授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室の空気が一気にほどけた。
あちこちで椅子が鳴り、みんなが当たり前のように、それぞれの居場所へ集まっていく。
高校二年生になって、もう二ヶ月。
それでも、どこの輪にも入れていないのは、たぶん私だけだった。
「もう、やめてよぉ」
甘ったるい声に続いて、「あははは」と大きな笑い声が弾ける。
そちらへ、思わず視線が向いた。
クラスの真ん中。
机の上に腰を下ろし、足を組んでいるのは、梨沙だった。
短く折られたスカート。明るく染めた髪。
耳元のピアスが、笑うたびに揺れる。
会話の内容よりも、その声の大きさが目立つ。
注目されていないと気が済まない人なのだと、見ているだけで分かった。
梨沙から視線を外すと、そのすぐ隣にいる蒼空が目に入った。
整った顔立ちに、屈託のない笑顔。気づけば、いつも人の輪の中心にいる。
今も蒼空を囲むように、何人ものクラスメイトが集まっていた。
私のいる場所とは、まるで別の世界みたいだった。
その輪の中へ、梨沙がするりと入り込む。あざとく蒼空の腕に絡みつくと、周りから小さなどよめきが起きた。
――ああ、そういうことか。
たぶん、クラスのみんなが同じことを思った。
『何してんだよ!』
ふいに、昨日の声が頭の中で響く。
無意識に、手首をさすった。
昨日、強く握られたその感触が、まだ残っている気がして。
逃げるように帰ったのに、今朝は何事もなかったみたいだった。
だから私も、そういうことする。
そのときだった。
肩に、強い衝撃が走る。
顔を上げるより先に、机にセットしていた教科書が床に散らばった。
「あっ、ごめんね」
笑いを含んだ声が、頭の上から降ってくる。
謝罪とは裏腹に、梨沙は一度も足を止めなかった。
床に散らばった教科書には、視線すら落とさないまま。
私はその場にしゃがみ込み、教科書を拾い集める。
背中に、いくつもの視線が刺さるのが分かった。
最後の一冊を拾い終えて顔を上げると、同じ列の森田葵と目が合った。
一瞬。
けれど、すぐに逸らされる。
背後で、くすくすと笑う声が重なった。
梨沙の取り巻き――遥香と芽衣だ。
さっきまで蒼空たちと話していたはずなのに。
そう思って、梨沙が座っていた場所を見る。
もう、そこに蒼空はいなかった。
「友達もいないのによく学校来れるよね。メンタル強すぎ」
「ひとりだけ浮いてるって、気づいてないのかな」
梨沙たちは、私のほうを見ながら、わざと声を落とさずに話していた。
聞こえていないふりをすると、それが気に入らなかったのか、笑い声はさらに大きくなる。
逃げ場のない教室に、チャイムの音が鳴り響いた。
「ほんと、きもいんだけど」
吐き捨てるようにそう言って、梨沙は私の横を通り過ぎていく。
どうして、私がこんな目に遭っているのか。
理由は、拍子抜けするほど単純だった。
高校に入ってから、葵は私にとって初めての友達だった。
毎日一緒に笑って、当たり前みたいに隣にいた。
それが、ある日を境に変わった。
梨沙の彼氏が、葵のことを好きになった。
それだけの理由で、梨沙はいじめを始めた。
葵が男好きだとか、
わざと彼氏を取っただとか。
そんな噂が、事実みたいな顔をして広がっていった。
心配で声をかけると、葵は「大丈夫」と笑う。でも、その笑顔はいつも、どこか引きつっていた。
翌日、いつものように葵に挨拶すると、数秒の静寂のあと、彼女は何も聞こえなかったかのように横を通り過ぎる。
その瞬間、梨沙がクスクスと笑った。
視線の端で、その笑いを見て、私は理解した。
――ターゲットが、私に移ったのだ。
帰りの挨拶を終えると、私は逃げるように教室を出た。
階段を上がり、いつの間にか日課になっていた屋上へ向かう。
ドアを開けると、いつものように青空が、私を出迎えてくれた。風が髪を揺らし、少しだけ心が軽くなる気がする。
私はただ空を見つめ、時間が過ぎるのを待っていた。
下校を知らせる放送が鳴り、重い体をゆっくりと起こす。
「あ……」
ハッとする。
明日提出のプリント、教室に置きっぱなしだ。
ため息をひとつ吐き、下駄箱に向けた足を引き返す。
教室のドアを押し開けると、視線の先に蒼空が立っていた。
目が合うと、彼は机の上に置いていた手をそっとどけ、同時に視線を逸らす。
何をしているのかと思いながらも、私は自分の机に視線を戻した。
思わず目を見開くが、今さら慣れた光景だった。
机の上にはペンで「バカ」「ブス」「死ね」などの文字が並んでいる。
梨沙たちはもう帰ったはずだ。
そうなると、疑うのは蒼空だ。結局、彼もみんなと同じだ――。
蒼空は黙ったまま動かない。
早くプリントを取って帰ろうと近づくと、視界に彼の片手が入った。
「雑巾……?」
思わず口に出す。
握りしめられた雑巾は濡れており、よく見ると手は少し赤く染まっていた。
「油性で書いてあって、取れねぇんだよ」
無言に耐えかねたのか、蒼空がそう呟く。
再び私の机を雑巾で拭き始める。よく見ると、文字が少しずつ薄くなっていることに気がついた。
「消してくれてるの……?」
「まぁ、お前に見られたら意味ねぇけどな」
雑巾を握る蒼空の手が少し痛そうに見えた。私がいない間ずっと、消してくれてたの?
