『神託の巫女』が隣国に現れた。その報せがルルサス王国にもたらされたのは、秋のとある日のことだった。
『神託の巫女』が最初に出現したのは、今より約千年前。
その巫女は、夢の中で神の声を聞くことができたという。
神とは、数多いる神たちの中でも、男女の愛をつかさどる慈しみの女神。
女神が夢で告げるのは、祝福され、結ばれるべき者の名前。
要するに神託とは、結婚するべき男女の組み合わせが天啓として示されるもので、その男女が婚姻を交わした時、彼らは何よりも深い愛情で結ばれて、絆は未来永劫揺らぐことはなかったらしい。
そしてこの神託、にわかには信じられないことだが、いずれも百発百中で外れることがなかったそうだ。
千年前の巫女に始まり、歴史上出現した巫女たちの言葉に従った男女は、皆ことごとく生涯互いを愛し続けた。
それは先日隣国に現れた巫女にしても同じだった。
隣国アルデマイラの民たちは、最初こそ巫女の言葉を疑ったが、彼女によって引き合わされたカップルは次々と恋に落ち、幸福な結婚を遂げていく。
平民、豪商、貴族……ついには同国の王子まで。巫女が口にした神託に従い夫婦の契りを結ぶと、それらはいずれも最愛の結果をもたらした。
そうやって、巫女の評判はあっという間に隣国全土に広まっていった。
彼女は皆から感謝され、あがめられ、アルデマイラで確固たる地位を確立した。
そして巫女は、今度は東のルルサス王国へ向かうと告げる。
彼女は語った。ここだけでなく、かの地においても結ばれるべき者たちが大勢いる。
自分は人の幸せのため、真実の愛のために尽くしたいのだと。
巫女には権力欲などなく、ただ善意からそう言っているようだったが、成し遂げた成果の大きさゆえに、もはやその存在はルルサスにおいても看過できないものとなっていた。
「当然、断固拒否しますわ!」
ルルサス王国の伯爵令嬢マルガレタは、悲鳴に近い声をあげた。
その日、彼女の屋敷には、巫女からの手紙と教会からの招集状が届けられていた。
巫女からの手紙には、マルガレタともう一人の男性の名が記されていた。
つまりそれはマルガレタと結ばれるべき男の名。
巫女は神託でマルガレタの名を受け、彼女とその男性とを引き合わせようとしたのだ。
教会からの招集状には、相手と顔合わせのため、大聖堂へ参堂せよとの記載があった。
神託の巫女がルルサスに入国したことを受け、同国の国教会は彼女への支援を表明し、神託の対象者たちに招集状を送ったのである。
巫女の威光にひれ伏したのは国教会だけではなかった。
神託を信じ、招集に従う民もかなりの数に上っていた。
しかし、その中でマルガレタは彼らの求めを頑として拒絶した。
というのも、結婚の相手として手紙に書かれていたのは、同じく伯爵家出身のウーヴェ・アルトナー。
そのアルトナー伯爵は、四十間近の中年男性だったからである。
マルガレタの年齢は十七。花も恥じらう、いわゆる年頃のご令嬢だ。
本来ならもっと歳の近い令息やら騎士やらが、お似合いというべきであろう。
そんな彼女が二十以上も年の離れた中年に、何故嫁がなければならないのか。
何の権限があって、神託の巫女はその男をあてがおうとするのか。
マルガレタは怒りの炎を大きく燃やした。
「しかしなぁ、マルガレタよ。国教会の意向を無視するわけにもいかんのだ」
マルガレタの父は娘の反発を理解しながらも、頼み込むように言った。
「いいえ、お父様。招集状には参堂も結婚も、最終的にどうするかは当事者に任せると書かれています! ならば行かなくても良いではありませんか!」
「といっても、これを拒めば今後我が家が国教会からどう遇されるか、想像の付かないお前ではあるまい。神託が告げられた以上、この結婚はもう決まったと言っても過言ではないんだよ」
「ッ……ではお父様は、私がどこぞの中年男の妻にさせられて、それで良いとお思いなのですか!?」
「いや、それは私だって……。アルトナーは伯爵家とはいえ、大した評判も聞かず、何より私とそう年が変わらない男だ。良いわけがあるまいが……」
「だったら!」
マルガレタは詰め寄りながらも、おそらく父の助力は得られないであろうことをその態度から察した。
