夏休みも、もう終わり新学期が始まっていた。休み明けの学校は、どうしても面倒に感じてしまう。
それでも、ようやくまた、週末がやってきた。
私は、隣に置いた小さな箱に目を向ける。
蒼空のために買ったピアスだ。
いつももらってばかりだったから、私も何か贈りたくて選んだ。
本当に、どれだけ時間をかけたかわからない。
でも、蒼空のことを考えながら選ぶ時間は、楽しかった。
どんな顔をするかな。
喜んでくれるかな。
それを想像するだけで、胸が少し高鳴る。
今日は蒼空と、近くのショッピングモールに行く約束をしている。
緊張して、私は少し早く着いてしまい、公園で待っていた。
待ち合わせなんて、もう何度もしているのに。
どうして、慣れないんだろう。
そう思っていると、蒼空の姿が見えた。
私は自然と、彼の方へ歩き出す。
「悪い、待たせた」
「ううん。じゃあ、行こっか」
私の言葉に、何か考え込んでいた蒼空は、
「……そうだな」
と、少し作り笑いで答えた。
それから私たちは、ショッピングモールを回った。
買い物をして、ゲームセンターに寄って、最近できたカフェにも入った。
よく考えたら、こんなふうに近場で、ただ普通に過ごすデートは初めてかもしれない。
私はずっと、プレゼントを渡すタイミングを探していた。
そして、帰り道。
私たちは、最初に待ち合わせた公園へ戻ってきた。
「あそこのカフェ、行ってみたかったからさ。
今日行けて、よかったなぁ」
満足そうにそう言いながら公園に入ると、
帰り道ずっと静かだった蒼空も、少し遅れて後についてくる。
私は遊具のある、いつもの場所で足を止め、蒼空と向き合った。
「あのね、蒼空」
――今しかない。
そう思って、鞄の中の小さな箱に手を伸ばす。
「美月」
私が口を開くより早く響いた蒼空の声に私は動きを止めた。
「どうしたの?」
「……俺たち、別れよう」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「別れよう」たった四文字なのに、頭の中でうまく形にならない。
「え……ごめん。蒼空、聞こえなかった」
ひきつった笑顔のまま、私は嘘をついた。
「別れよう」
少しの間を置いて、蒼空はもう一度言った。
さっきと何一つ変わらない声で、はっきりと。
今度は、ちゃんと聞こえてしまった。
聞き間違いかもしれない、という唯一の希望が、音を立てて崩れる。
「……私、何かした?」
「ごめん。気づけなくて……」
必死に言葉をつなぐけれど、蒼空は黙ったままだ。
手が、震える。
どうしたらいいのかわからない。ただ、別れたくなくて必死だった。
けれど、どんな言葉を投げても、蒼空は――私が欲しい言葉を、ひとつも返してくれなかった。
「ごめん」
「謝らないでよ。なんでか言ってくれなきゃわかんないよ」
謝ってほしいわけじゃない。
私が欲しいのは、そんな言葉じゃない。
私は蒼空の両腕を掴み、逃がさないように強く見つめた。
しばらくして、蒼空は小さく、ため息混じりに息を吐いた。
その瞬間――表情が、変わる。
それは、私が知っている蒼空の顔だった。
「じゃあ、言うけど――
俺、最初からお前のこと、好きじゃなかったんだよ」
蒼空は、冷たい瞳で私を見下ろした。
この感じ。
――梨沙のときと、同じだ。
でも、その温度のない視線を向けられているのが、私自身だと気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
冗談だよ、と笑う気配はない。
蒼空の瞳からは、言い訳も、迷いも、何も生まれてこなかった。
「……そんなの、信じられないよ!」
本当なら、今日まで一緒にいる必要なんてなかったはずだ。
そう言い聞かせるように、私は強く声を張り上げる。
「お前がさ、あまりにもマジになってんのが、おもろかっただけ。俺が、お前なんかを本気で好きになると思ったのか?」
