君のために生きたい

 太陽がぎらぎらと輝き、肌が焼けてしまいそうな暑さに、私は小さくため息を吐いた。
 少し離れた場所から、体育の授業を見学している。

 サボっていると言われれば、そうなのかもしれない。でも仕方がない。体育の授業には、友達がいない私にとって地獄のような時間がある。

 今日の種目はサッカーで、男子たちがやたらと盛り上がっている。
 私は日陰に立ち、試合をぼんやりと眺めていた。
 男子って、どうしてあんなにみんなサッカーができるんだろう。

「うわぁ、蒼空くんサッカーできるとか、かっこよすぎる」

 きゃっきゃと弾んだ声が聞こえてきて、視線の先を追う。
 そこには、試合に出ている蒼空の姿があった。

 気づけば、私も無意識に目で追っていた。

 ちょうど蒼空にボールが回る。
 相手をひとり、またひとりと軽やかにかわしながら前へ進み、ゴール前まで運ぶと——

 蒼空は迷いなく、ボールの芯を蹴り抜いた。

 キーパーの手に触れることなく、ボールはネットを揺らす。

 蒼空のもとへ、次々とクラスメイトが駆け寄り、ハイタッチを交わす。
 その輪の中心で笑っている蒼空は、やっぱり楽しそうだった。

 上手いのも無理はない。
 蒼空は小学生の頃からサッカー一筋で、中学では一年生ながらレギュラーとして活躍し、県大会にも出場していた。

「蒼空くんがサッカー部だったら、私、絶対マネージャーやってたのに」
「あんなに上手なのに、どうして入らなかったんだろうね」

 女子たちの会話に、思わず「えっ」と声が漏れた。

 ——サッカー部じゃ、ない?

 私はてっきり、蒼空は今もサッカー部にいるものだと思っていた。
 あんなに好きだったのに。
 あんなに楽しそうだったのに。

 どうしてだろう。
 理由がわからないまま、私は蒼空を見つめていた。

 すると、視線に気づいた蒼空が、こちらを見てにっと笑い、
 小さくガッツポーズをしてみせた。

◆◆◆

「購買、早くしないとなくなっちゃうよ」

 昼休みになると、廊下を駆ける足音が一斉に響く。
 私はいつもの空き教室で、ひとり静かに弁当箱を開いていた。

 ——どうしてここか。

 少し前、梨沙に弁当をばらまかれたことがある。
 
 そんなときに、偶然この教室を見つけた。

 机と椅子があって、普段は誰も使わない。鍵も壊れていて、出入り自由。
 ——私には、ちょうどよかった。

 今日も、いつも通りだと思っていた。

 けれど、ふと横に視線をやる。

「腹減ったー」
「なんで、ここにいるの」
「いやー、(いつき)が今日は彼女と昼食べるって言うからさ。だから、お前と食おうかなって」

 蒼空はそう言って、何でもないことのように「いただきまーす」と弁当の蓋を開けた。

 私から見て、樹くんはたぶん蒼空と一番仲のいい友達だ。話したことはないけれど、クラス代表をやっているところを見ると、きっと頼れる人なんだろうと思う。

 ……付き合ってたんだ。

 正直、少しだけ驚いた。
 でもそれもそうか。
 樹くんは、蒼空と並ぶクラスのイケメン枠だ。

 樹くんがいなくても、蒼空と一緒に昼を食べたい子なんて、きっと山ほどいる。

 なのに、どうして——。

「梨沙のこともあるし……学校では、あんまり話さない方が……」

 言いかけて、言葉が濁る。

 蒼空は箸を止め、私を見た。

「なんでだよ」

 即答だった。

「関係ないだろ?」

 蒼空が、まるで約束していたみたいに、私の前へ机を寄せて座り、弁当箱を置く。

 ——梨沙は蒼空のことが好きだ。
 この状況を見られたら、終わるのは私のほうだ。

 蒼空は、それに気づいていないのだろうか。
 それとも、気づいていて気にしていないだけなのか。

 答えの出ない疑問を抱えたまま、私は弁当を食べ終えた。

「蒼空って、サッカー部に入らなかったんだね」

 前から気になっていたことを、思い切って口にする。
 すると、蒼空の箸がぴたりと止まった。

「あー……高校って、なにかと忙しいしさ」

 一拍置いてから、蒼空は続ける。

「卒業後も続けるわけじゃねぇし」

 それだけ言って、何事もなかったように再び箸を動かす。

 ——本当に、それだけ?