父の優先順位は娘よりも家の存続だ。
ある意味それは仕方のないことかもしれない。
だが、それでもほんの少しだけでいい。こちらの味方をして欲しかったと、彼女は言葉には出さず落胆したのだった。
そんな経緯もあり、参堂に関しての日程調整を続けていたある日、今度は相手であるアルトナー伯爵本人からの手紙がもたらされる。
同家の封蝋が押された書簡には、驚くべきことに以下のような文章が記されていた。
『──たとえ由緒ある神託だろうと、前途あるご令嬢の将来を、本人の意思を無視して勝手に決めてしまうこと、独善と言わざるを得ません。ましてやその相手が手前のような親子ほどの年齢差の男など。どうぞこのお話は、辞退されるようお願い申し上げます』
また、それに続いてこのようにも書いてあった。
『国教会との関係につきご懸念あるなら、たとえば当家が強く拒んだと、こちらに責をすべて負わせてしまって構いません。なにとぞ、一時のためらいにてご息女の未来を潰してしまわぬよう、ご当主殿には熟慮願います』
「まさか、そんな……本気なのかしら」
手紙を読み終えたマルガレタは、信じられないといった様子でつぶやいた。
我が家から婚姻の要請を拒むのならまだわかる。
実際、自分はこんな歳の差の結婚はごめんだし、こちらの伯爵家がそれより劣るアルトナー家と結びつくメリットもない。
しかし、彼の方から破談を申し出るとはどういうことなのか。
確かに、よく知りもしない娘と結婚するというのは、向こうからしてもためらわれるところだろうが……。
(……もしかして、男色家とか? それとも、極度の人見知り? あるいは本当に……私の将来を、ただ心配してくれているだけなのかしら……)
もしそうであるなら、この男性はとても尊ぶべき人なのではないだろうか。
婚姻を拒まれたことで、マルガレタは彼がどんな男性なのか、逆に興味を引かれてしまった。
それに、どのような方針で行くとしても、相手の顔すら知らないのはさすがに失礼だ。
国教会に従わないにしても、口裏を合わせるため直接会って話をしておいた方がいい。
そんな理由で自分を納得させ、彼女はアルトナー邸へ向かうことになったのだった。
「初めまして。ウーヴェ・アルトナーです」
手短な自己紹介でマルガレタを屋敷に迎え入れた彼は、どこにでもいるような普通の男だった。
特段美形というわけでもない、どちらかといえばキツい感じの顔立ちだ。
後ろに流した漆黒の髪には多少の白髪が、鋭い目つきの目もとには、少しばかりの隈が見える。
背は高く、痩せ型で、どこか人を寄せ付けない印象を受ける。
ただ、マルガレタに見せる表情は柔らかく、警戒心を抱かせないようつとめて笑顔を作っているようだった。
「お招きいただきましてありがとうございます。マルガレタ・シュミットと申します」
挨拶を交わし合った後、着席を促されるマルガレタ。
アルトナーは早速用件に入った。
「手紙でもお伝えした通り、こちらとしてはあなたとどうにかなるつもりはありませんので。遠慮なく、国教会からの要請を断っていただければと思います」
「あの、どなたか、他に好いた女性が……いらっしゃるのですか?」
純粋な疑問を口にした後で、失礼なことを聞いてしまったと、マルガレタは口もとに手をやった。
「いいえ、いませんよ、そんな人は。恥ずかしながら私はあまり人付き合いが上手くない方でしてね。趣味に没頭しているうちに、気付いたらこんな歳になっていたわけなのです」
自嘲混じりで朗らかに笑う伯爵。
マルガレタはその笑顔に後押しされ、続けて尋ねた。
「ご趣味……といいますと?」
「考古学の研究を、少々。あとは私、食い道楽といいますか、特に甘いものに目がないのですよ」
彼はそう言って、ここぞとばかりに侍従にお茶とお茶菓子を持ってこさせる。
「どうぞ召し上がって下さい。奇妙なご縁ですが、せめてものお近づきのしるしに」
聞けば、そのお茶菓子は、城下南端にあるパティスリーのチョコレートケーキとのことだった。
その店は、開店前から並んでも買えるかというほどの人気店だ。
マルガレタも常々食べてみたいと思っていたのだが、今までありつけたことはない。
「おいしい……」