「……」
――お前なんか。
そうだった。
蒼空が、私を好きになるなんて。
最初から、おかしな話だった。
それでも、頭は必死に拒んでいた。
これまでの時間を、全部、嘘だなんて認めたくなかった。
「だったら……もっと早く言ってよ! 私が、本気になる前に……!」
もっと早く、こう言われていたら。
そしたら、ここまで壊れずにすんだかもしれないのに。
どうして、今なの。
「ねぇ、蒼空……」
声が、震える。
「全部、嘘……でしょ?」
最後の希望に縋るみたいに、私は蒼空を見つめた。
嘘だって言ってくれたら、全部許すから。
そう願いながら、指先に、ぎゅっと力を込めた。
「……嘘だと思うか?」
蒼空の声には、やっぱり何の温度もなかった。
「ははっ……私、バカみたい」
独り言みたいに呟いた瞬間、指先から力が抜けた。
握っていた蒼空の腕を、するりと離す。
感情のこもっていないその声が、まっすぐ心臓に突き刺さる。
「私ね、蒼空に喜んでほしくて……すごく悩んで選んだんだよ。でも……これも、意味なかったんだね」
そう言いながら、鞄から梱包された小さな箱を取り出し、勢いよく投げつけた。
箱は地面に叩きつけられ、弾けるように開く。
中から飛び出したピアスが、私たちから少し離れた場所へ転がっていった。
物に八つ当たりなんて、最低だって分かってる。それでも、この気持ちをどこに向ければいいのか、分からなかった。
――ああ。
心のどこかで、他人事みたいに自分を眺めている私がいる。
じゃあ、今までの私たちの時間は。
あれは、一体、なんだったんだろう。
「……パシッ」
黙り込んだままの蒼空に歩み寄り、
私は力いっぱい、その頬を叩いた。
まさか、自分がこんなドラマみたいなことをする日が来るなんて、思ってもみなかった。
「……私は、本当に好きだったのに」
聞こえるか、聞こえないか分からない声でそう呟いて、
蒼空の顔を見ないまま、私は走り出した。
好きだった。
――いや、違う。
こんなことを言われても、まだ蒼空が好きだ。
でも、強がらなきゃ。
そうでもしないと、私はきっと、いつまでも蒼空に縋ってしまう。
最後くらい、惨めな姿だけは、見せたくなかった。
この先も、ずっと一緒にいられる。
そんなふうに、当たり前みたいに思っていた。
それなのに、終わりはこんなにも呆気なかった。
目元から、必死に堪えていた熱いものが溢れ出す。
頭の中はぐちゃぐちゃで、自分でも感情の整理がつかない。
息が苦しくて、何も考えられなくなるまで、私は走り続けた。
空は、私の気持ちをなぞるみたいに、突然雨を降らせた。
顔に落ちる雫が、雨なのか涙なのか、もう分からない。
蒼空が今まで言ってくれた言葉も、全部――嘘だったの?
あの時の笑顔も、全部、作りものだった?
考えようとした瞬間、足元がぐしゃりと滑った。
次の瞬間、地面に投げ出されていた。
仰向けになって、やっと息ができた。
しばらく、そのまま雨に打たれていた。
……痛い。
遅れてやってきた痛みに体を起こすと、膝から赤い血が流れているのが見えた。
――私、生きてる。
そんな当たり前のことを思う。でも、昔の私にとっては、それは当たり前じゃなかった。
蒼空は、私にたくさんのものをくれた。
友達も、居場所も、思い出も、帰る場所も。
それなのに。
蒼空がいない――それだけで、全部失ったみたいな気がした。
どうしたらいいか分からなくて、雨が地面を叩く音だけが、やけに大きく響いていた。
真っ暗な空を、ぼんやりと見つめる。
「あ……」
風に舞ってきた黄色い花びらに、反射的に手を伸ばす。
花びらは、私の手のひらで、ふわりと止まった。
顔を上げると、どこかの家の庭に、ひまわりが咲いている。
――あなただけを見つめる。
その花言葉を、教えてくれたのは蒼空だった。
「……嘘つき」
本当に、これで終わりなの?
