君のために生きたい

 夏休みも、もう終わり新学期が始まっていた。休み明けの学校は、どうしても面倒に感じてしまう。
 それでも、ようやくまた、週末がやってきた。

 私は、隣に置いた小さな箱に目を向ける。
 蒼空のために買ったピアスだ。

 いつももらってばかりだったから、私も何か贈りたくて選んだ。
 本当に、どれだけ時間をかけたかわからない。
 でも、蒼空のことを考えながら選ぶ時間は、楽しかった。

 どんな顔をするかな。
 喜んでくれるかな。
 それを想像するだけで、胸が少し高鳴る。

 今日は蒼空と、近くのショッピングモールに行く約束をしている。
 緊張して、私は少し早く着いてしまい、公園で待っていた。

 待ち合わせなんて、もう何度もしているのに。
 どうして、慣れないんだろう。

 そう思っていると、蒼空の姿が見えた。
 私は自然と、彼の方へ歩き出す。

「悪い、待たせた」

「ううん。じゃあ、行こっか」

 私の言葉に、何か考え込んでいた蒼空は、
「……そうだな」
 と、少し作り笑いで答えた。

 それから私たちは、ショッピングモールを回った。
 買い物をして、ゲームセンターに寄って、最近できたカフェにも入った。

 よく考えたら、こんなふうに近場で、ただ普通に過ごすデートは初めてかもしれない。
 私はずっと、プレゼントを渡すタイミングを探していた。

 そして、帰り道。
 私たちは、最初に待ち合わせた公園へ戻ってきた。

「あそこのカフェ、行ってみたかったからさ。
 今日行けて、よかったなぁ」

 満足そうにそう言いながら公園に入ると、
 帰り道ずっと静かだった蒼空も、少し遅れて後についてくる。

 私は遊具のある、いつもの場所で足を止め、蒼空と向き合った。

「あのね、蒼空」

 ――今しかない。
 そう思って、鞄の中の小さな箱に手を伸ばす。

「美月」

 私が口を開くより早く響いた蒼空の声に私は動きを止めた。

「どうしたの?」

「……俺たち、別れよう」

 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
 「別れよう」たった四文字なのに、頭の中でうまく形にならない。

「え……ごめん。蒼空、聞こえなかった」

 ひきつった笑顔のまま、私は嘘をついた。

「別れよう」

 少しの間を置いて、蒼空はもう一度言った。
 さっきと何一つ変わらない声で、はっきりと。

 今度は、ちゃんと聞こえてしまった。
 聞き間違いかもしれない、という唯一の希望が、音を立てて崩れる。

「……私、何かした?」
「ごめん。気づけなくて……」

 必死に言葉をつなぐけれど、蒼空は黙ったままだ。

 手が、震える。
 どうしたらいいのかわからない。ただ、別れたくなくて必死だった。

 けれど、どんな言葉を投げても、蒼空は――私が欲しい言葉を、ひとつも返してくれなかった。

「ごめん」

「謝らないでよ。なんでか言ってくれなきゃわかんないよ」

 謝ってほしいわけじゃない。
 私が欲しいのは、そんな言葉じゃない。

 私は蒼空の両腕を掴み、逃がさないように強く見つめた。

 しばらくして、蒼空は小さく、ため息混じりに息を吐いた。
 その瞬間――表情が、変わる。

 それは、私が知っている蒼空の顔だった。
 
「じゃあ、言うけど――
 俺、最初からお前のこと、好きじゃなかったんだよ」

 蒼空は、冷たい瞳で私を見下ろした。

 この感じ。
 ――梨沙のときと、同じだ。

 でも、その温度のない視線を向けられているのが、私自身だと気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 冗談だよ、と笑う気配はない。
 蒼空の瞳からは、言い訳も、迷いも、何も生まれてこなかった。

