七日間の入れ替わり令嬢 ~ワガママ美女の代わりにお見合いします~

「おお! せ、成功か……!?」

 聞きなれない中年男性の声で、アニーはのそりと体を起こした。ぼんやりする頭で地面を見ると、何やら怪しげな魔方陣のようなものが描かれている。それを不審に思いながら顔を上げると、目の前には手を取り合った中年男性が二人。アニーは顔を顰めた。

「……どちら様ですか?」

 自分から発せられた声に驚いて目を瞠る。凛とした、美しくよく通る声。これは自分の声ではない。思わず喉に手を当てると、滑らかな感触がした。これは、自分の、肌ではない。
 戸惑うアニーに、怯えた様子で中年男性の一人が声をかけてきた。

「き、君は、ソフィア……ではない、な?」
「……私は、アニーですが」
「おお! おお! やはり、成功だ!」

 中年男性二人がはしゃいでいる。意味がわからない。
 混乱しながらも、アニーは眉を顰めて声をかけた。

「説明、していただけますよね?」


***


 大陸の西の端に位置するアミールド国。その更に西の隅にある、小さな町エラマ。オズボーン男爵家の領地である。
 目の前の中年男性の内、クラヴァットと上等なベストを身につけた貴族然とした男は、オズボーン男爵家当主、フィリップ・ギビンズと名乗った。つまり、この地の領主である。
 もう一人のローブを纏った怪しげな男は、オズボーン男爵家お抱えの占い師だという。彼は、代々魔術師の家系であるそうだ。
 そして、彼らいわく。

「私は今、ご令嬢ソフィア様のお体である……と?」

 わけがわからない。案内された客間で、アニーは頭を抱えた。その髪の感触がまた絹のような手触りで、アニーはすぐに手を離した。

 彼らの話をまとめると。
 オズボーン男爵家令嬢、ソフィア・ギビンズ。十七歳になる彼女に、縁談の話が来ているらしい。相手はダグラス伯爵家。貴族の中でも位の低いオズボーン男爵家としては、何としてもこの縁談をものにしたい。
 しかし、困ったことにソフィアは大層わがままである。持って生まれた美しい容姿、そして幼くして母親をなくしたことにより、周囲がそれはもう甘やかした。結果、一つ微笑めば誰もが言うことを聞く、傍若無人なお嬢様に育ってしまったようだ。
 ところが、ダグラス伯爵家長男エリオットは清廉潔白な人間であり、ソフィアの男遊びで鍛えた手練手管が効くような相手ではない。むしろ嫌われる可能性が高い。
 困ったフィリップは、見合いに替え玉を用意しようとした。しかしソフィアほどの美貌を持つ影武者など、そうそう見つかるものではない。
 ならば中身だけ替えてしまおう、とフィリップは占い師に相談した。
 占いで、領地内にいるソフィアと同年代で、エリオット好みの性格の女性を探し当てる。そして魔術を用いて、その女性の精神とソフィアの精神を入れ替える。
 そうすれば、ソフィアの類稀なる美しさと、エリオット好みの性格を併せ持つ女性が出来上がり、縁談を確実にものにできる。

 そんな馬鹿な。とは思うものの、実際に見せられれば信じるしかない。アニーは鏡に映る己の姿をまじまじと見た。
 絹糸のようなブロンドの髪。透き通るエメラルドの瞳。果実のようにふっくらとした唇。肌はミルクのように真っ白で、一点の曇りもなく指先まで滑らかだ。胸元は弾力がありながら柔らかで十分な質量があり、ウエストは内臓がどこにあるのかと驚くほど細い。女性的な魅力が溢れるこの体なら、どんな男でも虜にできるだろう。

「頼む。報酬は払う。どうか、娘の代わりに見合いをしてくれないだろうか」

 領主に頭を下げられれば、平民としては断るわけにはいかない。だとしても、だ。

「私は、一介の町娘に過ぎません。教養もなければ、礼儀作法もままなりません。とても伯爵家のお相手は務まりませんよ」

 アニーの家は小さなパン屋を営んでいる。毎日粉にまみれて、汗水流して働いている。令嬢の体になったからといって、すぐに令嬢らしく振る舞えるわけがない。

「最低限のことは、急ぎ家庭教師に教えさせる。申し訳ないが、三日で覚えてくれ」
「三日!?」

 アニーは声を上げた。三日など、とてもじゃないが覚えられるわけがない。

「その術は、一週間しかもたないのだ。明日から三日間、君にできるだけのことを詰め込む。そして四日後、伯爵家の方がいらして、三日間かけて見合いが行われる。今日を含めて、これで七日間。それしか時間がとれないのだ」

 アニーは絶句した。なんて無茶なスケジュールだろうか。それで失敗したとして、何か責を負わなければならないのだとしたら。
 顔を青くしたアニーに、フィリップは取り繕うように言葉を続けた。

「万が一うまくいかなかったとしても、君に罰を下すようなことはしない。ただ、成功すれば褒賞は約束する。必ずだ」

 くらくらする頭を押さえて、アニーは考えた。何を言ったところで、既にこの体はソフィアのものだ。平民の自分は、立場も弱い。逆らうことなど。

「……分かりました、お受けします」
「おお! そうか、そうか! 助かる!」

 破顔して、フィリップはアニーの手を取った。

「一つ確認しておきたいのですが、入れ替わったということは、ソフィア様は今私の体にいるのですよね」
「おお、そうだ。君の家には、使いを出している。心配はいらん」
「ソフィア様が、平民の体を使うことに、抵抗は?」
「なに、あれは容姿に恵まれすぎたのだ。少しは平民の気持ちと暮らしを学ぶといい」

 そういうことは両者の了承を得てやってほしいものだが。その感情は、心の底にしまった。だが、ソフィアには悪いことをした。彼女はおそらくフィリップが想定しているよりも、辛い思いをするだろう。

(だって……私は……)

 本来の自分の姿を脳裏に浮かべて、アニーは目を伏せた。

「そうと決まれば、君の従者を紹介しよう。入りたまえ」

 フィリップが手を叩くと、女性と男性が一人ずつ客間に入室した。
 二人とも、綺麗な所作でお辞儀をして、すっと並んで立った。

「彼女はサラ。ソフィアの身の回りの世話をしている。何かあれば、彼女を頼るといい」

 メイド服の女性が、再度礼をする。癖のある赤毛をまとめ上げ、顔にはそばかすがある。眼差しには少し冷たさを感じるが、真面目そうな印象を受ける。歳はソフィアと近そうだ。

「彼はノア。ソフィアの護衛をしている。基本的には常に君の側にいることになる」

 タイを締め、ダブルボタンのベストを着た男性が礼をする。褐色の肌に鳶色の髪、同じ色の瞳。異国の血が入っているのだろう。珍しい、と思わずまじまじと見てしまい、視線がかち合って反射的に逸らす。失礼なことをしてしまった、と内心反省した。
 それにしても。ちらりと、今度は窺うように視線をやる。
 精悍な顔つきをしていて、背はすらりと高い。歳はソフィアより少し上だろう。このあたりの男性にはない、エキゾチックな魅力がある。これは、もしかしてソフィアと良い仲だった可能性があるのでは、などと下世話な推測をした。

「家庭教師は明日の朝から頼んである。今日のところは、今後に備えて十分に休んでくれ」

 フィリップはそう言うと、後のことを使用人に託し、部屋を出ていった。

(さて、どうなることやら)

 今後一週間のことを思い、アニーは深いため息を吐いた。
 あれよあれよという間にメイドのサラに世話され、服をはぎ取られ、アニーはバスタブに浸かっていた。温かい湯からは、良い香りがする。何か入っているのだろうか。
 細く長い腕を湯から出すと、ちゃぷん、とたっぷりの水音が鳴った。肌は水をしっかりと弾いて、瑞々しい。自分の――いや、ソフィアを肢体をじっくりと眺めて、アニーは感嘆の息をもらした。顔が美しいことは鏡で見てわかっていたし、スタイルも服の上からでも良いとは思っていたが、一糸纏わぬ姿になってみて改めて思う。完璧、という言葉がこれほど当てはまる体もあるまい。
 どこをとっても滑らかで染み一つなく、ずっと触っていたくなる艶やかな肌。手足や腰などは細く華奢な印象を与えながらも、丸みを帯びたヒップ、ふっくらとしたはりのあるバストなど、必要な箇所にはしっかりと女性らしい柔らかさを備えている。一流の職人が何年もかけて作り上げた人形のようで、同性の自分ですら息を呑んでしまうほどだ。
 これほどの美貌なら、多少の性格の悪さは目を瞑ってもらえるんじゃないだろうか。美醜に全く惑わされない厳格な相手なのだとしたら、正直中身が自分だからといって何が変わるとも思えない。面接でもして厳選したのならまだわかるが、何せ自分が選ばれた理由は占いだ。果たしてどこまで信じられるものか。
 嘆息しながらアニーはバスタブから出た。その音を聞いて、すぐにサラがタオルを持ってくる。

「ありがとうございます。でも、自分でできますから」
「これがわたしの仕事ですから」

 無表情のままタオルで丁寧にアニーの体を拭い、肌に香油を塗り込んでいく。アニーは落ち着かない心地だったが、サラはてきぱきと仕事を進めていく。
 繊細な刺繍の施されたナイトドレスを身に着けて、それは本来リラックスするためのものなのだろうに、アニーはちっとも気が休まらなかった。これ一枚で一か月は食べていけるだろう。絶対に汚すわけにはいかない。

