わたくしはソフィア・ギビンズ。オズボーン男爵家の一人娘として、蝶よ花よと育てられ、何不自由なく暮らしてまいりました。
 絹糸のようなブロンドの髪。透き通るエメラルドの瞳。果実のようにふっくらとした唇。ミルクのように真っ白で滑らかな肌。持って生まれたこの美貌は、お母様譲り。お母様との記憶はないけれど、絵の中のお母様は、今のわたくしとそっくりですの。
 早くにお母様を亡くしたわたくしに、お父様はとても優しくしてくださいました。可愛いソフィア。お前は何もしなくていい。だからわたくしは、自分で何かをしたことなどありません。黙っていても使用人が全てやるし、使用人ではできないことは、一つ微笑めば殿方が全て叶えてくださる。
 だというのに。

「おいアニー! 少しは手伝え!」

 下品な呼び声に、わたくしはきっと眦を吊り上げました。

「ですから! わたくしはソフィアですわ! アニーなんて芋臭い名前で呼ばないで!」

 わたくしはソフィア。ソフィア・ギビンズ。その名に誇りを持っています。なのにどうしたことか、今この体はアニーとかいう町娘のものなのです。



 見知らぬ部屋で目覚めたわたくしは、わけもわからないまま呆然としていました。そこへお父様からの使いがきて、わたくしに一週間、アニーとして過ごすようにと告げたのです。
 悪い夢だと思いました。こんな目もあてられない醜い姿で、狭く汚い小屋で、一週間過ごせなどと。けれど使いはお父様のサインが入った書状を持っていて、それが偽物でないことはわたくしにもわかりました。

 お父様。どうしてこんなひどい仕打ちをなさるの。わたくしはお父様に嫌われるようなことをしたの。

 さめざめと泣いても、誰も涙を拭ってくれない。紅茶も淹れてくれないし、慰めのキスもくださらない。
 一人で部屋に籠っていても誰も何もしてくれず、お腹が空いたというのに食事の一つも持ってこない。仕方なくわたくしは部屋を出て、階下におりました。

「アニー! 着替えもせずに、どうしたの」
「アニーだなんて呼ばないでちょうだい。わたくしはソフィアよ」

 強い口調で言ったわたくしに、声を上げた女はうろたえながらも「ソフィア様」と呼び直しました。最初からそうしてちょうだい。

「それで、どうなさったんですか。着替えの場所がわかりませんでしたか?」
「知りませんわ。探してもいませんもの。わたくし、自分で着替えたことなんてありませんから」

 わたくしの言葉に、その女は目を丸くしました。そしてわたくしを部屋に戻して、着替えの場所と、着替え方を教えました。

「明日からは、ご自分でなさってください」
「嫌よ。あなたがしてちょうだい。ここには下女はあなたしかいないのでしょう」
「私は下女ではありません。アニーの母ですから、アニーの体を傷つけられないよう、あなたの面倒は見ます。ですが、あなたに仕える者ではありません」

 きっぱりと言った女に、わたくしは鼻を鳴らしました。これだから女は。生意気な口をきく。
 着替えたわたくしは、食事を取るらしい場所へ行きました。けれどそこにあったのは、パンが一つとスープだけ。

「これが食事?」
「うちでは、これが普通です。食べ終わったら食器を片付けて、店の方へ来てください。手伝いをしていただきますので」
「手伝い? まさか。このわたくしが?」
「フィリップ様からの書状を読まれたでしょう。私たち夫婦には、ソフィア様をアニーとして扱うように。そしてソフィア様には、庶民の暮らしを学ばれるようにと」

 わたくしは顔を顰めました。庶民の暮らしを学ぶ必要などありません。わたしくは男爵令嬢なのですから。いずれは貴族の殿方へ嫁ぐ身。上流貴族の振る舞いを学ぶことはあっても、庶民から学ぶことなどあるはずもありません。
 姿を消した女を目で追って、わたくしはテーブルの上を見つめました。こんなもの、食べる気がしません。もっとましなものを食べることにしましょう。
 わたくしはそっと裏口から外へ出ました。
 この時、わたしくは自分の姿がいつもと違うのだということを、すっかり忘れていたのです。

