太陽がぎらぎらと輝き、肌が焼けてしまいそうな暑さに、私は小さくため息を吐いた。
少し離れた場所から、体育の授業を見学している。
サボっていると言われれば、そうなのかもしれない。でも仕方がない。体育の授業には、友達がいない私にとって地獄のような時間がある。
今日の種目はサッカーで、男子たちがやたらと盛り上がっている。
私は日陰に立ち、試合をぼんやりと眺めていた。
男子って、どうしてあんなにみんなサッカーができるんだろう。
「うわぁ、蒼空くんサッカーできるとか、かっこよすぎる」
きゃっきゃと弾んだ声が聞こえてきて、視線の先を追う。
そこには、試合に出ている蒼空の姿があった。
気づけば、私も無意識に目で追っていた。
ちょうど蒼空にボールが回る。
相手をひとり、またひとりと軽やかにかわしながら前へ進み、ゴール前まで運ぶと——
蒼空は迷いなく、ボールの芯を蹴り抜いた。
キーパーの手に触れることなく、ボールはネットを揺らす。
蒼空のもとへ、次々とクラスメイトが駆け寄り、ハイタッチを交わす。
その輪の中心で笑っている蒼空は、やっぱり楽しそうだった。
上手いのも無理はない。
蒼空は小学生の頃からサッカー一筋で、中学では一年生ながらレギュラーとして活躍し、県大会にも出場していた。
「蒼空くんがサッカー部だったら、私、絶対マネージャーやってたのに」
「あんなに上手なのに、どうして入らなかったんだろうね」
女子たちの会話に、思わず「えっ」と声が漏れた。
——サッカー部じゃ、ない?
私はてっきり、蒼空は今もサッカー部にいるものだと思っていた。
あんなに好きだったのに。
あんなに楽しそうだったのに。
どうしてだろう。
理由がわからないまま、私は蒼空を見つめていた。
すると、視線に気づいた蒼空が、こちらを見てにっと笑い、
小さくガッツポーズをしてみせた。
◆◆◆
「購買、早くしないとなくなっちゃうよ」
昼休みになると、廊下を駆ける足音が一斉に響く。
私はいつもの空き教室で、ひとり静かに弁当箱を開いていた。
——どうしてここか。
少し前、梨沙に弁当をばらまかれたことがある。
そんなときに、偶然この教室を見つけた。
机と椅子があって、普段は誰も使わない。鍵も壊れていて、出入り自由。
——私には、ちょうどよかった。
今日も、いつも通りだと思っていた。
けれど、ふと横に視線をやる。
「腹減ったー」
「なんで、ここにいるの」
「いやー、樹が今日は彼女と昼食べるって言うからさ。だから、お前と食おうかなって」
蒼空はそう言って、何でもないことのように「いただきまーす」と弁当の蓋を開けた。
私から見て、樹くんはたぶん蒼空と一番仲のいい友達だ。話したことはないけれど、クラス代表をやっているところを見ると、きっと頼れる人なんだろうと思う。
……付き合ってたんだ。
正直、少しだけ驚いた。
でもそれもそうか。
樹くんは、蒼空と並ぶクラスのイケメン枠だ。
樹くんがいなくても、蒼空と一緒に昼を食べたい子なんて、きっと山ほどいる。
なのに、どうして——。
「梨沙のこともあるし……学校では、あんまり話さない方が……」
言いかけて、言葉が濁る。
蒼空は箸を止め、私を見た。
「なんでだよ」
即答だった。
「関係ないだろ?」
蒼空が、まるで約束していたみたいに、私の前へ机を寄せて座り、弁当箱を置く。
——梨沙は蒼空のことが好きだ。
この状況を見られたら、終わるのは私のほうだ。
蒼空は、それに気づいていないのだろうか。
それとも、気づいていて気にしていないだけなのか。
答えの出ない疑問を抱えたまま、私は弁当を食べ終えた。
「蒼空って、サッカー部に入らなかったんだね」
前から気になっていたことを、思い切って口にする。
すると、蒼空の箸がぴたりと止まった。
「あー……高校って、なにかと忙しいしさ」
一拍置いてから、蒼空は続ける。
「卒業後も続けるわけじゃねぇし」
それだけ言って、何事もなかったように再び箸を動かす。
——本当に、それだけ?