「……そんなの、信じられないよ!」

 本当なら、今日まで一緒にいる必要なんてなかったはずだ。
 そう言い聞かせるように、私は強く声を張り上げる。

「お前がさ、あまりにもマジになってんのが、おもろかっただけ。俺が、お前なんかを本気で好きになると思ったのか?」

「……」

 ――お前なんか。

 そうだった。
 蒼空が、私を好きになるなんて。
 最初から、おかしな話だった。

 それでも、頭は必死に拒んでいた。
 これまでの時間を、全部、嘘だなんて認めたくなかった。

「だったら……もっと早く言ってよ! 私が、本気になる前に……!」

 もっと早く、こう言われていたら。
 そしたら、ここまで壊れずにすんだかもしれないのに。

 どうして、今なの。

「ねぇ、蒼空……」

 声が、震える。

「全部、嘘……でしょ?」

 最後の希望に縋るみたいに、私は蒼空を見つめた。
 嘘だって言ってくれたら、全部許すから。

 そう願いながら、指先に、ぎゅっと力を込めた。

「……嘘だと思うか?」

 蒼空の声には、やっぱり何の温度もなかった。

「ははっ……私、バカみたい」

 独り言みたいに呟いた瞬間、指先から力が抜けた。
 握っていた蒼空の腕を、するりと離す。

 感情のこもっていないその声が、まっすぐ心臓に突き刺さる。

「私ね、蒼空に喜んでほしくて……すごく悩んで選んだんだよ。でも……これも、意味なかったんだね」

 そう言いながら、鞄から梱包された小さな箱を取り出し、勢いよく投げつけた。

 箱は地面に叩きつけられ、弾けるように開く。
 中から飛び出したピアスが、私たちから少し離れた場所へ転がっていった。

 物に八つ当たりなんて、最低だって分かってる。それでも、この気持ちをどこに向ければいいのか、分からなかった。

 ――ああ。

 心のどこかで、他人事みたいに自分を眺めている私がいる。

 じゃあ、今までの私たちの時間は。
 あれは、一体、なんだったんだろう。

「……パシッ」

 黙り込んだままの蒼空に歩み寄り、
 私は力いっぱい、その頬を叩いた。

 まさか、自分がこんなドラマみたいなことをする日が来るなんて、思ってもみなかった。

「……私は、本当に好きだったのに」

 聞こえるか、聞こえないか分からない声でそう呟いて、
 蒼空の顔を見ないまま、私は走り出した。

 好きだった。
 ――いや、違う。

 こんなことを言われても、まだ蒼空が好きだ。

 でも、強がらなきゃ。
 そうでもしないと、私はきっと、いつまでも蒼空に縋ってしまう。

 最後くらい、惨めな姿だけは、見せたくなかった。

 この先も、ずっと一緒にいられる。
 そんなふうに、当たり前みたいに思っていた。

 それなのに、終わりはこんなにも呆気なかった。

 目元から、必死に堪えていた熱いものが溢れ出す。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、自分でも感情の整理がつかない。

 息が苦しくて、何も考えられなくなるまで、私は走り続けた。

 空は、私の気持ちをなぞるみたいに、突然雨を降らせた。
 顔に落ちる雫が、雨なのか涙なのか、もう分からない。

 蒼空が今まで言ってくれた言葉も、全部――嘘だったの?
 あの時の笑顔も、全部、作りものだった?

 考えようとした瞬間、足元がぐしゃりと滑った。
 次の瞬間、地面に投げ出されていた。

 仰向けになって、やっと息ができた。
 しばらく、そのまま雨に打たれていた。

 ……痛い。

 遅れてやってきた痛みに体を起こすと、膝から赤い血が流れているのが見えた。

 ――私、生きてる。

 そんな当たり前のことを思う。でも、昔の私にとっては、それは当たり前じゃなかった。

 蒼空は、私にたくさんのものをくれた。
 友達も、居場所も、思い出も、帰る場所も。

 それなのに。
 蒼空がいない――それだけで、全部失ったみたいな気がした。

 どうしたらいいか分からなくて、雨が地面を叩く音だけが、やけに大きく響いていた。

 真っ暗な空を、ぼんやりと見つめる。

「あ……」

 風に舞ってきた黄色い花びらに、反射的に手を伸ばす。
 花びらは、私の手のひらで、ふわりと止まった。

 顔を上げると、どこかの家の庭に、ひまわりが咲いている。

 ――あなただけを見つめる。

 その花言葉を、教えてくれたのは蒼空だった。

「……嘘つき」

 本当に、これで終わりなの?

 自分に問いかけても、答えは出ない。

 蒼空は、あんなことを言う人じゃない。
 蒼空は、優しい。
 それを、誰よりも知っているのは――私だ。

 これまでの思い出も、蒼空がくれた言葉も、全部が嘘だったなんて、どうしても思えなかった。

 だって私は、ずっと一番近くで見てきた。

 きっと、何か理由があったはずだ。

 胸の奥で、そう思う気持ちが、まだ消えていなかった。

 もう一度、ちゃんと話さないと。
 逃げるみたいに終わらせたくない。

 このまま帰ったら、きっと私は後悔する。
 また一人で、勝手に納得して、逃げてしまう。

 私は踵を返した。

 雨に濡れたまま、さっきまで背を向けていた方向へ、もう一度走り出す。

 今度は、逃げるためじゃない。

 蒼空に、ちゃんと向き合うために。

 蒼空の家に向かうなら、公園を通った方が早い。そう思った私は、迷わず公園の中に入った。

 ――そのときだった。

 視界の端に、見覚えのある影が映る。

 私は思わず足を止めた。

「……蒼空?」

 自分に言い聞かせるように、名前が口からこぼれる。

 次の瞬間、心臓が強く跳ねた。

「蒼空ッ!」

 私は駆け出していた。

 ベンチの近く、地面に崩れるように倒れている蒼空。雨に濡れた髪も、力なく伸びた腕も、あまりにも動かない。

「ねぇッ、蒼空! しっかりして!」

 肩に触れても、揺すっても、返事はない。

 頭が真っ白になる。

 どうしよう。
 なにが起きてるのか、わからない。

 ――救急車。

 それだけを必死に思い出し、私はカバンから携帯を取り出した。

「……なんで、こんなときに」

 画面は真っ暗なまま、うんともすんとも言わない。
 充電切れ。

 焦りで喉が詰まりそうになる。

 だめ、落ち着いて。
 しっかりしないと。

 ――蒼空の携帯。

 私は震える手で、蒼空のカバンを開き、携帯を取り出した。

 電源は、入る。

 ほっと息をついた、その瞬間――
 私は、画面を見て固まった。

「……なんで……」

 ロック画面に映っていたのは、たくさんのひまわりに囲まれて、振り返って笑う――私。

「……なんで、私なのよ……」

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 嘘じゃなかった。
 少なくとも、全部が嘘なんかじゃなかった。

