四日目。昨日と同じようにサラに身支度を整えてもらい、ノアにエスコートされ、アニーは最後のレッスンに臨んだ。
まず、テーブルマナー。ぎこちなさは残るものの、ミスはなし。
「……まぁ、及第点でしょう」
厳しい家庭教師からも、なんとか合格点を貰った。
続いて、知識。これは正直ゴールがないので、最低限恥ずかしくない程度の受け答えができる、というところで良しとされた。これもパス。
そして所作。美しい歩き方、座り方など。慣れが何より重要なこれらは、ぎりぎりではあるが、見れなくはない、というところまでは矯正された。
最後に最難関のダンス。
「よろしくね」
「はい」
ノアと組んで、音に合わせて踊り出す。今日はミスは許されない。慎重に慎重に、ステップを踏む。
(――よし!)
今のところ、ミスはない。ノアの足も一度も踏んでいない。いける、と意気込んでいたアニーには、ノアの表情が目に入っていなかった。
「ソフィア様」
こそっとかけられた声は、アニーの耳には入らなかった。正しいステップを踏むことに必死で、意識がそちらに集中してしまっている。
ノアはぐっとアニーの体を引いて、少し強引にターンをした。
「っ!?」
思いがけない動きに、アニーが息を呑む。そこでやっと、アニーはノアの顔を見た。彼は困ったように眉を下げていた。
「ソフィア様、私を見てください」
ノアの言葉に、アニーの胸がどきりと高鳴る。
「ダンスは相手と親睦を深めるために行うものです。そのように険しい顔をして、相手を無視して踊るものではありません」
アニーは恥ずかしくなって俯いた。練習の成果を出さなくては、うまくやらなくては、とそればかりに気を取られ、パートナーのことが全く目に入っていなかった。これではダンスの意味がない。
「笑ってください」
柔らかい声に顔を上げると、ふわりと微笑んだノアの顔が眼前に広がった。
その瞬間、アニーの視界に、ちかちかと光が散った。
胸が熱くなって、ノアにつられるように自然と微笑んだ。
足が軽い。ノアに体を預ければ、導かれるように自然とステップが踏めた。
「エクセレント!」
家庭教師の声にはっとする。彼女はぱちぱちと拍手を送っていた。
「最初はどうなることかと思いましたが、最後は良かったですよ。互いにパートナーを気遣って、素晴らしい動きでした」
「ありがとう、ございます」
そうできたのは、ノアのおかげだ。彼が相手でなければ、自分勝手なままだった。アニーは誇らしい気持ちでノアに笑顔を向けた。ノアは数回目を瞬かせ、僅かに微笑んだ。
明日からは見合いが始まる。その日の夕食は、テーブルマナーのレッスンではなくフィリップと共にとることになった。
「三日間よく耐えてくれた。家庭教師も君のことを褒めていたぞ」
「おそれいります」
「明日からは、いよいよエリオット殿がいらっしゃる。くれぐれも、失礼のないようにな」
「……肝に銘じておきます」
これは、言外に脅されているのだろうか。深読みして、アニーはジト目でフィリップを見た。
「エリオット様はどのような方なのですか?」
「うぅむ……私もそれほど詳しくは知らんのだ。ただ、領民のことを真に想う、評判の良い男だとしか」
「それで何故お見合いをすることに」
「ダグラス伯爵が、社交場でソフィアを見かけた時に、その美貌に惚れ込んだらしい。是非にと希望してくださってな」
「なるほど……つまり、エリオット様本人のご意向は、全くわからないわけですね」
「う、うむ。そうなるな」
気まずそうに、フィリップがワインを口にする。ノアからは伯爵家と面識はないと聞いている。ダグラス伯爵は、本当にソフィアを見かけた程度で、話をしたことはないのだろう。であれば、ごまかせるか。
「私が選ばれたのは、エリオット様が好まれる性格をしているから、と伺いましたが、具体的にどのようなところが?」
「いや、それが全くわからんのだ。占いは相手を探し当てるだけで、何故君が選ばれたのかは私にも占い師にもわからん」
アニーが半眼になったのを見て、フィリップは再びワインを口にした。
正直、アニーは自分の性格が人と比べて特に良いとは思わない。いったい何が占いに引っかかったのか。それがわかれば、エリオットが好む部分を強調していく手段もとれたのだが、わからないのではどうしようもない。
