あれよあれよという間にメイドのサラに世話され、服をはぎ取られ、アニーはバスタブに浸かっていた。温かい湯からは、良い香りがする。何か入っているのだろうか。
細く長い腕を湯から出すと、ちゃぷん、とたっぷりの水音が鳴った。肌は水をしっかりと弾いて、瑞々しい。自分の――いや、ソフィアを肢体をじっくりと眺めて、アニーは感嘆の息をもらした。顔が美しいことは鏡で見てわかっていたし、スタイルも服の上からでも良いとは思っていたが、一糸纏わぬ姿になってみて改めて思う。完璧、という言葉がこれほど当てはまる体もあるまい。
どこをとっても滑らかで染み一つなく、ずっと触っていたくなる艶やかな肌。手足や腰などは細く華奢な印象を与えながらも、丸みを帯びたヒップ、ふっくらとしたはりのあるバストなど、必要な箇所にはしっかりと女性らしい柔らかさを備えている。一流の職人が何年もかけて作り上げた人形のようで、同性の自分ですら息を呑んでしまうほどだ。
これほどの美貌なら、多少の性格の悪さは目を瞑ってもらえるんじゃないだろうか。美醜に全く惑わされない厳格な相手なのだとしたら、正直中身が自分だからといって何が変わるとも思えない。面接でもして厳選したのならまだわかるが、何せ自分が選ばれた理由は占いだ。果たしてどこまで信じられるものか。
嘆息しながらアニーはバスタブから出た。その音を聞いて、すぐにサラがタオルを持ってくる。
「ありがとうございます。でも、自分でできますから」
「これがわたしの仕事ですから」
無表情のままタオルで丁寧にアニーの体を拭い、肌に香油を塗り込んでいく。アニーは落ち着かない心地だったが、サラはてきぱきと仕事を進めていく。
繊細な刺繍の施されたナイトドレスを身に着けて、それは本来リラックスするためのものなのだろうに、アニーはちっとも気が休まらなかった。これ一枚で一か月は食べていけるだろう。絶対に汚すわけにはいかない。
すっかりアニーの支度を整えて下がろうとしたサラに、アニーは声をかけた。ドアの前には、警護のためにノアも立っているはずだ。聞こえるように、少し大きめの声をだした。
「もしお時間があるようでしたら、少しお話できませんか? ノアさんも一緒に」
その言葉に、サラは少し迷うそぶりを見せた。
「……特に、お話するようなことは」
「ソフィア様のお話を聞きたいんです。お願いします」
領主の娘ではあるが、アニーはソフィアのことをほとんど知らない。これからソフィアのふりをするのなら、知っておいた方がいいだろう。
しかし、何故かサラは話をしたくないようだった。
「良いではありませんか」
ドアの外から、ノアが会話に割って入った。
「これから数日間、共に過ごすことになるのです。少しは互いのことを知っておくべきでしょう」
「……お茶を淹れてまいります。お部屋でお待ちください」
ノアの言葉に思うところがあったのか、サラはそう言って部屋を退室した。
アニーはノアにエスコートされ、自室へと向かった。
ソフィアの部屋は白を基調にしながらも、華美にしつらえられていた。
壁紙は百合の花があしらわれ、目立つところに天使の絵画がかけられている。ベッドはレースの天蓋のついたクイーンサイズ。テーブルや化粧台は、彫刻だけでなく、平面に鳥や花の鮮やかな絵が描かれていた。
他人の部屋でしかないそこに緊張しながら足を踏み入れるアニーだったが、ノアは外に立ったまま部屋に入らなかった。
「入らないんですか?」
「まだ、サラが戻っていませんので」
その言葉に、アニーは目を瞬かせた。
「それは、私がアニーだからですか?」
「いえ。ソフィア様も、私とお部屋に二人きりにはなりませんでした」
「……ごめんなさい」