一度、勝手に疑ってしまった自分を恥ずかしく思った。
蒼空は「疲れた」と言い、腕を休ませる。
「ごめん。あとは自分でやるから……」
「それなら、ふたりでやったほうが早いだろ」
そう言うと、蒼空は廊下に走り、もう一枚の雑巾を濡らして戻ってきた。
そして、私に差し出す。
それからは、ただ淡々と二人で机を拭き続けた。
茜色に染まった教室に、二人の影がゆっくりと伸びる。
久しぶりの、落ち着いた空間に、少しだけ緊張が混じった。
完全には消えなかったが、よく見ないと分からない程度まで文字は薄くなった。
「手伝ってもらって、ごめん」
「いいよ。俺が勝手にやってただけだし」
蒼空は本当に迷惑そうでもなく、自然に笑った。
「じゃあ……私、帰るね」
真っ直ぐに見つめる蒼空の視線から目を逸らし、背を向ける。
歩き出すと、右手首をぎゅっと掴まれた。
「一緒に帰ろう」
「えっと……」
「家の方向も一緒だろ?」
「でも……」
断る理由は見つからず、気づけば蒼空は普通に私の横を歩いていた。
どうせ帰るだけだ、と私はそれ以上、何も言わなかった。
下駄箱にたどり着き、履き替える蒼空を眺めながら、私も自分の下駄箱に手を伸ばした。
「うわ、なんだよこれ……」
開けると、中から大量のゴミが崩れ落ちた。
床に散らばったのは、いちご牛乳のパックやパンの袋、紙くずだった。
しゃがみ込んでゴミを拾い始めた蒼空は、パンの袋を手に取りながら呟く。
「これ、昼にあいつらがやったやつじゃねぇか」
「蒼空、汚れちゃうから」
「そんなの気にしねぇよ」
彼は近くのゴミ箱を持ってきて、散らかったゴミを全て詰め込む。
手際よく片付け終えると、あたりを見回して立ち上がった。
「こんなもんか」
「あっ、制服が……」
蒼空は私の視線を辿り、自分の制服に目を落とした。
ゴミで汚れた制服を手で払うが、落ちなかった。
「ごめん」
「お前が謝ることじゃねぇだろ」
蒼空は優しく言った。
「……ごめん」
他に言葉が見つからず、少し間を置いて同じ言葉を繰り返す。
胸の奥がもやもやして、どうしても言葉が途切れてしまう。
「お前、そういうとこ、昔から変わってねぇんだな」
蒼空は私を見つめ、静かに問いかけた。
「あいつらにされるがままでいいのか? どうして誰にも助けてって言わないんだよ」
「じゃあ……助けてって言ったら、誰か助けてくれるの?」
蒼空の言葉に、理不尽にカッとなり、口調が少し強くなる。完全な八つ当たりだった。
「みんな見てるだけで、誰も助けてくれない。私に助けてなんて言える人なんて......」
誰かがきっと助けてくれるなんて、もう期待していない。
誰かのために自分が犠牲になるなんて、漫画やアニメの話じゃあるまいし。
黙ってしまった蒼空を見て、私は我に返った。
「ごめん……こんなこと言うつもりじゃ」
「俺に言えよ」
蒼空は私の話を遮るようにそう言った。私は思わず目を丸くする。
「あはは、ありがとう」
蒼空はこういう人だった。なんだか笑ってしまった私を蒼空は不満げに見つめる。
「美月」
「おいおい、お前らまだいたのか? もう下校時間はとっくに過ぎてるぞ」
蒼空が何か言いかけた瞬間、ドアの鍵を締めに来た先生に追い出されることになった。
「一緒に帰るの、久しぶりだな」
ぼそっと呟く蒼空に、私は素直に「うん」と頷いた。
私たちの家は高校から二十分ほどの距離で、幼い頃からお母さん同士が仲良く、毎日のように一緒に過ごしていたことを思い出す。昔は、本当にずっと一緒だった。
昔から、私は話すのが得意じゃなかった。
だから、誰とでもすぐに仲良くなれる蒼空に、自然と憧れていた。
中学に上がる頃、両親が離婚した。
それをきっかけに、母が家にいない時間が増え、その間は蒼空の家にお世話になることも多くなった。
蒼空は、私の話をよく聞いてくれた。
自分では気にしないようにして、顔にも出さないつもりでいても、
「大丈夫か?」
そう声をかけてくれるのは、いつも蒼空だけだった。
そんな日々の中で、私は蒼空を好きだと自覚するまで、そう時間はかからなかった。
離婚の影響で、急に引っ越すことが決まったとき、私はこの想いを伝えようと決めた。
「明日、いつもの公園に来てほしい」
何度も文章を確認してから、送信ボタンを押す。
数分もしないうちに、「わかった」と短い返信が届いた。
一緒に笑った日のことが、次々と頭に浮かぶ。
期待と不安が入り混じって、胸の奥が落ち着かない。
それでも、心の中で何度も言い聞かせた。
――大丈夫。
翌日。
昨夜から収まらない胸の高鳴りのせいで、私はじっとしていられず、約束の時間よりも早く公園に着いてしまっていた。
「さすがに、まだかな……」
私は立ったまま、蒼空を待ち続けた。
今日のために考えてきた言葉を、何度も何度も心の中でなぞる。
けれど、約束の時間になっても、蒼空は現れなかった。
ベンチに腰を下ろす。
時計の針だけが、やけに大きな音を立てて進んでいく。
何度もメッセージを送った。
それでも、画面は沈黙したままだった。
「……もしかして、何かあったのかな」
さっきまで高鳴っていた心臓は、今では重く、鈍い音を立てている。
夕日が公園を赤く染め、やがて辺りは静かな闇に包まれた。
私は、重たい体を引きずるようにベンチから立ち上がる。
「ごめん、待たせた」
そんなふうに走ってくる蒼空の姿を、最後まで想像していた。
けれ、いつまで経っても蒼空は来なかった。
私は諦めて家に帰り、次の日の朝方、この街を出た。
それから三年。
昨日交わした会話が、蒼空との三年ぶりの言葉だった。
この街に戻ってきて、近くの高校に入学した。
蒼空がいることは、すぐに分かった。けれど、クラスも違うと見かけるだけで、話すことはなかった。
そんな過去を思い返しているうちに、気づけば蒼空の家の前に立っていた。
そして、今のこの状況。
昨日のこともあって、胸の奥は気まずさでいっぱいだった。
「じゃあ、また明日な」
「うん」
短いやり取りに、少しだけ肩の力が抜ける。
蒼空は、いつまでも手を振っていた。
その姿に気づいて、私も仕方なく、右手を小さく振り返す。
「……聞けなかったな」
私はひとり、そう呟いた。
蒼空と別れてから、家まではまだしばらく歩かなければならない。
いつもなら、やけに長く感じる距離なのに、今日は色々考えていたせいか、着くまでが早い気がした。
けれど、家が近づくにつれて、足取りは少しずつ重くなる。
