういうエッセイを書くことができたのだから良い日で終わったのでしょう。
なんだか、いろんなことを虱潰しにあたって、ただ、周りから与えられたきっかけをこなすしか出来なかった人生ではありますが、それでもこういうふうに学びをくれるのだから、決して悪い人間ではないはずです。
ただ、やってきた、ただ、こなしてきた、ただ、耐えてきた、この3つしか私はしていませんでした。
きっとそれが、また人生を変えてくれるのでしょうね。