自分に問いかけても、答えは出ない。
蒼空は、あんなことを言う人じゃない。
蒼空は、優しい。
それを、誰よりも知っているのは――私だ。
これまでの思い出も、蒼空がくれた言葉も、全部が嘘だったなんて、どうしても思えなかった。
だって私は、ずっと一番近くで見てきた。
きっと、何か理由があったはずだ。
胸の奥で、そう思う気持ちが、まだ消えていなかった。
もう一度、ちゃんと話さないと。
逃げるみたいに終わらせたくない。
このまま帰ったら、きっと私は後悔する。
また一人で、勝手に納得して、逃げてしまう。
私は踵を返した。
雨に濡れたまま、さっきまで背を向けていた方向へ、もう一度走り出す。
今度は、逃げるためじゃない。
蒼空に、ちゃんと向き合うために。
蒼空の家に向かうなら、公園を通った方が早い。そう思った私は、迷わず公園の中に入った。
――そのときだった。
視界の端に、見覚えのある影が映る。
私は思わず足を止めた。
「……蒼空?」
自分に言い聞かせるように、名前が口からこぼれる。
次の瞬間、心臓が強く跳ねた。
「蒼空ッ!」
私は駆け出していた。
ベンチの近く、地面に崩れるように倒れている蒼空。雨に濡れた髪も、力なく伸びた腕も、あまりにも動かない。
「ねぇッ、蒼空! しっかりして!」
肩に触れても、揺すっても、返事はない。
頭が真っ白になる。
どうしよう。
なにが起きてるのか、わからない。
――救急車。
それだけを必死に思い出し、私はカバンから携帯を取り出した。
「……なんで、こんなときに」
画面は真っ暗なまま、うんともすんとも言わない。
充電切れ。
焦りで喉が詰まりそうになる。
だめ、落ち着いて。
しっかりしないと。
――蒼空の携帯。
私は震える手で、蒼空のカバンを開き、携帯を取り出した。
電源は、入る。
ほっと息をついた、その瞬間――
私は、画面を見て固まった。
「……なんで……」
ロック画面に映っていたのは、たくさんのひまわりに囲まれて、振り返って笑う――私。
「……なんで、私なのよ……」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
嘘じゃなかった。
少なくとも、全部が嘘なんかじゃなかった。
でも今は、そんなことを考えている場合じゃない。
私は携帯を強く握りしめ、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
――あとで全部、話してもらうから。
私は深呼吸をひとつして、緊急通報の番号を押した。
初めての通話に手が震えながらも、場所、状況、倒れていることを必死に伝える。
すべての質問に答え終え「すぐに向かいます」と言われて通話が切れた。
私は震える手で携帯を握りしめたまま、蒼空の手を取った。
雨で冷えきったその手は驚くほど冷たくて、私は必死に、力いっぱい握りしめる。
――お願い。無事でいて。
それだけを、何度も心の中で繰り返した。
やがて到着した救急車に、付き添いとして私も乗り込んだ。
運ばれていった先は、以前バイトで来たことのある、あの病院だった。
蒼空は酸素マスクを付けられ、ストレッチャーに乗せられていく。
救急隊員や医師たちの間で、専門用語が次々と飛び交う。
意味はわからない。
でも、この張り詰めた空気だけで――ただ事じゃないことは、嫌というほど伝わってきた。
「これから緊急オペに入ります。こちらでお待ちください」
そう言われるまま、私は向かいの椅子に腰を下ろした。
視界の端で、手術中の赤いランプが点灯する。
それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
――どれくらい、時間が経ったんだろう。
何時間も座っていた気がしたのに、時計を見ると、思ったほど時間は進んでいなかった。
待つことしかできない時間は、どうしてこんなにも長いのだろう。
「美月ちゃん!」
廊下の奥から聞こえた声に、私ははっと顔を上げた。
走ってきたのは、美咲さんだった。
「美咲さん……! 蒼空が……!」
言葉が途中で詰まり、私はそのまま駆け寄った。
息を切らしていた美咲さんを、近くの椅子に座らせる。
それから私は、今日あったことを、できるだけ落ち着いて話した。
別れ話をされたことも、公園で倒れていたことも、全部。
話し終える頃には、喉がひりついていた。
それを聞いた美咲さんは、いつも優しく微笑んでいる表情を、静かに歪めた。
「……そう」
その一言が、やけに重かった。