アニーは素直に謝った。この返答は、アニーの下世話な想像を察してのものだろう。ノアは、決してソフィアとやましいところなどなかった、ということだ。
「……あなたが謝るようなことではありません」
ずっと硬い声をしていたノアから、幾分か柔らかい声が発せられた。そのことに驚いて視線を上げると、彼の鳶色の瞳と目が合った。一秒、二秒、三秒。
「失礼いたします」
サラの声に、アニーの心臓がどきりと跳ねた。トレーを持ったサラが部屋に入り、それを見届けてから続いてノアが入室する。促されてアニーが椅子に座ると、サラは手際よくテーブルの準備を進めていった。しかし、並べられたティーセットにアニーは疑問を口にした。
「あれ、一つだけですか?」
その疑問に、サラは驚いたように目を見開いた。何かおかしなことを言っただろうか、とアニーは身じろぎした。
「……これは、ソフィア様の分だけです」
「えっ」
アニーは驚いて声を上げた。てっきり三人でお茶をしながら話をするものだと思っていたのに。
動揺するアニーに、サラは背筋を伸ばしてまっすぐ立ちながら、アニーを見下ろした。
「あなたの中身が平民のアニーであろうと、わたしたちにとってはソフィア様です。ソフィア様のお体でいる間、あなたはソフィア様であり、わたしたちもそのように接します。ですから、あなたもソフィア様として、わたしたちを使用人として扱っていただかなくては困ります」
その言葉に、アニーは俯いた。いくら突然押しつけられた役割だとはいえ、自分はそれを受けたのだ。たった一週間しかない。素の自分でいる時間が長ければ、ボロが出てしまうだろう。アニーも、周りも。ソフィアになろうというのなら、常にそうであることを心がけなくては。
「……そうね、ごめんなさい」
口調を切り替えて、アニーはティーカップを手に取った。温かい紅茶に、心が解れる。一つ息を吐いて、姿勢を正した。
「私はこれから一週間、ソフィアとして振る舞うわ。そのために、ソフィアがどういう人だったのか、教えてくれないかしら? サラ、ノア」
目つきから変わったアニーに、二人は僅かに息を呑んだ。だが、あまり感情を表に出さないよう訓練されているのだろう。戸惑うこともなく、すぐにサラがアニーの問いに答えた。
「ソフィア様は、旦那様もおっしゃっていたように、ご自分の欲求を隠さない方でした。いつも自由奔放に振る舞ってらして、このお屋敷に男性を連れ込まれたことも何度か」
なるほど。アニーは顔を顰めた。ソフィアはオズボーン男爵家の一人娘だ。必然的に、彼女の輿入れ先がこの地の領主となる。これはアニーにとっても他人事ではない。ろくでもない男と駆け落ちなどされた日には目もあてられない。
「ソフィア様はご自分の容姿に絶対の自信を持っていて……そうでない者を、見下しているのです」
そう言ったサラの手がメイド服を強く掴んだのを、アニーは目の端で捉えた。
「私も、ノアも、ソフィア様には嫌われていました。見た目が醜いから、と」
「……あなたたちが、醜い?」
アニーは目を丸くした。二人の容姿のどこが醜いのか、アニーには全くわからなかった。
「私のこのそばかすが、煤で汚したようだと。髪もぐしゃぐしゃで、廃屋に絡まる蔦みたいだと」
よくもまあ、そんな表現ができたものだ。アニーは呆れた。サラは、それを真正面から受け止めてしまったのだろう。
無理もない。ソフィアの身の回りの世話は彼女だけ。ということは、彼女は何年もずっとソフィアに仕えてきたのだろう。一番身近な人間から繰り返し言われ続ければ、心も折れるというものだ。
「ノアだって、似たようなものですよ」
自分だけが屈辱を受けることに耐えられなかったのか、サラがノアに水を向けた。ノアはそれに特に不快を示すこともせず、淡々と話した。