授業中、あんなに楽しそうにボールを追っていたくせに。
私は昔から、蒼空の試合を見るのが好きだった。
夢中になって走る姿が眩しくて、
その背中に影響されて、私もサッカーを始めたくらいなのに。
もう、ああいう蒼空は見られないのだろうか。
そう思うと、胸の奥が、少しだけ静かに沈んだ。
◆
「来週あたりから文化祭の準備に入る。その前に、まずはクラスの出し物を決める」
先生はチョークで、カッ、カッと音を立てながら黒板に『文化祭の出し物』と書いた。
文化祭か。高校に入れば、自然と青春が始まるものだと思っていた。
クラスで笑って、文化祭で盛り上がって。そんな当たり前の光景を、疑いもせずに思い描いていた。
でも、今の私はそこからかけ離れた場所にいる。
これが現実なんだ、と改めて思う。
「じゃあ、案のある奴はいるか」
先生の声を合図に、教室が一気にざわめき出す。楽しそうに話す声が、あちこちから聞こえてきた。
その輪の外で、私はただ机の上を見つめていた。
「メイド喫茶がいいでーす」
「俺はお化け屋敷!」
「パンケーキつくりたいなぁ」
次々に飛び出す、いかにも文化祭らしい意見。先生はそれらを一つずつ、黒板にまとめていく。
「私は劇がいいなぁ」
一通り意見が出揃った、そのとき。
梨沙が、迷いのない動きで手を挙げた。
教室の空気が、少しだけ梨沙のほうへ傾く。
「私たちも、劇がいいでーす」
梨沙の周りから、すぐに同調する声が上がった。
「メイド喫茶は、隣のクラスがやるみたいなこと言ってたし。お化け屋敷も、前回のクラス失敗したらしいしさ。パンケーキなんて、予算以内でやったら大したもの作れないでしょ?」
梨沙は、もっともらしい理由を次々と並べ立てる。
「みんな、劇でいいよね?」
確認というより、決定事項みたいな口調。
「……反対するやつもいないなら、劇にするが」
吉田先生がそう言うと、男子たちも案外乗り気らしく、結局、反対の声はひとつも上がらなかった。
さっきまで別の案を出していた子たちは、どこか納得していない顔をしている。
劇なんて、苦手な子も多いはずなのに。
そのあと先生は急用で職員室に呼ばれ、流れで文化祭実行委員の樹くんが、話を引き継いだ。
この学校では、劇は童話と決まっている。
いくつか候補を出して、多数決で決めることになり——
結果、私たちのクラスはシンデレラをやることになった。
「まずは王子様役をやりたい人、いるか?」
樹くんがそう言うが、誰も手を挙げない。
こういう役は、自分から名乗り出るにはハードルが高い。
みんな、周囲の様子を窺うように視線だけを動かしている。
「王子様役は、やっぱり蒼空がいいと思いまーす」
沈黙を破ったのは、また梨沙だった。
「蒼空が適任だろ」
「蒼空くんが王子様とか、絶対かっこいいよね」
「蒼空が王子とかおもしれぇ」
そう梨沙が指名すると周りの人達も蒼空に賛成して、盛り上がっていく。さすが蒼空だ。誰も反対する人がいない。
「蒼空。みんながこう言ってるけど、どうだ?」
樹くんが確認するように、蒼空へ視線を向ける。
すると当の本人は、眠そうにあくびをひとつ噛み殺し、
だるそうに顔を上げた。
「はぁ? 絶対、めんどくせぇやつじゃん。やだよ」
「そんなこと言わずに、やれよー」
クラスの声は蒼空に向いていたけど、本人がはっきり嫌がったことで、その場はひとまず保留になった。
「じゃあ、シンデレラ役をやりたい人いる?」
樹くんの問いかけに、遥と芽衣がほぼ同時に手を挙げる。
「シンデレラなら、梨沙がいいんじゃない?」
二人にそう言われて、梨沙は楽しそうに目を細め、にこにこしながら手を挙げた。
「私でもいいけど……美月ちゃんなんか、どうかなーって」
いきなりここで一番、名前が上がらないであろう自分の名前が呼ばれ、私は下を向いていた顔を勢いよく上げた。誰も思っていなかった言葉にクラス中が静まり返った。きっ、気まずい。
梨沙は、私の方をちらちらと見ながら、楽しそうに、ほんの少し口角を上げていた。