「美咲さん……蒼空は、なんで……」
そこまで言ったところで、声が震える。
美咲さんは小さく息を吐くと、
逃げずに、真正面から私を見つめた。
「本当は、私が言っていいことじゃないんだろうけど……このままじゃ、あの子、きっと何も言わないから」
何を言われるのか、怖かった。
聞きたくないと思う一方で、蒼空がどうしてあんなことを言ったのか、知りたい気持ちも消えなかった。
美咲さんが、逃がさないみたいに私をまっすぐ見つめる。
私はごくりと喉を鳴らし、覚悟を決めて視線を合わせた。
「蒼空は……長くは生きられないかもしれないの」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
頭の中が、真っ白になる。
「蒼空が……? どうして……」
「これ以上は、私からは言えないわ」
その一言が、現実を突きつけてくる。
私は首を横に振った。どうしても、受け入れられなかった。
「嘘……だって蒼空、さっきまで普通に――」
「美月ちゃん、落ち着いて」
気づいたときには、思っていたより大きな声が出ていた。
美咲さんが、強く私の肩を掴む。
その手の震えに、はっとする。
――そうだ。
一番つらいのは、美咲さんなんだ。
「……ごめんなさい」
「まだ手術まで時間がかかるの。美月ちゃんは、一度帰ったほうがいいわ。終わったら、すぐに連絡するから」
何も言えずにいる私に、美咲さんは無理に明るく、優しく微笑んだ。
「蒼空は、大丈夫だから」
「……はい」
そう答えることしか、できなかった。
私がここにいても、できることは何もない。
ひとりで帰れるか心配してくれる美咲さんに頭を下げ、私は家へ戻った。
帰り道、何を考えていたのか覚えていない。
気づいたときには、もう自分の部屋にいた。
横になっても、眠れるはずがなかった。天井を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。
どれくらい経ったのかも分からない頃、静まり返った部屋に、突然着信音が響いた。
心臓が跳ねる。
慌てて携帯を掴むと、美咲さんからのメッセージだった。
「無事、手術は終わったわ。明日からは入院になるって」
文字を追ううちに、張りつめていた肩の力が、すとんと抜けた。
――生きている。
それだけで、よかった。
今日一日、あまりにもいろいろなことが起きすぎた。
安心した反動なのか、返事を打つこともできないまま、私はそのまま、深い眠りに落ちていた。
それでも、ようやくまた、週末がやってきた。
私は、隣に置いた小さな箱に目を向ける。
蒼空のために買ったピアスだ。
いつももらってばかりだったから、私も何か贈りたくて選んだ。
本当に、どれだけ時間をかけたかわからない。
でも、蒼空のことを考えながら選ぶ時間は、楽しかった。
どんな顔をするかな。
喜んでくれるかな。
それを想像するだけで、胸が少し高鳴る。
今日は蒼空と、近くのショッピングモールに行く約束をしている。
緊張して、私は少し早く着いてしまい、公園で待っていた。
待ち合わせなんて、もう何度もしているのに。
どうして、慣れないんだろう。
そう思っていると、蒼空の姿が見えた。
私は自然と、彼の方へ歩き出す。
「悪い、待たせた」
「ううん。じゃあ、行こっか」
私の言葉に、何か考え込んでいた蒼空は、
「……そうだな」
と、少し作り笑いで答えた。
それから私たちは、ショッピングモールを回った。
買い物をして、ゲームセンターに寄って、最近できたカフェにも入った。
よく考えたら、こんなふうに近場で、ただ普通に過ごすデートは初めてかもしれない。
私はずっと、プレゼントを渡すタイミングを探していた。
そして、帰り道。
私たちは、最初に待ち合わせた公園へ戻ってきた。
「あそこのカフェ、行ってみたかったからさ。
今日行けて、よかったなぁ」
満足そうにそう言いながら公園に入ると、
帰り道ずっと静かだった蒼空も、少し遅れて後についてくる。
私は遊具のある、いつもの場所で足を止め、蒼空と向き合った。
「あのね、蒼空」
――今しかない。
そう思って、鞄の中の小さな箱に手を伸ばす。
「美月」
私が口を開くより早く響いた蒼空の声に私は動きを止めた。
「どうしたの?」
「……俺たち、別れよう」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「別れよう」たった四文字なのに、頭の中でうまく形にならない。
「え……ごめん。蒼空、聞こえなかった」