「わかりました。できる限りの力を尽くします」
「うむ、頼んだ」
満足げに答えて、フィリップはワインを呷った。
入念にサラに体を磨いてもらって、アニーはナイトドレスに袖を通した。
「ねえ。この後、時間があれば少し三人で話をしない?」
初日のように、少しだけでも緊張をほぐせれば。そう思ったが、サラは首を振った。
「明日からはまた大変な三日間が始まるのですよ。早めにお休みくださいませ」
ぴしゃりと言われて、アニーは苦笑した。初対面の時の毒気は抜けたが、サラは決して甘くはない。生真面目な気質なのだろう。
仕方なしに、アニーは自室で休むことにした。明かりは落としたものの、全く眠くならない。少し外の風にでも当たろうと、窓を開いた。
初夏の風はまだ涼しく、肌に心地いい。眼下に広がる町並みを、ぼんやりと眺める。貴族の屋敷というのは、得てして高い場所にある。このオズボーン男爵邸も例にもれず、小高い丘の上に立っている。
普段なら自分は、あの町の片隅で休んでいるのだ。今、アニーの体にいるソフィアは、どうしているのだろう。暗い部屋で、固いベッドで、たった一人で眠れているのだろうか。さすがにアニーの体で男を連れ込んでいるとは思えない。というか、無理だろう。アニーの容姿では。
暗く陰った心に目を伏せると、部屋のドアが叩かれた。
「……どなた?」
ノアの注意を思い出して、ドアを開ける前にまず声をかけた。
「私です、ノアです」
「ノア?」
窓からドアまで小走りで行って、ためらいなくドアを開いた。
「どうしたの」
今日は部屋の明かりは落としてある。廊下の明かりが、ノアの顔を照らした。
「お部屋の窓が開いていたので、眠れないのではと」
そう言って、ノアは持っていたトレーを差し出した。乗っているカップからは、甘い匂いがする。
「これ……もしかして、チョコレート?」
アニーは驚いて声を上げた。
「はい。お好きであるとおっしゃっていたので、取り寄せました。なかなかお出しするタイミングがなかったのですが」
好き、というか、美味しそうと言っただけなのだが。アニーはチョコレートを飲んだことがない。最近では固形のものも流通しているようだが、このあたりでは飲み物として好まれている。
まだ湯気の立つそれは、用意したばかりであることがうかがえた。アニーの部屋の窓が開いているのを見て、眠れないのだろうと心配して、わざわざ用意して持ってきてくれたのだ。そのことに、アニーは胸が締め付けられる思いだった。
トレーからカップをとって、口をつける。優しい甘さが口に広がって、温かさが喉を通って胃に落ちて、心がほっとした。
「……美味しい」
薄く微笑んだアニーに、ノアもほっとしたように息をもらした。
「ありがとう、ノア」
「……いえ。では、私はこれで」
「あっ」
思わず声を上げたアニーに、ノアは振り返った。
「何か?」
アニーは口を押えていた。何故、呼び止めてしまったのか。
理由はわかっている。もう少し、話していたかった。でもそれは、言ってはいけないことだ。例え廊下で話すにしても、夜に二人きりでいることは、褒められたことではない。もし見咎められて責を受けるとしたら、それは使用人であるノアだけになるだろう。
「何でもないわ。おやすみなさい」
「……はい」
去っていくノアの背を見送って、アニーはドアを閉めると、それにもたれかかりながらチョコレートを口にした。
「……あま」
初めて飲んだチョコレートは、ひどく甘かった。だというのに、何故か、舌には苦みが残った。
まず、テーブルマナー。ぎこちなさは残るものの、ミスはなし。
「……まぁ、及第点でしょう」
厳しい家庭教師からも、なんとか合格点を貰った。
続いて、知識。これは正直ゴールがないので、最低限恥ずかしくない程度の受け答えができる、というところで良しとされた。これもパス。
そして所作。美しい歩き方、座り方など。慣れが何より重要なこれらは、ぎりぎりではあるが、見れなくはない、というところまでは矯正された。
最後に最難関のダンス。
「よろしくね」
「はい」
ノアと組んで、音に合わせて踊り出す。今日はミスは許されない。慎重に慎重に、ステップを踏む。
(――よし!)
