「それで、ノア……さんは、どうしてここに?」

 もう呼び捨てにするわけにはいかない。しかし様付けというのもなんだかわざとらしい。僅かに迷って、さん付けで呼んだ。

「私はエリオット様の案内役でまいりました。それと、フィリップ様から預かりものを」
「預かりもの?」
「入れ替わりの報酬です」

 てっきり親にでも送られるものかと思っていたが、どうやらアニーに直接渡してくれるようだ。どうせアニー個人のものにはならないだろうが、別に受け取るのは誰でもいい。事情がばれても成功と見なしてくれたのだな、とアニーは安心した。

「ノアさん、もう私はアニーなんですから、敬語を使わなくてもいいんですよ」
「職業病のようなものなので。私が()()()()使()()()()()()()()気にしないでください」
「わかりました」

 妙な言い方をする、と首を傾げながらも、アニーは納得した。別に敬語を使われるのが嫌というわけではない。
 ノアは、一枚の紙きれを差し出した。

「こちらは小切手です。店舗を丸ごと建て替えてもおつりがきます」

 金額を見てアニーは目を見開いた。確かに、十分すぎるほどの額が記されている。

「こんなに……いいんですか?」
「旦那様が書かれたものです。小切手を選ばれるなら、満額あなたのものです」

 また。不思議な言い方に、アニーは首を傾げた。

「小切手を選ばなかったら、何があるんですか?」

 アニーの問いかけに、ノアは小切手を胸ポケットにしまうと、じっとアニーを見つめた。

「私です」
「……んん?」
「私を、差し上げます」

 アニーは思考が停止した。ノアを、くれる。とは。

「私はオズボーン男爵家の使用人です。生涯あの家に仕えるという契約を結んでいます。ですが、あなたが私を望まれるなら、私はただの一市民となり、あなたのものになります」
「……待って、待ってください」

 アニーは頭を抱えた。話が全く飲み込めないのだが、それはつまり、フィリップは小切手を惜しんで代わりにノアを売り払おうとしているのだろうか。或いは、厄介払いを。

「ノアさん。まさか、そんな人身売買まがいのことを受け入れたんですか? 正気じゃないですよ。抗議しましょう」

 いくらなんでもあり得ない。入れ替わりの提案からあり得ない男だと思っていたが、これはさすがに度が過ぎている。人種差別をしないアピールのために雇ったんじゃなかったのか。真逆のことをしている。

「いえ、旦那様の提案ではありません。私が自ら、旦那様に頼みました」

 アニーは口を開けた。わけがわからない。

「ノアさんもしかして、男爵家に仕えるの嫌だったんですか?」

 顔に出さないだけで、ソフィアに付き合うことに辟易していたのかもしれない。これ幸いと口実にしたのなら。アニーはノアにはさんざん世話になった。一市民として人生をやり直したいというのなら、応援する。
 しかしノアは困ったように眉を下げた。

「そうではありません。ただ、あの家の使用人のままでは、あなたの側にいるのは難しいと思ったからです」

 アニーは息が止まった。ノアの顔を見ていられなくて、咄嗟に俯く。やめて。期待したくない。これ以上、傷つきたくない。

「短い間ではありましたが、私はあなたにお仕えして、もっとあなたのことが知りたいと思いました。そのために、あなたの側にありたいと」

 ノアの真摯な声を耳にしながら、アニーは顔が上げられなかった。目が合わないまま、それでもノアは続ける。

「あなたは聡明で、意志のしっかりとした女性です。困難を前に諦めることをせず、立ち向かっていける強さを持っています。それでもどこか不安定で、弱くて、それを自覚しているから懸命に一人で立とうとしている。その姿を見て、私が支えられたらと思いました」

 都合の良い幻聴を聞いている気分だ。アニーは耳を塞ぎたくなった。

「エリオット様がその役目を果たされるなら、それでもいいと思いました。その時は、私はこのことを言い出さず、小切手だけを渡して身を引こうと。ですが、エリオット様は結局ソフィア様を選ばれた」

 ずきりと、アニーの胸が痛む。それが普通だ。そうなることなど、最初からわかっていた。
 王子様は迎えに来ない。最後に幸せになるお姫様はいつも、美しい少女に限られている。

「あなたが私を選んでくださるなら。私が生涯をかけて、あなたを守ると誓います」

 おそるおそる顔を上げれば、ノアの鳶色の瞳がアニーを見つめていた。瞳に宿る光を見ればわかる。嘘ではない。いっそ嘘だったなら、笑い飛ばしてしまえたものを。
 アニーは唇を噛んだ。

「ノアさんのそれは、同情です」

 ノアが息を呑む。けれど、アニーにだってプライドはある。優しい言葉をかけられて、無様に飛びつくわけにはいかない。

「一度、私がナダロアの血を引いているのではと尋ねましたね。自分と同じ境遇の者かもしれないと、親近感を抱いたのでしょう。でも違った。私の方が、もっと惨めだった。卑しく醜いアニー。利用だけされて、心を通わせたはずの相手からも見捨てられ。憐れだと思ったのでしょう。手を差し伸べてやれば、片棒を担いだ罪悪感が少しは薄れると思いましたか?」

 嘲笑するアニーに、ノアは悲し気に眉を寄せた。
 最低だ。けれど、こういう人間だ。アニーというのは。一人で立てるようにしたのは、誰も支えてなどくれないからだ。自立しているからじゃない。他人を信用していないからだ。こんな醜いアニーを好きになるわけがない。その卑屈な考えが、アニーの内面も醜くしていく。
 心だけは美しいものなど、いるものか。悪意と侮蔑に晒されて、真白なものから潰されていく。立ち上がるために、牙が必要だった。噛みつかなければ喰いつくされる。