 食事が出てこないなら、殿方にご馳走していただけば良いのです。けれど町をふらついてみても、不思議なことに誰も声をかけてきません。こちらからアプローチしようにも、なかなか身なりの良い方がいらっしゃらない。適当なところで妥協するしかないと諦めて、わたくしは比較的ましな格好をしている殿方の背中にわざとぶつかりました。

「きゃっ!」

 高い声を上げて、ふらついてみせる。こうすれば殿方が支えてくださる。そう思っていたのに、いっこうに手が伸びてこない。驚いているうちに、そのまま倒れて尻もちをついてしまいました。初めての出来事に、わたくしは呆然としておりました。

「……気をつけろよ」

 舌打ちと共に、殿方がそう吐き捨てました。
 舌打ち。わたくしに? 今のは、この、わたくしに向けて言ったの?
 そのまま立ち去ろうとする殿方に、わたくしは声を上げました。

「お待ちなさい!」

 嫌そうな顔をして、殿方が振り向きました。どうして、わたくしに向かって、そんな顔を。

「淑女を転ばせておいて、謝罪の一つもありませんの? 紳士なら手を貸すのがマナーでしてよ!」
「淑女? どこに淑女がいるんだよ。鏡見てから言えよな、不細工」

 殿方は鼻で笑い飛ばし、そのまま立ち去りました。
 わたくしは、しばらく立ち上がることができませんでした。不細工。およそ、人生において一度も言われたことがありません。
 そしてさらに驚いたことに、わたくしが地べたに座り込んでいるというのに、誰一人手を差し伸べるどころか声もかけてくださらない。
 これが、庶民の普通だと言うの?

 呆然としたままあたりを見回すと、そうでないことがすぐにわかりました。女性の手を引いてエスコートする殿方。幼子のためにドアを開けてあげる殿方。転がり落ちてしまった女性の荷物を拾ってあげる殿方。
 そう。皆、紳士に見えました。けれどその紳士たちは、誰もわたくしと目も合わせてくださらない。
 尻もちをついた時に一緒に地面について、赤くなってしまった手を見ました。がさがさの、荒れた汚い手。そう、これは、わたくしの手ではない。
 今のわたくしはアニー。町娘の、醜い、アニー。

「……なんて可哀そうな子」

 女に生まれて、醜いなどと。もうその時点で、この子が幸せになることは一生ないのだわ。
 可哀そうなアニー。せいぜい一週間、束の間の幸せを噛みしめなさい。



 わたくしはパン屋に戻ると、そのまま真っすぐにアニーの部屋に戻ってベッドに転がりました。空腹など、忘れていました。何も食べる気がしません。こんな体で、何をする気にもなれませんでした。
 仕事で忙しかったのでしょう。部屋に籠ったわたくしに、アニーの父母は声をかけに来ませんでした。そのことがまた、わたくしを惨めな気持ちにさせました。こんなに、誰も気にかけてくれないなんて。

 夜になっても何も口にしていないわたくしに、ようやっとアニーの母が声をかけに来ました。

「ソフィア様。朝から何も召し上がっていないでしょう。少しは何か口になさらないと」
「結構ですわ。あんなもの、食べられたものじゃありませんもの」
「……それでも、その体はアニーのものです。お食事は、きちんととっていただかなければ困ります。アニーのために」

 アニーの母の言葉に、わたくしはしぶしぶ部屋のドアを開けました。

「店の残りですが」

 そう言って、アニーの母はパンと水を用意しました。とても美味しそうには見えませんでしたが、わざわざ部屋まで給仕しに来たのですから、食べてあげないこともありません。わたくしは仕方なくそれらを口にしました。咀嚼して、飲み込んで、わたくしはそのパンをじっと見ました。

「どうかなさいましたか?」
「驚きましたわ。味覚もアニーのものになりますのね。こんなものが美味しいなんて」

 その言葉に、アニーの母は複雑そうな顔をしながらも微笑みました。

 翌日も、アニーの母はわたくしに仕事を手伝うように言いましたが、わたくしは無視しました。わたくしがそんなことをする義理はありません。三日目にはアニーの父も怒鳴りながら部屋のドアを叩きましたが、それもわたくしは無視しました。あんな野蛮人とは口もききたくありません。
 わたくしは一日中部屋に籠って過ごしました。外に出る気にはなりませんでした。だって、この醜い姿では、ひどく扱われるだけですもの。わざわざそんな思いをしに外へ行こうとは思えません。

