「お母さん、行ってくるね〜」
「お邪魔しました」
私は玄関から手を振る葵のお母さんに軽く頭を下げる。隣の葵は鼻歌を口ずさみながら歩き、楽しみで仕方ない様子が隠せていなかった。
……おかしくないかな。
今日は約束した祭りの日。浴衣は葵が手伝ってくれ、葵のお母さんに髪型までセットしてもらった。
申し訳ない気持ちになったけれど、葵のお母さんは「ひとりもふたりも変わらないわよ」と笑ってくれた。
おかげで準備は万端。美優に化粧までしてもらい、唇はぷるんと潤い、頬はほんのりピンクに、目元にはキラキラと光が宿っていた。
普段化粧なんてしない私が、急にメイクすると変じゃないだろうか。気合い入れすぎに見えたらどうしよう。今までは平気だったのに、こんなに気になるのは――付き合っているからなのかな。
「もうすぐ樹たち来るって」
私は最終チェックとして、もう一度鏡をのぞき込む。
私たちは神社に続く石段の前で、蒼空たちを待っていた。大通りまでの道には、すでにたくさんの人が集まっている。
「緊張する……」
「大丈夫! 絶対に『蒼空くん、美月ちゃんに釘付け作戦』は成功するから!」
私はそのネーミングセンスに呆れて、ため息をついた。
「おーい!」
遠くから聞き覚えのある声が響き、顔を上げると、手を振りながら走ってくる樹くんと、その後ろを歩く蒼空の姿があった。蒼空に会うのは、あの時以来だ。
「ごめん、人混みでなかなか進めなくて。待ったか?」
「ううん。全然、待ってないよ」
葵たちが楽しそうに会話を始める中、私はチラリと蒼空の顔を伺った。すると、蒼空は私を見て目を丸くした。やっぱり、変だったのかな。
急に恥ずかしくなり、私は地面に目を落とす。
「いい」
「えっ?」
頭の上から、ぽそりと声が聞こえた。ゆっくり顔を上げると――
「かわいい」
今度は私が目を丸くする番だった。蒼空は首に手を回し、視線を逸らしたまま、小さく呟いた。
私は知っていた。蒼空は昔から照れると首元を触る癖がある。でも、こんな風に耳を赤くする蒼空を見るのは初めてだった。
嬉しい――誰でもない、蒼空が言ってくれたから嬉しい。緊張が一気にほぐれ、自然と口元が緩んだ。
「なんだよ、にやにやして」
「べつにー」
私は笑いながら答える。
「ねぇ、ねぇ、浴衣どう?」
「うん。可愛いよ」
ふたりのやり取りが耳に入ってくる。葵も樹くんも、こんな会話に照れる様子もなく、話していた。ふたりともすごいな。
「よし、行くか」
私たちは明かりのあるほうへ歩き出した。近づくにつれて、太鼓の音が大きく響いてくる。そして一本の大通りに出ると――
「わぁ、すごい」
私は目を輝かせた。両側に屋台がずらりと並び、提灯の赤い光に照らされた人々で賑わっている。
「今年もすごい人だなー」
屋台を眺めながら歩く。かき氷、わたあめ、金魚すくい……やりたいことも食べたいものも多すぎて、目が回りそうだ。
「射的しよーぜ」
そう言って走る子供たちを目で追う。射的台には景品が並び、中にはゲーム機の箱もあった。昔、一度だけ挑戦したことを思い出す。
「あー、りんご飴あった!美月ちゃんのも買ってくるね」
葵は念願のりんご飴を見つけると、そちらへ走っていった。
「おっ、イカ焼き発見」
蒼空もふらりと歩き出す。
「おい、お前ら勝手に行くなよ」
樹くんと目が合い、ため息を吐かれた。
「お互い大変だな」
「だね」
私たちは人の邪魔にならないよう端に寄り、会話を続けた。樹くんと二人きりで少し気まずいかと思ったけれど、樹くんが話題を振ってくれたおかげで、全然そんなことはなかった。
「美月ちゃんって、蒼空のこと知ってるの?」
樹くんは、私を見ないままぽつりと言った。
「蒼空のこと?」
どういう意味かわからず、私は首を傾げる。
「……いや、なんでもない」
そう言って樹くんは笑った。その曖昧な言い方が少し気になったけれど、これ以上聞いても困らせるだけだと思い、口を閉じた。
「蒼空、本当に美月ちゃんのこと好きなんだよ」