……やっぱり。
私に恥をかかせたいだけなんだ。
「中野さんは、ちょっとね」
「梨沙の方がいいだろ」
周りから、そんな声がぽつぽつと聞こえてくる。
……だよね。
梨沙がさっき、あんなに劇を押した理由も、分かりきっていた。
王子様は蒼空で、自分がシンデレラ。
そうなれば放課後の練習で、一緒にいる時間が増える。
最初から、私をシンデレラにするつもりなんてなかったはずだ。
次々と重なる反対の声に、私は自然と顔を俯かせた。
そのとき。
「美月がシンデレラなら、俺やっぱ王子役やるわ」
一瞬、教室の空気が止まった。
ざわめきが引いて、
今度は、全員の視線が蒼空に集まる。
「……え?」
梨沙が、明らかに想定外だという顔で声を漏らす。
「美月だよ? 演技なんて、絶対無理でしょ」
軽く笑いながら言うその声が、さっきより少し尖って聞こえた。
「俺も、美月ちゃんでいいと思うけどな」
ざわついていた教室の中で、はっきりとそう言ったのは樹くんだった。
思わず声が漏れて、私は顔を上げる。
「わ、私も……シンデレラは美月ちゃんにやってほしいです」
少し震えた声。
声のした方を見ると、やっぱり葵だった。
恥ずかしそうにそれでも私の方を見て頷いてくれる。
「それで蒼空が王子やるなら、美月ちゃんしかないっしょ」
「演技なんて、練習すればどうにかなるって」
一人の男子が軽く言うと、それをきっかけに、周りからも賛同の声が重なっていく。
さっきまで、胸に重くのしかかっていた空気が、少しずつ、でも確かに変わっていくのが分かった。
――気がつけば。
教室は、さっきまでの張り詰めた雰囲気が嘘みたいに、明るいざわめきに包まれていた。
「美月ちゃん、やってくれる?」
樹くんにそう聞かれて、教室中の視線が一斉に私に集まった。
――いつもなら、息が詰まりそうになる視線。
でも今は、なぜか逃げ出したい気持ちにはならなかった。
「……うん。私でよければ」
「じゃあ、シンデレラ役は美月ちゃんに決定な」
樹くんの声が教室に響く。
黒板に、役名と名前が書かれていく。
王子様役 矢野 蒼空
シンデレラ役 中野 美月
――本当に、書かれている。
私の名前が、主役の下に。
教室に差し込む太陽の光が、やけに眩しかった。
顔を上げると、蒼空がこちらを見ていた。
逆光の中で、蒼空は口だけを動かす。
「やったな」
そう言って、ふっと笑う。
蒼空が言ってくれなかったら。
蒼空が手を伸ばしてくれなかったら。
きっと私は、また笑われて、俯いたまま終わっていた。
それからは、意地悪な継母役や魔女役も滞りなく決まり、次の時間には衣装班や小道具班の振り分けも終わっていた。
「さようなら〜」
みんながぞろぞろと教室を出ていくなか、私も鞄を肩にかけた。
「美月ちゃん!」
呼び止められて足を止める。振り返ると、少し気まずそうに私を見つめる葵が立っていた。
「えっと……さっきは、勝手にごめんね。今考えたら、美月ちゃん嫌だったかもって思って」
「ううん。全然そんなことないよ」
本心だった。私は小さく首を振る。
葵の強張っていた肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。
「美月ちゃん、その……ご、ごめんね!」
葵は急に背筋を伸ばし、勢いよく頭を下げた。
「今まで、美月ちゃんのこと見て見ぬふりしてて……今さら、自分勝手だって思うかもしれないけど、私、ずっと後悔してて」
頭を下げたまま、葵は私の返事を待っていた。
一生懸命さが、痛いほど伝わってくる。
「……うん。いいよ」
私はしっかりと葵の目を見て答えた。
「えっ……いいの?」
驚いたように、葵は目を見開く。
「葵、自分から言ったのに、なにその顔」
思わずクスッと笑ってしまった。
――あ。馴れ馴れしすぎたかな。
不安になって葵の表情をうかがうと、彼女は目を丸くして、嬉しそうに笑っていた。
「私、あの時のこと……ずっと言いたくて。助けてくれて、ありがとう」