「私は奴隷の子、とよく言われましたね。泥水をすすって育ったから肌が泥の色なのではないかと」
アニーは絶句した。この時代に、そんな発言をする人間がいるのか。ソフィアは、十分な教育を受けてきたはずなのに。
「私はナダロアの血を引いています。私自身はかの国に訪れたことはありませんが、どうも私の代で血が濃く出たようで。アミールドでは人種差別を禁じていますが、エラマのような地方では未だ偏見も残っています。旦那様が国へ意識改革をアピールするために私を雇われたのですよ」
アニーは頭が痛くなった。
ナダロアはアミールドの東に位置する国で、かつて国民は奴隷として各国に買われていた。しかしそれはもう百年以上も前のことだ。未だにそれを堂々と口にするのは、選民意識の強い気位の高い貴族か、異常に過去への思い入れが強い老人くらいだ。
確かにノアの言うとおり、偏見が全く消えたのかといえば、悲しいことにそうではない。だがよりによって、自分の町の領主の娘がそんなことを。これでは、フィリップが見合いをさせられないと思うわけだ。
「サラ」
アニーの声かけに、はっとしたようにサラが視線を向ける。
「私はあなたのそばかす、とてもチャーミングだと思うわ。だってそれは働き者の証だもの。それに、知ってる? 外の国では、そばかすやほくろを化粧として入れるところもあるそうよ。それって、魅力的だと思うから真似をしているのでしょう?」
アニーの言葉に、サラは目を瞬かせた。
「その赤毛も、可愛くて羨ましい。私の本当の髪色はね、黒なの。地味で暗くて嫌になっちゃう。でもサラの髪は見ていて明るい気分になるわね。くるくる跳ねているところも、元気でいいと思うわ。きっとその髪には、笑顔が似合うわね」
微笑んだアニーに対して、サラは戸惑いの表情をしたあと、唇を引き結んだ。
笑ってくれればと思ったが、そううまくはいかないだろう。それに、容姿のことを言われ続けた女性は、容姿にコンプレックスを持つものだ。ソフィアが長年かけて彼女にかけた呪いは、アニーの言葉一つで簡単に解けるものではない。まして、今アニーの見た目はソフィアなのだ。元の姿がどうあれ、こんな美人に言われても、と思うのが普通だ。だが反応を見る限り、悪くは思っていなさそうだった。アニーは内心でほっと息を吐いた。
「ノアの肌の色も、私は好きよ。土の色、結構じゃない。私たちの食べている作物のほとんどは土からできているのよ。私たちを豊かにしてくれる色だわ」
「……おそれいります」
「それに、何だったかしら、ほら。ええと、あの……そう、チョコレート! あれに似ているわ。美味しそうよね」
無邪気に笑ったアニーに、サラが耐えきれないように吹き出した。自分の失言に気づいて、アニーの顔がじわじわと赤くなる。
女性を褒める時に果実を持ち出すことはよくある。が、チョコレートは全く褒め言葉になっていないのではないか。カカオは輸入品のため、チョコレートは高価で庶民は到底口にできない。価値のある物として比喩に用いたが、適切ではなかった。後ろに美味しそうなどと加えたのも悪かったかもしれない。
「も、申し訳、ありません」
「……いいのよ。思いがけずあなたの笑顔が見られて嬉しいわ」
謝罪をしたサラに、アニーは恥ずかしさを堪えながら答えた。誤魔化すように、紅茶に口をつける。望んだタイミングではなかったが、彼女が笑ってくれたことは良いことだ。と思いたい。
「ノアも、笑いたければ笑っていいのよ」
堪えている様子はないが、無反応というのも気まずい。アニーがそう声をかけると、ノアは淡々と答えた。
「いえ、そのような感想は初めてだったもので、どう答えたものかと」
そして少し考えるそぶりをして、アニーに手を差し出した。
「舐めてみますか?」
収まったと思ったサラが、再度吹き出した。今度は腹を抱えて笑い出しそうな勢いだ。