 すっかりアニーの支度を整えて下がろうとしたサラに、アニーは声をかけた。ドアの前には、警護のためにノアも立っているはずだ。聞こえるように、少し大きめの声をだした。

「もしお時間があるようでしたら、少しお話できませんか? ノアさんも一緒に」

 その言葉に、サラは少し迷うそぶりを見せた。

「……特に、お話するようなことは」
「ソフィア様のお話を聞きたいんです。お願いします」

 領主の娘ではあるが、アニーはソフィアのことをほとんど知らない。これからソフィアのふりをするのなら、知っておいた方がいいだろう。
 しかし、何故かサラは話をしたくないようだった。

「良いではありませんか」

 ドアの外から、ノアが会話に割って入った。

「これから数日間、共に過ごすことになるのです。少しは互いのことを知っておくべきでしょう」
「……お茶を淹れてまいります。お部屋でお待ちください」

 ノアの言葉に思うところがあったのか、サラはそう言って部屋を退室した。
 アニーはノアにエスコートされ、自室へと向かった。

 ソフィアの部屋は白を基調にしながらも、華美にしつらえられていた。
 壁紙は百合の花があしらわれ、目立つところに天使の絵画がかけられている。ベッドはレースの天蓋のついたクイーンサイズ。テーブルや化粧台は、彫刻だけでなく、平面に鳥や花の鮮やかな絵が描かれていた。
 他人の部屋でしかないそこに緊張しながら足を踏み入れるアニーだったが、ノアは外に立ったまま部屋に入らなかった。

「入らないんですか?」
「まだ、サラが戻っていませんので」

 その言葉に、アニーは目を瞬かせた。

「それは、私がアニーだからですか?」
「いえ。ソフィア様も、私とお部屋に二人きりにはなりませんでした」
「……ごめんなさい」

 アニーは素直に謝った。この返答は、アニーの下世話な想像を察してのものだろう。ノアは、決してソフィアとやましいところなどなかった、ということだ。

「……あなたが謝るようなことではありません」

 ずっと硬い声をしていたノアから、幾分か柔らかい声が発せられた。そのことに驚いて視線を上げると、彼の鳶色の瞳と目が合った。一秒、二秒、三秒。

「失礼いたします」

 サラの声に、アニーの心臓がどきりと跳ねた。トレーを持ったサラが部屋に入り、それを見届けてから続いてノアが入室する。促されてアニーが椅子に座ると、サラは手際よくテーブルの準備を進めていった。しかし、並べられたティーセットにアニーは疑問を口にした。

「あれ、一つだけですか?」

 その疑問に、サラは驚いたように目を見開いた。何かおかしなことを言っただろうか、とアニーは身じろぎした。

「……これは、ソフィア様の分だけです」
「えっ」

 アニーは驚いて声を上げた。てっきり三人でお茶をしながら話をするものだと思っていたのに。
 動揺するアニーに、サラは背筋を伸ばしてまっすぐ立ちながら、アニーを見下ろした。

「あなたの中身が平民のアニーであろうと、わたしたちにとってはソフィア様です。ソフィア様のお体でいる間、あなたはソフィア様であり、わたしたちもそのように接します。ですから、あなたもソフィア様として、わたしたちを使用人として扱っていただかなくては困ります」

 その言葉に、アニーは俯いた。いくら突然押しつけられた役割だとはいえ、自分はそれを受けたのだ。たった一週間しかない。素の自分でいる時間が長ければ、ボロが出てしまうだろう。アニーも、周りも。ソフィアになろうというのなら、常にそうであることを心がけなくては。

「……そうね、ごめんなさい」

 口調を切り替えて、アニーはティーカップを手に取った。温かい紅茶に、心が解れる。一つ息を吐いて、姿勢を正した。

「私はこれから一週間、ソフィアとして振る舞うわ。そのために、ソフィアがどういう人だったのか、教えてくれないかしら? サラ、ノア」

 目つきから変わったアニーに、二人は僅かに息を呑んだ。だが、あまり感情を表に出さないよう訓練されているのだろう。戸惑うこともなく、すぐにサラがアニーの問いに答えた。 

「ソフィア様は、旦那様もおっしゃっていたように、ご自分の欲求を隠さない方でした。いつも自由奔放に振る舞ってらして、このお屋敷に男性を連れ込まれたことも何度か」

 なるほど。アニーは顔を顰めた。ソフィアはオズボーン男爵家の一人娘だ。必然的に、彼女の輿入れ先がこの地の領主となる。これはアニーにとっても他人事ではない。ろくでもない男と駆け落ちなどされた日には目もあてられない。

「ソフィア様はご自分の容姿に絶対の自信を持っていて……そうでない者を、見下しているのです」

 そう言ったサラの手がメイド服を強く掴んだのを、アニーは目の端で捉えた。

「私も、ノアも、ソフィア様には嫌われていました。見た目が醜いから、と」
「……あなたたちが、醜い?」

 アニーは目を丸くした。二人の容姿のどこが醜いのか、アニーには全くわからなかった。

「私のこのそばかすが、煤で汚したようだと。髪もぐしゃぐしゃで、廃屋に絡まる蔦みたいだと」

 よくもまあ、そんな表現ができたものだ。アニーは呆れた。サラは、それを真正面から受け止めてしまったのだろう。
 無理もない。ソフィアの身の回りの世話は彼女だけ。ということは、彼女は何年もずっとソフィアに仕えてきたのだろう。一番身近な人間から繰り返し言われ続ければ、心も折れるというものだ。

「ノアだって、似たようなものですよ」

 自分だけが屈辱を受けることに耐えられなかったのか、サラがノアに水を向けた。ノアはそれに特に不快を示すこともせず、淡々と話した。

「私は奴隷の子、とよく言われましたね。泥水をすすって育ったから肌が泥の色なのではないかと」

 アニーは絶句した。この時代に、そんな発言をする人間がいるのか。ソフィアは、十分な教育を受けてきたはずなのに。

「私はナダロアの血を引いています。私自身はかの国に訪れたことはありませんが、どうも私の代で血が濃く出たようで。アミールドでは人種差別を禁じていますが、エラマのような地方では未だ偏見も残っています。旦那様が国へ意識改革をアピールするために私を雇われたのですよ」

 アニーは頭が痛くなった。
 ナダロアはアミールドの東に位置する国で、かつて国民は奴隷として各国に買われていた。しかしそれはもう百年以上も前のことだ。未だにそれを堂々と口にするのは、選民意識の強い気位の高い貴族か、異常に過去への思い入れが強い老人くらいだ。
 確かにノアの言うとおり、偏見が全く消えたのかといえば、悲しいことにそうではない。だがよりによって、自分の町の領主の娘がそんなことを。これでは、フィリップが見合いをさせられないと思うわけだ。

「サラ」

 アニーの声かけに、はっとしたようにサラが視線を向ける。

「私はあなたのそばかす、とてもチャーミングだと思うわ。だってそれは働き者の証だもの。それに、知ってる? 外の国では、そばかすやほくろを化粧として入れるところもあるそうよ。それって、魅力的だと思うから真似をしているのでしょう?」

 アニーの言葉に、サラは目を瞬かせた。

「その赤毛も、可愛くて羨ましい。私の本当の髪色はね、黒なの。地味で暗くて嫌になっちゃう。でもサラの髪は見ていて明るい気分になるわね。くるくる跳ねているところも、元気でいいと思うわ。きっとその髪には、笑顔が似合うわね」

 微笑んだアニーに対して、サラは戸惑いの表情をしたあと、唇を引き結んだ。
 笑ってくれればと思ったが、そううまくはいかないだろう。それに、容姿のことを言われ続けた女性は、容姿にコンプレックスを持つものだ。ソフィアが長年かけて彼女にかけた呪いは、アニーの言葉一つで簡単に解けるものではない。まして、今アニーの見た目はソフィアなのだ。元の姿がどうあれ、こんな美人に言われても、と思うのが普通だ。だが反応を見る限り、悪くは思っていなさそうだった。アニーは内心でほっと息を吐いた。

「ノアの肌の色も、私は好きよ。土の色、結構じゃない。私たちの食べている作物のほとんどは土からできているのよ。私たちを豊かにしてくれる色だわ」
「……おそれいります」
「それに、何だったかしら、ほら。ええと、あの……そう、チョコレート! あれに似ているわ。美味しそうよね」

 無邪気に笑ったアニーに、サラが耐えきれないように吹き出した。自分の失言に気づいて、アニーの顔がじわじわと赤くなる。
 女性を褒める時に果実を持ち出すことはよくある。が、チョコレートは全く褒め言葉になっていないのではないか。カカオは輸入品のため、チョコレートは高価で庶民は到底口にできない。価値のある物として比喩に用いたが、適切ではなかった。後ろに美味しそうなどと加えたのも悪かったかもしれない。

「も、申し訳、ありません」
「……いいのよ。思いがけずあなたの笑顔が見られて嬉しいわ」

 謝罪をしたサラに、アニーは恥ずかしさを堪えながら答えた。誤魔化すように、紅茶に口をつける。望んだタイミングではなかったが、彼女が笑ってくれたことは良いことだ。と思いたい。

「ノアも、笑いたければ笑っていいのよ」

 堪えている様子はないが、無反応というのも気まずい。アニーがそう声をかけると、ノアは淡々と答えた。

「いえ、そのような感想は初めてだったもので、どう答えたものかと」

 そして少し考えるそぶりをして、アニーに手を差し出した。

「舐めてみますか?」

 収まったと思ったサラが、再度吹き出した。今度は腹を抱えて笑い出しそうな勢いだ。

「……遠慮しておくわ」

 冗談なのか、天然なのか。アニーが半眼で答えると、ノアは気を悪くした風もなく手を引っこめた。

「それにしても、ソフィア様もなかなか癖の強い方ね。真似るのは大変かもしれないわ」
「そのことですが、ソフィア様を真似る必要はないかと思われます」
「そうなの?」

 ノアの言葉に、アニーは首を傾げた。見合いをするくらいなのだから、伯爵家の人間は、一度くらいはこの家に打診に来ているのではないのだろうか。その時にソフィアと言葉を交わしていたのだとしたら、全く別人として振る舞うのもどうかと考えたのだが。