「それは良かった。若い子にはもっと凝ったものの方が良いかと思ったんですが、気に入っていただけたようで何よりです」
未熟な小娘にも丁寧な態度で接するアルトナーに、マルガレタは何故だか安心感を覚えた。
(この方、やっぱり悪い方じゃないというか……どうしてかしら? お話していて、どこか安らげる気持ちになるのは……)
丁寧な態度や言葉遣いもそうであるが、マルガレタと彼はことごとく相性が良いようだった。
それこそ用意されたケーキに始まり、趣味嗜好、ものの考え方、そういったものがいずれも“合う”のである。
会ったばかりで大した会話もしていないのに、パズルのピースがハマるように、彼女は目の前の男との感性が馴染んでいくのを感じていた。
「……まあ、それでは伯爵さまは、各地の遺跡に直接赴いて、調査をしていらっしゃるのですか?」
「ええ。やはり現物や現地を見ないことには、その地の文化というものはわかりませんから。それに、調査のみならず、そうやって同じ空気を吸って当時の人々の生活に思いをはせるということが好きなのです。考古学だけでなく……なんといいますか、自分の知らないものや人に接するということが」
「……素敵ですわね」
「ですが、まあ、ご婦人をあちこち連れ回して日焼けさせるわけにもいきませんのでね。独り身の変人にしかできない趣味というわけですよ」
そんなことはないのに、とマルガレタは思った。
確かに女性を付き合わせる趣味ではないかもしれないが、日焼けするくらい自分は気にしないし、何よりとても楽しそうだ。
学園の選択科目で取っている歴史学の授業、それらの史料を読むことがマルガレタは好きだったが、少しだけ物足りなさも感じていた。
たとえば彼の研究に参加すれば、もっと歴史というものに、直に触れられるのではないだろうか。
「よければ私も……」と言いかけて、ハッと思いとどまる。
(いけない。今日はそんなお話をしに来たんじゃないのに!)
そこでアルトナーが「ともあれ、神託の件ですが」と話題を戻す。
「手紙に記した通り、国教会に表立って反発するのはためらわれるでしょうから、今回の件は私が強く拒んだことにしましょう。ですので、要請が来てもそちらからは返答せず、一度書簡を転送していただけませんか。すり合わせて、そちらに非のない文面にしたいので」
「え、ええ。そうしていただけるなら……私の父も異論はないかと思います」
「でも、いいんですか」と聞くより先に、アルトナーはマルガレタへと、次のような頼みを持ちかけた。
「代わりといっては何ですが……これから数回の打ち合わせの際、少しだけ、私との話に付き合ってくれませんか」
「え、お話……ですか?」
「ええ。マルガレタ嬢は、王都の学園に通っていらっしゃると聞きました。私もそこの卒業生なのですが、いかんせん二十年も前のことでして。今の若者の学園生活というやつを、よければ教えて欲しいのです」
「それは……どうして?」
「何、単なる好奇心ですよ。先の考古学同様、自分では知り得ないことに、私は強く興味を惹かれるのです。とはいえ、学園の方は、こんな中年が足を踏み入れるわけにもいきませんからね」
その言い方から察するに、彼は本当に好奇心だけで、マルガレタの話を聞きたがっているようだった。
そこには下心や表裏などない。ただ純粋な知識欲を、隠すことなく満たそうとする少年のような心。
あるいは、国教会からの責を彼だけが負うことへの気兼ねに対する配慮も、少しばかりはあったのかもしれない。
いずれにせよ、そんなアルトナーの言葉を不思議と嫌だと思うことはなく、マルガレタは彼の頼みを快諾した。
それどころか、彼に会う口実ができたことに、どこか嬉しさと楽しみな気持ちすら生まれていた。
それからマルガレタは、月に二度ほどの頻度で彼の屋敷を訪れた。
婚姻拒絶の打ち合わせはほどほどに、アルトナーはとっておきのスイーツでマルガレタをもてなし、マルガレタはできるかぎり詳細に自分の学園生活を話す。
それは今の学園の内情にとどまらず、時には自身のプライベートなこと、一つ上にあこがれている男子生徒がいるということなども、勢い余って話してしまうこともあった。