「……遠慮しておくわ」
冗談なのか、天然なのか。アニーが半眼で答えると、ノアは気を悪くした風もなく手を引っこめた。
「それにしても、ソフィア様もなかなか癖の強い方ね。真似るのは大変かもしれないわ」
「そのことですが、ソフィア様を真似る必要はないかと思われます」
「そうなの?」
ノアの言葉に、アニーは首を傾げた。見合いをするくらいなのだから、伯爵家の人間は、一度くらいはこの家に打診に来ているのではないのだろうか。その時にソフィアと言葉を交わしていたのだとしたら、全く別人として振る舞うのもどうかと考えたのだが。
「屋敷の人間は中身が別人であることを把握しておりますし、ダグラス伯爵家の方々とは面識がありません。今回が初めての訪問となりますから、ソフィア様がどのような方であるかご存じないはずです。……噂くらいは耳にしているかもしれませんが」
貴族の見合いがどのように決められるのかは知らないが、全くの初対面同士ということであれば、確かに気にすることはないだろう。ソフィアに戻ったあとのことを考えなければ、だが。
ノアの言葉に、サラも頷いた。
「あなたはエリオット様の好みの女性として選ばれたはずです。でしたら、令嬢としてさえ振る舞っていただければ、それ以外はあなた自身の感情や価値観でお話なさって良いかと思います」
それもそうか、とアニーは納得した。単純にソフィア自身を真似たのでは、入れ替わった意味がない。ソフィアの内面に問題があるから、自分が身代わりをしているのだ。であれば、最低限のマナーさえ守れば、アニーとして向き合って構わないはず。
「二人ともありがとう。何とかやってみるわ。明日からよろしくね」
アニーの微笑みに、二人は礼で返した。
二人を下がらせ、アニーは慣れないベッドに潜り込み、瞼を閉じる。
(私はソフィア。明日から……男爵令嬢、ソフィア)
こうして、アニーの七日間の入れ替わり生活が幕を開けた。
細く長い腕を湯から出すと、ちゃぷん、とたっぷりの水音が鳴った。肌は水をしっかりと弾いて、瑞々しい。自分の――いや、ソフィアを肢体をじっくりと眺めて、アニーは感嘆の息をもらした。顔が美しいことは鏡で見てわかっていたし、スタイルも服の上からでも良いとは思っていたが、一糸纏わぬ姿になってみて改めて思う。完璧、という言葉がこれほど当てはまる体もあるまい。
どこをとっても滑らかで染み一つなく、ずっと触っていたくなる艶やかな肌。手足や腰などは細く華奢な印象を与えながらも、丸みを帯びたヒップ、ふっくらとしたはりのあるバストなど、必要な箇所にはしっかりと女性らしい柔らかさを備えている。一流の職人が何年もかけて作り上げた人形のようで、同性の自分ですら息を呑んでしまうほどだ。
これほどの美貌なら、多少の性格の悪さは目を瞑ってもらえるんじゃないだろうか。美醜に全く惑わされない厳格な相手なのだとしたら、正直中身が自分だからといって何が変わるとも思えない。面接でもして厳選したのならまだわかるが、何せ自分が選ばれた理由は占いだ。果たしてどこまで信じられるものか。
嘆息しながらアニーはバスタブから出た。その音を聞いて、すぐにサラがタオルを持ってくる。
「ありがとうございます。でも、自分でできますから」
「これがわたしの仕事ですから」
無表情のままタオルで丁寧にアニーの体を拭い、肌に香油を塗り込んでいく。アニーは落ち着かない心地だったが、サラはてきぱきと仕事を進めていく。
繊細な刺繍の施されたナイトドレスを身に着けて、それは本来リラックスするためのものなのだろうに、アニーはちっとも気が休まらなかった。これ一枚で一か月は食べていけるだろう。絶対に汚すわけにはいかない。