「そ、そうかな」
「俺と話してるときもさ、あいつずっと視線は美月ちゃんのほう向いてるんだぜ」
「えっ、そんなの……知らなかった」
樹くんは「ひどいだろ」と言いながら笑った。
「だからさ。傍にいてやってほしいんだ」
「うん」
でも――私が蒼空を必要としていても、蒼空はきっとそうじゃない。これから先、蒼空はもっとたくさんの人と出会う。そのとき、隣にいるのが私じゃなくなるかもしれない。
「樹くんって、優しいね。……じゃあ、私からもお願い」
「なに?」
「美優と、仲良くしてあげて」
「ああ。それは大丈夫だ」
樹くんは「任せとけ」と親指を立てた。私が言わなくても、このふたりはきっと大丈夫だろう。
そして合流した私たちは、歩きながらかき氷を食べたり、水風船や金魚すくいを楽しんで祭りを満喫した。
「あいつらは?」
「わかんない。どこいっちゃったんだろ」
「まぁ、あいつらもふたりでいたいんじゃね?」
確かに。本当はふたりで来る予定だったのだろうし、このままでも少し気楽だ。
その時、蒼空がふと思い出したように「あっ」と言い、携帯を取り出した。
「早く、行くぞ」
「どこに?」
「秘密」
そう言うと、蒼空はそっと私の手を握った。握られた手を見つめると、頬が赤く染まるのが自分でもわかった。
「よし、登るか」
蒼空が指し示すのは、神社に続く石段だった。私たちは一段一段、ゆっくりと登っていく。遠くから、祭りの賑やかな音がかすかに聞こえてくる。
ここに何の用があるんだろう。そう考えながら最後の一段を登りきった。
「おぉ、ぴったりだ」
蒼空は再び携帯を取り出しそう言った。
「何がぴったりなの?」
私が尋ねた瞬間、ヒュ〜と音が響く。顔を上げると、夜空に花火が大きく咲いていた。
「花火……」
思わず呟いた私に、蒼空は笑いながら言う。
「ほら、ぴったりだろ?」
「知らなかった……花火が上がるなんて」
ここからなら花火がきれいに見える。誰もいない。蒼空と二人で見る夜空は、特別に感じられた。
蒼空はお賽銭箱の前にある階段に腰を下ろし、私に促す。
「お前も座れよ」
私は神様に「お邪魔します」と言い、隣に座った。花火は形を変えながら次々に打ち上がり、体の中まで響く大きな音と共に夜空を染める。
「ちゃんと花火を見たの、久しぶりだな」
普段はアパートから微かに聞こえる音だけで、花火を見ることなんてほとんどなかった。私たちはしばらく、言葉も交わさず花火を眺めていた。
時間が経つにつれ、鮮やかだった花火は徐々に儚く消えていく。美しく咲いた花火が暗い夜空に溶けていく。まだ終わらないでほしい──そう思っていると、置いていた手に蒼空の手が触れ、指を絡めてきた。
でも、私の願いは届かないまま、花火はクライマックスを迎え、次々と夜空を彩る。
花火が終わると、辺りはしんと静まり返った。
「終わっちゃったね」
少し名残惜しそうに呟くと、蒼空は「あぁ」と短く答えた。
「ねぇ、蒼空」
「ん?」
「来年も一緒に来てくれる?」
断られたらどうしよう──小さな言葉に勇気を振り絞る。蒼空の顔を見上げると、少し考え込むように口を閉じたが、すぐに微笑んだ。
「……そうだな。来年も一緒に来よう」
◆
「葵、大丈夫かな」
「まぁ、樹がいるから大丈夫でしょ」
私たちはそう会話しながら、帰りの夜道を歩いていた。花火も終わり、葵たちと合流しようとしたら、葵は靴擦れしたため先に送って帰ると連絡があった。
バス停に向かうと、たくさんの人が並んでいた。一回では乗れそうになく、私たちは歩いて帰ることにした。
「あっ、そういえば、蒼空に借りてた本、まだ返してないよね」
「あんなの、いつでもいいよ」
「だめだよ。私、すぐ忘れちゃうから。返せるときに返さないと」
私は、少し前に借りた本を返そうと、階段を駆け足で上った。その後ろから、蒼空がゆっくりと続く。
カバンから鍵を出し、ドアを開けようとして――手が止まった。
あれ、鍵が開いてる。
閉め忘れた?