まるで足首に重りでもつけられたみたいに、前に進むのが億劫だった。
私は足を止め、目の前の建物を見上げる。
いつ見ても思う。
――ボロアパートだ。
好き勝手に伸びた雑草に囲まれて、外壁は元の色も分からないほど色褪せている。
住人たちのポストには、回収されないチラシが溢れていた。
ここに住んでいるはずの人たちなのに、私は顔も、声も、ほとんど知らない。
近所の小学生からは、「お化け屋敷」と呼ばれている。「ここ、人住んでるのかな」そんな声が聞こえるたびに、その前を通って家に入るのが、少しだけ恥ずかしかった。
私は辺りを見渡し、誰もいないのを確認してから、錆びついた階段を駆け上がる。
踏み出すたびに、ぎし、と不安になる音が鳴る。いつ壊れてもおかしくないんじゃないか、と思うくらいだ。
階段を上りきり、一番奥の部屋の前で鞄から鍵を取り出し、扉を開けた。
「ただいま」
返事が返ってこないと分かっていながら、いつものように言った。
両親が離婚してから、家には母と二人で暮らしている。
――正確には、同じ家にいるだけ、だった。
母は夜の仕事をしていて、私が学校へ行ったあとに帰ってきて、私が帰宅する頃には、もう家を出ている。
顔を合わせることは、ほとんどない。
いや、合わせないようにしているのかもしれない。
私はいつも、母が仕事に出るまでの時間を屋上で過ごしていた。
私は無造作に机に置かれた千円札に目を向けた。
毎日、そこには必ずお金だけが置いてある。ご飯が食べられるだけ、ありがたいと思わなきゃいけないのだと、自分に言い聞かせる。
千円札をポケットに入れ、帰ってきたばかりの足で、そのまま外へ出た。
携帯を確認すると、時刻は六時過ぎ。
空は暗くなり始め、街灯がちかちかと頼りない光を灯している。
家から一番近いコンビニに入ると、ほぼ毎日見かけるアルバイトのおじいちゃんが、変わらない声で挨拶をしてくれた。
私はおにぎりを二つとアメリカンドッグ、それから明日の朝用にメロンパンを一つ、かごに入れる。
レジを通して、残った小銭は少しずつ貯金するようにしていた。
家に戻り、電気をつける。
ひとり分の部屋で椅子に腰を下ろし、買ってきたものを机の上に並べる。
両手を合わせた。
「いただきます」
その言葉は、誰に向けるでもなく、静かに部屋に落ちた。
呟くように言って、私は静かなまま食べ進めた。
そういえば――先生から「電話に出るように伝えてほしい」と言われていたんだった。
きっと、あれだ。お金が振り込まれていないのだろう。
後でメモに書いておかなきゃ。
そう思いながら、最後のひと口を口に運ぶ。
そのときだった。
カン、カン、カン。
荒々しく階段を上る音が、急に近づいてくる。
心臓が一拍、遅れて跳ねた。
ガチャ。
扉が開く音と同時に、現れたのはお母さんだった。
――どうして。
いつもなら、こんな時間に帰ってくるはずがないのに。
部屋に入ってきた瞬間、タバコと酒の匂い、そして知らない人の香水が混ざった空気が一気に広がる。
息が詰まりそうになる。
「クソっ! なんなのよ、あの客。あいつのせいで私が怒られたじゃない!」
お母さんは鞄を床に叩きつけた。
ガン、という音が、部屋に響く。
――ああ。
仕事で、また何かあったんだ。
私は無意識に背筋を伸ばしていた。
「……お母さん」
私が声をかけた瞬間、お母さんはゴミを見るみたいな目で私を睨みつけた。
――あ、やってしまった。
そう思ったときには、もう遅かった。
お母さんは私の髪を乱暴に掴む。
「なに? あなたも私に文句でもあるの」
「ごめんなさい」
反射的に口からこぼれた言葉だった。
「なによ、その目! こっちはあんたのために働いてるのよ!」
髪を引きずられるようにして、身体を突き飛ばされる。耐えきれず、私は床に手をついた。
「あんたなんて――産まなければよかった」
振り上げられた腕が、私に落ちてくる。
そう思った、その瞬間。
鞄の中から携帯の着信音が鳴り響き、お母さんの動きがぴたりと止まった。
「はい、もしもし。えっ、春樹くん? どうしたの」
さっきまでの怒声が嘘みたいに、声のトーンが変わる。
お母さんは携帯を見るなり、さっきまでの荒れた表情を引っ込めた。
声色まで別人みたいで、思わず呆れてしまう。
――また、機嫌が悪くなる前に。
私は机の上に置いてあった携帯だけを掴み、靴もろくに揃えないまま家を飛び出した。
これからどうすればいいのか、考えは浮かばない。
ただ、街灯に照らされた薄暗い道を、当てもなく歩き出す。
しん、と耳が痛くなるほど静まり返った夜の中。
奥の方から、楽しそうな声が聞こえてきた。
小学校にもまだ通っていなさそうな女の子と、その母親が、手を繋いでこちらへ歩いてくる。
女の子はアイスを食べていて、母親の手に下がる袋には、見慣れたコンビニのロゴ。
「ちょっとだけ、ちょうだい」
「えー、一口だけだよ」
そのやりとりが、やけに胸に刺さった。
思わず目を細める。
そこに、昔のお母さんの姿を重ねてしまった。
――あの頃は、優しかった。
毎日ご飯を作ってくれて、時間があれば一緒に遊んでくれた。
原因は――お父さんだった。
まともに働きもせず、遊んでばかり。
酒に酔って帰ってきた夜は、決まって家の中が壊れた。
小さい頃の私にでさえ、平気で手をあげた。
そんな私を、いつも庇ってくれていたのがお母さんだった。
幼いながらに、その記憶だけははっきり残っている。
それでもお母さんは、お父さんの分までひとりで働き、家のことも全部こなしていた。
無理をしているのは、子どもの私にも分かるくらいだった。
けれど、浮気が分かって離婚した。
――あんな人でも、お母さんは愛していたのだと思う。
その事実は、お母さんから何かを少しずつ奪っていった。
笑顔も、余裕も、優しさも。
気づいたときには、別人みたいになっていた。
きっと、お母さんも限界だったんだ。
だから、今日みたいに殴られそうになっても、私は何も言えない。
……私が、生まれてこなければ。
お母さんは、幸せだったんだろうか。
足の疲れた私は、嫌な思い出でしかない公園に渋々足を踏み入れた。
それでも、体は自然とブランコへ向かっていた。
懐かしい。
そう思いながら腰を下ろす。
軽く地面を蹴ると、ブランコはゆっくりと揺れ、
キィ、キィ、と一定のリズムで夜に音を落とした。
私は空を見上げる。
建物の明かりに星はほとんど見えない。