すっかりアニーの支度を整えて下がろうとしたサラに、アニーは声をかけた。ドアの前には、警護のためにノアも立っているはずだ。聞こえるように、少し大きめの声をだした。
「もしお時間があるようでしたら、少しお話できませんか? ノアさんも一緒に」
その言葉に、サラは少し迷うそぶりを見せた。
「……特に、お話するようなことは」
「ソフィア様のお話を聞きたいんです。お願いします」
領主の娘ではあるが、アニーはソフィアのことをほとんど知らない。これからソフィアのふりをするのなら、知っておいた方がいいだろう。
しかし、何故かサラは話をしたくないようだった。
「良いではありませんか」
ドアの外から、ノアが会話に割って入った。
「これから数日間、共に過ごすことになるのです。少しは互いのことを知っておくべきでしょう」
「……お茶を淹れてまいります。お部屋でお待ちください」
ノアの言葉に思うところがあったのか、サラはそう言って部屋を退室した。
アニーはノアにエスコートされ、自室へと向かった。
ソフィアの部屋は白を基調にしながらも、華美にしつらえられていた。
壁紙は百合の花があしらわれ、目立つところに天使の絵画がかけられている。ベッドはレースの天蓋のついたクイーンサイズ。テーブルや化粧台は、彫刻だけでなく、平面に鳥や花の鮮やかな絵が描かれていた。
他人の部屋でしかないそこに緊張しながら足を踏み入れるアニーだったが、ノアは外に立ったまま部屋に入らなかった。
「入らないんですか?」
「まだ、サラが戻っていませんので」
その言葉に、アニーは目を瞬かせた。
「それは、私がアニーだからですか?」
「いえ。ソフィア様も、私とお部屋に二人きりにはなりませんでした」
「……ごめんなさい」
アニーは素直に謝った。この返答は、アニーの下世話な想像を察してのものだろう。ノアは、決してソフィアとやましいところなどなかった、ということだ。
「……あなたが謝るようなことではありません」
ずっと硬い声をしていたノアから、幾分か柔らかい声が発せられた。そのことに驚いて視線を上げると、彼の鳶色の瞳と目が合った。一秒、二秒、三秒。
「失礼いたします」
サラの声に、アニーの心臓がどきりと跳ねた。トレーを持ったサラが部屋に入り、それを見届けてから続いてノアが入室する。促されてアニーが椅子に座ると、サラは手際よくテーブルの準備を進めていった。しかし、並べられたティーセットにアニーは疑問を口にした。
「あれ、一つだけですか?」
その疑問に、サラは驚いたように目を見開いた。何かおかしなことを言っただろうか、とアニーは身じろぎした。
「……これは、ソフィア様の分だけです」
「えっ」
アニーは驚いて声を上げた。てっきり三人でお茶をしながら話をするものだと思っていたのに。
動揺するアニーに、サラは背筋を伸ばしてまっすぐ立ちながら、アニーを見下ろした。
「あなたの中身が平民のアニーであろうと、わたしたちにとってはソフィア様です。ソフィア様のお体でいる間、あなたはソフィア様であり、わたしたちもそのように接します。ですから、あなたもソフィア様として、わたしたちを使用人として扱っていただかなくては困ります」
その言葉に、アニーは俯いた。いくら突然押しつけられた役割だとはいえ、自分はそれを受けたのだ。たった一週間しかない。素の自分でいる時間が長ければ、ボロが出てしまうだろう。アニーも、周りも。ソフィアになろうというのなら、常にそうであることを心がけなくては。
「……そうね、ごめんなさい」
口調を切り替えて、アニーはティーカップを手に取った。温かい紅茶に、心が解れる。一つ息を吐いて、姿勢を正した。
「私はこれから一週間、ソフィアとして振る舞うわ。そのために、ソフィアがどういう人だったのか、教えてくれないかしら? サラ、ノア」