 授業中、あんなに楽しそうにボールを追っていたくせに。
 私は昔から、蒼空の試合を見るのが好きだった。
 夢中になって走る姿が眩しくて、
 その背中に影響されて、私もサッカーを始めたくらいなのに。

 もう、ああいう蒼空は見られないのだろうか。

 そう思うと、胸の奥が、少しだけ静かに沈んだ。



「来週あたりから文化祭の準備に入る。その前に、まずはクラスの出し物を決める」

 先生はチョークで、カッ、カッと音を立てながら黒板に『文化祭の出し物』と書いた。

 文化祭か。高校に入れば、自然と青春が始まるものだと思っていた。
 クラスで笑って、文化祭で盛り上がって。そんな当たり前の光景を、疑いもせずに思い描いていた。

 でも、今の私はそこからかけ離れた場所にいる。
 これが現実なんだ、と改めて思う。

「じゃあ、案のある奴はいるか」

 先生の声を合図に、教室が一気にざわめき出す。楽しそうに話す声が、あちこちから聞こえてきた。

 その輪の外で、私はただ机の上を見つめていた。

「メイド喫茶がいいでーす」
「俺はお化け屋敷!」
「パンケーキつくりたいなぁ」

 次々に飛び出す、いかにも文化祭らしい意見。先生はそれらを一つずつ、黒板にまとめていく。

「私は劇がいいなぁ」

 一通り意見が出揃った、そのとき。
 梨沙が、迷いのない動きで手を挙げた。

 教室の空気が、少しだけ梨沙のほうへ傾く。

「私たちも、劇がいいでーす」

 梨沙の周りから、すぐに同調する声が上がった。

「メイド喫茶は、隣のクラスがやるみたいなこと言ってたし。お化け屋敷も、前回のクラス失敗したらしいしさ。パンケーキなんて、予算以内でやったら大したもの作れないでしょ?」