それでも、月だけが青白く浮かんでいた。
私は隣のブランコに視線を向けた。
小さい頃は、よくここで遊んだ。
その記憶に沈みかけた瞬間。
とんっ、と肩に手が置かれ、私は一気に現実へと引き戻された。
「びっくりした……」
私は大きく息を吐いて、胸を撫で下ろした。
「蒼空こそ、なんでこんなところに」
「俺は……買い物の帰り」
少し間を置いて、蒼空がそう答える。
けれど、その手に袋はなく、時間も時間だ。
変だとは思ったけれど、知られたくなさそうな空気を感じて、それ以上は聞かなかった。
「お母さんと、なにかあったのか?」
蒼空は、私の顔をじっと見てそう言った。
どうしてこの人は、いつも分かってしまうのだろう。
「うーん……ちょっとだけ」
蒼空は何も言わず、隣の空いていたブランコに腰を下ろした。
「早く帰らないと。お母さん、心配するよ」
「俺はいいんだよ。お前を公園にひとり置いてきたって言うほうが、母さんも心配する」
さすがに、こんな時間まで付き合わせるのは申し訳なかった。
蒼空の顔を覗くと、さっきの私と同じように、夜空を見上げている。
「……お前、大丈夫か」
蒼空の瞳が、ふっと真剣な色に変わり、私をまっすぐ捉えた。
何のことを指しているのかは、分かっていた。
「……なにが?」
分からないふりをして、私はとぼける。
「梨沙たちのこともだけど。――それだけじゃないだろ」
「大丈夫だよ。そんなに気にしてないし」
「気にしてないのと、平気なのは違うだろ」
納得していない様子の蒼空は、心配そうに私を見つめた。
どうして、ここまで気にかけてくれるのだろう。
そう思ったけれど、特別な理由なんてないのかもしれない。
蒼空は、ただ優しいだけだ。
「本当に、誰のせいでもないよ」
私は小さく笑って続けた。
「ただ……なんで生きてるのか、分かんなくて」
――そんな人生なら。
それが、たった十六歳の私が辿り着いた答えだった。
蒼空にこんなことを言っても、困らせるだけだ。
そんなことで、って笑われるかもしれない。
そう思って目を逸らした、そのとき。
「――なら、探そうぜ」
「……え?」
思ってもみなかった言葉に、私は小首を傾げる。
蒼空は、私の反応なんて気にも留めず、続けた。
「ないなら、探せばいいだろ」
「いや、でも……探すって言ったって」
「じゃあさ」
蒼空は少し間を置いて、私を見た。
「お前、明日死ぬってなったら、最後になにがしたい?」
「……いきなり、なんでそんなこと」
戸惑う私に、蒼空は軽く肩をすくめる。
「ほら」
それだけ言って、話を続けた。
「生きる意味なんて考えても、正直わかんねぇしさ。
そのうち、自然と自分なりの答えが見つかるんじゃねぇの。だったら今は、お前がやりたいことをやってりゃいいだろ。そうしてるうちに、ふと『これだ』って思う瞬間が来るかもしれねぇし」
たしかに死ぬ前にやりたいことが今ほんとうにやりたいことって、聞いたことがある。
でも――。
「んー……。でも、特にないというか」
「はぁ? あるだろ、普通」
蒼空はつまらなそうに吐き捨てると、眉間に寄ったシワを指で押さえながら、しばらく考え込んだ。
「そんなこと言われても……。じゃあ、蒼空はどうなの?」
思いつかなかった私は、話題を蒼空に振る。
すると、蒼空もさっきの私と同じように言葉に詰まった。
「俺? えーと……美味いもん食って、友達と遊んで……」
「小学生みたい」
「うるせぇよ」
少し拗ねたように言う蒼空を見て、私は思わず口角を上げた。
もし明日、死ぬとしたら。
心残りなんてないと思っていた私には、考えたことのない質問だった。
「梨沙に言い返す……とか?」
試しに口にしてみると、蒼空は吹き出す。
「ははっ。死ぬ前にそれかよ」
「じゃあ次は? 他にも、もっとあるだろ」
からかうような、いつもの軽口に戻った蒼空が、話を先に進める。
「あっ……星空を見たいかも」
私はもう一度、夜空を見上げた。
何年か前、お母さんと行ったキャンプで見た星空が、やけに綺麗で。
あれを、もう一度だけ見たいと思った。
「じゃあ、俺が連れてってやるよ」
本当に行くかどうかも分からない、軽い約束みたいな言葉。
それでも私は、
「……ほんと?」
そう言って、小さく頷いた。
「他はねぇの」
そう言われて、私は少し迷った。
けれど、しばらく考えてから、ゆっくり口を開く。
「……お母さんと、昔みたいに話したいな」
最後に浮かんだ、それだけのこと。
口にしてみると、胸の奥が少しざわついて、空気まで重くなった気がして、私は誤魔化すように顔を上げた。
「あー……やっぱり」
「いいじゃん」
話題を変えようとして、別の言葉を探した、その途中で。
蒼空が、被せるみたいに言った。
「無理とかさ。もしもの話なんだから、考えなくていいだろ?」
――そうだった。
もしもの話、なんだ。
「たまにさ。芸能人とか俳優が亡くなったってニュース見るけど……人って、いつ死ぬかわかんねぇよな」
確かに、死は不平等に訪れるのかもしれない。
頑張っている人ほど、先にいなくなってしまう気がして、胸の奥が少し重くなる。
「まぁ俺は、ギネスに載りたいから百歳まで生きるけどな」
「日本人の最高記録は百十五歳だよ」
「まじか? じゃあキリよく百二十歳まで生きるわ。……てか、なんでそんなこと知ってんだよ」
そう言って、蒼空は小さく笑ったあと、少しだけ表情を引き締めた。
「明日があるってさ。当たり前じゃねぇんだよ」
その横顔は、いつもの軽い雰囲気とは違っていて。
夜の公園の静けさの中で、蒼空だけが少し、大人びて見えた。
もし、明日突然死んでしまったら。
その先に何があるのかなんて、誰にもわからない。
生まれ変わるって言う人もいるけど。
もし本当にそうなら、私は生まれる前、今とはまったく違う誰かとして、別の人生を生きていたのだろうか。
「だからさ」
そう言って、蒼空は空を見上げたまま、軽く漕いでいたブランコを止めた。
そして、今度はまっすぐに私を見る。
「だから――死ぬってのは、最後なんじゃねぇの」
「……」
今度は、「そうだね」と答えられなかった。
考えすぎかもしれない。
それでも蒼空の言葉は、好きに生きろと言われているみたいで。
でも「うん」と頷くには、私の心はまだ追いついていなかった。
「学校でも言ったけどさ。なんかあったら、俺に言えよ」
「……ありがとう。そろそろ、帰るね」
そういえば、今何時だろう。