目つきから変わったアニーに、二人は僅かに息を呑んだ。だが、あまり感情を表に出さないよう訓練されているのだろう。戸惑うこともなく、すぐにサラがアニーの問いに答えた。
「ソフィア様は、旦那様もおっしゃっていたように、ご自分の欲求を隠さない方でした。いつも自由奔放に振る舞ってらして、このお屋敷に男性を連れ込まれたことも何度か」
なるほど。アニーは顔を顰めた。ソフィアはオズボーン男爵家の一人娘だ。必然的に、彼女の輿入れ先がこの地の領主となる。これはアニーにとっても他人事ではない。ろくでもない男と駆け落ちなどされた日には目もあてられない。
「ソフィア様はご自分の容姿に絶対の自信を持っていて……そうでない者を、見下しているのです」
そう言ったサラの手がメイド服を強く掴んだのを、アニーは目の端で捉えた。
「私も、ノアも、ソフィア様には嫌われていました。見た目が醜いから、と」
「……あなたたちが、醜い?」
アニーは目を丸くした。二人の容姿のどこが醜いのか、アニーには全くわからなかった。
「私のこのそばかすが、煤で汚したようだと。髪もぐしゃぐしゃで、廃屋に絡まる蔦みたいだと」
よくもまあ、そんな表現ができたものだ。アニーは呆れた。サラは、それを真正面から受け止めてしまったのだろう。
無理もない。ソフィアの身の回りの世話は彼女だけ。ということは、彼女は何年もずっとソフィアに仕えてきたのだろう。一番身近な人間から繰り返し言われ続ければ、心も折れるというものだ。
「ノアだって、似たようなものですよ」
自分だけが屈辱を受けることに耐えられなかったのか、サラがノアに水を向けた。ノアはそれに特に不快を示すこともせず、淡々と話した。
「私は奴隷の子、とよく言われましたね。泥水をすすって育ったから肌が泥の色なのではないかと」
アニーは絶句した。この時代に、そんな発言をする人間がいるのか。ソフィアは、十分な教育を受けてきたはずなのに。
「私はナダロアの血を引いています。私自身はかの国に訪れたことはありませんが、どうも私の代で血が濃く出たようで。アミールドでは人種差別を禁じていますが、エラマのような地方では未だ偏見も残っています。旦那様が国へ意識改革をアピールするために私を雇われたのですよ」
アニーは頭が痛くなった。
ナダロアはアミールドの東に位置する国で、かつて国民は奴隷として各国に買われていた。しかしそれはもう百年以上も前のことだ。未だにそれを堂々と口にするのは、選民意識の強い気位の高い貴族か、異常に過去への思い入れが強い老人くらいだ。
確かにノアの言うとおり、偏見が全く消えたのかといえば、悲しいことにそうではない。だがよりによって、自分の町の領主の娘がそんなことを。これでは、フィリップが見合いをさせられないと思うわけだ。
「サラ」
アニーの声かけに、はっとしたようにサラが視線を向ける。
「私はあなたのそばかす、とてもチャーミングだと思うわ。だってそれは働き者の証だもの。それに、知ってる? 外の国では、そばかすやほくろを化粧として入れるところもあるそうよ。それって、魅力的だと思うから真似をしているのでしょう?」
アニーの言葉に、サラは目を瞬かせた。
「その赤毛も、可愛くて羨ましい。私の本当の髪色はね、黒なの。地味で暗くて嫌になっちゃう。でもサラの髪は見ていて明るい気分になるわね。くるくる跳ねているところも、元気でいいと思うわ。きっとその髪には、笑顔が似合うわね」
微笑んだアニーに対して、サラは戸惑いの表情をしたあと、唇を引き結んだ。