 梨沙は、もっともらしい理由を次々と並べ立てる。

「みんな、劇でいいよね?」

 確認というより、決定事項みたいな口調。

「……反対するやつもいないなら、劇にするが」

 吉田先生がそう言うと、男子たちも案外乗り気らしく、結局、反対の声はひとつも上がらなかった。

 さっきまで別の案を出していた子たちは、どこか納得していない顔をしている。
 劇なんて、苦手な子も多いはずなのに。

 そのあと先生は急用で職員室に呼ばれ、流れで文化祭実行委員の樹くんが、話を引き継いだ。

 この学校では、劇は童話と決まっている。
 いくつか候補を出して、多数決で決めることになり——

 結果、私たちのクラスはシンデレラをやることになった。

「まずは王子様役をやりたい人、いるか?」

 樹くんがそう言うが、誰も手を挙げない。
 こういう役は、自分から名乗り出るにはハードルが高い。
 みんな、周囲の様子を窺うように視線だけを動かしている。

「王子様役は、やっぱり蒼空がいいと思いまーす」

 沈黙を破ったのは、また梨沙だった。

「蒼空が適任だろ」
「蒼空くんが王子様とか、絶対かっこいいよね」
「蒼空が王子とかおもしれぇ」

 そう梨沙が指名すると周りの人達も蒼空に賛成して、盛り上がっていく。さすが蒼空だ。誰も反対する人がいない。

「蒼空。みんながこう言ってるけど、どうだ?」

 樹くんが確認するように、蒼空へ視線を向ける。

 すると当の本人は、眠そうにあくびをひとつ噛み殺し、
 だるそうに顔を上げた。

「はぁ? 絶対、めんどくせぇやつじゃん。やだよ」
「そんなこと言わずに、やれよー」

 クラスの声は蒼空に向いていたけど、本人がはっきり嫌がったことで、その場はひとまず保留になった。

「じゃあ、シンデレラ役をやりたい人いる?」

 樹くんの問いかけに、遥と芽衣がほぼ同時に手を挙げる。

「シンデレラなら、梨沙がいいんじゃない?」

 二人にそう言われて、梨沙は楽しそうに目を細め、にこにこしながら手を挙げた。

「私でもいいけど……美月ちゃんなんか、どうかなーって」

 いきなりここで一番、名前が上がらないであろう自分の名前が呼ばれ、私は下を向いていた顔を勢いよく上げた。誰も思っていなかった言葉にクラス中が静まり返った。きっ、気まずい。