いや、ちゃんと確認したはずだ。
胸の奥に嫌な予感が広がる。私はその可能性を打ち消せないまま、そっとドアを開けた。
「どうした」
追いついた蒼空が声をかける。
玄関には、いつものお母さんの靴と、その隣に一回り大きい男性の靴が並んでいた。
「……お母さんと、お客さんの靴みたい」
お母さんが客を家に連れてくること自体は珍しくない。
ただ、そのたびに私は「子供がいると面倒だから」と外に出される。
「やっぱり、本、また今度でもいい?」
「それは、いつでもいいけど」
「ごめんね。送ってくれて、ありがとう」
何か言いかけた蒼空の言葉にかぶせるように言った。
家に入れないなんて言えないし、これ以上迷惑もかけたくなかった。
「おい」
「下までついてくよ」
私は蒼空の背中をぐいぐい押して、階段を降りさせようとする。
「美月、話を聞けよ」
その瞬間、腕をぎゅっと掴まれた。
蒼空は、いつになく真剣な顔で、まっすぐ私を見つめていた。
「家に入れないんじゃないのか」
真っ直ぐな瞳に嘘はつけず、私は軽く頷いた。
「でも、すぐ出ていくと思うし、大丈夫だよ」
そんな私の言葉も、蒼空には届いていないようだった。何かを考え込んでいる。
「よし、今から俺の家来いよ」
「えっ?」
「いや、変な意味じゃねぇからな。お母さんもいるし」
「そうじゃなくて……そんな勝手に、申し訳ないよ」
「昔はよく来てたじゃん。それに、うちの母さんがそんなこと気にしないタイプだって知ってるだろ」
そう言うと、今度は逆に蒼空が私の背中をぐいぐい押して、階段を降りていった。
◆
「ただいま」
「……お邪魔します」
結局、来てしまった。久しぶりの蒼空の家に緊張しながら玄関を開ける。
「おかえり。遅かったわね」
廊下から現れた蒼空のお母さんが、柔らかく微笑んで言った。
「えっ、もしかして、美月ちゃん!」
「美咲さん……こんな時間に、すみません」
蒼空の後ろにいた私に、目を向けて驚いた様子の美咲さん。
蒼空の後ろにいた私に目を向け、驚いた様子で美咲さんが言った。
「もー、美月ちゃん! 久しぶり。どうしたの?」
そう言って駆け寄ってくる美咲さんに、蒼空が簡単に状況を説明してくれた。
「そうだったの。うちはいつまでいてくれても全然構わないからね」
美咲さんはにっこり微笑んだ。昔と変わらず、優しくて温かい。私のことをいつも気にかけてくれる。
「それにしても、大きくなったね」
「母さん、こんな玄関で話し出すなよ」
「あら、ごめんなさい。もう歳なのかしら。つい立ち話しちゃうのよね」
そう言いながら美咲さんはリビングへ案内してくれた。
「何か食べたりする?」
「いいよ、食べてきたから」
お茶を入れながら、美咲さんに蒼空は答える。
「母さん、樹が近くまで来てるみたいだから、ちょっと出てくる。美月、頼んだ」
「いいけど、できるだけ早く帰ってくるのよ」
「わかった」
蒼空は「悪い、すぐ戻る」と言い残し、家を出ていった。
リビングには美咲さんと、私だけが残された。
「蒼空ね、家でいつも美月ちゃんの話してるのよ」
「えっ、私のですか?」
美咲さんは、以前聞いた話を思い出すようににこにこと話を続けた。
