君のために生きたい

 次の日、目を覚ましたのは昼過ぎだった。
 少し前に美咲さんから「面会できるようになった」と連絡があり、私は慌てて病院へ向かった。

 受付で病室を聞き、エレベーターに乗る。扉が閉まるのが遅く感じて、階段で行こうか本気で迷うほど、落ち着かなかった。

 蒼空の病室は個室だった。
 ドアの横にあるネームプレートを見上げる。

 ――矢野蒼空様。

 その文字を見た瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。

 ノブに伸ばした手を、ぴたりと止めた。
 今さら、緊張してきた。

 どんな顔で会えばいいんだろう。
 何から、言えばいい?

 一気に頭が冷えて、私はドアの前で固まった。
 それでも――蒼空に、聞かなきゃいけないことがある。

 深く息を吸い、覚悟を決めて、そっとドアを開けた。

 ……蒼空だ。

 ベッドを起こし、窓の外を眺めている。
 無事だと聞いてはいたけれど、こうして自分の目で見るまで、安心できなかった。

 その姿を見た途端、胸に溜まっていたものが、少しだけほどける。

「早く入ってこいよ」

 窓から視線を外し、蒼空が言った。
 ずっと入口に立ち尽くしていた私に、気づいていたらしい。

「……お、お邪魔します」

 部屋に入ると、そっと視線を向ける。
 蒼空は、ドラマでよく見る青い病衣を着ていて、腕には点滴が繋がれていた。

 私は近くに置いてある丸い椅子に腰を下ろす。
 言いたいことは、山ほどあった。

 本当なら、無事でよかったって、抱きついてしまいたい。

 でも、できなかった。

 少しの間に、なんとも言えない空気が流れる。

「……ありがとな」

 不意に、蒼空が言った。

「え……?」

 思わず、短い声がこぼれた。

「母さんから聞いた。お前が救急車を呼んでくれたんだろ? 俺、結構やばかったらしくてさ」

 蒼空は何事もなさそうに笑った。
 でも、私は笑えなかった。
 胸の奥がざわつき、目の前の蒼空をただ見つめる。

 はぁ、と蒼空が息を吐く。

「どこまで聞いたんだ。母さんから話、聞いたんだろ」

 一瞬、言葉が出なかった。けれど、私は顔を上げた。

「長くは生きられないかもって……でも、これ以上は私からは言えないって」

 昨日のことが、まるで夢だったんじゃないかと、一瞬だけ思った。
 でも、現実だった。美咲さんが言ったことは、間違いなく事実だった。

「ねぇ、お願い……蒼空。どういうことなのか、教えて」

 ずっと一緒にいたのに、知らなかった。
 踏み込んではいけないのかもしれない。
 でも知りたかった。たとえどんな話でも。

 私は真剣に、蒼空の目を見つめる。

 すると蒼空は、独り言のように小さく呟いた。

「……隠せねぇか」

「……え?」

「余命宣告された。すぐってわけじゃないけど、だいたいあと一年だと思ってほしいって」

 言葉が落ちた瞬間、太陽に雲が重なったかのように、世界が薄暗くなった気がした。

 覚悟していたはずなのに、想像以上の衝撃に息が止まりそうになる。
 指先から冷たさがじわりと広がり、体の奥から温度が奪われていく。

「神経系の病気で、だんだん体が動かなくなるんだって」

「……余命宣告って、いつから?」

 混乱する頭を必死に回転させ、私は問いかけた。

「お前と、屋上で会った日の前日」

 蒼空は、窓の外を眺めたまま答える。

 ――じゃあ、最初から。
 私と出会ったときには、もう宣告を受けていたってこと?

「難病らしくてさ。今のところ治療法はない。手術もできないって。せいぜい、進行を遅らせるくらいだって言われた」

「それって……」

 言葉が、そこで詰まった。

 手術もできない。
 治らない。
 それって――ただ、終わりを待つしかないってこと?