 でも今は、そんなことを考えている場合じゃない。

 私は携帯を強く握りしめ、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。

 ――あとで全部、話してもらうから。

 私は深呼吸をひとつして、緊急通報の番号を押した。

 初めての通話に手が震えながらも、場所、状況、倒れていることを必死に伝える。

 すべての質問に答え終え「すぐに向かいます」と言われて通話が切れた。
 私は震える手で携帯を握りしめたまま、蒼空の手を取った。

 雨で冷えきったその手は驚くほど冷たくて、私は必死に、力いっぱい握りしめる。

 ――お願い。無事でいて。

 それだけを、何度も心の中で繰り返した。

 やがて到着した救急車に、付き添いとして私も乗り込んだ。
 運ばれていった先は、以前バイトで来たことのある、あの病院だった。

 蒼空は酸素マスクを付けられ、ストレッチャーに乗せられていく。
 救急隊員や医師たちの間で、専門用語が次々と飛び交う。

 意味はわからない。
 でも、この張り詰めた空気だけで――ただ事じゃないことは、嫌というほど伝わってきた。

「これから緊急オペに入ります。こちらでお待ちください」

 そう言われるまま、私は向かいの椅子に腰を下ろした。

 視界の端で、手術中の赤いランプが点灯する。

 それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 ――どれくらい、時間が経ったんだろう。

 何時間も座っていた気がしたのに、時計を見ると、思ったほど時間は進んでいなかった。

 待つことしかできない時間は、どうしてこんなにも長いのだろう。

「美月ちゃん!」

 廊下の奥から聞こえた声に、私ははっと顔を上げた。

 走ってきたのは、美咲さんだった。

「美咲さん……! 蒼空が……!」

 言葉が途中で詰まり、私はそのまま駆け寄った。
 息を切らしていた美咲さんを、近くの椅子に座らせる。

 それから私は、今日あったことを、できるだけ落ち着いて話した。
 別れ話をされたことも、公園で倒れていたことも、全部。

 話し終える頃には、喉がひりついていた。

 それを聞いた美咲さんは、いつも優しく微笑んでいる表情を、静かに歪めた。

「……そう」

 その一言が、やけに重かった。

「美咲さん……蒼空は、なんで……」

 そこまで言ったところで、声が震える。

 美咲さんは小さく息を吐くと、
 逃げずに、真正面から私を見つめた。


「本当は、私が言っていいことじゃないんだろうけど……このままじゃ、あの子、きっと何も言わないから」

 何を言われるのか、怖かった。
 聞きたくないと思う一方で、蒼空がどうしてあんなことを言ったのか、知りたい気持ちも消えなかった。

 美咲さんが、逃がさないみたいに私をまっすぐ見つめる。
 私はごくりと喉を鳴らし、覚悟を決めて視線を合わせた。

「蒼空は……長くは生きられないかもしれないの」

「……え?」

 一瞬、言葉の意味が分からなかった。
 頭の中が、真っ白になる。

「蒼空が……? どうして……」

「これ以上は、私からは言えないわ」

 その一言が、現実を突きつけてくる。
 私は首を横に振った。どうしても、受け入れられなかった。

「嘘……だって蒼空、さっきまで普通に――」

「美月ちゃん、落ち着いて」

 気づいたときには、思っていたより大きな声が出ていた。
 美咲さんが、強く私の肩を掴む。

 その手の震えに、はっとする。

 ――そうだ。
 一番つらいのは、美咲さんなんだ。

「……ごめんなさい」

「まだ手術まで時間がかかるの。美月ちゃんは、一度帰ったほうがいいわ。終わったら、すぐに連絡するから」

 何も言えずにいる私に、美咲さんは無理に明るく、優しく微笑んだ。

「蒼空は、大丈夫だから」

「……はい」

 そう答えることしか、できなかった。

 私がここにいても、できることは何もない。

 ひとりで帰れるか心配してくれる美咲さんに頭を下げ、私は家へ戻った。

 帰り道、何を考えていたのか覚えていない。
 気づいたときには、もう自分の部屋にいた。

 横になっても、眠れるはずがなかった。天井を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。

 どれくらい経ったのかも分からない頃、静まり返った部屋に、突然着信音が響いた。

 心臓が跳ねる。

 慌てて携帯を掴むと、美咲さんからのメッセージだった。

「無事、手術は終わったわ。明日からは入院になるって」

 文字を追ううちに、張りつめていた肩の力が、すとんと抜けた。

 ――生きている。

 それだけで、よかった。

 今日一日、あまりにもいろいろなことが起きすぎた。
 安心した反動なのか、返事を打つこともできないまま、私はそのまま、深い眠りに落ちていた。