それほどまでにアルトナーとの歓談の時間は、楽しく、穏やかなものだった。
アルトナーはマルガレタの恋を応援し、「大丈夫。あなたならきっと上手くいきますよ」と、にこやかに彼女を励ます。
また、知り合った縁が縁ということもあり、二人の会話は、時には結婚を押し付けてきた巫女への不満に発展することもあった。
「アルトナー様は確かに良い方だと思いますけど……知り合いでもなかった私たちを無理矢理くっつけようだなんて、その巫女とやらは横暴にも程がありますわ!」
「ええ、まったくですね。こういうことはお互いの気持ちが大事だというのに」
「だいたい、初代の巫女の預言がヴィルイーン王国で百発百中だったからといって、今の巫女がそうであるとは限りませんのに! そうは思いません?」
「……ヴィルイーン? 初代巫女が暮らしていたのは、隣国のアルデマイラだったはずですが……」
「あら? そうでしたっけ。学園の図書館で調べた本には、それより西のヴィルイーン出身とあったのですが」
マルガレタは巫女のことなど興味もなかったので、千年前の初代の伝承についてもほぼ何も知らなかった。
今、彼女が話したことは、学園の休み時間に見た、一冊の本からの知識に過ぎない。
また、彼女同様、この国の者たちは巫女に対してなじみが薄い。
神託の巫女が彼らの国ルルサスに来たことは、実のところ今回が初めてだからだ。
それゆえ、初代巫女が隣国のさらに西の出身だとはアルトナーも知らなかった。
彼はそこに妙な違和感を覚え、遣いの者を西端の小国、ヴィルイーンへと派遣することに決めた。
「……あの、どうかなされたのですか? わざわざ使いの方を送られるというのは……」
「いえ、お気になさらず。どうということもありません。しいて言うなら、これも知識欲でしょうか。こういうことは、すみずみまで調べておいた方が良いように思うのです」
「……? はぁ……」
そして、国教会からの『強制婚姻命令』が下されるのは、ここからさらに一月先のことだった。
一か月後、国教会からの婚姻命令を受けたアルトナーは、しまったと舌打ちをした。
まさかこんな強硬手段に訴えてくるとは思わなかった。
いくらなんでもやりすぎではなかろうか。
とはいえ、ここまで来た以上、口先だけで拒否していてもらちが明かない。
彼はこの機に乗じて決着をつけようと、あえて招集通知を受け入れ、王都の大聖堂に向かうことにした。
ただ、教会側の権限により、彼だけでなくマルガレタも出席することが話し合いの条件とされた。
それに従わざるを得ないことに、アルトナーは強く歯噛みした。
冬も過ぎ、季節は春。マルガレタにとって、今は学園の進級試験などで忙しい時季だからだ。
(せめて彼女の手を煩わせず、こちらだけに手間を留め置ければ良かったのだが……)
四十路間際の中年貴族はそんなことを思いながら、王都へ馬車を走らせる。
そして、大聖堂へと入場すると、すでにすべての役者が揃っていた。
先に到着していたマルガレタ。その周りを国教会の関係者が取り囲み、神託の巫女が中央の壇上で皆を見下ろしている。
アルトナーが歩を進めると、最高責任者である大司教が口を開いた。
「ウーヴェ・アルトナー伯爵よ。何ゆえ貴公はそれほどまでにシュミット家のご令嬢との婚姻を拒むのかね」
アルトナーは下らないとばかりに鼻を鳴らした。
「私と彼女の間には、何の関係も存在しないからです。当然、当家と彼女の家の間にも、しがらみはない。言わずもがな、当たり前のことでしょう?」
「だが、巫女殿によれば、貴公ら二人は結ばれるべきとの天啓があったのだぞ。この神託に誤りがないのは、今までの事例を見ても明らかなこと。特にアルトナー伯爵、貴公の年齢ではもはやまともな結婚は望めまい。このような若い婦女子との婚姻、最後のチャンスとは思わんのかね」
「……それは俺だけじゃなく彼女への侮辱にもあたるぞ」と、低い声でアルトナーは言った。
その迫力に大司教はたじろぐ。
老体は咳払いをして「失礼」と言い、「とにかく、巫女殿の神託は絶対である。これに逆らって不幸な結末が起ころうとも、我らは何の責任も取れないぞ」と返した。
「不幸な結末、ねぇ……」