今のところ、ミスはない。ノアの足も一度も踏んでいない。いける、と意気込んでいたアニーには、ノアの表情が目に入っていなかった。
「ソフィア様」
こそっとかけられた声は、アニーの耳には入らなかった。正しいステップを踏むことに必死で、意識がそちらに集中してしまっている。
ノアはぐっとアニーの体を引いて、少し強引にターンをした。
「っ!?」
思いがけない動きに、アニーが息を呑む。そこでやっと、アニーはノアの顔を見た。彼は困ったように眉を下げていた。
「ソフィア様、私を見てください」
ノアの言葉に、アニーの胸がどきりと高鳴る。
「ダンスは相手と親睦を深めるために行うものです。そのように険しい顔をして、相手を無視して踊るものではありません」
アニーは恥ずかしくなって俯いた。練習の成果を出さなくては、うまくやらなくては、とそればかりに気を取られ、パートナーのことが全く目に入っていなかった。これではダンスの意味がない。
「笑ってください」
柔らかい声に顔を上げると、ふわりと微笑んだノアの顔が眼前に広がった。
その瞬間、アニーの視界に、ちかちかと光が散った。
胸が熱くなって、ノアにつられるように自然と微笑んだ。
足が軽い。ノアに体を預ければ、導かれるように自然とステップが踏めた。
「エクセレント!」
家庭教師の声にはっとする。彼女はぱちぱちと拍手を送っていた。
「最初はどうなることかと思いましたが、最後は良かったですよ。互いにパートナーを気遣って、素晴らしい動きでした」
「ありがとう、ございます」
そうできたのは、ノアのおかげだ。彼が相手でなければ、自分勝手なままだった。アニーは誇らしい気持ちでノアに笑顔を向けた。ノアは数回目を瞬かせ、僅かに微笑んだ。
明日からは見合いが始まる。その日の夕食は、テーブルマナーのレッスンではなくフィリップと共にとることになった。
「三日間よく耐えてくれた。家庭教師も君のことを褒めていたぞ」
「おそれいります」
「明日からは、いよいよエリオット殿がいらっしゃる。くれぐれも、失礼のないようにな」
「……肝に銘じておきます」
これは、言外に脅されているのだろうか。深読みして、アニーはジト目でフィリップを見た。
「エリオット様はどのような方なのですか?」
「うぅむ……私もそれほど詳しくは知らんのだ。ただ、領民のことを真に想う、評判の良い男だとしか」
「それで何故お見合いをすることに」
「ダグラス伯爵が、社交場でソフィアを見かけた時に、その美貌に惚れ込んだらしい。是非にと希望してくださってな」
「なるほど……つまり、エリオット様本人のご意向は、全くわからないわけですね」
「う、うむ。そうなるな」
気まずそうに、フィリップがワインを口にする。ノアからは伯爵家と面識はないと聞いている。ダグラス伯爵は、本当にソフィアを見かけた程度で、話をしたことはないのだろう。であれば、ごまかせるか。
「私が選ばれたのは、エリオット様が好まれる性格をしているから、と伺いましたが、具体的にどのようなところが?」
「いや、それが全くわからんのだ。占いは相手を探し当てるだけで、何故君が選ばれたのかは私にも占い師にもわからん」
アニーが半眼になったのを見て、フィリップは再びワインを口にした。
正直、アニーは自分の性格が人と比べて特に良いとは思わない。いったい何が占いに引っかかったのか。それがわかれば、エリオットが好む部分を強調していく手段もとれたのだが、わからないのではどうしようもない。