「屋敷の人間は中身が別人であることを把握しておりますし、ダグラス伯爵家の方々とは面識がありません。今回が初めての訪問となりますから、ソフィア様がどのような方であるかご存じないはずです。……噂くらいは耳にしているかもしれませんが」

 貴族の見合いがどのように決められるのかは知らないが、全くの初対面同士ということであれば、確かに気にすることはないだろう。ソフィアに戻ったあとのことを考えなければ、だが。
 ノアの言葉に、サラも頷いた。

「あなたはエリオット様の好みの女性として選ばれたはずです。でしたら、令嬢としてさえ振る舞っていただければ、それ以外はあなた自身の感情や価値観でお話なさって良いかと思います」

 それもそうか、とアニーは納得した。単純にソフィア自身を真似たのでは、入れ替わった意味がない。ソフィアの内面に問題があるから、自分が身代わりをしているのだ。であれば、最低限のマナーさえ守れば、アニーとして向き合って構わないはず。

「二人ともありがとう。何とかやってみるわ。明日からよろしくね」

 アニーの微笑みに、二人は礼で返した。

 二人を下がらせ、アニーは慣れないベッドに潜り込み、瞼を閉じる。

(私はソフィア。明日から……男爵令嬢、ソフィア)

 こうして、アニーの七日間の入れ替わり生活が幕を開けた。
「おはようございます。起きてくださいませ、ソフィア様」

 カーテンが開けられ、朝の光が差し込む。その眩しさと人の声に、アニーはがばりと身を起こした。

「……おはよう、サラ」
「おはようございます」

 ばくばくとうるさい心臓を悟られないよう、努めて落ち着いた挨拶をする。サラは気づいているのかいないのか、平然と返した。
 普段人に起こされることなどないものだから、他人の存在に過剰に反応してしまった。心拍数を下げようと、長く息を吐く。
 サラに渡された水で顔を洗うと、幾分か気分がさっぱりとした。そのまま朝の身支度を整えてもらう。自分でやりたい、というむずむずとした気持ちを何とか堪えて準備を終えると、ドアの外には既にノアが待機していた。

「おはようございます、ソフィア様」
「おはよう、ノア」

 二人とも、本当に朝から晩までつきっきりなのだな、とアニーは感心した。さすがにノアは護衛といっても、寝ずに部屋の番をするようなことはなかった。二人とも、夜間はきちんと休んでいるようだ。しかし、交代要員がいないことは気がかりである。休日は取れているのだろうか。
 つい余計なことまで考えてしまい、頭を振る。よその労働環境に口を出せるような立場ではない。今は中身がアニーだから、混乱しないように二人に固定しているだけで、普段は代理もきちんといるのかもしれない。妙な詮索はしない方がいい。二人とは、ソフィアでいる間だけの付き合いなのだから。

「これからご朝食となりますが……既に、家庭教師がいらしています。お覚悟を」

 覚悟。その言葉の意味を、アニーはすぐに知ることとなる。



「食器の音を立てない! スープを飲む時は、手前から奥!」

 朝から叱責が飛び、アニーは眉を顰めた。
 別にスープなんて、手前から掬おうが奥から掬おうがいいじゃないか、と思いながらも、教えられたとおりに手前から奥へとスプーンを動かす。
 
 フィリップから前日に聞いてはいたが、早朝から既に家庭教師が来ていた。覚悟とはこういうことか、と内心溜息を吐く。朝食からすぐにマナーレッスン。普段なら口にすることのないシェフの作った高級料理だというのに、味わう余裕もなかった。
 家庭教師の女性は厳しい物言いをする人で、吊り上がった目元にきつさが滲み出ている。しかし理不尽な要求や人格の否定をされているわけではない。三日で覚えようと思えば、こういうタイプの方が合っているのだろう。アニーは前向きに捉えることにした。

「昼にまた行いますので、しっかり復習しておくように」

 そう言われても。前向きな気持ちが、さっそく折れそうになる。

「午前中は歴史の勉強です」

 どさどさ、と目の前に詰まれた書籍に眩暈がする。これで、いつ復習する時間があるというのか。
 アミールドでは最低限の教育は受けられるため、平民の識字率は高い。アニーも文字の読み書きは問題なく行える。だが、高度な教育は受けていない。歴史など、ぼんやりと伝え聞いた程度しか知らない。
 家庭教師の言葉が右から左へ流れていく中、アニーは必死で文字を目で追った。

「おや、もう昼食の時間ですね。残りは明日までに読んでおくように」

(だ、か、ら!)

「こぼさない! きちんとフォークの背に乗せて、美しく!」

「ウォーキングは基礎中の基礎です! 背筋を伸ばして、真っすぐ!」

「ダンスは淑女の嗜み! 音とずれていますよ!」

(いつ読むんだっつーの!)

 隙間なく詰め込まれるレッスンに、空き時間など全くない。教わったことを反復する間もないまま、最後のディナーのレッスンを終えて、へろへろになったアニーは自室のベッドに倒れ込んだ。

「無理……死ぬ……死んでしまう……」

 生気のない顔で弱音をこぼすアニー。朝から晩まで働き詰め、なんてことは実家のパン屋でもあったが、疲労の内容が違う。慣れないことをするのは、慣れている作業をたくさんするよりもずっと負担がかかる。もうこのまま泥のように眠ってしまいたい。でも。

「はあーーーー」

 大きく長い溜息を吐いてベッドから身を起こすと、アニーは本を持って椅子に座った。
 明日までに読んでおくように、と言われた歴史書。使える時間は夜しかない。睡眠時間を削ればソフィアの玉の肌に影響が出るだろうが、致し方ない。
 やる気はしないが、領地の未来がかかっていると思えば。アニーは不機嫌な顔をしながらも、本を開いた。



 どれだけの時間が経ったか。ふいに、部屋のドアをノックする音に意識が引き戻される。ずいぶん集中していた、と一つ伸びをして、アニーは立ち上がった。

「はーい」

 間延びした返事をして、ドアを開ける。目の前に立っていたのは、ノアだった。やや驚いた顔をしていることに、アニーは首を傾げた。

「何か御用ですか?」

 言ってしまってから、おっと、と口を押さえた。脳が疲労困憊しているせいで、つい普段の口調で話してしまった。
 しかしノアはそのことについては特に言及することもなく、口を開いた。

「夜分に失礼しました。ずいぶん遅くまで明かりが灯っていたもので、何かあったのかと」
「ああ……出された課題が、終わらなくて」

 苦笑したアニーに、ノアは室内へ視線をやった。積まれた本が目に入ったのだろう。僅かに眉を顰めた。

「あの量を、今まで?」
「それが驚くことに、まだ読み終わってないのよ」

 冗談めかして肩をすくめたアニーに、ノアはますます眉間の皺を深めた。

「あなたがそこまでする必要はありません」
「でも、私が無教養なままだと、ソフィア様が馬鹿にされてしまうわ」
「ソフィア様は、もともとそれほど勉学を得意としておりません」

 アニーは目を瞬かせた。それは、自分が聞いてしまって良かったのだろうか。

「女は馬鹿な方が可愛いという人もいるけれど、知識がある上で馬鹿なふりをすることはできても、その逆はできないのよ。エリオット様の好みは教養のある女性かもしれないわ」

 アニーの行動は全て、エリオットに気に入られるためだ。ひいてはこの町のため。ソフィアのためではない。今後の自分の暮らしがかかっているとなれば、多少の無茶くらいはする。

 アニーの顔をじっと見て、ノアは溜息を吐いた。

「わかりました。ですが、今日のところはもうお休みください。あまり夜更かしが過ぎては、ソフィア様の一番の美点が損なわれます」
「ええ、わかっているわ」

 つまり、ソフィアの一番の売りは顔なんだから、隈を作ったり肌を荒らしたりするなと。言いたいことはわかるが、この従者もなかなかなことを言う。

「それと、今後ノックが聞こえても、軽率にドアを開けないでください」
「え?」
「ドアの向こうに誰がいるかわからないでしょう。まして、こんな夜分に姿を見せるものではありません」

 最初にノアが驚いた顔をしていた理由がわかった。確かに、軽率だったかもしれない。時間の感覚がなかったこともあるし、自室がノックされて家族以外がいる、という状況に馴染めていなかったこともある。

「わかったわ。相手が誰か、確かめてからドアを開けようにするわね」
「……いえ、相手がわかっても、迂闊にドアを開けるのは」
「だって私の部屋にくるのなんて、あなたかサラか、フィリップ様くらいでしょう。あなたたちとドア越しに会話なんてしたくないし、フィリップ様にはそんな失礼なことできないわ」