 あまりにも残酷な話なのに、蒼空は、なんでもないみたいに笑っていた。
 その笑顔が、どうしようもなく胸を締めつける。

「俺さ、余命宣告されたとき、頭が真っ白になって、何も考えられなかったんだ」

 私は黙って、耳を傾ける。
 点滴の雫が落ちるたび、息をするのを忘れそうになる。

「……でもな。お前だけが、頭に浮かんだ」

 胸の奥が、きゅっと縮む。

「あの日、なんとなく屋上に行った。そしたら、お前がいた。何しようとしてるのか、すぐわかった」

 私は、あの日の光景を思い出していた。

「気づいたら、考える間もなく止めてた」

 蒼空は、小さく息を吐く。

「残りの時間を、お前と一緒にいたかったから。……ははっ、結局、俺のわがままだったんだよ」

 違う。
 そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 きっと、そんな言葉じゃ、蒼空は納得しない。

「残りの人生、後悔しないように生きようって思ってた。満喫して、笑って、終わろうって」

 少しだけ、声が揺れた。

「……なのにさ。日に日に、お前のことが好きだってことだけが、はっきりしていって」

 蒼空が、こちらを見た。

「死にたくなんて、ないって……思っちまったんだ」「神経系の病気で、だんだん体が動かなくなるんだって」

「……余命宣告って、いつから?」

 混乱する頭を必死に回転させ、私は問いかけた。

「お前と、屋上で会った日の前日」

 蒼空は、窓の外を眺めたまま答える。

 ――じゃあ、最初から。
 私と出会ったときには、もう宣告を受けていたってこと?

「難病らしくてさ。せいぜい、進行を遅らせるくらいだって言われた」

「それって……」

 言葉が、そこで詰まった。

 手術もできない。
 治らない。
 それって――ただ、終わりを待つしかないってこと?

 あまりにも残酷な話なのに、蒼空は、なんでもないみたいに笑っていた。
 その笑顔が、どうしようもなく胸を締めつける。

「俺さ、余命宣告されたとき、頭が真っ白になって、何も考えられなかったんだ」

 私は黙って、耳を傾ける。
 点滴の雫が落ちるたび、息をするのを忘れそうになる。

「……でもな。お前だけが、頭に浮かんだ」

 胸の奥が、きゅっと縮む。

「あの日、なんとなく屋上に行った。そしたら、お前がいた。何しようとしてるのか、すぐわかった」

 私は、あの日の光景を思い出していた。

「気づいたら、考える間もなく止めてた」

 蒼空は、小さく息を吐く。

「残りの時間を、お前と一緒にいたかったから。……ははっ、結局、俺のわがままだったんだよ」

 違う。
 そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 きっと、そんな言葉じゃ、蒼空は納得しない。