ひきつった笑顔のまま、私は嘘をついた。
「別れよう」
少しの間を置いて、蒼空はもう一度言った。
さっきと何一つ変わらない声で、はっきりと。
今度は、ちゃんと聞こえてしまった。
聞き間違いかもしれない、という唯一の希望が、音を立てて崩れる。
「……私、何かした?」
「ごめん。気づけなくて……」
必死に言葉をつなぐけれど、蒼空は黙ったままだ。
手が、震える。
どうしたらいいのかわからない。ただ、別れたくなくて必死だった。
けれど、どんな言葉を投げても、蒼空は――私が欲しい言葉を、ひとつも返してくれなかった。
「ごめん」
「謝らないでよ。なんでか言ってくれなきゃわかんないよ」
謝ってほしいわけじゃない。
私が欲しいのは、そんな言葉じゃない。
私は蒼空の両腕を掴み、逃がさないように強く見つめた。
しばらくして、蒼空は小さく、ため息混じりに息を吐いた。
その瞬間――表情が、変わる。
それは、私が知っている蒼空の顔だった。
「じゃあ、言うけど――
俺、最初からお前のこと、好きじゃなかったんだよ」
蒼空は、冷たい瞳で私を見下ろした。
この感じ。
――梨沙のときと、同じだ。
でも、その温度のない視線を向けられているのが、私自身だと気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
冗談だよ、と笑う気配はない。
蒼空の瞳からは、言い訳も、迷いも、何も生まれてこなかった。
「……そんなの、信じられないよ!」
本当なら、今日まで一緒にいる必要なんてなかったはずだ。
そう言い聞かせるように、私は強く声を張り上げる。
「お前がさ、あまりにもマジになってんのが、おもろかっただけ。俺が、お前なんかを本気で好きになると思ったのか?」
「……」
――お前なんか。
そうだった。
蒼空が、私を好きになるなんて。
最初から、おかしな話だった。
それでも、頭は必死に拒んでいた。
これまでの時間を、全部、嘘だなんて認めたくなかった。
「だったら……もっと早く言ってよ! 私が、本気になる前に……!」
もっと早く、こう言われていたら。
そしたら、ここまで壊れずにすんだかもしれないのに。
どうして、今なの。
「ねぇ、蒼空……」
声が、震える。
「全部、嘘……でしょ?」
最後の希望に縋るみたいに、私は蒼空を見つめた。
嘘だって言ってくれたら、全部許すから。
そう願いながら、指先に、ぎゅっと力を込めた。
「……嘘だと思うか?」
蒼空の声には、やっぱり何の温度もなかった。
「ははっ……私、バカみたい」
独り言みたいに呟いた瞬間、指先から力が抜けた。
握っていた蒼空の腕を、するりと離す。
感情のこもっていないその声が、まっすぐ心臓に突き刺さる。
「私ね、蒼空に喜んでほしくて……すごく悩んで選んだんだよ。でも……これも、意味なかったんだね」
そう言いながら、鞄から梱包された小さな箱を取り出し、勢いよく投げつけた。
箱は地面に叩きつけられ、弾けるように開く。
中から飛び出したピアスが、私たちから少し離れた場所へ転がっていった。
物に八つ当たりなんて、最低だって分かってる。それでも、この気持ちをどこに向ければいいのか、分からなかった。
――ああ。
心のどこかで、他人事みたいに自分を眺めている私がいる。
じゃあ、今までの私たちの時間は。
あれは、一体、なんだったんだろう。
「……パシッ」
黙り込んだままの蒼空に歩み寄り、
私は力いっぱい、その頬を叩いた。
まさか、自分がこんなドラマみたいなことをする日が来るなんて、思ってもみなかった。
「……私は、本当に好きだったのに」
聞こえるか、聞こえないか分からない声でそう呟いて、
蒼空の顔を見ないまま、私は走り出した。
好きだった。
――いや、違う。
こんなことを言われても、まだ蒼空が好きだ。
でも、強がらなきゃ。
そうでもしないと、私はきっと、いつまでも蒼空に縋ってしまう。
最後くらい、惨めな姿だけは、見せたくなかった。
この先も、ずっと一緒にいられる。
そんなふうに、当たり前みたいに思っていた。
それなのに、終わりはこんなにも呆気なかった。
目元から、必死に堪えていた熱いものが溢れ出す。
頭の中はぐちゃぐちゃで、自分でも感情の整理がつかない。
息が苦しくて、何も考えられなくなるまで、私は走り続けた。
空は、私の気持ちをなぞるみたいに、突然雨を降らせた。
顔に落ちる雫が、雨なのか涙なのか、もう分からない。
蒼空が今まで言ってくれた言葉も、全部――嘘だったの?