そう言って、葵は私の両手をぎゅっと握った。
その温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。あのときの自分は、間違っていなかった、そう思えた。
「葵〜、部活行こー!」
廊下から声がかかる。どうやら隣のクラスの友達らしい。
「美月ちゃん、またね」
「うん。また明日」
葵は手を振り、明るい足取りで廊下へ出ていった。
……少しずつ、いい方向に進んでるのかもしれない。
私は、さっきまで葵に握られていた手を見つめた。
「みーづきちゃん」
その瞬間。
背中越しに聞こえた声に、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
振り返らなくても分かる。
「ねぇ、調子乗らないでって言ったよね」
やっぱり。梨沙が仁王立ちで、私を見下ろしていた。
「あ、まさか蒼空が自分のこと好きかも〜とか、勘違いしてる感じ?」
「自意識過剰すぎ」
「ほんと、みんな迷惑してんだよね」
何も言えずにいる私を、梨沙たちは楽しそうに笑う。
梨沙が手を伸ばした。
――掴まれる。
そう思って一歩下がろうとした、そのとき。
「美月ー、早く帰ろうぜ」
教室のドアから顔を出したのは、蒼空だった。
蒼空は状況を察したように、私と梨沙の間に割って入る。
「梨沙。俺らもう帰るから。話ならまた今度な」
「……わかった。蒼空、またね」
梨沙は蒼空に笑顔を向け、最後に私を睨みつけてから去っていった。
――助かった。
気が抜けた私の手には、なぜかコンビニのアイス。
気づけば、蒼空に奢ってもらっていた。
私はしゃがみ込み、溶け始めたアイスを口に運ぶ。
「うまっ。やっぱ暑い日はアイスだよな」
「……美味しいけどさ。私、もうシンデレラのことで頭いっぱいだよ」
『みんな迷惑してんだよね』
梨沙の言葉が、また胸に引っかかる。
「できるって。なんせ王子役が俺なんだから。サポートは任せろ」
蒼空は自信満々に笑った。
「引き受けたんだから、ちゃんとやらないとね」
「俺も期待されてるし、頑張るか」
そう言って、蒼空は食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げる。
カコン、と小気味いい音。
不安はある。
――いや、不安しかない。
それでも、頑張ろう。
せっかくみんなが賛成してくれたんだから。
私は勢いよく立ち上がり、蒼空の真似をしてアイスの棒を投げた。
少し離れた場所から、体育の授業を見学している。
サボっていると言われれば、そうなのかもしれない。でも仕方がない。体育の授業には、友達がいない私にとって地獄のような時間がある。
今日の種目はサッカーで、男子たちがやたらと盛り上がっている。
私は日陰に立ち、試合をぼんやりと眺めていた。
男子って、どうしてあんなにみんなサッカーができるんだろう。
「うわぁ、蒼空くんサッカーできるとか、かっこよすぎる」
きゃっきゃと弾んだ声が聞こえてきて、視線の先を追う。
そこには、試合に出ている蒼空の姿があった。
気づけば、私も無意識に目で追っていた。
ちょうど蒼空にボールが回る。
相手をひとり、またひとりと軽やかにかわしながら前へ進み、ゴール前まで運ぶと——
蒼空は迷いなく、ボールの芯を蹴り抜いた。
キーパーの手に触れることなく、ボールはネットを揺らす。
蒼空のもとへ、次々とクラスメイトが駆け寄り、ハイタッチを交わす。
その輪の中心で笑っている蒼空は、やっぱり楽しそうだった。
上手いのも無理はない。
蒼空は小学生の頃からサッカー一筋で、中学では一年生ながらレギュラーとして活躍し、県大会にも出場していた。
「蒼空くんがサッカー部だったら、私、絶対マネージャーやってたのに」
「あんなに上手なのに、どうして入らなかったんだろうね」
女子たちの会話に、思わず「えっ」と声が漏れた。
——サッカー部じゃ、ない?