「あとね、ずっと聞きたかったことがあるんだけど…」
「なんですか?」
そう聞くと、美咲さんは少しニヤニヤしながら私の顔を見つめてきた。なんの話だろう、思いながら私は目の前に出されたお茶を手に取った。
「蒼空と美月ちゃん、付き合ってるでしょ」
「ンっ!」
突然の話に、口に入れていたお茶が飛び出しそうになった。慌てて手で口を抑え、なんとか飲み込む。
「し、知ってたんですか?」
「やっぱり、そうなのね!」
驚く私に、美咲さんは嬉しそうに微笑んだ。
「これは親の勘よ」
「すごいですね……」
「当たり前よ。十六年間あの子の母親やってるんだから」
美咲さんは得意げに胸を張った。
「美月ちゃん、これからも蒼空のこと、よろしくね」
向かい合って座る美咲さんは、机の上にある私の手をぎゅっと握り、優しい笑みを浮かべた。
「いえ、そんな…こちらこそ」
あらたまった言葉に、私は少し戸惑いながらも精一杯の笑顔で返した。
その後は、なかなか戻ってこない蒼空を待ちながら、美咲さんと昔の私たちの写真を見せてもらった。けれど、蒼空が帰ってくる前に私は家に帰ることにした。
蒼空はまだ帰ってこないけど、樹くんと長話でもしてるのかな。
それにしても美咲さんは本当に優しい人だ。でも、「これからもよろしくね」って言ったあの笑顔が、なぜか少し切なくも見えたのはどうしてだろう。
「星、見えないなぁ」
夜空を見上げると、星はひとつも見えない。曇っているのか、ただ時間が遅いのか、空は真っ黒だった。
「お邪魔しました」
私は玄関から手を振る葵のお母さんに軽く頭を下げる。隣の葵は鼻歌を口ずさみながら歩き、楽しみで仕方ない様子が隠せていなかった。
……おかしくないかな。
今日は約束した祭りの日。浴衣は葵が手伝ってくれ、葵のお母さんに髪型までセットしてもらった。
申し訳ない気持ちになったけれど、葵のお母さんは「ひとりもふたりも変わらないわよ」と笑ってくれた。
おかげで準備は万端。美優に化粧までしてもらい、唇はぷるんと潤い、頬はほんのりピンクに、目元にはキラキラと光が宿っていた。
普段化粧なんてしない私が、急にメイクすると変じゃないだろうか。気合い入れすぎに見えたらどうしよう。今までは平気だったのに、こんなに気になるのは――付き合っているからなのかな。
「もうすぐ樹たち来るって」
私は最終チェックとして、もう一度鏡をのぞき込む。
私たちは神社に続く石段の前で、蒼空たちを待っていた。大通りまでの道には、すでにたくさんの人が集まっている。
「緊張する……」
「大丈夫! 絶対に『蒼空くん、美月ちゃんに釘付け作戦』は成功するから!」
私はそのネーミングセンスに呆れて、ため息をついた。
「おーい!」
遠くから聞き覚えのある声が響き、顔を上げると、手を振りながら走ってくる樹くんと、その後ろを歩く蒼空の姿があった。蒼空に会うのは、あの時以来だ。
「ごめん、人混みでなかなか進めなくて。待ったか?」
「ううん。全然、待ってないよ」
葵たちが楽しそうに会話を始める中、私はチラリと蒼空の顔を伺った。すると、蒼空は私を見て目を丸くした。やっぱり、変だったのかな。