あの時の笑顔も、全部、作りものだった?
考えようとした瞬間、足元がぐしゃりと滑った。
次の瞬間、地面に投げ出されていた。
仰向けになって、やっと息ができた。
しばらく、そのまま雨に打たれていた。
……痛い。
遅れてやってきた痛みに体を起こすと、膝から赤い血が流れているのが見えた。
――私、生きてる。
そんな当たり前のことを思う。でも、昔の私にとっては、それは当たり前じゃなかった。
蒼空は、私にたくさんのものをくれた。
友達も、居場所も、思い出も、帰る場所も。
それなのに。
蒼空がいない――それだけで、全部失ったみたいな気がした。
どうしたらいいか分からなくて、雨が地面を叩く音だけが、やけに大きく響いていた。
真っ暗な空を、ぼんやりと見つめる。
「あ……」
風に舞ってきた黄色い花びらに、反射的に手を伸ばす。
花びらは、私の手のひらで、ふわりと止まった。
顔を上げると、どこかの家の庭に、ひまわりが咲いている。
――あなただけを見つめる。
その花言葉を、教えてくれたのは蒼空だった。
「……嘘つき」
本当に、これで終わりなの?
自分に問いかけても、答えは出ない。
蒼空は、あんなことを言う人じゃない。
蒼空は、優しい。
それを、誰よりも知っているのは――私だ。
これまでの思い出も、蒼空がくれた言葉も、全部が嘘だったなんて、どうしても思えなかった。
だって私は、ずっと一番近くで見てきた。
きっと、何か理由があったはずだ。
胸の奥で、そう思う気持ちが、まだ消えていなかった。
もう一度、ちゃんと話さないと。
逃げるみたいに終わらせたくない。
このまま帰ったら、きっと私は後悔する。
また一人で、勝手に納得して、逃げてしまう。
私は踵を返した。
雨に濡れたまま、さっきまで背を向けていた方向へ、もう一度走り出す。
今度は、逃げるためじゃない。
蒼空に、ちゃんと向き合うために。
蒼空の家に向かうなら、公園を通った方が早い。そう思った私は、迷わず公園の中に入った。
――そのときだった。
視界の端に、見覚えのある影が映る。
私は思わず足を止めた。
「……蒼空?」
自分に言い聞かせるように、名前が口からこぼれる。
次の瞬間、心臓が強く跳ねた。
「蒼空ッ!」
私は駆け出していた。
ベンチの近く、地面に崩れるように倒れている蒼空。雨に濡れた髪も、力なく伸びた腕も、あまりにも動かない。
「ねぇッ、蒼空! しっかりして!」
肩に触れても、揺すっても、返事はない。
頭が真っ白になる。
どうしよう。
なにが起きてるのか、わからない。
――救急車。
それだけを必死に思い出し、私はカバンから携帯を取り出した。
「……なんで、こんなときに」
画面は真っ暗なまま、うんともすんとも言わない。
充電切れ。
焦りで喉が詰まりそうになる。
だめ、落ち着いて。
しっかりしないと。
――蒼空の携帯。
私は震える手で、蒼空のカバンを開き、携帯を取り出した。
電源は、入る。
ほっと息をついた、その瞬間――
私は、画面を見て固まった。
「……なんで……」
ロック画面に映っていたのは、たくさんのひまわりに囲まれて、振り返って笑う――私。
「……なんで、私なのよ……」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
嘘じゃなかった。
少なくとも、全部が嘘なんかじゃなかった。
でも今は、そんなことを考えている場合じゃない。
私は携帯を強く握りしめ、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
――あとで全部、話してもらうから。
私は深呼吸をひとつして、緊急通報の番号を押した。
初めての通話に手が震えながらも、場所、状況、倒れていることを必死に伝える。
すべての質問に答え終え「すぐに向かいます」と言われて通話が切れた。
私は震える手で携帯を握りしめたまま、蒼空の手を取った。
雨で冷えきったその手は驚くほど冷たくて、私は必死に、力いっぱい握りしめる。
――お願い。無事でいて。
それだけを、何度も心の中で繰り返した。