携帯を取り出して画面を見ると、思っていたよりずっと時間が経っていた。
こんなに長く、蒼空と話していたんだ。
「送ってく」
「えっ、いいよ。家、すぐだから」
さすがに送ってもらうのは申し訳がない。蒼空のお母さんだって、きっと心配している。
「これで帰りに誘拐でもされたら、どうすんだよ」
「この距離だし、さすがに大丈夫だよ」
そう言って説得するけれど、納得していない蒼空は少し考え込んだあと、なにか思いついたように手を叩いた。
「じゃあ、帰ったら連絡しろよ」
たしかに、と思う。今どき携帯があるんだから。
「じゃあ、また明日。気をつけて帰れよ」
「ありがとう」
そう言って、私たちは別々の出口へ歩き出した。
少し歩いたところで、私は振り返る。
空を見上げる蒼空の瞳が、なぜか悲しそうに揺れているように見えた。
どうしてそう思ったのか、自分でもわからない。
気のせいだ、と首を振って、私はまた前を向く。
私は、いつも前向きで強い蒼空を羨ましく思っている。
私が持っていないものを、蒼空は当たり前みたいに持っているから。
昔から、蒼空と一緒にいると、自分も少しだけ強くなれた気がしてしまう。
携帯を開き、無事に着いたら送ると、すぐに送れるよう文字を打つ。
そして私は、行きよりもほんの少しだけ、明るく見える道を見つめた。
あちこちで椅子が鳴り、みんなが当たり前のように、それぞれの居場所へ集まっていく。
高校二年生になって、もう二ヶ月。
それでも、どこの輪にも入れていないのは、たぶん私だけだった。
「もう、やめてよぉ」
甘ったるい声に続いて、「あははは」と大きな笑い声が弾ける。
そちらへ、思わず視線が向いた。
クラスの真ん中。
机の上に腰を下ろし、足を組んでいるのは、梨沙だった。
短く折られたスカート。明るく染めた髪。
耳元のピアスが、笑うたびに揺れる。
会話の内容よりも、その声の大きさが目立つ。
注目されていないと気が済まない人なのだと、見ているだけで分かった。
梨沙から視線を外すと、そのすぐ隣にいる蒼空が目に入った。
整った顔立ちに、屈託のない笑顔。気づけば、いつも人の輪の中心にいる。
今も蒼空を囲むように、何人ものクラスメイトが集まっていた。
私のいる場所とは、まるで別の世界みたいだった。
その輪の中へ、梨沙がするりと入り込む。あざとく蒼空の腕に絡みつくと、周りから小さなどよめきが起きた。
――ああ、そういうことか。
たぶん、クラスのみんなが同じことを思った。
『何してんだよ!』
ふいに、昨日の声が頭の中で響く。
無意識に、手首をさすった。
昨日、強く握られたその感触が、まだ残っている気がして。
逃げるように帰ったのに、今朝は何事もなかったみたいだった。
だから私も、そういうことする。
そのときだった。
肩に、強い衝撃が走る。
顔を上げるより先に、机にセットしていた教科書が床に散らばった。
「あっ、ごめんね」
笑いを含んだ声が、頭の上から降ってくる。
謝罪とは裏腹に、梨沙は一度も足を止めなかった。
床に散らばった教科書には、視線すら落とさないまま。
私はその場にしゃがみ込み、教科書を拾い集める。
背中に、いくつもの視線が刺さるのが分かった。
最後の一冊を拾い終えて顔を上げると、同じ列の森田葵と目が合った。
一瞬。
けれど、すぐに逸らされる。
背後で、くすくすと笑う声が重なった。
梨沙の取り巻き――遥香と芽衣だ。
さっきまで蒼空たちと話していたはずなのに。
そう思って、梨沙が座っていた場所を見る。
もう、そこに蒼空はいなかった。
「友達もいないのによく学校来れるよね。メンタル強すぎ」
「ひとりだけ浮いてるって、気づいてないのかな」
梨沙たちは、私のほうを見ながら、わざと声を落とさずに話していた。
聞こえていないふりをすると、それが気に入らなかったのか、笑い声はさらに大きくなる。
逃げ場のない教室に、チャイムの音が鳴り響いた。
「ほんと、きもいんだけど」
吐き捨てるようにそう言って、梨沙は私の横を通り過ぎていく。
どうして、私がこんな目に遭っているのか。
理由は、拍子抜けするほど単純だった。
高校に入ってから、葵は私にとって初めての友達だった。
毎日一緒に笑って、当たり前みたいに隣にいた。
それが、ある日を境に変わった。
梨沙の彼氏が、葵のことを好きになった。
それだけの理由で、梨沙はいじめを始めた。
葵が男好きだとか、
わざと彼氏を取っただとか。
そんな噂が、事実みたいな顔をして広がっていった。
心配で声をかけると、葵は「大丈夫」と笑う。でも、その笑顔はいつも、どこか引きつっていた。
翌日、いつものように葵に挨拶すると、数秒の静寂のあと、彼女は何も聞こえなかったかのように横を通り過ぎる。
その瞬間、梨沙がクスクスと笑った。
視線の端で、その笑いを見て、私は理解した。
――ターゲットが、私に移ったのだ。
帰りの挨拶を終えると、私は逃げるように教室を出た。
階段を上がり、いつの間にか日課になっていた屋上へ向かう。
ドアを開けると、いつものように青空が、私を出迎えてくれた。風が髪を揺らし、少しだけ心が軽くなる気がする。
私はただ空を見つめ、時間が過ぎるのを待っていた。
下校を知らせる放送が鳴り、重い体をゆっくりと起こす。
「あ……」
ハッとする。
明日提出のプリント、教室に置きっぱなしだ。
ため息をひとつ吐き、下駄箱に向けた足を引き返す。
教室のドアを押し開けると、視線の先に蒼空が立っていた。
目が合うと、彼は机の上に置いていた手をそっとどけ、同時に視線を逸らす。
何をしているのかと思いながらも、私は自分の机に視線を戻した。
思わず目を見開くが、今さら慣れた光景だった。
机の上にはペンで「バカ」「ブス」「死ね」などの文字が並んでいる。
梨沙たちはもう帰ったはずだ。
そうなると、疑うのは蒼空だ。結局、彼もみんなと同じだ――。
蒼空は黙ったまま動かない。
早くプリントを取って帰ろうと近づくと、視界に彼の片手が入った。
「雑巾……?」
思わず口に出す。
握りしめられた雑巾は濡れており、よく見ると手は少し赤く染まっていた。
「油性で書いてあって、取れねぇんだよ」
無言に耐えかねたのか、蒼空がそう呟く。
再び私の机を雑巾で拭き始める。よく見ると、文字が少しずつ薄くなっていることに気がついた。
「消してくれてるの……?」
「まぁ、お前に見られたら意味ねぇけどな」
雑巾を握る蒼空の手が少し痛そうに見えた。私がいない間ずっと、消してくれてたの?