 アニーの台詞に、ノアは黙った。理由がわからなくて、アニーは不安げにノアを窺った。

「あなたは、そうなのですね」
「なにか、まずかったかしら」
「いえ、そうではありません。もうお休みください。良い夢を」
「ええ、ありがとう。あなたも」

 当たり障りのない挨拶で、ノアはその場から立ち去った。
 気分を害したわけではなさそうだったが、何だったのだろうか。アニーは首を捻りながらも、部屋の明かりを落として、ベッドに潜るのだった。
 アニーがソフィアと入れ替わって三日目。昨日よりは世話をされることにも慣れた。サラに身支度をされ、ノアにエスコートされ、家庭教師のレッスンを受ける。
 何度も何度も頭の中でイメージしたテーブルマナーは、間違いこそなかったものの、やはりまだ慣れが必要だ。食器の扱いに慣れず大きな音を立ててしまい、アニーは顔を歪めた。
 勉強も一通り目を通したとはいえ、頭に入っているかといえばそうでもない。やはり家庭教師の言葉は右から左へ。脳が理解する前に話が進んでしまう。もうこのあたりは付け焼き刃でいいのでは、とアニーは半ば諦めている。というか、ほとんど全てのことが付け焼き刃である。本物の目から見れば、そんなことはすぐにわかるだろう。であれば、あとはもう学ぶ気はある、という姿勢を見せるしかない。今まで十七年間何をしていたのか、と思われる可能性はあるが、そこはうまいこと誤魔化すしかない。

「今日のダンスレッスンは、実際にパートナーと組んでいただきます。ノア、相手を」
「かしこまりました」

 内心で、えっと声を上げるものの、ノアは至って普通だ。今までも何度か相手役を務めたことがあるのかもしれない。

「失礼します」

 手を取られ、背中に手を添えられ、アニーとノアの距離がぐっと近くなる。アニーは顔に血が上りそうになるのを必死で隠した。
 いくら見た目がソフィアでも、アニーには男性経験がほとんどない。異性とこれほどまでに近づいたことなど、一度もなかった。ましてや、ノアのような美丈夫とは。

「ソフィア様! 腰が引けてますよ!」

 家庭教師に指摘され、声にならない悲鳴を上げる。アニーのその様子をどう取ったのか、ノアは少しだけ目を伏せた。

「申し訳ありません。私がお相手では不愉快かもしれませんが、少しの間我慢いただけると」

 アニーは、はっとして顔を上げた。鳶色の瞳と視線が交わる。
 そうだ、この人は。ソフィアから、醜いと言われていたのだった。自分でも出自を気にしている風だった。引け目を感じているのかもしれない。
 そうではない。そんなことを、気にしているのではない。
 アニーは気を引き締めて、しゃんと立った。そしてまっすぐにノアを見つめたまま告げる。

「ごめんなさい。ノアみたいな素敵な人と踊ったことなんてないのよ。だから少し緊張してるの。でも、もう大丈夫」

 自分の台詞に、じわじわと顔が熱を持つ。それでも、ノアが悪いなどと思ってほしくなかった。これは自分の問題だ。アニーがこなさなければならない課題だ。ノアは協力してくれているのだ。恥ずかしさは、消えない。消えないが、何とかする。大丈夫だ。
 アニーの言葉を受けて、ノアは大きく表情を変えることはなかったが、心なしか呆けているようにも見えた。それを不思議に思う間もなく、家庭教師の声が飛ぶ。

「ではいきますよ! ワン、ツー、スリー」

 カウントに合わせて、必死で足を運ぶ。いっぱいいっぱいなアニーに対して、ノアの方は慣れている様子だった。おぼつかないアニーをリードしてくれている。しかし、いくらノアの方が上手くてもアニーはド素人である。案の定、ノアの足を踏んだ。

「ご、ごめんなさい!」
「お気になさらず」

 表情一つ変えないが、普通に考えてヒールで踏まれたら痛いに決まっている。アニーはソフィアの仮面も忘れて、半泣きに顔が崩れていた。
 
「ソフィア様」

 アニーの様子を見兼ねたのか、家庭教師に気づかれない角度で耳元に口を寄せ、ノアが囁く。

「私は大丈夫です。何度踏んでも構いませんから、どうか堂々となさってください」

 ただの気遣いの言葉だというのに、心地の良い低音に体がぞくりと震える。それを隠すように、アニーはきっと眼差しを強くした。

(照れてる場合じゃない。これはレッスン、レッスン!)

 結局、何度足を踏んだかは覚えていない。

 ダンスレッスンが終わり部屋を出たところで、アニーは青い顔をしてノアに詰め寄った。

「足! 手当てしないと」
「このくらい、何ということはありません」
「そんなわけないでしょ! 早くしないと、腫れるかも」

 すぐにでもその場に膝をついて足を確認してしまいそうなアニーに、ノアは僅かに困った様子を見せながら、肩に手を置いて体を離した。

「わかりました、自分でやりますから。ソフィア様はサラのところへ」
「でも」
「次のレッスンに遅れてしまいますよ」

 しぶしぶ、アニーは自室で待つサラのところへ向かった。
 その後ろ姿を、ノアは戸惑ったような表情で見つめていた。



 ダンスレッスンのドレスから別のドレスへと着替えながら、アニーはサラに先ほどの出来事を半ば愚痴のように話して聞かせていた。

「本当にもう、全然踊れるようになる気がしないわ。そもそも、お見合いはたったの三日でしょう? 踊る機会なんてあるのかしら」
「ソフィア様、もしかして旦那様からお聞きになりませんでしたか?」
「……何を?」

 嫌な予感がしながら、アニーはおそるおそるサラに尋ねた。

「お見合いの最終日は、ダグラス伯爵家の邸宅でダンスパーティーが行われるのですよ」

 アニーは目が点になった。

「はあああ!?」

 令嬢らしからぬ大声を上げてしまったが、口を塞ぐことも忘れるほどに混乱していた。アニーの様子に、サラは哀れむような視線を向けた。

「本当にお聞きになっていらっしゃらなかったのですね。一日目、二日目はこちらで交流を深めることが目的ですが、三日目は伯爵家の方々へのご挨拶も兼ねて、パーティーに出席することになっているんですよ。そこでエリオット様からダンスを申し込まれれば縁談が成立、申し込まれなければ単なる社交場での挨拶回りで終了です」
「聞いてないわ……」

 アニーは絶望した。どうりでダンスレッスンが熱心なはずだ。てっきりエリオットの相手さえ何とかなればいいと思っていたのに、まさかパーティーへの出席など。自分の失態はソフィアの失態として、その場の貴族たち全員に刻まれてしまう。責任が重すぎる。
 アニーは舌打ちしたい気分だった。このことを知ったらアニーが断るとわかっていて、フィリップは黙っていたのだろう。存外抜け目のない男だ。
 事前にわかっていたら断ることもできたが、ここまで話が進んでしまっては今更どうにもできない。腹をくくるしかない、とアニーは気合いを入れ直した。



 全てのレッスンが終了し、自室でアニーはステップを踏んでいた。あんなことを聞いてしまっては、やはりダンスが一番気になる。少なくとも、明日のレッスンでは絶対にノアの足を踏まないようにしなくては。

「ワン、ツー、スリー」

 小さく呟いて足を動かす。しかし、やはり一人で動くのと二人で動くのでは勝手が違う。
 アニーは目を閉じて、相手役がいるとイメージすることにした。ノアの手が、ここに、触れて。
 思い返して、ぶわっと顔に血が上った。熱を冷まそうと、無意味に顔を手で扇ぐ。
 いけない。ソフィアだったら、絶対にこんな反応をしない。ダンスは貴族の嗜みだ。組んだ時に照れていたら変に思われる。練習に付き合ってくれているノアにも悪い。
 どうしても、ノアのことが浮かんでしまう。間近で見たノアの瞳は、穏やかで優しい色をしていた。サラはソフィアに対して多少の敵意を持っていたようだが、ノアからは一度も感じなかった。出さないように徹底しているのか、それともソフィアを悪く思ってはいなかったのか。

(ま、ノアも男だし……こんな美女の側にいられて、悪い気はしないのかな)

 自嘲気味に笑って、ベッドに転がった。ノアは、自分が元の姿でも、あんな風に手を取ってくれただろうか。
 アニーの姿でも、ためらいなく、触れてくれただろうか。
 嫌な考えに、アニーはぎゅっと目を瞑った。そんな仮定は、無意味だ。ノアとこうして接していられるのは、ソフィアでいる間だけ。アニーに戻れば、彼とは会うことも言葉を交わすことも二度とない。
 考えようによっては、自分は人生で二度と得られないだろう貴重な体験をしているのだ。目を瞠るような美女の姿で、従者にかしずかれて、貴族の暮らしをしている。少しくらい楽しんだって罰はあたらないだろう。
 無理やり楽しい方に考えることで、暗い気持ちを振り払った。
 四日目。昨日と同じようにサラに身支度を整えてもらい、ノアにエスコートされ、アニーは最後のレッスンに臨んだ。
 まず、テーブルマナー。ぎこちなさは残るものの、ミスはなし。

「……まぁ、及第点でしょう」

 厳しい家庭教師からも、なんとか合格点を貰った。
 続いて、知識。これは正直ゴールがないので、最低限恥ずかしくない程度の受け答えができる、というところで良しとされた。これもパス。
 そして所作。美しい歩き方、座り方など。慣れが何より重要なこれらは、ぎりぎりではあるが、見れなくはない、というところまでは矯正された。
 最後に最難関のダンス。

「よろしくね」
「はい」

 ノアと組んで、音に合わせて踊り出す。今日はミスは許されない。慎重に慎重に、ステップを踏む。

(――よし!)