急に恥ずかしくなり、私は地面に目を落とす。
「いい」
「えっ?」
頭の上から、ぽそりと声が聞こえた。ゆっくり顔を上げると――
「かわいい」
今度は私が目を丸くする番だった。蒼空は首に手を回し、視線を逸らしたまま、小さく呟いた。
私は知っていた。蒼空は昔から照れると首元を触る癖がある。でも、こんな風に耳を赤くする蒼空を見るのは初めてだった。
嬉しい――誰でもない、蒼空が言ってくれたから嬉しい。緊張が一気にほぐれ、自然と口元が緩んだ。
「なんだよ、にやにやして」
「べつにー」
私は笑いながら答える。
「ねぇ、ねぇ、浴衣どう?」
「うん。可愛いよ」
ふたりのやり取りが耳に入ってくる。葵も樹くんも、こんな会話に照れる様子もなく、話していた。ふたりともすごいな。
「よし、行くか」
私たちは明かりのあるほうへ歩き出した。近づくにつれて、太鼓の音が大きく響いてくる。そして一本の大通りに出ると――
「わぁ、すごい」
私は目を輝かせた。両側に屋台がずらりと並び、提灯の赤い光に照らされた人々で賑わっている。
「今年もすごい人だなー」
屋台を眺めながら歩く。かき氷、わたあめ、金魚すくい……やりたいことも食べたいものも多すぎて、目が回りそうだ。
「射的しよーぜ」
そう言って走る子供たちを目で追う。射的台には景品が並び、中にはゲーム機の箱もあった。昔、一度だけ挑戦したことを思い出す。
「あー、りんご飴あった!美月ちゃんのも買ってくるね」
葵は念願のりんご飴を見つけると、そちらへ走っていった。
「おっ、イカ焼き発見」
蒼空もふらりと歩き出す。
「おい、お前ら勝手に行くなよ」
樹くんと目が合い、ため息を吐かれた。
「お互い大変だな」
「だね」
私たちは人の邪魔にならないよう端に寄り、会話を続けた。樹くんと二人きりで少し気まずいかと思ったけれど、樹くんが話題を振ってくれたおかげで、全然そんなことはなかった。
「美月ちゃんって、蒼空のこと知ってるの?」
樹くんは、私を見ないままぽつりと言った。
「蒼空のこと?」
どういう意味かわからず、私は首を傾げる。
「……いや、なんでもない」
そう言って樹くんは笑った。その曖昧な言い方が少し気になったけれど、これ以上聞いても困らせるだけだと思い、口を閉じた。
「蒼空、本当に美月ちゃんのこと好きなんだよ」
「そ、そうかな」
「俺と話してるときもさ、あいつずっと視線は美月ちゃんのほう向いてるんだぜ」
「えっ、そんなの……知らなかった」
樹くんは「ひどいだろ」と言いながら笑った。
「だからさ。傍にいてやってほしいんだ」
「うん」
でも――私が蒼空を必要としていても、蒼空はきっとそうじゃない。これから先、蒼空はもっとたくさんの人と出会う。そのとき、隣にいるのが私じゃなくなるかもしれない。
「樹くんって、優しいね。……じゃあ、私からもお願い」
「なに?」
「美優と、仲良くしてあげて」
「ああ。それは大丈夫だ」
樹くんは「任せとけ」と親指を立てた。私が言わなくても、このふたりはきっと大丈夫だろう。
そして合流した私たちは、歩きながらかき氷を食べたり、水風船や金魚すくいを楽しんで祭りを満喫した。