 ところが、三日間も部屋に閉じ籠って出てこないわたくしに、またしてもアニーの母は夜に部屋へ訪れました。放っておいても良かったのですが、甘い物を用意したというので、わたくしは迷った結果、部屋へ招き入れました。

「ソフィア様。三日間もお部屋に閉じ籠っていては、退屈ではありませんか?」
「とても退屈よ。でも、他にすることもないのですもの」

 クッキーを齧りながらそう言うわたくしに、アニーの母は困ったように眉を下げました。

「では、少しでも店を手伝っていただけませんか? 普段はアニーと三人でやりくりしているものですから、手が足りないのです」
「嫌ですわ。わたくしがそんなことをする意味がありませんもの」
「……ソフィア様は、働くことに興味はありませんか?」

 奇妙なことを言うものです。わたくしは首を傾げました。

「女は殿方の隣で微笑んでいるのが仕事です。あくせく働くのは、それほど貧しい者か、殿方に頼れない憐れな女だけですわ。このアニーのような」

 クッキーを一つ摘まんで、わたくしはさくりとそれを割りました。

「これほど醜くては、誰も貰い手はないでしょう。アニーは女一人で生きていかねばならないのです。それはもう、馬車馬のように働かなければ、生活できないでしょうね」

 鼻で笑ったわたくしに気分を害したように、アニーの母は拳を握りしめました。何を怒ることがあるのでしょう。ただの事実ですのに。

「ソフィア様の目にはどう映っても、私にとっては大切な娘です。そのように言うのはおやめください」
「あら、目を背けても現実は変わりませんわ。だからあなたもアニーに仕事を教え込んでいるのでしょう? 一人きりで生きられるように」
「違います。この店は、代々私たちが守ってきた大切な店です。ですからいつかはアニーとその大切な人に譲りたいと、そしてこの仕事が楽しいものだと知ってほしくて、アニーを働かせています」
「……そう。仕事が楽しいだなんて、変わっていますのね」

 ほとんどの女は、働きたいなどとは思っていません。綺麗なものに囲まれて、美味しいものを食べて、優雅に暮らしたいと思っているものです。わたくしがそうしているように。そしてそうなれるように、日々美しさを磨いているのですわ。素敵な殿方に見染められるように。

「ソフィア様は、働きたいと思ったことはないのですか。一日中何もせず過ごしているだけで、満足なのですか」
「当然ですわ。言ったでしょう、女は美しくいることが仕事ですのよ」
「オズボーン男爵家には、跡取りの男児がいらっしゃらないでしょう。フィリップ様のお手伝いをしようと思ったことはないのですか?」

 その言葉は、わたくしの逆鱗に触れました。

「気安く人の家のことに口をださないでちょうだい!」

 声を荒げたわたくしに、アニーの母は目を丸くした後、落ち着いた声で問いかけました。

「怒るということは、そこにソフィア様の本当の御心があるのですね」
「知りませんわ。あなたごとき、男爵家のことに口を挟める立場ではなくてよ」
「今私は、男爵家のことを話しているのではありません。女として、あなたの話を聞きたいのです。ソフィア様」

 手を取られて、わたくしは無様にも動揺してしまいました。わたくしには、母親がいません。お母様は早くに亡くなってしまって、家にいる女性は皆使用人で。社交界に出れば、女からは僻まれるばかり。誰もわたくしの話を真剣に聞いてくれる者など、ありませんでした。
 別にそんなものは必要ありません。わたくしにはお父様がいます。たった一人の大切な家族。オズボーン男爵家を一人で背負って立ってらっしゃる。そのお父様が。

「お父様が、望まれたのよ」

 わたくしが美しくあることを。美しいだけのお人形でいることを。そしていつか、格上の貴族へ嫁ぐことを。



「おとうさま、みてみて!」
「おお、どうしたソフィア」
「わたくし、もう文字が書けるようになったのよ!」
「そうか! えらいなぁ。ソフィアは賢いな」

 おとうさまがわたくしを抱き上げて、頬をすり寄せてくださる。幼いわたくしは、それを無邪気に喜びました。

「つぎは計算ができるようになるわ!」
「そうか、そうか。だが、そんなに勉強ばかりしなくてもいいんだぞ」
「いいえ。わたくし、大きくなったらおとうさまのお仕事を手伝うのだもの。うんとたくさん勉強して、だれよりゆーのーな、ひしょ? になるのだわ!」