 今のところ、ミスはない。ノアの足も一度も踏んでいない。いける、と意気込んでいたアニーには、ノアの表情が目に入っていなかった。

「ソフィア様」

 こそっとかけられた声は、アニーの耳には入らなかった。正しいステップを踏むことに必死で、意識がそちらに集中してしまっている。
 ノアはぐっとアニーの体を引いて、少し強引にターンをした。

「っ!?」

 思いがけない動きに、アニーが息を呑む。そこでやっと、アニーはノアの顔を見た。彼は困ったように眉を下げていた。

「ソフィア様、私を見てください」

 ノアの言葉に、アニーの胸がどきりと高鳴る。

「ダンスは相手と親睦を深めるために行うものです。そのように険しい顔をして、相手を無視して踊るものではありません」

 アニーは恥ずかしくなって俯いた。練習の成果を出さなくては、うまくやらなくては、とそればかりに気を取られ、パートナーのことが全く目に入っていなかった。これではダンスの意味がない。

「笑ってください」

 柔らかい声に顔を上げると、ふわりと微笑んだノアの顔が眼前に広がった。
 その瞬間、アニーの視界に、ちかちかと光が散った。
 胸が熱くなって、ノアにつられるように自然と微笑んだ。
 足が軽い。ノアに体を預ければ、導かれるように自然とステップが踏めた。

「エクセレント!」

 家庭教師の声にはっとする。彼女はぱちぱちと拍手を送っていた。

「最初はどうなることかと思いましたが、最後は良かったですよ。互いにパートナーを気遣って、素晴らしい動きでした」
「ありがとう、ございます」

 そうできたのは、ノアのおかげだ。彼が相手でなければ、自分勝手なままだった。アニーは誇らしい気持ちでノアに笑顔を向けた。ノアは数回目を瞬かせ、僅かに微笑んだ。



 明日からは見合いが始まる。その日の夕食は、テーブルマナーのレッスンではなくフィリップと共にとることになった。

「三日間よく耐えてくれた。家庭教師も君のことを褒めていたぞ」
「おそれいります」
「明日からは、いよいよエリオット殿がいらっしゃる。くれぐれも、失礼のないようにな」
「……肝に銘じておきます」

 これは、言外に脅されているのだろうか。深読みして、アニーはジト目でフィリップを見た。

「エリオット様はどのような方なのですか?」
「うぅむ……私もそれほど詳しくは知らんのだ。ただ、領民のことを真に想う、評判の良い男だとしか」
「それで何故お見合いをすることに」
「ダグラス伯爵が、社交場でソフィアを見かけた時に、その美貌に惚れ込んだらしい。是非にと希望してくださってな」
「なるほど……つまり、エリオット様本人のご意向は、全くわからないわけですね」
「う、うむ。そうなるな」

 気まずそうに、フィリップがワインを口にする。ノアからは伯爵家と面識はないと聞いている。ダグラス伯爵は、本当にソフィアを見かけた程度で、話をしたことはないのだろう。であれば、ごまかせるか。

「私が選ばれたのは、エリオット様が好まれる性格をしているから、と伺いましたが、具体的にどのようなところが?」
「いや、それが全くわからんのだ。占いは相手を探し当てるだけで、何故君が選ばれたのかは私にも占い師にもわからん」

 アニーが半眼になったのを見て、フィリップは再びワインを口にした。
 正直、アニーは自分の性格が人と比べて特に良いとは思わない。いったい何が占いに引っかかったのか。それがわかれば、エリオットが好む部分を強調していく手段もとれたのだが、わからないのではどうしようもない。

「わかりました。できる限りの力を尽くします」
「うむ、頼んだ」

 満足げに答えて、フィリップはワインを呷った。



 入念にサラに体を磨いてもらって、アニーはナイトドレスに袖を通した。

「ねえ。この後、時間があれば少し三人で話をしない?」

 初日のように、少しだけでも緊張をほぐせれば。そう思ったが、サラは首を振った。

「明日からはまた大変な三日間が始まるのですよ。早めにお休みくださいませ」

 ぴしゃりと言われて、アニーは苦笑した。初対面の時の毒気は抜けたが、サラは決して甘くはない。生真面目な気質なのだろう。
 仕方なしに、アニーは自室で休むことにした。明かりは落としたものの、全く眠くならない。少し外の風にでも当たろうと、窓を開いた。
 初夏の風はまだ涼しく、肌に心地いい。眼下に広がる町並みを、ぼんやりと眺める。貴族の屋敷というのは、得てして高い場所にある。このオズボーン男爵邸も例にもれず、小高い丘の上に立っている。
 普段なら自分は、あの町の片隅で休んでいるのだ。今、アニーの体にいるソフィアは、どうしているのだろう。暗い部屋で、固いベッドで、たった一人で眠れているのだろうか。さすがにアニーの体で男を連れ込んでいるとは思えない。というか、無理だろう。アニーの容姿では。
 暗く陰った心に目を伏せると、部屋のドアが叩かれた。

「……どなた?」

 ノアの注意を思い出して、ドアを開ける前にまず声をかけた。

「私です、ノアです」
「ノア?」

 窓からドアまで小走りで行って、ためらいなくドアを開いた。

「どうしたの」

 今日は部屋の明かりは落としてある。廊下の明かりが、ノアの顔を照らした。

「お部屋の窓が開いていたので、眠れないのではと」

 そう言って、ノアは持っていたトレーを差し出した。乗っているカップからは、甘い匂いがする。

「これ……もしかして、チョコレート?」

 アニーは驚いて声を上げた。

「はい。お好きであるとおっしゃっていたので、取り寄せました。なかなかお出しするタイミングがなかったのですが」

 好き、というか、美味しそうと言っただけなのだが。アニーはチョコレートを飲んだことがない。最近では固形のものも流通しているようだが、このあたりでは飲み物として好まれている。
 まだ湯気の立つそれは、用意したばかりであることがうかがえた。アニーの部屋の窓が開いているのを見て、眠れないのだろうと心配して、わざわざ用意して持ってきてくれたのだ。そのことに、アニーは胸が締め付けられる思いだった。
 トレーからカップをとって、口をつける。優しい甘さが口に広がって、温かさが喉を通って胃に落ちて、心がほっとした。

「……美味しい」

 薄く微笑んだアニーに、ノアもほっとしたように息をもらした。

「ありがとう、ノア」
「……いえ。では、私はこれで」
「あっ」

 思わず声を上げたアニーに、ノアは振り返った。

「何か?」

 アニーは口を押えていた。何故、呼び止めてしまったのか。
 理由はわかっている。もう少し、話していたかった。でもそれは、言ってはいけないことだ。例え廊下で話すにしても、夜に二人きりでいることは、褒められたことではない。もし見咎められて責を受けるとしたら、それは使用人であるノアだけになるだろう。

「何でもないわ。おやすみなさい」
「……はい」

 去っていくノアの背を見送って、アニーはドアを閉めると、それにもたれかかりながらチョコレートを口にした。

「……あま」

 初めて飲んだチョコレートは、ひどく甘かった。だというのに、何故か、舌には苦みが残った。
 見合い初日。アニーはサラに整えてもらった自分の姿を鏡で見て、溜息が出た。ブロンドの髪には細やかな細工の髪飾りがあしらわれ、ドレスは上品で女性らしい薄紅色。白い肌に輝くルビーの宝石。元々の素材が極上だが、それを更に飾り立てる一流の品々。どこからどう見ても完璧な令嬢である。
 中身が、アニーでなければ。そう思うと、胃がキリキリと痛んだ。

「お綺麗ですよ、ソフィア様」
「……ありがとう」
「三日間の辛抱です。頑張ってください」

 サラの激励の言葉を受け取って、アニーは気合いを入れ直す。
 コンコン、とノックの音がして、外からノアの声がかかる。

「エリオット様がいらっしゃいました」

(――きた)

 ごくりと唾を呑んで、アニーは高いヒールの足を踏み出した。



「ようこそお越しくださいました、エリオット殿」

 門前にて、にこにこと満面の笑みでフィリップがエリオットを迎え入れる。
 その少し後ろに控えていたアニーは、馬車から降りた男性を見て息を呑んだ。
 光に輝く金糸の髪。サファイアの澄んだ瞳。著名な彫刻家に彫らせたような、はっきりとして美しい目鼻立ち。手足はすらりと長く、その一挙手一投足が洗練されている。まるで絵本の王子様がそのまま飛び出してきたようだった。

「こちらこそ。お招きいただき感謝します、オズボーン男爵」

 挨拶を受けたエリオットは柔らかい声でそう言って、声に相応しい柔和な笑顔を作った。望んだ見合いではないだろうに、格下の男爵相手に礼を尽くす態度にアニーは早くも好感を持った。

「紹介します。娘のソフィアです」

 示されたアニーは、練習通りに丁寧な所作でお辞儀をした。

「お初にお目にかかります、エリオット様。ソフィアでございます」
「これは……いや、父から聞いてはいたが、美しい方だ。緊張してしまいますね」

 照れたように笑ったエリオットに、アニーは拍子抜けした。まるで色目は全く効かないかのような前評判だったが、結局彼もただの男ということか。多少なりとも容貌に惹かれるのであれば、思ったほど難しくはないだろう。よっぽどの顰蹙を買わなければ、この見た目で許容されそうだ。

「茶会の準備は整っております。ささ、どうぞ庭へ」

 フィリップの案内で、一行は庭へと移動した。
 オズボーン男爵邸の庭にはバラ園があり、ちょうど今が見頃である。初日は軽く顔合わせでも、と庭での茶会を用意していた。
 席についているのはアニーとエリオットの二人。エリオットの側にはダグラス伯爵家の使用人が二人、アニーの側にはサラとノアが控えている。そして茶会の給仕のため、オズボーン男爵家のハウスメイドが三人。
 サラもノアもいるのに、ただの茶会に三人も必要なものか。アニーは不思議に思ったが、フィリップは万全を期しておきたいようだった。
 今回の訪問ではフィリップがホストにあたるが、目的は見合いである。最初に軽く挨拶だけした後、あとはお若い者同士で、と場を辞してしまった。