一度、勝手に疑ってしまった自分を恥ずかしく思った。
蒼空は「疲れた」と言い、腕を休ませる。
「ごめん。あとは自分でやるから……」
「それなら、ふたりでやったほうが早いだろ」
そう言うと、蒼空は廊下に走り、もう一枚の雑巾を濡らして戻ってきた。
そして、私に差し出す。
それからは、ただ淡々と二人で机を拭き続けた。
茜色に染まった教室に、二人の影がゆっくりと伸びる。
久しぶりの、落ち着いた空間に、少しだけ緊張が混じった。
完全には消えなかったが、よく見ないと分からない程度まで文字は薄くなった。
「手伝ってもらって、ごめん」
「いいよ。俺が勝手にやってただけだし」
蒼空は本当に迷惑そうでもなく、自然に笑った。
「じゃあ……私、帰るね」
真っ直ぐに見つめる蒼空の視線から目を逸らし、背を向ける。
歩き出すと、右手首をぎゅっと掴まれた。
「一緒に帰ろう」
「えっと……」
「家の方向も一緒だろ?」
「でも……」
断る理由は見つからず、気づけば蒼空は普通に私の横を歩いていた。
どうせ帰るだけだ、と私はそれ以上、何も言わなかった。
下駄箱にたどり着き、履き替える蒼空を眺めながら、私も自分の下駄箱に手を伸ばした。
「うわ、なんだよこれ……」
開けると、中から大量のゴミが崩れ落ちた。
床に散らばったのは、いちご牛乳のパックやパンの袋、紙くずだった。
しゃがみ込んでゴミを拾い始めた蒼空は、パンの袋を手に取りながら呟く。
「これ、昼にあいつらがやったやつじゃねぇか」
「蒼空、汚れちゃうから」
「そんなの気にしねぇよ」
彼は近くのゴミ箱を持ってきて、散らかったゴミを全て詰め込む。
手際よく片付け終えると、あたりを見回して立ち上がった。
「こんなもんか」
「あっ、制服が……」
蒼空は私の視線を辿り、自分の制服に目を落とした。
ゴミで汚れた制服を手で払うが、落ちなかった。
「ごめん」
「お前が謝ることじゃねぇだろ」
蒼空は優しく言った。
「……ごめん」
他に言葉が見つからず、少し間を置いて同じ言葉を繰り返す。
胸の奥がもやもやして、どうしても言葉が途切れてしまう。
「お前、そういうとこ、昔から変わってねぇんだな」
蒼空は私を見つめ、静かに問いかけた。
「あいつらにされるがままでいいのか? どうして誰にも助けてって言わないんだよ」
「じゃあ……助けてって言ったら、誰か助けてくれるの?」
蒼空の言葉に、理不尽にカッとなり、口調が少し強くなる。完全な八つ当たりだった。
「みんな見てるだけで、誰も助けてくれない。私に助けてなんて言える人なんて......」
誰かがきっと助けてくれるなんて、もう期待していない。
誰かのために自分が犠牲になるなんて、漫画やアニメの話じゃあるまいし。
黙ってしまった蒼空を見て、私は我に返った。
「ごめん……こんなこと言うつもりじゃ」
「俺に言えよ」
蒼空は私の話を遮るようにそう言った。私は思わず目を丸くする。
「あはは、ありがとう」
蒼空はこういう人だった。なんだか笑ってしまった私を蒼空は不満げに見つめる。
「美月」
「おいおい、お前らまだいたのか? もう下校時間はとっくに過ぎてるぞ」
蒼空が何か言いかけた瞬間、ドアの鍵を締めに来た先生に追い出されることになった。
「一緒に帰るの、久しぶりだな」
ぼそっと呟く蒼空に、私は素直に「うん」と頷いた。
私たちの家は高校から二十分ほどの距離で、幼い頃からお母さん同士が仲良く、毎日のように一緒に過ごしていたことを思い出す。昔は、本当にずっと一緒だった。
昔から、私は話すのが得意じゃなかった。
だから、誰とでもすぐに仲良くなれる蒼空に、自然と憧れていた。
中学に上がる頃、両親が離婚した。
それをきっかけに、母が家にいない時間が増え、その間は蒼空の家にお世話になることも多くなった。
蒼空は、私の話をよく聞いてくれた。
自分では気にしないようにして、顔にも出さないつもりでいても、
「大丈夫か?」
そう声をかけてくれるのは、いつも蒼空だけだった。
そんな日々の中で、私は蒼空を好きだと自覚するまで、そう時間はかからなかった。
離婚の影響で、急に引っ越すことが決まったとき、私はこの想いを伝えようと決めた。
「明日、いつもの公園に来てほしい」
何度も文章を確認してから、送信ボタンを押す。
数分もしないうちに、「わかった」と短い返信が届いた。
一緒に笑った日のことが、次々と頭に浮かぶ。
期待と不安が入り混じって、胸の奥が落ち着かない。
それでも、心の中で何度も言い聞かせた。
――大丈夫。
翌日。
昨夜から収まらない胸の高鳴りのせいで、私はじっとしていられず、約束の時間よりも早く公園に着いてしまっていた。
「さすがに、まだかな……」
私は立ったまま、蒼空を待ち続けた。
今日のために考えてきた言葉を、何度も何度も心の中でなぞる。
けれど、約束の時間になっても、蒼空は現れなかった。
ベンチに腰を下ろす。
時計の針だけが、やけに大きな音を立てて進んでいく。
何度もメッセージを送った。
それでも、画面は沈黙したままだった。
「……もしかして、何かあったのかな」
さっきまで高鳴っていた心臓は、今では重く、鈍い音を立てている。
夕日が公園を赤く染め、やがて辺りは静かな闇に包まれた。
私は、重たい体を引きずるようにベンチから立ち上がる。
「ごめん、待たせた」
そんなふうに走ってくる蒼空の姿を、最後まで想像していた。
けれ、いつまで経っても蒼空は来なかった。
私は諦めて家に帰り、次の日の朝方、この街を出た。
それから三年。
昨日交わした会話が、蒼空との三年ぶりの言葉だった。
この街に戻ってきて、近くの高校に入学した。
蒼空がいることは、すぐに分かった。けれど、クラスも違うと見かけるだけで、話すことはなかった。
そんな過去を思い返しているうちに、気づけば蒼空の家の前に立っていた。
そして、今のこの状況。
昨日のこともあって、胸の奥は気まずさでいっぱいだった。
「じゃあ、また明日な」
「うん」
短いやり取りに、少しだけ肩の力が抜ける。
蒼空は、いつまでも手を振っていた。
その姿に気づいて、私も仕方なく、右手を小さく振り返す。
「……聞けなかったな」
私はひとり、そう呟いた。
蒼空と別れてから、家まではまだしばらく歩かなければならない。
いつもなら、やけに長く感じる距離なのに、今日は色々考えていたせいか、着くまでが早い気がした。
けれど、家が近づくにつれて、足取りは少しずつ重くなる。
まるで足首に重りでもつけられたみたいに、前に進むのが億劫だった。
私は足を止め、目の前の建物を見上げる。
いつ見ても思う。
――ボロアパートだ。
好き勝手に伸びた雑草に囲まれて、外壁は元の色も分からないほど色褪せている。
住人たちのポストには、回収されないチラシが溢れていた。
ここに住んでいるはずの人たちなのに、私は顔も、声も、ほとんど知らない。
