君のために生きたい

 ひまわり畑から、私たちは長い時間をかけて、ようやく家まで帰ってきた。
 時刻は、もう九時を過ぎている。

「じゃあ、またな」

「うん、ありがとう。またね」

 ――またね。
 そう口では言ったのに、私の足は動かなかった。
 一日中一緒にいたはずなのに、まだ帰りたくないと思ってしまう。

 そんな気持ちを察したのか、蒼空は私の方へ歩み寄ってきた。
 伸びてきた手がそっと頭に触れたかと思うと、そのまま、ぎゅっと抱き寄せられる。

「そんな顔されたら、帰りたくなくなる」

「帰れなくなればいいのに」

 冗談なんかじゃない。本気で、そう思った。

 蒼空はいつも、私をガラス細工みたいに扱う。
 少し前までは、その優しさが恥ずかしかったのに、今では――もっと、してほしいなんて思っている。

 大切そうに抱きしめる腕に応えるように、私も蒼空の背中へ腕を回し、力を込めた。

 しばらく、言葉はなかった。
 やがて蒼空が、私の肩に顔を埋めて「ふー」と小さく息を吐く。

「これ以上は……ほんと、帰れなくなるから」

 必死に耐えるみたいに、蒼空は腕の力を緩めた。
 不満そうに見上げると、困ったように笑う。

「またすぐ、会えるだろ」

「……うん」

 名残惜しさを飲み込んで、私もそっと手を離す。
 すると蒼空は、短くため息をついた。

「家まで送る」

 そう言って、手を握ってくれた。
 指を絡めながら、蒼空に家まで送ってもらう。

 家に着いて、私は蒼空の姿が見えなくなるまで見送った。
 途中で振り返った蒼空は、ピースしながら手を振って、笑った。

 そんな蒼空に、私も笑いながら手を振り返した。



 まだ彼のぬくもりが残っている気がして、手を握ったまま階段を上がる。
 さすがに今日は疲れた。お腹も空いている。冷蔵庫に何か残っていただろうか――そんなことを考えながら、玄関のドアの前に立った。