笑ってくれればと思ったが、そううまくはいかないだろう。それに、容姿のことを言われ続けた女性は、容姿にコンプレックスを持つものだ。ソフィアが長年かけて彼女にかけた呪いは、アニーの言葉一つで簡単に解けるものではない。まして、今アニーの見た目はソフィアなのだ。元の姿がどうあれ、こんな美人に言われても、と思うのが普通だ。だが反応を見る限り、悪くは思っていなさそうだった。アニーは内心でほっと息を吐いた。
「ノアの肌の色も、私は好きよ。土の色、結構じゃない。私たちの食べている作物のほとんどは土からできているのよ。私たちを豊かにしてくれる色だわ」
「……おそれいります」
「それに、何だったかしら、ほら。ええと、あの……そう、チョコレート! あれに似ているわ。美味しそうよね」
無邪気に笑ったアニーに、サラが耐えきれないように吹き出した。自分の失言に気づいて、アニーの顔がじわじわと赤くなる。
女性を褒める時に果実を持ち出すことはよくある。が、チョコレートは全く褒め言葉になっていないのではないか。カカオは輸入品のため、チョコレートは高価で庶民は到底口にできない。価値のある物として比喩に用いたが、適切ではなかった。後ろに美味しそうなどと加えたのも悪かったかもしれない。
「も、申し訳、ありません」
「……いいのよ。思いがけずあなたの笑顔が見られて嬉しいわ」
謝罪をしたサラに、アニーは恥ずかしさを堪えながら答えた。誤魔化すように、紅茶に口をつける。望んだタイミングではなかったが、彼女が笑ってくれたことは良いことだ。と思いたい。
「ノアも、笑いたければ笑っていいのよ」
堪えている様子はないが、無反応というのも気まずい。アニーがそう声をかけると、ノアは淡々と答えた。
「いえ、そのような感想は初めてだったもので、どう答えたものかと」
そして少し考えるそぶりをして、アニーに手を差し出した。
「舐めてみますか?」
収まったと思ったサラが、再度吹き出した。今度は腹を抱えて笑い出しそうな勢いだ。
「……遠慮しておくわ」
冗談なのか、天然なのか。アニーが半眼で答えると、ノアは気を悪くした風もなく手を引っこめた。
「それにしても、ソフィア様もなかなか癖の強い方ね。真似るのは大変かもしれないわ」
「そのことですが、ソフィア様を真似る必要はないかと思われます」
「そうなの?」
ノアの言葉に、アニーは首を傾げた。見合いをするくらいなのだから、伯爵家の人間は、一度くらいはこの家に打診に来ているのではないのだろうか。その時にソフィアと言葉を交わしていたのだとしたら、全く別人として振る舞うのもどうかと考えたのだが。
「屋敷の人間は中身が別人であることを把握しておりますし、ダグラス伯爵家の方々とは面識がありません。今回が初めての訪問となりますから、ソフィア様がどのような方であるかご存じないはずです。……噂くらいは耳にしているかもしれませんが」
貴族の見合いがどのように決められるのかは知らないが、全くの初対面同士ということであれば、確かに気にすることはないだろう。ソフィアに戻ったあとのことを考えなければ、だが。
ノアの言葉に、サラも頷いた。
「あなたはエリオット様の好みの女性として選ばれたはずです。でしたら、令嬢としてさえ振る舞っていただければ、それ以外はあなた自身の感情や価値観でお話なさって良いかと思います」
それもそうか、とアニーは納得した。単純にソフィア自身を真似たのでは、入れ替わった意味がない。ソフィアの内面に問題があるから、自分が身代わりをしているのだ。であれば、最低限のマナーさえ守れば、アニーとして向き合って構わないはず。
「二人ともありがとう。何とかやってみるわ。明日からよろしくね」
アニーの微笑みに、二人は礼で返した。
二人を下がらせ、アニーは慣れないベッドに潜り込み、瞼を閉じる。
(私はソフィア。明日から……男爵令嬢、ソフィア)
こうして、アニーの七日間の入れ替わり生活が幕を開けた。