 満面の笑みで言ったわたくしを、おとうさまは悲しい顔で抱きしめました。

「いいんだ、ソフィア。いいんだよ」
「どうしたの? わたくし、おとうさまと一緒にいられるなら、どんなことだってがんばるわ」
「ソフィア。お前は、私とずっと一緒にいることはできないんだよ」

 お父様から語られた衝撃の事実に、わたくしは涙を浮かべました。

「……どうして?」
「おまえはいつか、お嫁に行くからだ」
「いや! わたくし、お嫁になんかいかないわ。ずっとおとうさまと一緒にいる!」
「ソフィア。お前のお母様は、後継ぎを生まずに逝ってしまった。だが私は、新たに妻を迎える気はない。この家は私で絶える。だから、家のことなど気にしなくていいんだ。お前さえ幸せでいてくれれば、それでいいんだよ」
「しあわせ……?」
「そうだ。お前が毎日笑顔で過ごして、素敵な男性と巡り合って、祝福を受けて結婚して、温かい家庭を築いてくれれば。それが私は一番嬉しい」
「おとうさまは、それが、うれしいの」
「そうだ。可愛いソフィア。お前はお母様にそっくりだ。きっと美人に育つ。誰からも愛される、素敵な女性になるぞ」
「……わかったわ。わたくし、しあわせになるわ」

 お父様の望まれるように。
 毎日笑顔で楽しく過ごしていたら、周りも笑顔になってくれました。わたくしの笑顔は、人を笑顔にする力があるのだと、お父様は言ってくださいました。
 お父様のおっしゃるように、わたくしはどんどん美しく育ちました。誰もがわたくしを見て恍惚のため息を吐き、羨望の目で見つめるのです。
 淑女としての教育も受けましたが、多少の失敗は全く咎められませんでした。

「ソフィア様はお美しいですから。多少の欠点は愛嬌ですよ」

 誰もわたくしの不出来を咎めない。何をしても許される。ああ、わたくしは、それを望まれているのね。完璧な美人は、隙がないものね。
 わたくしは、努力することをやめました。

 社交界にデビューすると、殿方の視線が一斉にわたくしに向くのがわかりました。次々と相手を申し込まれ、皆がわたくしを取り合うのです。
 誰と話をしたのかも、ろくに覚えていませんでした。だというのに、相手はわたくしのことが忘れられないのです。

「ソフィア! ギラン公爵が、うちの事業に援助を申し出てくださった!」
「まあ、本当ですの?」
「ああ。どうなることかと思っていたが……これで暫く、なんとかなるぞ」

 ほっとした様子のお父様に、わたくしは微笑みました。
 ギラン公爵。かわいい人。わたくしが少し微笑みかけただけで、顔を真っ赤にしてお願いをきいてくださった。
 社交界に出れば、否が応にも自分の使い方がわかります。殿方は皆かわいい操り人形です。結婚などちらつかせなくても、少し美味しい思いができるだけで、どんなお願いもきいてくださる。
 女に用はありません。女は足を引っ張るものですもの。少しでも気を許そうものなら、蹴落とされる。嫉妬の視線はむしろ心地いい。醜いあなたが悪いのよ。

 わたくしは、なるべく醜いものを排除したかった。だって、わたくしは常に美しいものだけに囲まれているべきですもの。それが、周囲が望む美しいソフィア。
 ですから、側近の二人のことは嫌いでした。醜いものが側にあれば、わたくしの価値が落ちます。側近は、場合によっては嫁ぎ先にまで同行する可能性がありますもの。いくらわたくしが美しくても、二人の存在が結婚の邪魔になる可能性がありました。
 わたくしは、最良の殿方と結婚する必要があるのです。お父様のために。

 可愛いソフィア。美しいソフィア。何もできない、男に頼らなければ生きていけないお人形。私が、僕が、俺が、君を支えてあげよう。
 それが、皆が望むわたくし。ソフィア・ギビンズ。