私はてっきり、蒼空は今もサッカー部にいるものだと思っていた。
あんなに好きだったのに。
あんなに楽しそうだったのに。
どうしてだろう。
理由がわからないまま、私は蒼空を見つめていた。
すると、視線に気づいた蒼空が、こちらを見てにっと笑い、
小さくガッツポーズをしてみせた。
◆◆◆
「購買、早くしないとなくなっちゃうよ」
昼休みになると、廊下を駆ける足音が一斉に響く。
私はいつもの空き教室で、ひとり静かに弁当箱を開いていた。
——どうしてここか。
少し前、梨沙に弁当をばらまかれたことがある。
そんなときに、偶然この教室を見つけた。
机と椅子があって、普段は誰も使わない。鍵も壊れていて、出入り自由。
——私には、ちょうどよかった。
今日も、いつも通りだと思っていた。
けれど、ふと横に視線をやる。
「腹減ったー」
「なんで、ここにいるの」
「いやー、樹が今日は彼女と昼食べるって言うからさ。だから、お前と食おうかなって」
蒼空はそう言って、何でもないことのように「いただきまーす」と弁当の蓋を開けた。
私から見て、樹くんはたぶん蒼空と一番仲のいい友達だ。話したことはないけれど、クラス代表をやっているところを見ると、きっと頼れる人なんだろうと思う。
……付き合ってたんだ。
正直、少しだけ驚いた。
でもそれもそうか。
樹くんは、蒼空と並ぶクラスのイケメン枠だ。
樹くんがいなくても、蒼空と一緒に昼を食べたい子なんて、きっと山ほどいる。
なのに、どうして——。
「梨沙のこともあるし……学校では、あんまり話さない方が……」
言いかけて、言葉が濁る。
蒼空は箸を止め、私を見た。
「なんでだよ」
即答だった。
「関係ないだろ?」
蒼空が、まるで約束していたみたいに、私の前へ机を寄せて座り、弁当箱を置く。
——梨沙は蒼空のことが好きだ。
この状況を見られたら、終わるのは私のほうだ。
蒼空は、それに気づいていないのだろうか。
それとも、気づいていて気にしていないだけなのか。
答えの出ない疑問を抱えたまま、私は弁当を食べ終えた。
「蒼空って、サッカー部に入らなかったんだね」
前から気になっていたことを、思い切って口にする。
すると、蒼空の箸がぴたりと止まった。
「あー……高校って、なにかと忙しいしさ」
一拍置いてから、蒼空は続ける。
「卒業後も続けるわけじゃねぇし」
それだけ言って、何事もなかったように再び箸を動かす。
——本当に、それだけ?
授業中、あんなに楽しそうにボールを追っていたくせに。
私は昔から、蒼空の試合を見るのが好きだった。
夢中になって走る姿が眩しくて、
その背中に影響されて、私もサッカーを始めたくらいなのに。
もう、ああいう蒼空は見られないのだろうか。
そう思うと、胸の奥が、少しだけ静かに沈んだ。
◆
「来週あたりから文化祭の準備に入る。その前に、まずはクラスの出し物を決める」
先生はチョークで、カッ、カッと音を立てながら黒板に『文化祭の出し物』と書いた。
文化祭か。高校に入れば、自然と青春が始まるものだと思っていた。
クラスで笑って、文化祭で盛り上がって。そんな当たり前の光景を、疑いもせずに思い描いていた。
でも、今の私はそこからかけ離れた場所にいる。
これが現実なんだ、と改めて思う。
「じゃあ、案のある奴はいるか」
先生の声を合図に、教室が一気にざわめき出す。楽しそうに話す声が、あちこちから聞こえてきた。
その輪の外で、私はただ机の上を見つめていた。
「メイド喫茶がいいでーす」
「俺はお化け屋敷!」
「パンケーキつくりたいなぁ」
次々に飛び出す、いかにも文化祭らしい意見。先生はそれらを一つずつ、黒板にまとめていく。
「私は劇がいいなぁ」
一通り意見が出揃った、そのとき。
梨沙が、迷いのない動きで手を挙げた。
教室の空気が、少しだけ梨沙のほうへ傾く。
「私たちも、劇がいいでーす」
梨沙の周りから、すぐに同調する声が上がった。
「メイド喫茶は、隣のクラスがやるみたいなこと言ってたし。お化け屋敷も、前回のクラス失敗したらしいしさ。パンケーキなんて、予算以内でやったら大したもの作れないでしょ?」
梨沙は、もっともらしい理由を次々と並べ立てる。
「みんな、劇でいいよね?」
確認というより、決定事項みたいな口調。
「……反対するやつもいないなら、劇にするが」