「あなたのそれには、覚えがあります。私もそうでした。全身に茨を纏わなければ生きていけない。自分の身を守るための術です。それを否定はしません。ですが」

 ノアは一つの小箱を取り出して、蓋を開けてアニーに差し出した。おそるおそるその中身を見て、アニーは息を呑んだ。

「これ……」

 それは、ソフィアとしてエリオットと町へ下りたあの日。アニーが露店で見ていた、白い鈴蘭の髪飾りだった。

「おつけしても?」

 戸惑って、視線をうろうろさせた後、アニーは小さく頷いた。
 ノアの手が優しく髪に触れて、身を固くする。

「ああ、やはり。よくお似合いです」

 ふわりと笑ったノアに、アニーは目を奪われた。ちかちかと光が散る。泣きそうになって、ぐっと堪えた。

「似合わないですよ、こんな、可愛いの」
「いいえ。あなたの夜空のような黒髪に、よく映えています」
「お世辞が上手ですね」

 憎まれ口を叩くアニーに、ノアは苦笑をもらした。

「人の美醜とは、なんでしょうか」
「え……」
「確かに、世間一般で言われる美の基準はあります。ですが、時代や土地によって変わるものもある中で、人間の造形が美しいかどうかなど、同じ人間がどうして判じられるものでしょう」
「詭弁ですよ、そんなの」
「そうかもしれません。けれど、誰かが『美しい』と言ったのなら、それは確かにその者にとっては『美しい』のです。所詮は主観ですから。そしてその一言が、誰かの力になることもあります」

 そう言って微笑んだノアに、アニーは眉を顰めた。だからアニーが美しいとでもいうつもりだろうか。そんな言葉を、アニーが信じられるとでも。

「あなたは私を『素敵な人』だと称しましたが、私をそんな風に言ったのはあなたが初めてです」
「えっ嘘!」

 思わず素で反応を返したアニーに、ノアは笑った。
 アニーは顔を赤くしながらも、絶対に嘘だと思っていた。ノアの造形は、客観的に見たって整っている。アニーのひいき目では、ないはずだ。

「あなたが思っている以上に、まだこの国で、この容姿は受け入れがたいのですよ。特に貴族社会では。あなたの価値観の方が珍しいのです」

 アニーは胡乱な顔をした。本当にそうだろうか。表向きはそうかもしれないが、特にご婦人は珍しいものに興味を惹かれるものだ。それとなくアプローチを受けたことはあったのではないだろうか。気づいていなかっただけ、というオチが捨てきれない。

「私はその言葉がすぐには信じられませんでしたが、あなたがそのように扱ってくださるから、信じることができました。同じように、私の言葉もすぐには信じられないでしょうが、もし叶うなら、これから少しずつでも信じていただきたいのです」

 ノアは恭しくアニーの手を取って、その指に口づけた。

「あなたは私にとって、魅力的で素敵な女性です。どうか私を選んでいただけないでしょうか」

 エリオットのプロポーズが頭を過ぎる。あれは、ソフィアに向けられたものだった。けれど今この言葉は、眼差しは、確かにアニーに向けられている。
 アニーはきゅっと唇を引き結ぶと、ノアの胸ポケットから小切手を引き抜いた。
 その行動に目を瞠ったノアの目の前で、アニーはそれを破り捨てた。

「これで、もう後戻りはできませんね」

 力強く笑ったアニーを、ノアは破顔して抱き上げた。

「ひえっ!?」

 驚いて奇妙な悲鳴をもらすアニーだったが、ノアは気にせず抱きかかえた。

「俺も、君を、こうしたかった。アニー」
「……あ、み、見てたんですね?」

 どうりで。エリオットと行動が酷似していると思ったら。

「何も真似しなくても」
「その方が王子っぽいかと思って」
「私そんなこと言いましたっけ……?」
「言った」

 ぎゅうと抱きしめたまま喋られて、耳がくすぐったい。急に崩れた言葉にどぎまぎする。素の一人称は俺なのか。意外だ。

「後悔しても知りませんよ」
「しないし、させない。約束する」
「それは頼もしいですね」

 ノアの腕の中で、アニーは夢を見ているかのようだった。もしかしたら、ソフィアと入れ替わったあの日から、ずっと夢を見続けているのかもしれない。本当のアニーはずっとベッドの中にいて、これらは全部一晩の夢なのだ。
 それでもいい。こんなに幸せなのだから。一生覚めなくてもいい。

「このあと、ご両親に挨拶させてもらえるか」

 うっとりとした夢心地から覚めるような言葉に、アニーは体を離した。

「……んん?」
「正式に交際を始めるなら、必要だろう」
「いや、ちょっと気が早いというか」
「だが、俺は男爵邸を出たら君と暮らしたい」
「待った」

 アニーは頭を抱えた。少々暴走気味ではないだろうか。確かに、ノアが男爵家の使用人を辞めるということは、住む家も仕事も一気に失うということだ。それを考えていく必要はあるだろう。しかし、まさかアニーの家に転がり込むつもりだとでも言うのだろうか。
 首を傾げるノアに、アニーは決意した。

(私が、しっかりしよう)

 女は夢見てばかりはいられない。現実と向き合って堅実な方法を考えなければ。
 それでも。一人ではないから。この人と一緒なら、茨の道でも生きていける。

 仕方なさそうに微笑むアニーを見て、ノアも優しく微笑んだ。
 状況がわかっていないなぁと苦笑しつつも、アニーはさらに笑みを深めた。
 ノアと見つめ合って幸せそうに微笑むアニーは、この瞬間。

 世界で一番、美しかった。