国教会は権力を持っていても、実力行使をするような集団ではない。
彼らは何か行動を起こそうとしているわけではない──それが単なる強要の言葉に過ぎないことを、アルトナーは司教の声色から察した。
とはいえ、巫女の名声を笠に着て、二人を無理矢理結婚させようとしていることに変わりはない。
まったくもって理不尽なことである。
(何だっていうんだ、本当に……)
アルトナーは辟易として、巫女を見上げた。
彼女はその視線に気づき、「どうか従ってください。あなたたちの幸せのためにも」と声を掛ける。
と、そこへ、一人の男性が堂内に駆けこんできた。
「閣下! 遅れまして申し訳ありません!」
それはアルトナーの執事だった。
その年若い執事は主人の命により、今までヴィルイーン王国へと使いに出されていたのである。
大陸の端に位置するヴィルイーンは、ここからかなりの遠方だ。
だが、目的の物を見つけ出した執事は、大急ぎで帰国の途に就く。
そして、ギリギリのところ、主人が巫女や司教と対峙するこの間際で、戻ってくることができたのだった。
「どうだった」と尋ねるアルトナーに、執事は二冊の文献を手渡す。
そして、何やら耳打ちする。
それを聞いたアルトナーは、本をざっと確認すると「思った通りか」と、大きくうなずいた。
何事かと怪訝にのぞき込む司教たちに、アルトナーは向かい合う。
彼は静かな声で巫女に尋ねた。
「巫女殿、一つ質問させて下さい。あなたが受ける神託とは、具体的にどのようなものなのですか」
「え? どのようなと言われましても……。そうですね……前触れもなく、私の頭の中に、一組の男女の名前が告げられるのです」
「では、それはどういう男女の組み合わせなのですか。『幸せになれる男女の組み合わせ』ですか? それとも、『愛し合うべき男女の組み合わせ』?」
「すみません、その二つの違いがわからないのですが……正確には、後者に近いでしょうか。その男女が契りを交わした時、永遠の愛によって未来永劫結ばれる。真実の愛を育むことができる者たちだと、夢でそのようなお言葉を賜ったのです」
「……やはりな」
アルトナーは小さくつぶやいた。
「……あの、あなたは何をおっしゃりたいのですか?」
「要するに、『男女の愛は永遠』でも、それは必ずしもすべての者を等しく幸福にするわけではないということです」
アルトナーは巫女に答えると、執事が持ってきた本のうちの一冊を掲げた。
「こちらはヴィルイーンの歴史を現地の学者が編纂したものですが、ありがたいことに千年前のことについても記録が残っており、知りたいことが書かれていました。私も今確認したばかりですが……たとえば、千年前のヴィルイーンの二つの有力貴族が、抗争によって共倒れしたこととか。両家のうち、一方の家の令息と、もう一方の家の令嬢が、駆け落ちして国外へ落ち延びたこととか」
「アルトナー伯爵、だから君は何を……」
大司教の言葉を腕を伸ばしてさえぎり、彼は続ける。
「もちろんこれだけでは、単なる点、歴史の小さな一事実にしかすぎません。ですが、複数の事実をつなぎあわせることで、それらは線を為し、意味が生まれるのです」
アルトナーはもう一冊の本を掲げて言った。
「こちらは隣国アルデマイラの文献です。初代巫女が骨を埋めたというアルデマイラですので、当然彼女の記録も多く残っていました。ここには次のようなことが書かれています。『初代巫女は、ヴィルイーンより一組の男女を引き連れ、やって来た。その男女も神託を受けた夫婦であったという──』」
一旦呼吸を置いて、彼は言う。
「私は事前調査においてこのアルデマイラの文献を見つけ出し、それからヴィルイーンへと使いをやりました。最初に違和感を覚えたのは、初代巫女がヴィルイーンの出身だと聞いた時ですが、どうしてそのことが広く知られていないのか──おそらくこの男女に何かあると思い、そこを重点的に調べさせたのです。まあ、出自が知られていない理由は、巫女自身が語らなかったという単純なものでしたが。ですが、彼女が自らの出自を語らなかった──語りたくなかったその内情こそが──私が見つけた、巫女の神託が絶対ではない根拠なのです」