 梨沙は、私の方をちらちらと見ながら、楽しそうに、ほんの少し口角を上げていた。

 ……やっぱり。
 私に恥をかかせたいだけなんだ。

「中野さんは、ちょっとね」
「梨沙の方がいいだろ」

 周りから、そんな声がぽつぽつと聞こえてくる。

 ……だよね。

 梨沙がさっき、あんなに劇を押した理由も、分かりきっていた。
 王子様は蒼空で、自分がシンデレラ。
 そうなれば放課後の練習で、一緒にいる時間が増える。

 最初から、私をシンデレラにするつもりなんてなかったはずだ。

 次々と重なる反対の声に、私は自然と顔を俯かせた。

 そのとき。

「美月がシンデレラなら、俺やっぱ王子役やるわ」

 一瞬、教室の空気が止まった。

 ざわめきが引いて、
 今度は、全員の視線が蒼空に集まる。

「……え?」

 梨沙が、明らかに想定外だという顔で声を漏らす。

「美月だよ? 演技なんて、絶対無理でしょ」

 軽く笑いながら言うその声が、さっきより少し尖って聞こえた。

「俺も、美月ちゃんでいいと思うけどな」

 ざわついていた教室の中で、はっきりとそう言ったのは樹くんだった。

 思わず声が漏れて、私は顔を上げる。

「わ、私も……シンデレラは美月ちゃんにやってほしいです」

 少し震えた声。

 声のした方を見ると、やっぱり葵だった。
 恥ずかしそうにそれでも私の方を見て頷いてくれる。

「それで蒼空が王子やるなら、美月ちゃんしかないっしょ」
「演技なんて、練習すればどうにかなるって」

 一人の男子が軽く言うと、それをきっかけに、周りからも賛同の声が重なっていく。

 さっきまで、胸に重くのしかかっていた空気が、少しずつ、でも確かに変わっていくのが分かった。

 ――気がつけば。

 教室は、さっきまでの張り詰めた雰囲気が嘘みたいに、明るいざわめきに包まれていた。

「美月ちゃん、やってくれる?」

 樹くんにそう聞かれて、教室中の視線が一斉に私に集まった。
 ――いつもなら、息が詰まりそうになる視線。
 でも今は、なぜか逃げ出したい気持ちにはならなかった。

「……うん。私でよければ」

「じゃあ、シンデレラ役は美月ちゃんに決定な」

 樹くんの声が教室に響く。

 黒板に、役名と名前が書かれていく。

 王子様役 矢野 蒼空
 シンデレラ役 中野 美月

 ――本当に、書かれている。
 私の名前が、主役の下に。

 教室に差し込む太陽の光が、やけに眩しかった。
 顔を上げると、蒼空がこちらを見ていた。

 逆光の中で、蒼空は口だけを動かす。

「やったな」

 そう言って、ふっと笑う。

 蒼空が言ってくれなかったら。
 蒼空が手を伸ばしてくれなかったら。
 きっと私は、また笑われて、俯いたまま終わっていた。

 それからは、意地悪な継母役や魔女役も滞りなく決まり、次の時間には衣装班や小道具班の振り分けも終わっていた。

「さようなら〜」

 みんながぞろぞろと教室を出ていくなか、私も鞄を肩にかけた。

「美月ちゃん!」

 呼び止められて足を止める。振り返ると、少し気まずそうに私を見つめる葵が立っていた。

「えっと……さっきは、勝手にごめんね。今考えたら、美月ちゃん嫌だったかもって思って」
「ううん。全然そんなことないよ」

 本心だった。私は小さく首を振る。

 葵の強張っていた肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。

「美月ちゃん、その……ご、ごめんね!」

 葵は急に背筋を伸ばし、勢いよく頭を下げた。

「今まで、美月ちゃんのこと見て見ぬふりしてて……今さら、自分勝手だって思うかもしれないけど、私、ずっと後悔してて」

 頭を下げたまま、葵は私の返事を待っていた。
 一生懸命さが、痛いほど伝わってくる。

「……うん。いいよ」

 私はしっかりと葵の目を見て答えた。

「えっ……いいの?」

 驚いたように、葵は目を見開く。

「葵、自分から言ったのに、なにその顔」

 思わずクスッと笑ってしまった。

 ――あ。馴れ馴れしすぎたかな。

 不安になって葵の表情をうかがうと、彼女は目を丸くして、嬉しそうに笑っていた。

「私、あの時のこと……ずっと言いたくて。助けてくれて、ありがとう」

 そう言って、葵は私の両手をぎゅっと握った。

 その温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。あのときの自分は、間違っていなかった、そう思えた。

「葵〜、部活行こー!」

 廊下から声がかかる。どうやら隣のクラスの友達らしい。

「美月ちゃん、またね」
「うん。また明日」

 葵は手を振り、明るい足取りで廊下へ出ていった。

 ……少しずつ、いい方向に進んでるのかもしれない。

 私は、さっきまで葵に握られていた手を見つめた。

「みーづきちゃん」

 その瞬間。

 背中越しに聞こえた声に、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

 振り返らなくても分かる。

「ねぇ、調子乗らないでって言ったよね」

 やっぱり。梨沙が仁王立ちで、私を見下ろしていた。

「あ、まさか蒼空が自分のこと好きかも〜とか、勘違いしてる感じ?」
「自意識過剰すぎ」
「ほんと、みんな迷惑してんだよね」

 何も言えずにいる私を、梨沙たちは楽しそうに笑う。

 梨沙が手を伸ばした。

 ――掴まれる。

 そう思って一歩下がろうとした、そのとき。

「美月ー、早く帰ろうぜ」

 教室のドアから顔を出したのは、蒼空だった。

 蒼空は状況を察したように、私と梨沙の間に割って入る。

「梨沙。俺らもう帰るから。話ならまた今度な」
「……わかった。蒼空、またね」

 梨沙は蒼空に笑顔を向け、最後に私を睨みつけてから去っていった。

 ――助かった。

 気が抜けた私の手には、なぜかコンビニのアイス。

 気づけば、蒼空に奢ってもらっていた。

 私はしゃがみ込み、溶け始めたアイスを口に運ぶ。

「うまっ。やっぱ暑い日はアイスだよな」
「……美味しいけどさ。私、もうシンデレラのことで頭いっぱいだよ」

『みんな迷惑してんだよね』

 梨沙の言葉が、また胸に引っかかる。

「できるって。なんせ王子役が俺なんだから。サポートは任せろ」

 蒼空は自信満々に笑った。

「引き受けたんだから、ちゃんとやらないとね」
「俺も期待されてるし、頑張るか」

 そう言って、蒼空は食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げる。
 カコン、と小気味いい音。

 不安はある。
 ――いや、不安しかない。

 それでも、頑張ろう。
 せっかくみんなが賛成してくれたんだから。

 私は勢いよく立ち上がり、蒼空の真似をしてアイスの棒を投げた。