吉田先生がそう言うと、男子たちも案外乗り気らしく、結局、反対の声はひとつも上がらなかった。
さっきまで別の案を出していた子たちは、どこか納得していない顔をしている。
劇なんて、苦手な子も多いはずなのに。
そのあと先生は急用で職員室に呼ばれ、流れで文化祭実行委員の樹くんが、話を引き継いだ。
この学校では、劇は童話と決まっている。
いくつか候補を出して、多数決で決めることになり——
結果、私たちのクラスはシンデレラをやることになった。
「まずは王子様役をやりたい人、いるか?」
樹くんがそう言うが、誰も手を挙げない。
こういう役は、自分から名乗り出るにはハードルが高い。
みんな、周囲の様子を窺うように視線だけを動かしている。
「王子様役は、やっぱり蒼空がいいと思いまーす」
沈黙を破ったのは、また梨沙だった。
「蒼空が適任だろ」
「蒼空くんが王子様とか、絶対かっこいいよね」
「蒼空が王子とかおもしれぇ」
そう梨沙が指名すると周りの人達も蒼空に賛成して、盛り上がっていく。さすが蒼空だ。誰も反対する人がいない。
「蒼空。みんながこう言ってるけど、どうだ?」
樹くんが確認するように、蒼空へ視線を向ける。
すると当の本人は、眠そうにあくびをひとつ噛み殺し、
だるそうに顔を上げた。
「はぁ? 絶対、めんどくせぇやつじゃん。やだよ」
「そんなこと言わずに、やれよー」
クラスの声は蒼空に向いていたけど、本人がはっきり嫌がったことで、その場はひとまず保留になった。
「じゃあ、シンデレラ役をやりたい人いる?」
樹くんの問いかけに、遥と芽衣がほぼ同時に手を挙げる。
「シンデレラなら、梨沙がいいんじゃない?」
二人にそう言われて、梨沙は楽しそうに目を細め、にこにこしながら手を挙げた。
「私でもいいけど……美月ちゃんなんか、どうかなーって」
いきなりここで一番、名前が上がらないであろう自分の名前が呼ばれ、私は下を向いていた顔を勢いよく上げた。誰も思っていなかった言葉にクラス中が静まり返った。きっ、気まずい。
梨沙は、私の方をちらちらと見ながら、楽しそうに、ほんの少し口角を上げていた。
……やっぱり。
私に恥をかかせたいだけなんだ。
「中野さんは、ちょっとね」
「梨沙の方がいいだろ」
周りから、そんな声がぽつぽつと聞こえてくる。
……だよね。
梨沙がさっき、あんなに劇を押した理由も、分かりきっていた。
王子様は蒼空で、自分がシンデレラ。
そうなれば放課後の練習で、一緒にいる時間が増える。
最初から、私をシンデレラにするつもりなんてなかったはずだ。
次々と重なる反対の声に、私は自然と顔を俯かせた。
そのとき。
「美月がシンデレラなら、俺やっぱ王子役やるわ」
一瞬、教室の空気が止まった。
ざわめきが引いて、
今度は、全員の視線が蒼空に集まる。
「……え?」
梨沙が、明らかに想定外だという顔で声を漏らす。
「美月だよ? 演技なんて、絶対無理でしょ」
軽く笑いながら言うその声が、さっきより少し尖って聞こえた。
「俺も、美月ちゃんでいいと思うけどな」
ざわついていた教室の中で、はっきりとそう言ったのは樹くんだった。
思わず声が漏れて、私は顔を上げる。
「わ、私も……シンデレラは美月ちゃんにやってほしいです」
少し震えた声。
声のした方を見ると、やっぱり葵だった。
恥ずかしそうにそれでも私の方を見て頷いてくれる。
「それで蒼空が王子やるなら、美月ちゃんしかないっしょ」
「演技なんて、練習すればどうにかなるって」
一人の男子が軽く言うと、それをきっかけに、周りからも賛同の声が重なっていく。
さっきまで、胸に重くのしかかっていた空気が、少しずつ、でも確かに変わっていくのが分かった。
――気がつけば。
教室は、さっきまでの張り詰めた雰囲気が嘘みたいに、明るいざわめきに包まれていた。
「美月ちゃん、やってくれる?」
樹くんにそう聞かれて、教室中の視線が一斉に私に集まった。
――いつもなら、息が詰まりそうになる視線。
でも今は、なぜか逃げ出したい気持ちにはならなかった。
「……うん。私でよければ」
「じゃあ、シンデレラ役は美月ちゃんに決定な」
樹くんの声が教室に響く。
黒板に、役名と名前が書かれていく。
王子様役 矢野 蒼空
シンデレラ役 中野 美月
――本当に、書かれている。