「神託が……絶対ではない……?」
「アルトナー伯爵、それはどういう──」
「結論を言いましょう。初代巫女とともにアルデマイラにやって来た男女。彼らこそ、ヴィルイーンで滅んだ二つの有力貴族の令息と令嬢だったのです。もともと両家は領地が隣接し、力関係も拮抗、何かと意識し合う関係にあった。だが、険悪というわけではなかった……少なくともある時までは。けれど、ある時──そう、令息と令嬢が神託を受けたまさしくその時に、両家の関係性は急展開を迎えることになるのです」
「! まさか……」
最初に言葉の意味に気付いて声を漏らしたのは、当代の神託の巫女。
「令息と令嬢が結ばれるとなれば、必然的に両家の間につながりが生まれる。とはいえ、つながってめでたしめでたしとはならない。その政略結婚は、千載一遇の好機にして危機でもあるからです。互いが結びつくその時に、自家が上であることを示さなければ、この先ずっと他家に押さえつけられたままとなってしまう。両家ともそのような思惑から行動し、最終的にはその憂慮が抗争へと発展する……。つまり、両家が共倒れになったのは、そのような経緯によってのことなのです」
「そんな……」
マルガレタがおののく。
後ろで話を聞いていた司教たちも、驚愕の表情となった。
要するに、初代巫女の預言が遠因となって二つの貴族家が潰し合ったのだ。
神託によって令嬢と令息は婚姻に至る。しかし、互いの家はその婚姻がきっかけで、本来しなくてもよかった争いを起こし、傷つけあってしまう。
言い換えれば、カップルたち当人は置いても、彼らの家は神託によって滅んだようなもの。
「二つの家は使用人なども含め、ほぼ全員が死亡したそうです。一方、令嬢と令息は初代巫女とともに、ヴィルイーンを出奔。三人が何を思って国を後にしたのかはわかりません。皮肉なのは……神託そのものに誤りはなく……男女二人は生涯夫婦として仲睦まじく過ごしたということでしょうか」
そこでアルトナーは本を閉じ、顔を上げた。
「つまり、神託は愛しあうべき男女を結びつけるものであっても、それ以外を保証するものではないということ。愛し合う二人の裏で何が起きようとも、そこまで神様は守ってくれない。それどころか悲劇の引き金になることもある……まあ、そんな感じで、我々はあなたの神託を拒否する理由があるということですよ」
言葉もない教会関係者たち。
その中でも特に巫女は、神託を拒まれたこと以上に、それが間接的でも人の命を奪ったことに大きく動揺したようだった。
続けてアルトナーはマルガレタに向き合って、今度は優しい声音で彼女に告げた。
「ところでマルガレタ嬢、今日は学園の卒業式のはずだけど、君のあこがれの先輩は確か最高学年じゃなかったかな? 式はともかく、午後からの卒業パーティーなら今から行っても間に合うと思うんだ。ここはもういいから、行っておいでよ」
幾度かのお茶会を経て、マルガレタと親しくなったアルトナーは、そう言ってくだけた口調で彼女に勧めた。
「お、憶えていらしたのですか……? で、ですが、神託のことは、私もこの場にいた方が……」
「大丈夫、私に任せて。こんなことより、君の学園生活の思い出の方がよっぽど大事だよ。さあ、早くしないと遅れちゃうから、さ」
「……! はい! ありがとうございます、おじさま!」
マルガレタは感激した様子で一礼し、きびすを返して走りだす。
それを見た巫女は「え、待って」と引き留めようとする。
アルトナーは巫女の視界を塞ぐように身を割り込ませると、令嬢がこの場を去った後、静かな声で言った。
「なあ、巫女殿。別に俺はあなたのことを疑っているわけじゃない。神託が嘘とも思わないし、悪意があるとも思ってない。でも、わかってほしいんだ」
「な、何を、ですか……」
「人が進む道は、自分で決めるからこそ意義があるということをさ。愛する誰かと一生を添い遂げられる……それはそれで素晴らしいことなんだろうが、自分で道を選べるということも、大事なことなんだよ」
「えっ……」と、言葉に詰まる巫女に、アルトナーは続ける。