「わかりました。できる限りの力を尽くします」
「うむ、頼んだ」
満足げに答えて、フィリップはワインを呷った。
入念にサラに体を磨いてもらって、アニーはナイトドレスに袖を通した。
「ねえ。この後、時間があれば少し三人で話をしない?」
初日のように、少しだけでも緊張をほぐせれば。そう思ったが、サラは首を振った。
「明日からはまた大変な三日間が始まるのですよ。早めにお休みくださいませ」
ぴしゃりと言われて、アニーは苦笑した。初対面の時の毒気は抜けたが、サラは決して甘くはない。生真面目な気質なのだろう。
仕方なしに、アニーは自室で休むことにした。明かりは落としたものの、全く眠くならない。少し外の風にでも当たろうと、窓を開いた。
初夏の風はまだ涼しく、肌に心地いい。眼下に広がる町並みを、ぼんやりと眺める。貴族の屋敷というのは、得てして高い場所にある。このオズボーン男爵邸も例にもれず、小高い丘の上に立っている。
普段なら自分は、あの町の片隅で休んでいるのだ。今、アニーの体にいるソフィアは、どうしているのだろう。暗い部屋で、固いベッドで、たった一人で眠れているのだろうか。さすがにアニーの体で男を連れ込んでいるとは思えない。というか、無理だろう。アニーの容姿では。
暗く陰った心に目を伏せると、部屋のドアが叩かれた。
「……どなた?」
ノアの注意を思い出して、ドアを開ける前にまず声をかけた。
「私です、ノアです」
「ノア?」
窓からドアまで小走りで行って、ためらいなくドアを開いた。
「どうしたの」
今日は部屋の明かりは落としてある。廊下の明かりが、ノアの顔を照らした。
「お部屋の窓が開いていたので、眠れないのではと」
そう言って、ノアは持っていたトレーを差し出した。乗っているカップからは、甘い匂いがする。
「これ……もしかして、チョコレート?」
アニーは驚いて声を上げた。
「はい。お好きであるとおっしゃっていたので、取り寄せました。なかなかお出しするタイミングがなかったのですが」
好き、というか、美味しそうと言っただけなのだが。アニーはチョコレートを飲んだことがない。最近では固形のものも流通しているようだが、このあたりでは飲み物として好まれている。
まだ湯気の立つそれは、用意したばかりであることがうかがえた。アニーの部屋の窓が開いているのを見て、眠れないのだろうと心配して、わざわざ用意して持ってきてくれたのだ。そのことに、アニーは胸が締め付けられる思いだった。
トレーからカップをとって、口をつける。優しい甘さが口に広がって、温かさが喉を通って胃に落ちて、心がほっとした。
「……美味しい」
薄く微笑んだアニーに、ノアもほっとしたように息をもらした。
「ありがとう、ノア」
「……いえ。では、私はこれで」
「あっ」
思わず声を上げたアニーに、ノアは振り返った。
「何か?」
アニーは口を押えていた。何故、呼び止めてしまったのか。
理由はわかっている。もう少し、話していたかった。でもそれは、言ってはいけないことだ。例え廊下で話すにしても、夜に二人きりでいることは、褒められたことではない。もし見咎められて責を受けるとしたら、それは使用人であるノアだけになるだろう。
「何でもないわ。おやすみなさい」
「……はい」
去っていくノアの背を見送って、アニーはドアを閉めると、それにもたれかかりながらチョコレートを口にした。
「……あま」
初めて飲んだチョコレートは、ひどく甘かった。だというのに、何故か、舌には苦みが残った。