私の名前が、主役の下に。
教室に差し込む太陽の光が、やけに眩しかった。
顔を上げると、蒼空がこちらを見ていた。
逆光の中で、蒼空は口だけを動かす。
「やったな」
そう言って、ふっと笑う。
蒼空が言ってくれなかったら。
蒼空が手を伸ばしてくれなかったら。
きっと私は、また笑われて、俯いたまま終わっていた。
それからは、意地悪な継母役や魔女役も滞りなく決まり、次の時間には衣装班や小道具班の振り分けも終わっていた。
「さようなら〜」
みんながぞろぞろと教室を出ていくなか、私も鞄を肩にかけた。
「美月ちゃん!」
呼び止められて足を止める。振り返ると、少し気まずそうに私を見つめる葵が立っていた。
「えっと……さっきは、勝手にごめんね。今考えたら、美月ちゃん嫌だったかもって思って」
「ううん。全然そんなことないよ」
本心だった。私は小さく首を振る。
葵の強張っていた肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。
「美月ちゃん、その……ご、ごめんね!」
葵は急に背筋を伸ばし、勢いよく頭を下げた。
「今まで、美月ちゃんのこと見て見ぬふりしてて……今さら、自分勝手だって思うかもしれないけど、私、ずっと後悔してて」
頭を下げたまま、葵は私の返事を待っていた。
一生懸命さが、痛いほど伝わってくる。
「……うん。いいよ」
私はしっかりと葵の目を見て答えた。
「えっ……いいの?」
驚いたように、葵は目を見開く。
「葵、自分から言ったのに、なにその顔」
思わずクスッと笑ってしまった。
――あ。馴れ馴れしすぎたかな。
不安になって葵の表情をうかがうと、彼女は目を丸くして、嬉しそうに笑っていた。
「私、あの時のこと……ずっと言いたくて。助けてくれて、ありがとう」
そう言って、葵は私の両手をぎゅっと握った。
その温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。あのときの自分は、間違っていなかった、そう思えた。
「葵〜、部活行こー!」
廊下から声がかかる。どうやら隣のクラスの友達らしい。
「美月ちゃん、またね」
「うん。また明日」
葵は手を振り、明るい足取りで廊下へ出ていった。
……少しずつ、いい方向に進んでるのかもしれない。
私は、さっきまで葵に握られていた手を見つめた。
「みーづきちゃん」
その瞬間。
背中越しに聞こえた声に、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
振り返らなくても分かる。
「ねぇ、調子乗らないでって言ったよね」
やっぱり。梨沙が仁王立ちで、私を見下ろしていた。
「あ、まさか蒼空が自分のこと好きかも〜とか、勘違いしてる感じ?」
「自意識過剰すぎ」
「ほんと、みんな迷惑してんだよね」
何も言えずにいる私を、梨沙たちは楽しそうに笑う。
梨沙が手を伸ばした。
――掴まれる。
そう思って一歩下がろうとした、そのとき。
「美月ー、早く帰ろうぜ」
教室のドアから顔を出したのは、蒼空だった。
蒼空は状況を察したように、私と梨沙の間に割って入る。
「梨沙。俺らもう帰るから。話ならまた今度な」
「……わかった。蒼空、またね」
梨沙は蒼空に笑顔を向け、最後に私を睨みつけてから去っていった。
――助かった。
気が抜けた私の手には、なぜかコンビニのアイス。
気づけば、蒼空に奢ってもらっていた。
私はしゃがみ込み、溶け始めたアイスを口に運ぶ。
「うまっ。やっぱ暑い日はアイスだよな」
「……美味しいけどさ。私、もうシンデレラのことで頭いっぱいだよ」
『みんな迷惑してんだよね』
梨沙の言葉が、また胸に引っかかる。
「できるって。なんせ王子役が俺なんだから。サポートは任せろ」
蒼空は自信満々に笑った。
「引き受けたんだから、ちゃんとやらないとね」
「俺も期待されてるし、頑張るか」
そう言って、蒼空は食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げる。
カコン、と小気味いい音。
不安はある。
――いや、不安しかない。
それでも、頑張ろう。
せっかくみんなが賛成してくれたんだから。
私は勢いよく立ち上がり、蒼空の真似をしてアイスの棒を投げた。