「マルガレタ嬢を見ただろう? 彼女はまだ若い。恋愛関係も含めて、これからあの子はさまざまな選択をすることになるだろう。もちろんその中で、手痛い失敗をすることもあるかもしれない。けれど、人はそういう経験によって成長していくものなんだ。そしてそれは……自分で決めたことだからこそ、大きな糧となる」
「……自分で……決める……」
「まあ、貴族のご令嬢が自分で選べる場面なんてあまりないのかもしれないけど……だからこそ、少しでもあの子の可能性を閉ざしたくないんだよ」
「……あなたは……本当に彼女のことを……」
「……それにさ、何が最良の結婚かなんて、わからないとは思わないか? たとえば『激しく燃え上がる運命の相手と結ばれて、数年で死別』と、『最高に好きというわけでもないけど、それなりに平和に暮らして二人で大往生』、これ、どっちがいいと思う? 俺だったら……答えられないね」
「そ、それは……」
「だから、神が人の運命を決めるなんて、はっきり言っておこがましいんだよ。参考程度のアドバイスくらいなら、聞いてやってもいいけど」
「あ、アルトナー伯爵! 貴公は自分で何を言っているのか、わかっているのか!」
「ああ、そうだ。国教会の方々にも、ご報告しておきたいことがありましてね」
叫ぶ大司教へ被せるように、アルトナーは言う。
「こちらの巫女殿、あなた方と同じ赤茶の髪をしておられますが、ルーツは全然違いますよ。彼女が我々の国に来た経路はアルデマイラからですが、出身は南方のパルパマだったはず。同郷人を囲い込んで派閥の権力を高めたいとの思惑がお有りなら……恥をかくので、やめておいた方がよいかと」
「な、何!?」
大司教が驚いて振り返ると、巫女はきょとんとして「え、ええ。確かに私はパルパマの出身ですが……」と答えた。
「そ、そんな……!」
「ま、そういうことで。それじゃ、私もここらでおいとまさせてもらいます。こちらも忙しい身なので。趣味にね」
アルトナーはそう言って微笑むと、彼らに小さく会釈をした。
「お、おい! それでは我らの計画は最初から無意味だったことになるではないか!」
「いえ、その、申し訳ありません! ま、まさか巫女殿が南国人などとは思いもよらず……!」
大司教は部下を怒鳴りつけ、教会の面々は上司の激昂に慌てふためく。アルトナーと巫女には目もくれず。
ぎゃいぎゃいと男たちが騒ぐ中で、巫女は少しだけ考えるようにうつむいた後、背を向けるアルトナーを呼び止めた。
「……あの!」
「……何か?」
「それでは……あなたのおっしゃることが正しいのなら……私のやってきたことは、無駄だったのでしょうか……?」
「……そこまでは言っていませんよ。あなたが他者のために神託を役立てたいと思っているのは理解しています。ですが、だからこそ、それをどのように用いるかについても、慎重に判断して欲しいのです」
「……」
巫女はアルトナーの言葉を噛みしめるように押し黙る。
それから彼女は少しの間を置くと、何かを決意したように唇を引き結び、彼に言った。
「……わかりました。私にもまだ……何が正しいのかわかりませんが……もう少しだけ、考えてみます」
巫女の言葉にアルトナーは満足そうにうなずいて、「ありがとう」と返したのだった。
──そして、大聖堂での出来事から数日後のこと。
「お、おじさまぁ~……聞いて下さいますかぁ……。この時しかないと思って……卒業パーティーで先輩に告白したのですけど……。うぅ、振られてしまいましたぁー……」
アルトナーの屋敷にて。
恒例となったお茶会で、「ふぇえーん」とマルガレタの泣き声が響き渡る。
アルトナーは少し驚き、苦笑しつつも、「おぉ……それは頑張ったね」と彼女にねぎらいの言葉をかけた。
「んー……じゃあ、今日は残念会ということで、私の分のケーキもあげるよ。あ、でも、ヤケ食いはしないようにね」
「ありがとうございます……。……おいしい……おいしいですけど……うぅ、涙がしょっぱいですわ……」
初対面の時のようなかしこまった空気はなく、二人は打ち解けた様子で語り合う。
それはとても和やかに、穏やかに。
傍らで待機するアルトナーの執事は、そんな彼らのやり取りに、「お二方とも、やはり神託通り、相性はこの上なく良いのでは……?」と、声には出さず思ったのだった。
<おわり>