「あいつらは?」
「わかんない。どこいっちゃったんだろ」
「まぁ、あいつらもふたりでいたいんじゃね?」
確かに。本当はふたりで来る予定だったのだろうし、このままでも少し気楽だ。
その時、蒼空がふと思い出したように「あっ」と言い、携帯を取り出した。
「早く、行くぞ」
「どこに?」
「秘密」
そう言うと、蒼空はそっと私の手を握った。握られた手を見つめると、頬が赤く染まるのが自分でもわかった。
「よし、登るか」
蒼空が指し示すのは、神社に続く石段だった。私たちは一段一段、ゆっくりと登っていく。遠くから、祭りの賑やかな音がかすかに聞こえてくる。
ここに何の用があるんだろう。そう考えながら最後の一段を登りきった。
「おぉ、ぴったりだ」
蒼空は再び携帯を取り出しそう言った。
「何がぴったりなの?」
私が尋ねた瞬間、ヒュ〜と音が響く。顔を上げると、夜空に花火が大きく咲いていた。
「花火……」
思わず呟いた私に、蒼空は笑いながら言う。
「ほら、ぴったりだろ?」
「知らなかった……花火が上がるなんて」
ここからなら花火がきれいに見える。誰もいない。蒼空と二人で見る夜空は、特別に感じられた。
蒼空はお賽銭箱の前にある階段に腰を下ろし、私に促す。
「お前も座れよ」
私は神様に「お邪魔します」と言い、隣に座った。花火は形を変えながら次々に打ち上がり、体の中まで響く大きな音と共に夜空を染める。
「ちゃんと花火を見たの、久しぶりだな」
普段はアパートから微かに聞こえる音だけで、花火を見ることなんてほとんどなかった。私たちはしばらく、言葉も交わさず花火を眺めていた。
時間が経つにつれ、鮮やかだった花火は徐々に儚く消えていく。美しく咲いた花火が暗い夜空に溶けていく。まだ終わらないでほしい──そう思っていると、置いていた手に蒼空の手が触れ、指を絡めてきた。
でも、私の願いは届かないまま、花火はクライマックスを迎え、次々と夜空を彩る。
花火が終わると、辺りはしんと静まり返った。
「終わっちゃったね」
少し名残惜しそうに呟くと、蒼空は「あぁ」と短く答えた。
「ねぇ、蒼空」
「ん?」
「来年も一緒に来てくれる?」
断られたらどうしよう──小さな言葉に勇気を振り絞る。蒼空の顔を見上げると、少し考え込むように口を閉じたが、すぐに微笑んだ。
「……そうだな。来年も一緒に来よう」
◆
「葵、大丈夫かな」
「まぁ、樹がいるから大丈夫でしょ」
私たちはそう会話しながら、帰りの夜道を歩いていた。花火も終わり、葵たちと合流しようとしたら、葵は靴擦れしたため先に送って帰ると連絡があった。
バス停に向かうと、たくさんの人が並んでいた。一回では乗れそうになく、私たちは歩いて帰ることにした。
「あっ、そういえば、蒼空に借りてた本、まだ返してないよね」
「あんなの、いつでもいいよ」
「だめだよ。私、すぐ忘れちゃうから。返せるときに返さないと」
私は、少し前に借りた本を返そうと、階段を駆け足で上った。その後ろから、蒼空がゆっくりと続く。
カバンから鍵を出し、ドアを開けようとして――手が止まった。
あれ、鍵が開いてる。
閉め忘れた?