「残りの人生、後悔しないように生きようって思ってた。満喫して、笑って、終わろうって」

 少しだけ、声が揺れた。

「……なのにさ。日に日に、お前のことが好きだってことだけが、はっきりしていって」

 蒼空が、こちらを見た。

「死にたくなんて、ないって……思っちまったんだ」

 蒼空は、自分の拳を見つめていた。

「……そんなの、無理なのにな」

 悔しそうに眉を寄せる蒼空に、私はどんな言葉をかければいいのか分からなかった。

「これからどんどん体が動かなくなってく。ひとりじゃ、きっと何もできなくなる」

 拳を握りしめたまま、蒼空は続ける。

「お前のために、何もしてやれない」

「……なのに」

 蒼空は、言葉を切った。

「俺、お前から離れられなくて」

 自嘲するように、苦笑する。

「お前が言ったとおり、もっと早く離れるべきだった。でもさ……」

 視線を落としたまま、静かに言葉を重ねる。

「また明日、次こそはって。そう思ってるうちに、今日が終わってた」

 蒼空が、私の隣で笑っていたとき。
 その裏で、ずっとこんなことを考えていたのかと思うと、胸が締めつけられた。

「でもな」

 蒼空は、少しだけ顔を上げる。

「お前に好きだって言われたとき、今なら死んでもいいって、本気で思った」

 切なそうに、笑った。

 ――あの星空の下。
 確かに、蒼空はそう言っていた。

 そんなにも喜んでくれていたのなら、もっと早く、何度も伝えていればよかった。
 もっと話を聞いていればよかった。

 後悔が、胸の奥に沈んでいく。

「……でもさ」

 蒼空の声が、低くなる。

「いつか俺、お前の重りになるんじゃねぇかって思った」

 こちらを見ないまま、続ける。

「俺は死んでも、お前は生きてかなきゃいけない。今もこうして、お前の時間を奪ってんのかなって」

「そんなこと――」

 思わず、声が出た。

 その瞬間、蒼空が顔を上げる。
 伏せていた視線が、私を捉えた。

 そして、いつものように、優しく微笑んだ。

 私がそう口を開くと、蒼空は伏せていた視線をこちらに向けた。
 そして、いつもみたいに、優しく微笑んだ。

「俺は、美月が好きだ」

 胸が、きゅっと縮む。

「でも……だから、これ以上一緒にいないほうがいい」

 その一言一言が、胸に突き刺さる。

 たしかに、一緒にいるほど、好きになるほど、別れのときは、きっと苦しくなる。

 だったら、今のうちに離れたほうがいい。
 お互いのため――そう思うのが、正しいのかもしれない。

「だから、お前は俺なんかより――」

「蒼空より、いい人なんていないよ」

 私は、言葉を重ねるように口を開いた。

「私ね、昨日……もしこのまま蒼空がって、考えてた」

 声が、少し震える。

「蒼空がいなくなるなんて、考えられなかった。蒼空がいない明日を、生きたいなんて思えなかった」

 気づけば、蒼空が隣にいることは、いつの間にか、当たり前になっていた。

「さっき蒼空、自分のわがままだって言ったよね。でも……」

 私は、まっすぐ蒼空を見る。

「蒼空がいてくれたから、私は生きたいって思うようになったんだよ」

 あの日、声をかけてくれたから。

「私も……あの瞬間に、蒼空の顔が浮かんだ」

 一度、息を吸う。

「心残りなんてないって思ってたのに」

 そのとき、はっきり分かった。

 私は、蒼空に止めてほしかったんだ。

 死ぬなら、家でも、どこでもよかった。
 それでも学校を選んだのは――

 そこが、私と蒼空が会える、唯一の場所だったから。

「蒼空は、生きる意味がないなら探してくれるって言ったよね」

 私は、蒼空をまっすぐ見つめる。

「でも、もう分かったんだ。蒼空が私にしてくれたみたいに……今度は、私が蒼空のために生きたい」

 けれど蒼空は、口を噤んだまま視線を逸らした。

 どうしたら、分かってもらえるんだろう。
 どうしたら、この気持ちは届くんだろう。

「……こんなに好きなのに、別れろだなんて、無理だよ」

 声が、少し震える。

「私の知らないところで、蒼空がいなくなっちゃうほうが、ずっとつらい。だから……最後まで、隣にいさせて」

 たとえ、いつか別れのときが来たとしても。
 その時間を、蒼空の隣で過ごしたい。

 何もできずに、ただ失うなんて、嫌だった。

「お見舞いだって、毎日来る。なんだってするから……」

 言葉が、途切れ途切れになる。

「お願い。別れようなんて言わないで。私のことが好きだって言うなら……側にいてよ」

 溢れそうになる熱いものを、奥歯でぐっと噛みしめた。

 必死に想いをぶつけると、蒼空が、ようやく私の目を見た。

 その顔は、悲しそうで、苦しそうに歪んでいて。

 蒼空は、私の頬にそっと触れると、何も言わずに、静かに抱き寄せた。

「……もう言わないから、そんな顔するな」

 背中に回された蒼空の腕に、ぎゅっと力がこもる。

「……本当に、俺でいいのか」

 震える声。

 逃がさないように、私は一言一言、噛みしめるように返した。

「蒼空がいい」

「……どにも行けなくなるんだぞ」

「それでも」

「余命だって……一年しかない」

 一瞬、息が詰まる。

 それでも私は、背中に回された腕を、同じ強さで握り返した。

「うん。ずっと一緒にいる」

 どこかへ行ってしまわないように。
 この温度が、消えてしまわないように。

 蒼空と過ごせる時間が限られているなら、私はそのすべてを、隣で使う。

 蒼空が私にくれたものを、今度は私が返していく番だ。

 蒼空が私にたくさんのものを与えてくれたように私も少しずつ返していこう。