やがて到着した救急車に、付き添いとして私も乗り込んだ。
運ばれていった先は、以前バイトで来たことのある、あの病院だった。
蒼空は酸素マスクを付けられ、ストレッチャーに乗せられていく。
救急隊員や医師たちの間で、専門用語が次々と飛び交う。
意味はわからない。
でも、この張り詰めた空気だけで――ただ事じゃないことは、嫌というほど伝わってきた。
「これから緊急オペに入ります。こちらでお待ちください」
そう言われるまま、私は向かいの椅子に腰を下ろした。
視界の端で、手術中の赤いランプが点灯する。
それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
――どれくらい、時間が経ったんだろう。
何時間も座っていた気がしたのに、時計を見ると、思ったほど時間は進んでいなかった。
待つことしかできない時間は、どうしてこんなにも長いのだろう。
「美月ちゃん!」
廊下の奥から聞こえた声に、私ははっと顔を上げた。
走ってきたのは、美咲さんだった。
「美咲さん……! 蒼空が……!」
言葉が途中で詰まり、私はそのまま駆け寄った。
息を切らしていた美咲さんを、近くの椅子に座らせる。
それから私は、今日あったことを、できるだけ落ち着いて話した。
別れ話をされたことも、公園で倒れていたことも、全部。
話し終える頃には、喉がひりついていた。
それを聞いた美咲さんは、いつも優しく微笑んでいる表情を、静かに歪めた。
「……そう」
その一言が、やけに重かった。
「美咲さん……蒼空は、なんで……」
そこまで言ったところで、声が震える。
美咲さんは小さく息を吐くと、
逃げずに、真正面から私を見つめた。
「本当は、私が言っていいことじゃないんだろうけど……このままじゃ、あの子、きっと何も言わないから」
何を言われるのか、怖かった。
聞きたくないと思う一方で、蒼空がどうしてあんなことを言ったのか、知りたい気持ちも消えなかった。
美咲さんが、逃がさないみたいに私をまっすぐ見つめる。
私はごくりと喉を鳴らし、覚悟を決めて視線を合わせた。
「蒼空は……長くは生きられないかもしれないの」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
頭の中が、真っ白になる。
「蒼空が……? どうして……」
「これ以上は、私からは言えないわ」
その一言が、現実を突きつけてくる。
私は首を横に振った。どうしても、受け入れられなかった。
「嘘……だって蒼空、さっきまで普通に――」
「美月ちゃん、落ち着いて」
気づいたときには、思っていたより大きな声が出ていた。
美咲さんが、強く私の肩を掴む。
その手の震えに、はっとする。
――そうだ。
一番つらいのは、美咲さんなんだ。
「……ごめんなさい」
「まだ手術まで時間がかかるの。美月ちゃんは、一度帰ったほうがいいわ。終わったら、すぐに連絡するから」
何も言えずにいる私に、美咲さんは無理に明るく、優しく微笑んだ。
「蒼空は、大丈夫だから」
「……はい」
そう答えることしか、できなかった。
私がここにいても、できることは何もない。
ひとりで帰れるか心配してくれる美咲さんに頭を下げ、私は家へ戻った。
帰り道、何を考えていたのか覚えていない。
気づいたときには、もう自分の部屋にいた。
横になっても、眠れるはずがなかった。天井を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。
どれくらい経ったのかも分からない頃、静まり返った部屋に、突然着信音が響いた。
心臓が跳ねる。
慌てて携帯を掴むと、美咲さんからのメッセージだった。
「無事、手術は終わったわ。明日からは入院になるって」
文字を追ううちに、張りつめていた肩の力が、すとんと抜けた。
――生きている。
それだけで、よかった。
今日一日、あまりにもいろいろなことが起きすぎた。
安心した反動なのか、返事を打つこともできないまま、私はそのまま、深い眠りに落ちていた。