「見事なバラ園ですね。美しい」
「おそれいります。庭師の腕が良いのです」

 とは答えたものの、庭師とは会ったこともない。庭に出るのも、アニー自身初めてである。美しいバラに見惚れてしまいそうだが、今はエリオットとの会話に集中しなければ。

「見合いの件、父が勝手に話を進めてしまったようで、申し訳ない。お気を悪くされてませんか?」
「いえ。私のような田舎貴族にはもったいないほどのお話です。光栄に思っております」
「そう言っていただけると助かります。父はなんというか……美しいものに、目がなくて」

 軽く笑ったエリオットに、アニーは表面上は穏やかに微笑んだ。出会ってから見た目しか褒められていないが、エリオットは良かれと思って言っているのだから、喜んでおかなくては。現状お互いのことは何も知らないのだから、それ以外に褒めようがないのも理解できる。

「人は誰でも美しいものを好むものです。エリオット様もそうではないのですか?」
「私は……どうでしょう。美しいものは確かに素晴らしいとは思いますが、私は、もっと本質を大事にしたいと思っております」

 目を伏せたエリオットに、アニーは静かに紅茶を口にした。

「私は幼少から見目を褒められることが多く。ですが、それは私の内面とは関係がない、表面上のものです。私は伯爵家の嫡男として、父からも、周りからも認められる立派な人間であろうと努力してきました。しかし、稀に……それが、容姿のおかげであると言われることもあり」

 美形には美形の悩みがあるものだ。アニーは静かにカップを置いた。自分が努力して手に入れたものを、全て持って生まれた資質のせいにされたら、確かに遺憾かもしれない。だとしても。

「良いではありませんか」

 アニーの言葉に、エリオットは意外そうに目を丸くした。

「エリオット様は、確かに努力なさったのでしょう。ですが、そうして得た結果の中に、容姿が影響したことも確かにあったはずです」
「それは……」
「見目の美しさは、持って生まれた才能です。それは頭脳や体力と同じで、磨かなければ衰えるし、鍛えれば武器になります。それを利用することに、何の問題が?」

 エリオットは、葛藤するように拳を握りしめた。男女では、容姿に対する考え方も異なるだろう。自身の努力を認めてほしい。その気持ちは、わからないでもないが。

「ですが……私は、私自身をもっと、見てほしいと」
「不思議なことをおっしゃいますのね。ではエリオット様は『ダグラス伯爵家』の肩書を利用したことはないのですか? ただの一度も?」

 詰めるような口調に、ダグラス伯爵家の使用人がぴくりと反応する。そのことにまた、ノアも僅かに反応した。
 それらが目に入りながらも、アニーは言葉を続けた。

「人は平等ではありません。皆スタート地点は違うのです。男性に生まれたことも、嫡男に生まれたことも、ダグラス伯爵家に生まれたことも、ある人から見れば羨ましく妬ましい『生まれ持っての利点』です。エリオット様の努力で得たものではありません。何故そこから、容姿だけは除外されるのですか?」

 アニーの視線を正面から受け止めて、エリオットは落ち着かせるように息を吐いた。

「……あなたの、言うとおりですね。何故だろうな。私はいずれ伯爵家を継ぐのだからと。それが当たり前で、そのことを利点だなどと思ったことはなかった」
「エリオット様がしている努力でさえも、努力ができる環境にあってこそです。それすら、できない者もいるのです。ならば『持てる者』として、利用できるものは全て利用して、結果を残してくださいませ。結果は事実で、記録です。外面も内面も関係ありません」

 アニーの言葉にエリオットは苦笑し、冗談めかした口調で言った。

「まさか、見合いの初日から説教をされてしまうとは」
「……出過ぎたことを申し上げました。申し訳ありません」

 アニーは素直に頭を下げた。男爵家の令嬢が、伯爵家の嫡男にきいていい口ではなかった。
 ただ、アニーには耐えられなかった。こういう、自分の優位性に無自覚な人はいらいらする。持っているのなら、堂々と使えばいいのだ。それら全てを含めて、自分なのだから。なのに、何もかも自分で手に入れたような顔をしたり、無意味に下を憐れんでポーズだけ同じ位置に立とうとするような者が許せなかった。
 アニーはこの三日間、令嬢としての教育を受けた。そして、ぎりぎりとはいえ、伯爵家の前に出しても恥ずかしくない出来になったと判断されたのだ。
 つまり、アニーだって、きちんと学べば令嬢として振る舞える。知識をつければ外で働くことだってできるかもしれない。しかしアニーにはその身分がない。
 ソフィアのような美貌があれば、良家に見初められたかもしれない。好きな相手と恋だってできたかもしれない。しかしアニーにはその美貌がない。
 努力だけで何とかなるのなら。自分の力だけで変わるなら。アニーだって。

(私だって!!)

 アニーはテーブルの下で手を握りしめた。
 持てる者は、持たざる者の気持ちがわからない。ならば、無理に理解などしなくていい。同調などしなくていい。持てる者にしかできないことを、為してほしい。

 俯いたままのアニーに、気遣うようにエリオットは笑いかけた。

「いや、耳の痛い意見でしたが、私には新鮮でした」
「お気遣い、痛み入ります」

 顔を上げて、アニーは微笑みかけた。その時、びゅうと強い風が一瞬だけ吹いた。アニーは目を閉じて、髪を押さえた。

「大丈夫ですか?」
「ええ」

 顔から髪を払ってテーブルを見ると、アニーのティーカップの中にバラの花びらが一枚浮いていた。風で飛ばされて入ってしまったのだろう。
 手で摘まむのははしたないだろう、とアニーはティースプーンでひょいとそれを拾い上げた。そのままカップを持ったアニーに、慌てたようにサラが声をかける。

「ソフィア様! すぐに淹れ直しますから!」
「え? ……あっ! そ、そうね!」

 気づいて、アニーもすぐにカップを置いた。かぁ、と顔が熱くなる。
 この程度、アニーなら気にしない。花びらさえ取り除いてしまえば、問題なく口にできる。しかし、ソフィアは違う。令嬢は一杯の紅茶を惜しんだりしない。

「ふっ」

 息をもらすような笑いに視線を向けると、エリオットがくつくつと笑っていた。

「いや、申し訳ない。存外、可愛らしいところがあるものだと」

 それは、さきほどまでの厳しい物言いに対しての皮肉ともとれる。アニーは恥ずかしげにむくれた。

「エリオット様も、そのように無邪気に笑われるのですね。その方が、先ほどまでよりよほど魅力的ですわ」

 つんと答えたアニーに、エリオットは一瞬呆けた後、眉を下げて微笑んだ。
 その顔が思ったよりも可愛らしかったものだから、アニーはつい絆されそうになった。美形が得なのは、こういうところだろう。

「相手の内面など、こうして話してみないとわからないものですね」
「そうですわ。内面なんて、知ろうとしなければ見えません。ですから、人がまず外見で判断するのは当たり前です。あなたがまず私の容姿を褒めたように」
「……手厳しい」

 から笑いして肩をすくめたエリオットに、アニーはそっぽを向いた。

「では、あなたの内面をもっと知るために、私は何をしたら良いでしょう」

 窺うように首を傾げたエリオットに、アニーは小さく唸って息を吐いた。

「お話をしましょう。私も、エリオット様のことをもっと知りたいです」

 微笑んだアニーに、エリオットも緩く微笑んだ。
 初日のお茶会を乗り切り、見合い二日目。
 この日は、お忍びで町へ視察に向かうことになっていた。お忍びといっても、エリオットもソフィアも王族というわけではない。ただ、あまりにも貴族感丸出しだと気を遣われてしまう、ということで、なるべく地味な格好で出かけることにした。視察というのも、エリオットがエラマの町を見てみたいと言っただけであって、実際はそう大層なものでもない。
 従者をぞろぞろ連れていたら目立つので、アニーはノアを、エリオットも護衛を一人連れるだけにとどめた。

「のどかな町ですね」
「基本産業は農業ですから。ダグラス伯爵領と比べると、平凡で面白味がないかもしれませんわね」
「いえ、そんなことはないです。穏やかで良い町だ」

 そう言って周囲を見渡すエリオットに、ちらちらと視線を送る者がある。主に、若い女性。無理もない、とアニーは小さく溜息を吐いた。いくら地味な格好をしたからといって、エリオットの容姿は人目を引く。それは仕方のないことだ。そして、ソフィアにも同じことが言える。
 アニーは今まで屋敷から出ることがなかったので、接したのはソフィアに慣れている者たちだけだ。しかし、こうして町に下りてみると、周囲の者の反応で改めてソフィアの美しさを実感する。初めて感じる視線に、アニーは身じろぎした。それが自分に向けられたものだとわかっても、優越感など微塵もなかった。やはり他人の体だからだろうか。

「見てください、ソフィア嬢。綺麗ですよ」

 エリオットが手招きしたのは、細工物の露店だった。庶民から見れば高価だが、エリオットからすれば安物だろう。そんなに目を引くものでもあったのだろうか、と側に寄って品揃えを見る。
 確かに美品が並んでいるが、エリオットのどこか浮かれたような様子は、おそらく雰囲気に流されてのことだろう。伯爵家ともなれば、宝石商の方から厳選した品を売り込んでくる。こんな風に、あてもなく町を歩いて品物を見ること自体が珍しいのかもしれない。
 子どものように目を輝かせる横顔にくすりと笑みを零しつつ細工物を眺めていると、一つの髪飾りが目についた。