いや、ちゃんと確認したはずだ。
胸の奥に嫌な予感が広がる。私はその可能性を打ち消せないまま、そっとドアを開けた。
「どうした」
追いついた蒼空が声をかける。
玄関には、いつものお母さんの靴と、その隣に一回り大きい男性の靴が並んでいた。
「……お母さんと、お客さんの靴みたい」
お母さんが客を家に連れてくること自体は珍しくない。
ただ、そのたびに私は「子供がいると面倒だから」と外に出される。
「やっぱり、本、また今度でもいい?」
「それは、いつでもいいけど」
「ごめんね。送ってくれて、ありがとう」
何か言いかけた蒼空の言葉にかぶせるように言った。
家に入れないなんて言えないし、これ以上迷惑もかけたくなかった。
「おい」
「下までついてくよ」
私は蒼空の背中をぐいぐい押して、階段を降りさせようとする。
「美月、話を聞けよ」
その瞬間、腕をぎゅっと掴まれた。
蒼空は、いつになく真剣な顔で、まっすぐ私を見つめていた。
「家に入れないんじゃないのか」
真っ直ぐな瞳に嘘はつけず、私は軽く頷いた。
「でも、すぐ出ていくと思うし、大丈夫だよ」
そんな私の言葉も、蒼空には届いていないようだった。何かを考え込んでいる。
「よし、今から俺の家来いよ」
「えっ?」
「いや、変な意味じゃねぇからな。お母さんもいるし」
「そうじゃなくて……そんな勝手に、申し訳ないよ」
「昔はよく来てたじゃん。それに、うちの母さんがそんなこと気にしないタイプだって知ってるだろ」
そう言うと、今度は逆に蒼空が私の背中をぐいぐい押して、階段を降りていった。
◆
「ただいま」
「……お邪魔します」
結局、来てしまった。久しぶりの蒼空の家に緊張しながら玄関を開ける。
「おかえり。遅かったわね」
廊下から現れた蒼空のお母さんが、柔らかく微笑んで言った。
「えっ、もしかして、美月ちゃん!」
「美咲さん……こんな時間に、すみません」
蒼空の後ろにいた私に、目を向けて驚いた様子の美咲さん。
蒼空の後ろにいた私に目を向け、驚いた様子で美咲さんが言った。
「もー、美月ちゃん! 久しぶり。どうしたの?」
そう言って駆け寄ってくる美咲さんに、蒼空が簡単に状況を説明してくれた。
「そうだったの。うちはいつまでいてくれても全然構わないからね」
美咲さんはにっこり微笑んだ。昔と変わらず、優しくて温かい。私のことをいつも気にかけてくれる。
「それにしても、大きくなったね」
「母さん、こんな玄関で話し出すなよ」
「あら、ごめんなさい。もう歳なのかしら。つい立ち話しちゃうのよね」
そう言いながら美咲さんはリビングへ案内してくれた。
「何か食べたりする?」
「いいよ、食べてきたから」
お茶を入れながら、美咲さんに蒼空は答える。
「母さん、樹が近くまで来てるみたいだから、ちょっと出てくる。美月、頼んだ」
「いいけど、できるだけ早く帰ってくるのよ」
「わかった」
蒼空は「悪い、すぐ戻る」と言い残し、家を出ていった。
リビングには美咲さんと、私だけが残された。
「蒼空ね、家でいつも美月ちゃんの話してるのよ」
「えっ、私のですか?」
美咲さんは、以前聞いた話を思い出すようににこにこと話を続けた。
「あとね、ずっと聞きたかったことがあるんだけど…」
「なんですか?」
そう聞くと、美咲さんは少しニヤニヤしながら私の顔を見つめてきた。なんの話だろう、思いながら私は目の前に出されたお茶を手に取った。
「蒼空と美月ちゃん、付き合ってるでしょ」
「ンっ!」
突然の話に、口に入れていたお茶が飛び出しそうになった。慌てて手で口を抑え、なんとか飲み込む。
「し、知ってたんですか?」
「やっぱり、そうなのね!」
驚く私に、美咲さんは嬉しそうに微笑んだ。
「これは親の勘よ」
「すごいですね……」
「当たり前よ。十六年間あの子の母親やってるんだから」
美咲さんは得意げに胸を張った。
「美月ちゃん、これからも蒼空のこと、よろしくね」
向かい合って座る美咲さんは、机の上にある私の手をぎゅっと握り、優しい笑みを浮かべた。
「いえ、そんな…こちらこそ」
あらたまった言葉に、私は少し戸惑いながらも精一杯の笑顔で返した。
その後は、なかなか戻ってこない蒼空を待ちながら、美咲さんと昔の私たちの写真を見せてもらった。けれど、蒼空が帰ってくる前に私は家に帰ることにした。
蒼空はまだ帰ってこないけど、樹くんと長話でもしてるのかな。
それにしても美咲さんは本当に優しい人だ。でも、「これからもよろしくね」って言ったあの笑顔が、なぜか少し切なくも見えたのはどうしてだろう。
「星、見えないなぁ」
夜空を見上げると、星はひとつも見えない。曇っているのか、ただ時間が遅いのか、空は真っ黒だった。