近所の小学生からは、「お化け屋敷」と呼ばれている。「ここ、人住んでるのかな」そんな声が聞こえるたびに、その前を通って家に入るのが、少しだけ恥ずかしかった。
私は辺りを見渡し、誰もいないのを確認してから、錆びついた階段を駆け上がる。
踏み出すたびに、ぎし、と不安になる音が鳴る。いつ壊れてもおかしくないんじゃないか、と思うくらいだ。
階段を上りきり、一番奥の部屋の前で鞄から鍵を取り出し、扉を開けた。
「ただいま」
返事が返ってこないと分かっていながら、いつものように言った。
両親が離婚してから、家には母と二人で暮らしている。
――正確には、同じ家にいるだけ、だった。
母は夜の仕事をしていて、私が学校へ行ったあとに帰ってきて、私が帰宅する頃には、もう家を出ている。
顔を合わせることは、ほとんどない。
いや、合わせないようにしているのかもしれない。
私はいつも、母が仕事に出るまでの時間を屋上で過ごしていた。
私は無造作に机に置かれた千円札に目を向けた。
毎日、そこには必ずお金だけが置いてある。ご飯が食べられるだけ、ありがたいと思わなきゃいけないのだと、自分に言い聞かせる。
千円札をポケットに入れ、帰ってきたばかりの足で、そのまま外へ出た。
携帯を確認すると、時刻は六時過ぎ。
空は暗くなり始め、街灯がちかちかと頼りない光を灯している。
家から一番近いコンビニに入ると、ほぼ毎日見かけるアルバイトのおじいちゃんが、変わらない声で挨拶をしてくれた。
私はおにぎりを二つとアメリカンドッグ、それから明日の朝用にメロンパンを一つ、かごに入れる。
レジを通して、残った小銭は少しずつ貯金するようにしていた。
家に戻り、電気をつける。
ひとり分の部屋で椅子に腰を下ろし、買ってきたものを机の上に並べる。
両手を合わせた。
「いただきます」
その言葉は、誰に向けるでもなく、静かに部屋に落ちた。
呟くように言って、私は静かなまま食べ進めた。
そういえば――先生から「電話に出るように伝えてほしい」と言われていたんだった。
きっと、あれだ。お金が振り込まれていないのだろう。
後でメモに書いておかなきゃ。
そう思いながら、最後のひと口を口に運ぶ。
そのときだった。
カン、カン、カン。
荒々しく階段を上る音が、急に近づいてくる。
心臓が一拍、遅れて跳ねた。
ガチャ。
扉が開く音と同時に、現れたのはお母さんだった。
――どうして。
いつもなら、こんな時間に帰ってくるはずがないのに。
部屋に入ってきた瞬間、タバコと酒の匂い、そして知らない人の香水が混ざった空気が一気に広がる。
息が詰まりそうになる。
「クソっ! なんなのよ、あの客。あいつのせいで私が怒られたじゃない!」
お母さんは鞄を床に叩きつけた。
ガン、という音が、部屋に響く。
――ああ。
仕事で、また何かあったんだ。
私は無意識に背筋を伸ばしていた。
「……お母さん」
私が声をかけた瞬間、お母さんはゴミを見るみたいな目で私を睨みつけた。
――あ、やってしまった。
そう思ったときには、もう遅かった。
お母さんは私の髪を乱暴に掴む。
「なに? あなたも私に文句でもあるの」
「ごめんなさい」
反射的に口からこぼれた言葉だった。
「なによ、その目! こっちはあんたのために働いてるのよ!」
髪を引きずられるようにして、身体を突き飛ばされる。耐えきれず、私は床に手をついた。
「あんたなんて――産まなければよかった」
振り上げられた腕が、私に落ちてくる。
そう思った、その瞬間。
鞄の中から携帯の着信音が鳴り響き、お母さんの動きがぴたりと止まった。
「はい、もしもし。えっ、春樹くん? どうしたの」
さっきまでの怒声が嘘みたいに、声のトーンが変わる。
お母さんは携帯を見るなり、さっきまでの荒れた表情を引っ込めた。
声色まで別人みたいで、思わず呆れてしまう。
――また、機嫌が悪くなる前に。
私は机の上に置いてあった携帯だけを掴み、靴もろくに揃えないまま家を飛び出した。
これからどうすればいいのか、考えは浮かばない。
ただ、街灯に照らされた薄暗い道を、当てもなく歩き出す。
しん、と耳が痛くなるほど静まり返った夜の中。
奥の方から、楽しそうな声が聞こえてきた。
小学校にもまだ通っていなさそうな女の子と、その母親が、手を繋いでこちらへ歩いてくる。
女の子はアイスを食べていて、母親の手に下がる袋には、見慣れたコンビニのロゴ。
「ちょっとだけ、ちょうだい」
「えー、一口だけだよ」
そのやりとりが、やけに胸に刺さった。
思わず目を細める。
そこに、昔のお母さんの姿を重ねてしまった。
――あの頃は、優しかった。
毎日ご飯を作ってくれて、時間があれば一緒に遊んでくれた。
原因は――お父さんだった。
まともに働きもせず、遊んでばかり。
酒に酔って帰ってきた夜は、決まって家の中が壊れた。
小さい頃の私にでさえ、平気で手をあげた。
そんな私を、いつも庇ってくれていたのがお母さんだった。
幼いながらに、その記憶だけははっきり残っている。
それでもお母さんは、お父さんの分までひとりで働き、家のことも全部こなしていた。
無理をしているのは、子どもの私にも分かるくらいだった。
けれど、浮気が分かって離婚した。
――あんな人でも、お母さんは愛していたのだと思う。
その事実は、お母さんから何かを少しずつ奪っていった。
笑顔も、余裕も、優しさも。
気づいたときには、別人みたいになっていた。
きっと、お母さんも限界だったんだ。
だから、今日みたいに殴られそうになっても、私は何も言えない。
……私が、生まれてこなければ。
お母さんは、幸せだったんだろうか。
足の疲れた私は、嫌な思い出でしかない公園に渋々足を踏み入れた。
それでも、体は自然とブランコへ向かっていた。
懐かしい。
そう思いながら腰を下ろす。
軽く地面を蹴ると、ブランコはゆっくりと揺れ、
キィ、キィ、と一定のリズムで夜に音を落とした。
私は空を見上げる。
建物の明かりに星はほとんど見えない。
それでも、月だけが青白く浮かんでいた。
私は隣のブランコに視線を向けた。
小さい頃は、よくここで遊んだ。
その記憶に沈みかけた瞬間。
とんっ、と肩に手が置かれ、私は一気に現実へと引き戻された。
「びっくりした……」
私は大きく息を吐いて、胸を撫で下ろした。
「蒼空こそ、なんでこんなところに」
「俺は……買い物の帰り」
少し間を置いて、蒼空がそう答える。
けれど、その手に袋はなく、時間も時間だ。
変だとは思ったけれど、知られたくなさそうな空気を感じて、それ以上は聞かなかった。
「お母さんと、なにかあったのか?」
蒼空は、私の顔をじっと見てそう言った。
どうしてこの人は、いつも分かってしまうのだろう。
「うーん……ちょっとだけ」
蒼空は何も言わず、隣の空いていたブランコに腰を下ろした。
「早く帰らないと。お母さん、心配するよ」