「可愛い」

 ぽそり、と零れたそれを、エリオットは耳ざとく拾ったようだった。

「どれですか?」
「えっ? えぇと」

 ちらり、とアニーはそれに目をやった。
 ころりとした形の可愛い、白い鈴蘭の髪飾り。アニーの好みでは、それはとても魅力的だった。でも、ソフィアなら。

「この、赤いバラ。とても綺麗だと思って」
「ああ、確かに」

 アニーは、すぐ近くに並んでいた深紅のバラの髪飾りを指さした。ソフィアなら。華やかで、鮮やかな色のものが似合う。

「店主、これをいただけるだろうか」

 迷わず店主に声をかけたエリオットに、アニーは驚いた。反射的に断ろうとして、言葉を飲み込む。ここで遠慮するのは、可愛げのない振る舞いだ。令嬢なら、男性からの贈り物の一つや二つ、笑顔で受け取るものだろう。
 金銭を払って店主から髪飾りを受け取ったエリオットが、はにかんでアニーに問いかける。

「よろしければ、私がおつけしても?」
「……ええ、もちろん」

 エリオットが、優しい手つきでアニーの髪にそれを飾った。

「うん。よく似合う」

 嬉しそうに微笑むエリオットに、アニーは精一杯の笑顔で返した。
 ソフィアのブロンドの髪に、赤いバラの髪飾りはよく映えることだろう。アニーには、決して似合わないけれど。

 一行は露店を離れようと歩き出したが、ノアが露店の前で立ち止まっていた。それに気づいたアニーが声をかける。

「ノア?」

 はっとしたように顔を上げ、ノアはすぐにアニーの近くへと戻ってきた。

「どうかした?」
「いえ、なんでもありません」

 表情からは何も窺えない。何もないと言うのならそうなのだろう、とアニーはそれ以上気にしなかった。

 暫く周辺を散策していると、昼時になり人が賑わいだした。

「お腹はすきませんか? そろそろ食事にしましょう」

 エリオットの提案で、近場の大衆食堂で昼食をとることにした。従者の二人は主人と同じテーブルにつくのは、ということで、二人ずつに分かれて入った。テーブルは別だが、お互いが視認できる位置に座る。
 エリオットは物珍しい顔でメニューを眺めている。アニーは慣れているので、もうエリオットの好みを聞いてさくさく注文してしまいたかったが、そういうわけにはいかない。おとなしくエスコートされなくては。
 注文を決め、エリオットがウェイターを呼ぼうとするが、なかなか気づいてもらえない。それもそうだ。これだけ店内がざわついていれば、小さな声など気づかれない。

「エリオット様。この賑わいですから、もっと大きな声でお呼びになりませんと、聞こえませんわよ」
「そ、それもそうだな」

 こほん、と一つ咳払いして、エリオットは大きな声でウェイターを呼んだ。

「すまない! オーダーを頼めるだろうか!」
「あいよー! にいちゃんちっと待ってくれな!」

 応答があったことに、そして「にいちゃん」などというフランクな呼ばれ方をしたことに、エリオットは目を瞬かせて、嬉しそうに笑った。
 こういう感情を素直に出すところは、とても可愛いと思う。アニーもつられて笑った。
 ややあって注文を聞きにきたウェイターに無事に注文を通し、料理が運ばれるまでの間、エリオットは興味深そうに食堂内を見ていた。

「そんなに珍しいですか? 領地内の店に行かれたことは?」
「ええ。なるべく領民の声は聞きたいので、町には何度か下りているのですが……皆私の顔を知っていますからね。こういった雰囲気には、あまり」
「そうなのですね」
「ソフィア嬢は、あまり動じていませんね。もしかして慣れていらっしゃる?」

 エリオットの問いかけに、アニーはどきりとした。ソフィアが大衆食堂に訪れていたとは思えない。いや、もしかしたら従業員と良い仲だった可能性は捨てきれないが。しかし初めてだ、というのも嘘臭い。

「こっそり、一度か二度訪れたことが。お父様には内緒ですよ」

 そう言って、アニーは人差し指を口元に立てた。その仕草に、エリオットは心得たように頷いた。

 暫くすると、注文した料理が運ばれてきた。しかし、一品覚えのない小皿が置かれている。

「こちら、他の方のものでは?」

 間違いではないかと念のため尋ねると、ウェイターの男は照れくさそうに笑った。

「おねえさんべっぴんだから、サービスだよ。よかったらまた来てくれな」

 なるほど、とアニーは納得した。アニーは一度も経験がないが、見たことなら何度もある。美人は、こうして色々得をするものだ。断るのも無粋だろう、とアニーは笑顔で礼を告げた。

 料理に手をつけようとしたところで、そういえば従者二人はちゃんと食べているのだろうか、と思って視線をやると、ちょうど料理が運ばれてきたところだった。しかし、ノアの分の皿を見て、アニーは顔を顰めた。

「ねえ、ちょっと」

 立ち上がって料理を運んだウェイターを捕まえて、アニーは詰め寄った。

「あの料理、ずいぶん少なくないかしら?」

 ノアが注文したと思われる料理は、アニーも食べたことがある。しかし、一人前の分量はあの倍はあったはずだ。ノアがわざわざ半量を頼んだとは思えない。

「さ、さぁ……どうだったかな」

 ウェイターの目線が泳いだ。そのことにアニーが目を吊り上げると、そっと後ろから肩を引かれた。

「ソフィア様。おやめください」
「ノア!」

 見上げると、ノアが困った様子で立っていた。

「だって、おかしいわよ! ちゃんと納得のいく理由を答えてもらわなくちゃ、お金は払わないわよ」
「か、勘弁してくれよぉ! オーナーがナダロア嫌いなんだよ! おれに言われてもどうにもできねぇよ」
「だったらオーナーを」
「ソフィア様」

 強い口調で引きとめられて、アニーは唸りながらも身を引いた。

「……ごめんなさい。席に戻るわ」

 席についたアニーを見届けて、ノアも席に戻った。ぶすっとした様子のアニーに、エリオットはおそるおそる声をかけた。

「どうか、したんですか?」
「この店のオーナーはダメね。個人的な感情で代金分のサービスを提供できないなんて。店をやる資格がないわ」

 敬語も忘れて恨み言を吐くアニーに、エリオットは戸惑ったように返した。

「何か、気分を害されるようなことをされたのでしたら、もう出ますか?」
「まさか! 頼んだものはきちんといただくわ。食材を無駄にするのは重罪ですもの」

 ぷりぷりと怒りながらも、アニーは料理を口に運んだ。味は悪くないのに。もうこの店には来ないだろう。終始不機嫌なまま、それでも全ての料理をきちんと食べきって、正規の代金を支払い、一行は店を出た。
 腹ごなしにと徒歩で町はずれの川辺に向かい、二人は川べりに腰をおろした。もちろん、下にはハンカチを敷いている。
 川のせせらぎを聞いていると、少し心が落ち着いた。息を吐いたアニーに、エリオットが様子を見つつ声をかけた。

「先ほどの店で、何が?」
「……オーナーが、ナダロア嫌いだったのですって。それで、ノアの料理が通常より少なくされていたのです。だから私が抗議を」

 アニーの言葉に、エリオットは目を丸くした。

「この国では、人種差別は禁じられているはずですが」
「そうですわ。だというのに、偏見の目というのは残っているものなのですね」
「そうか……。気づけずに申し訳なかった」

 エリオットが痛ましい目でノアを見たが、ノアは平然として答えた。

「いえ。慣れておりますし、あの程度は差別というほどのことはありません」
「だが」
「かつて褐色の肌をしている者は、店に入ることもできなかったそうです。それを思えば、今私は普通に食事も買い物もすることができます。生粋のアミールド国民と同じ扱いが受けられないことは、血筋が違うのですから当然です」
「それは違うわ!」

 声を荒げたアニーに、他三人の目が一斉に向いた。
 そのことに一瞬怯むも、アニーは意見を述べた。

「ノアは、あの店に入る資格があって、きちんと対価を払ったのよ。なら、その対価の分だけは正当なサービスを受けられるべきよ」
「……少々、意外ですね。昨日のあなたの意見を思えば、人の扱いは平等ではない、と言い出すかと」

 エリオットの言葉に、アニーは眉を寄せた。

「エリオット様、それは本気でおっしゃってますの?」

 アニーの勢いに気圧されたように、エリオットは体を引いた。

「良いですか。確かに身分の高い者や美しい者が優遇されることはあります。ですが、それは逆の者を虐げていい理由にはなりません」

 説教モードに入ったアニーに、エリオットは眉を下げている。しかし、昨日の経験からこれが主人への害となる行為でないと判断したのか、今日は伯爵家の護衛は動かなかった。

「店というのは、最低限提示した金額を支払えば、それと同等のサービスを提供する義務があります。100払えば100返る、それが絶対の基準です。優遇されるというのは、100払った時に150返ってくる場合がある、ということです」

 エリオットはおとなしく話を聞く体勢だ。アニーはそのまま続けた。

「例えば、先ほどの店で私は料金外の料理をサービスされましたね。これは、ウェイターに下心があったからです。美人とお近づきになりたい、身分ある人に気に入られたい。そういった思惑のもと、個人の裁量で可能な範囲のサービスを行う分には構わないのです。向こうは自分に利があるかもと期待して、自分の身を削っているのですから。利がない相手に同じサービスを与える義務はありません」

 下心、ときっぱり言ってのけたアニーにエリオットは少々たじろいだが、アニーはそれを無視した。

「ですが、料理を減らすということは、得るはずの正当なサービスに満たない、ということです。100払ったのに50しか返らない。では残りの50はどこへ? それは搾取です。怠慢です。対価と同等のサービスを提供できないなら、利用する側だって支払う義務はありません。50払えばいいのです」