 ……あれ。
 中の電気が、ついている。

 この時間は、もう仕事のはずだ。
 またお客さんを連れてきたのだろうか。

 胸の奥がざわついて、私はそっとドアを開け、中を覗いた。

 玄関に、それらしい靴は見当たらない。
 息を殺してドアを閉め、そのまま静かに家に入る。

 そして――私は、目を見開いた。

 机の前に座っていたのは、お母さん……だった。
 いつも明るく染めて、くるくると癖のついた髪は、まっすぐな黒髪に変わっている。
 まるで、別人みたいだった。

 机の上には、皿に盛りつけられた料理。丁寧にラップまでかけてある。
 お母さんは、その机にうつ伏せになり、眠っているようだった。

 嫌な予感がして、私は一度、家を出ようと腕を動かす。

 ――ドンッ。

 肘がドアに当たり、乾いた音が響いた。

 その瞬間、うつ伏せだったお母さんが、ばっと顔を上げる。
 真っ直ぐに、私を見つめていた。

「美月、遅かったわね。おかえり」

 いつもとは違う、やけに優しい声。
 そう言いながら、お母さんはゆっくりとこちらへ歩いてくる。

「ほら、上がりなさい」

 そう言って、お母さんは私に手を伸ばした。

 ――殴られる。
 そう思った瞬間、肩がびくりと跳ね、私は反射的に目をつぶった。

 はっとして、私は目を開けた。
 お母さんに視線を戻すと、お母さんは傷ついたような表情で、自分の手を見つめていた。

「ごめんなさい。私……」

 そう呟きながら手を握りしめたお母さんは、その場にしゃがみ込み、声を殺して泣き出した。

 ――今、お母さんは、殴るつもりなんてなかった。
 遅れて、ようやくそれがわかった。

「あ……」

 何と声をかければいいのかわからず、私はお母さんの前の椅子に腰を下ろす。
 向き合ったまま、言葉のない時間が流れた。

 沈黙を破ったのは、お母さんだった。

「私……あの人と離婚してから、仕事がうまくいかなくて。それで、美月に当たってた。でも……わかってたの。美月が一番、辛かったって」

 拳を強く握り、後悔するように顔を歪める。

「本当に、ごめんなさい」

 お母さんは、机に頭がつきそうなほど深く、頭を下げた。

「許してもらおうなんて、思ってないわ」
「ただ……あなたが何かあったとき、安心して帰ってこられる場所くらいは、作っておきたいの」

 頭を下げたままの姿に、私は言葉を失う。
 しばらく、静かな時間だけが過ぎていった。

「……私、知ってたよ」

 ゆっくり、言葉を選びながら口を開く。

「お母さんが仕事で大変だったこと」
「それでも、私のために頑張ってくれてたこと」

 私は真っ直ぐに、お母さんを見る。

「だから……謝らなくていいよ」

 顔を上げたお母さんの瞳から、また涙が溢れた。

「まだ……私を、お母さんって呼んでくれるのね」

 途切れ途切れの声で、そう言う。

「だって――」

 一拍置いて、私は答えた。

「お母さんは、お母さんだから」

 私がにっこり笑うと、お母さんも涙を拭って、ぎこちなく微笑んだ。
 今までのことが消えるわけじゃない。
 それでも――少しずつ、変えていくことはできる。

「ご飯、作ったの。食べてくれる?」

「うん」

 お母さんは立ち上がり、机の上に置いてあった料理をレンジで温め始めた。
 ――私が帰ってくるのを、待っていてくれたんだ。

 目の前に並んだのは、昔、私が大好きだと言っていた献立。
 ハンバーグに、コーンスープ、サラダ。

「いただきます」

 箸を手に取り、ハンバーグを小さく切って、口に運ぶ。

「……美味しい」

 そう言った瞬間、視界が滲んだ。

「美味しい……」

 何度もそう呟きながら、私はハンバーグを口いっぱいに頬張る。
 懐かしい、お母さんの味。
 ご飯は温かくて、どこか優しかった。

 ――昔、一緒に食べていた、あの頃と同じ味。

 泣きながら食べる私を見て、お母さんも今にも泣き出しそうになったけれど、ぐっとこらえて笑った。

「おかわり、あるからね」

「うん」

 小さく頷いて、私は夢中でご飯をかき込んだ。

「蒼空くんに、お礼を言わなくちゃね」

「えっ……蒼空が、どうしたの?」

 突然お母さんの口から出た名前に、思わず身を乗り出して聞き返す。

「私ね、言われちゃったのよ。――美月が向き合おうとしてるのに、逃げるんですかって」

「お母さん、いつの間に蒼空と……」

 初耳だった私は、机に手をついたまま、呆然とする。

「あー……そうね」

 お母さんは少し困ったように笑ってから、「最初から話すわね」と前置きした。

「最初は、私がお客さんと家にいたときに、蒼空くんが押しかけてきたの。その日はすぐ追い返したんだけど」

 ――あの七夕祭りの日だ。
 樹くんに返し忘れた物があるって言って、蒼空が出ていった夜。

「次の日、仕事に行ったら、店長に言われたの。店の前に、ずっと子供がいるって」

 そのとき、蒼空くんだって気づいたのよ。
 お母さんは、淡々とそう続ける。

「話がしたいって言われたけど、無視したの。そしたらね……一週間、毎日お店に来たのよ」

 一週間も。
 夜遅くまでやってるお店なのに。

「さすがに迷惑になると思って、話だけさっと聞こうとしたら――」

 お母さんは、少し言葉を探すように間を置いた。

「蒼空くん、あなたの話をし始めたの。最近、学校でどうしてるかとか、何で笑ったかとか……それから――」

「それから?」

 思わず、息を呑む。

「『俺、あいつに聞いたんですよ。もし明日死ぬなら、何したいかって』」
「『そしたら、あいつ……お母さんとご飯が食べたいって言ったんです』」

 胸が、きゅっと締めつけられた。
 ――あの日、公園で蒼空に聞かれた、あの質問。

「『でも、それは俺には叶えてやれないから』って」

 だから、お母さんはご飯を作って、待っていてくれたんだ。

「そのあとね、今度は怒られちゃって。母親のあんたが、逃げてどうするんだよって」

 話し終えると、お母さんは「ふー」と小さく息を吐いた。

「ごめん、お母さん。私、蒼空に会ってくる」

 そう言って立ち上がると、お母さんは一瞬「今から?」という顔をしたけれど、すぐに柔らかく微笑んだ。

「行ってらっしゃい」

「うん、行ってきます」

 携帯を片手に、私は家を飛び出した。
 ――今度はちゃんと、「ただいま」って言って、この家に帰ってこよう。
 そんなことを、心の中で思いながら。

「はぁ……はぁ……」

 勢いで走ってきたものの、今さらになって思う。
 こんな夜に来るなんて、迷惑だったかもしれない。

 今日は一日中一緒だったし、蒼空だって疲れているはずだ。
 もう、寝ているかもしれない。

 インターフォンを押すか押さないか。
 私は蒼空の家の前を、行ったり来たりしていた。

 ……そろそろ、本当に不審者だ。

 意を決して、インターフォンに指を伸ばした、そのとき。

「お前、こんなところで何やってんだよ」

「わぁっ!!」

 突然声をかけられ、心臓が止まりそうになる。
 胸を押さえて振り返ると、そこにいたのは――蒼空だった。

「えっ、なんで蒼空……外に?」

「コンビニ帰り。なんか無性に甘いもん食いたくなってさ」

 そう言って、蒼空は手に持ったビニール袋を軽く持ち上げる。

 私が「話したいことがある」と伝えると、私たちは近くの公園に移動した。

「……そっか」

 さっきまでの出来事を全部話し終えると、蒼空はなぜか嬉しそうに、そう言った。

「なんで……蒼空は、私にここまでしてくれるの?」

 気づけば、そのまま口に出していた。

「なんでって……」

 蒼空は「うーん」と少し考えてから、真っ直ぐに私を見る。

「お前には、笑っててほしいから」

「……えっ」

 蒼空の答えは、いつも私の予想の少し先をいく。

「お前、まだ……死にたいって思うか?」

「ううん。もう、思わないよ」

 思うはずがなかった。
 こんなにも毎日があたたかくて、楽しいのに。
 死にたいなんて、もったいなさすぎる。

「お前、あのときとは全然違うな」

「蒼空が、変えてくれたんだよ」

 あの頃の私は、同じことを繰り返すだけの日々に意味を見いだせなかった。
 屋上だけが、私の居場所だった。

 でも今は――
 蒼空の隣が、私の居場所だ。

 毎日を楽しいと思えること。
 生きたいと思えること。

 全部、蒼空がくれた。

 そんな私の好きな人は目が合うと優しく笑った。