「俺はいいんだよ。お前を公園にひとり置いてきたって言うほうが、母さんも心配する」
さすがに、こんな時間まで付き合わせるのは申し訳なかった。
蒼空の顔を覗くと、さっきの私と同じように、夜空を見上げている。
「……お前、大丈夫か」
蒼空の瞳が、ふっと真剣な色に変わり、私をまっすぐ捉えた。
何のことを指しているのかは、分かっていた。
「……なにが?」
分からないふりをして、私はとぼける。
「梨沙たちのこともだけど。――それだけじゃないだろ」
「大丈夫だよ。そんなに気にしてないし」
「気にしてないのと、平気なのは違うだろ」
納得していない様子の蒼空は、心配そうに私を見つめた。
どうして、ここまで気にかけてくれるのだろう。
そう思ったけれど、特別な理由なんてないのかもしれない。
蒼空は、ただ優しいだけだ。
「本当に、誰のせいでもないよ」
私は小さく笑って続けた。
「ただ……なんで生きてるのか、分かんなくて」
――そんな人生なら。
それが、たった十六歳の私が辿り着いた答えだった。
蒼空にこんなことを言っても、困らせるだけだ。
そんなことで、って笑われるかもしれない。
そう思って目を逸らした、そのとき。
「――なら、探そうぜ」
「……え?」
思ってもみなかった言葉に、私は小首を傾げる。
蒼空は、私の反応なんて気にも留めず、続けた。
「ないなら、探せばいいだろ」
「いや、でも……探すって言ったって」
「じゃあさ」
蒼空は少し間を置いて、私を見た。
「お前、明日死ぬってなったら、最後になにがしたい?」
「……いきなり、なんでそんなこと」
戸惑う私に、蒼空は軽く肩をすくめる。
「ほら」
それだけ言って、話を続けた。
「生きる意味なんて考えても、正直わかんねぇしさ。
そのうち、自然と自分なりの答えが見つかるんじゃねぇの。だったら今は、お前がやりたいことをやってりゃいいだろ。そうしてるうちに、ふと『これだ』って思う瞬間が来るかもしれねぇし」
たしかに死ぬ前にやりたいことが今ほんとうにやりたいことって、聞いたことがある。
でも――。
「んー……。でも、特にないというか」
「はぁ? あるだろ、普通」
蒼空はつまらなそうに吐き捨てると、眉間に寄ったシワを指で押さえながら、しばらく考え込んだ。
「そんなこと言われても……。じゃあ、蒼空はどうなの?」
思いつかなかった私は、話題を蒼空に振る。
すると、蒼空もさっきの私と同じように言葉に詰まった。
「俺? えーと……美味いもん食って、友達と遊んで……」
「小学生みたい」
「うるせぇよ」
少し拗ねたように言う蒼空を見て、私は思わず口角を上げた。
もし明日、死ぬとしたら。
心残りなんてないと思っていた私には、考えたことのない質問だった。
「梨沙に言い返す……とか?」
試しに口にしてみると、蒼空は吹き出す。
「ははっ。死ぬ前にそれかよ」
「じゃあ次は? 他にも、もっとあるだろ」
からかうような、いつもの軽口に戻った蒼空が、話を先に進める。
「あっ……星空を見たいかも」
私はもう一度、夜空を見上げた。
何年か前、お母さんと行ったキャンプで見た星空が、やけに綺麗で。
あれを、もう一度だけ見たいと思った。
「じゃあ、俺が連れてってやるよ」
本当に行くかどうかも分からない、軽い約束みたいな言葉。
それでも私は、
「……ほんと?」
そう言って、小さく頷いた。
「他はねぇの」
そう言われて、私は少し迷った。
けれど、しばらく考えてから、ゆっくり口を開く。
「……お母さんと、昔みたいに話したいな」
最後に浮かんだ、それだけのこと。
口にしてみると、胸の奥が少しざわついて、空気まで重くなった気がして、私は誤魔化すように顔を上げた。
「あー……やっぱり」
「いいじゃん」
話題を変えようとして、別の言葉を探した、その途中で。
蒼空が、被せるみたいに言った。
「無理とかさ。もしもの話なんだから、考えなくていいだろ?」
――そうだった。
もしもの話、なんだ。
「たまにさ。芸能人とか俳優が亡くなったってニュース見るけど……人って、いつ死ぬかわかんねぇよな」
確かに、死は不平等に訪れるのかもしれない。
頑張っている人ほど、先にいなくなってしまう気がして、胸の奥が少し重くなる。
「まぁ俺は、ギネスに載りたいから百歳まで生きるけどな」
「日本人の最高記録は百十五歳だよ」
「まじか? じゃあキリよく百二十歳まで生きるわ。……てか、なんでそんなこと知ってんだよ」
そう言って、蒼空は小さく笑ったあと、少しだけ表情を引き締めた。
「明日があるってさ。当たり前じゃねぇんだよ」
その横顔は、いつもの軽い雰囲気とは違っていて。
夜の公園の静けさの中で、蒼空だけが少し、大人びて見えた。
もし、明日突然死んでしまったら。
その先に何があるのかなんて、誰にもわからない。
生まれ変わるって言う人もいるけど。
もし本当にそうなら、私は生まれる前、今とはまったく違う誰かとして、別の人生を生きていたのだろうか。
「だからさ」
そう言って、蒼空は空を見上げたまま、軽く漕いでいたブランコを止めた。
そして、今度はまっすぐに私を見る。
「だから――死ぬってのは、最後なんじゃねぇの」
「……」
今度は、「そうだね」と答えられなかった。
考えすぎかもしれない。
それでも蒼空の言葉は、好きに生きろと言われているみたいで。
でも「うん」と頷くには、私の心はまだ追いついていなかった。
「学校でも言ったけどさ。なんかあったら、俺に言えよ」
「……ありがとう。そろそろ、帰るね」
そういえば、今何時だろう。
携帯を取り出して画面を見ると、思っていたよりずっと時間が経っていた。
こんなに長く、蒼空と話していたんだ。
「送ってく」
「えっ、いいよ。家、すぐだから」
さすがに送ってもらうのは申し訳がない。蒼空のお母さんだって、きっと心配している。
「これで帰りに誘拐でもされたら、どうすんだよ」
「この距離だし、さすがに大丈夫だよ」
そう言って説得するけれど、納得していない蒼空は少し考え込んだあと、なにか思いついたように手を叩いた。
「じゃあ、帰ったら連絡しろよ」
たしかに、と思う。今どき携帯があるんだから。
「じゃあ、また明日。気をつけて帰れよ」
「ありがとう」
そう言って、私たちは別々の出口へ歩き出した。
少し歩いたところで、私は振り返る。
空を見上げる蒼空の瞳が、なぜか悲しそうに揺れているように見えた。
どうしてそう思ったのか、自分でもわからない。
気のせいだ、と首を振って、私はまた前を向く。
私は、いつも前向きで強い蒼空を羨ましく思っている。
私が持っていないものを、蒼空は当たり前みたいに持っているから。
昔から、蒼空と一緒にいると、自分も少しだけ強くなれた気がしてしまう。
携帯を開き、無事に着いたら送ると、すぐに送れるよう文字を打つ。
そして私は、行きよりもほんの少しだけ、明るく見える道を見つめた。