 ふん、と息を漏らしたアニーに、エリオットは顎に手を当てて考えた。

「理屈はわかりました。金銭のやり取りが発生する場合なら、確かにそうでしょう。ですが、数字の絡まない日常で、人が人を差別するのは仕方のないことでしょうか」

 まっすぐな視線に、アニーは一瞬言葉を詰まらせた。胸がずくずくと痛む。

「……人の感情までは、制御できるものではありません。心中で何を思うかは、個人の自由です。ですがその行いは、法や意識によって変えていけるものだと思っております」

 立ち上がったアニーは、川のすぐ手前に立った。アニーの表情は、三人には見えない。

「例えば、私がこの川に転げ落ちたとして。ほとんどの方は助けてくださるでしょう。それは親切心からです」

 あるいはそれも下心かもしれない。美しい女性から感謝されたい。身なりの良い者から謝礼を受け取りたい。どのような思惑であれ、ソフィアなら、当たり前のように手を貸してもらえる。でも、それがアニーだったら。

「けれど、ひどく醜い、薄汚れた者だったら、触れることをためらうでしょう。溺れて死ぬような深さでもない。見て見ぬふりをしてしまうことは、責められないと思います。悲しいことですが」

 美しいものには触れたい。醜いものには触れたくない。それは人として当然持ち得る感情だ。程度の差はあれど、誰にでもある物差しの一つだ。そのこと自体を否定しても、何にもならない。

「親切は義務ではありません。強制もできません。けれど、加害は違います。もし()()()川へ突き落としたら、それは明確な悪意をもって虐げています。差別をされるものは、その悪意に、加害に、憤っているのです。全く同じ扱いを求めているのではありません。足蹴にされることに、傷ついているのです」

 爪が食い込むほどに、アニーは手を握りしめた。その痛みで、はっと我にかえる。いけない。これ以上は、ソフィアの枠をこえる。

「ですから、加害を見かけた時は、どうか声を上げてくださいませ。それは加害なのだと周囲が言い続けることで、内心では気に入らなくても表に出す者は減ります。それがまず第一歩だと、思っておりますのよ」

 アニーは振り返って微笑み、そう締めくくった。これで、アニーの主張はおしまい。ゆっくりと歩いてエリオットの前に立ち、腰をかがめて顔を合わせた。

「暗い話になってしまいましたわね! もっと楽しいお話をしましょう。そうです、麦畑を見に行きませんか? 今頃が一番きれいな黄金色をしていますのよ」

 ね、と笑顔を作ったアニーに、エリオットは何かを堪えるような顔をして微笑んだ。



 日が暮れる前に、伯爵家一行は領地に戻ることになった。明日は伯爵邸でパーティーがあるからだ。エリオットはフィリップに挨拶をした後、共に見送りに立つアニーの前に来て、優しく微笑んだ。

「ソフィア嬢。二日間、ありがとうございました」
「こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました」
「私は、あなたと話すと自分の視野が広がっていくように感じました。とても有意義な時間を過ごせたと思っています」

 エリオットの台詞に、アニーは内心ほっと息を吐いた。色々やらかした気もするが、概ね好感触のようだ。この調子なら、お断りはないだろう。

「明日のダンスパーティー、楽しみにしています」
「ええ。私も、楽しみにしていますわ」

 暫く見つめ合って、エリオットは名残惜しそうに馬車に乗り込んだ。
 馬車が見えなくなるまで見送ると、アニーはようやく深いため息を吐いた。

「うまくいっているようじゃないか!」
「……ええ、まあ、なんとか」
「怪しげな術に頼った甲斐があった。いよいよ明日は大詰めだ、よろしく頼むぞ」
「……謹んでお受けいたします」

 上機嫌のフィリップに、アニーは早くもげっそりとした気分だった。

 部屋に戻ると、疲れ切ったアニーを労わるように、サラが紅茶を淹れてくれた。

「お疲れ様でございました」
「本当に……疲れたわ」
「あと一日の辛抱です。頑張ってください」
「……そうね」

 あと一日。明日のダンスパーティーで、全てが終わる。結果がどうなったとしても、アニーはソフィアから自分の体に戻る。

「あなたたちとこうして話すのも、明日が最後なのね」

 しみじみと言ったアニーに、サラとノアは僅かに目を瞠った。
 二人はソフィアの使用人だ。フィリップも、エリオットも、関わった人たち皆。ソフィアでいた間の人間関係は、全てが白紙に戻る。そのことが、少しだけ寂しかった。

「二度と会えないということも、ないでしょう」
「アニーはただの町娘だもの。男爵家の使用人、それも令嬢の側近なら、あなたたちの方が身分は上よ。気軽に会えないわ」

 それに。会う気も、ない。アニーの姿では。

「……不躾なことを聞くようですが」

 珍しく、ノアが言いにくそうにしている。アニーは仕草で構わない、と促した。

「もしかして、あなたもナダロアの血を引いていたり、するのでしょうか」

 ノアの言葉に、アニーは目を瞬かせた。

「……どうして?」
「あなたの、言葉が。差別を受けていた側の言葉に、聞こえたものですから」

 アニーは目を伏せた。なんと答えたものか。
 自分のことを話して何になる。そう思う気持ちと、この二人には聞いてほしい、という気持ちがない交ぜになる。
 どうせ明日までの関係だ。なら、言ってしまってもいいかもしれない。

「私は、ナダロアとは無関係よ」

 アニーの返答に、ノアは少しだけ気落ちして見えた。

「でも、生粋のアミールド国民でもないわ」

 驚いた二人が、アニーを見る。何となく目は合わせられなくて、アニーは紅茶に視線を落とした。

「私の曾祖母はね、ナダロアよりもっとずっと東の国から来たの。旅芸人の一座で踊り子をしていた曾祖母に曾祖父が一目惚れして、生まれたのが私の祖父。祖父も、その息子である父も、見た目はアミールドの人たちと何ら変わりないのだけど……私には、曾祖母の血が濃く出てしまって。女だからかしら?」

 曾祖母には一度も会ったことがない。アニーが生まれる前に死んでしまった。だから、アニーの特徴が曾祖母譲りであることは、祖父から話を聞いただけだ。できることなら、曾祖母に会いたかった。異国の容姿で、今より差別意識が強い時代に、いったいどんな気持ちで暮らしていたのか。

「肌の色は黄味がかっていて、なんだかまだらに見えるの。髪と目は黒くて、ゴミを漁るカラスのようだって。鼻は低くて丸いし、唇も薄くて、平面みたいな顔をしているのよ。体も丸太みたいだって言われたし、全体的に凸凹がないのね。きっと、神様が彫るのに失敗したんだわ」

 自分の特徴をあげつらっていくと、泣きそうになる。周りの誰も、こんなじゃない。どうして、自分だけ。

「幼い頃からずっと不細工、醜いって言われ続けてきたの。父なんかは、私に店に立つなって言うのよ。パンが売れなくなるからって」

 父は、不器量な娘が恥ずかしくて仕方なかった。できるだけ隠しておきたかったのだろう。厨房での作業は手伝わせても、接客をやらせたがらなかった。

「そんなに、皆から嫌われるなら。いるだけで、不快にさせるなら。私なんて、いない方がいいんじゃないかって、何度も思ったわ。でも、母が」

 目を閉じて、思い出す。泣いてばかりのアニーを抱きしめて、唯一人の温もりを教えてくれた人。

「曾祖母を、曾祖父が見つけたように。きっと、私に価値を見出してくれる人が現れるからと。その時まで、決して諦めてはだめだと、言ったの」

 その言葉を思い出して、アニーは苦笑した。十七年間、誰一人としてアニーに好意を抱いた者はいなかった。もう嫁に行くのは諦めた方がいいだろう。母は結婚こそ女の幸せだと思っているが、アニーはそうは思わない。

「今はもう、そんな言葉を信じてはいないわ。居もしない王子様を夢見るほど子どもではないもの。でも逆に、バネにはなったわ。誰も私を救ったりしない。誰も私を好きになったりしない。なら、他人なんてあてにせず、私が私に価値を見つけるしかないんだって。身分が低くても、醜くても、最低限一人の人間としての尊厳は持っていていいはずよ。だってこの地に生まれ、育って、働いて、領民としての義務はきちんと果たしているのだもの。だから不当に扱われたら、当然怒るわ。それは私の権利よ」

 言い切って二人の顔を見れば、何とも言えない顔でアニーを見ていた。およそ、想像していた姿とは違っていたのだろう。そんな容姿の癖に大きな口を叩いて、と思っただろうか。それとも。

「……お辛いことを話させてしまって、すみません」

 きっかけを作ったノアが、落ち込んだ様子で頭を下げた。つきりと、胸が痛んだ。やめてほしい。まるでアニーが、憐みの対象であるかのようじゃないか。

「あなたの思いは、私にはわかりません。ですが、出自が異なっていて尚胸を張って生きようとする姿勢は、誇るべきものだと思います」

 アニーは目を丸くして、鳶色の瞳を見た。相変わらずあまり表情は変わらないが、その視線は柔らかく温かい。

「わたしも、容姿にはコンプレックスがありますから、気持ちはわからないでもないです」

 サラの声は、僅かに揺れていた。

「でも、あなたが言ったんですよ。容姿は頭脳や体力と同じ、才能だって。それなら、容姿が劣っていても、それは誰もが持つ欠点の一つでしかないはずです。他にいくらだって、長所が持てるはずです」

 そっけないと思っていたサラが、真剣な瞳で訴えかけてくれている。たったの数日間だったが、これほど親身になって考えてくれたことに、アニーは目が熱くなるのを感じながら微笑んだ。

「ありがとう、二人とも。二人に話せて、良かったわ。アニーに戻っても、忘れないわね」

 アニーの穏やかな笑みに、サラとノアは黙って礼をした。