「……吐きそうだわ」
「大丈夫ですか? 少し馬車を止めましょうか」
「いいえ、大丈夫よ。別に酔ったわけじゃないから」
馬車の中で、アニーはげっそりとした様子でサラに答えた。吐きそうなのは、緊張からだ。
ソフィアとアニーが入れ替わって七日目。今日は入れ替わりの最終日であり、エリオットとの見合い最終日でもある。
ダグラス伯爵邸までは少なからず距離がある。パーティーは日が落ちてから行われるが、馬車は昼過ぎにはオズボーン男爵邸を出発していた。馬車の中にはアニーとサラ、それにフィリップが、外には警護のためノアと数名の護衛が同行している。
「なに、気負うことなどない。昨日のエリオット殿の様子を見れば、なかなか好感触だったではないか。あとは今日のソフィアの美しさを見れば、ダンスに誘わぬ男などいまい」
うんうん、と誇らしげに頷きながら、フィリップはまるで自分が作り上げた傑作を見る目でアニーを見た。
今日のパーティーは夜会であるため、ソフィアの美しい肌を惜しげもなく晒すように肩も背中も大きく開いた艶やかな赤のドレスを纏っていた。髪は綺麗にまとめ上げ、エリオットから贈られたバラの髪飾りをつけている。町の露店で買ったそれは夜会の装いには少々安物かもしれないが、贈り物を身につけていくことはマナーの範疇だろう。初日につけていたものよりも豪奢なダイヤとルビーのネックレスに、揃いのイヤリング。結構な重さがある、とアニーはどうでもいい知見を得た。丁寧にサラに化粧をされた顔は違和感があるが、崩さないように決して触れるわけにはいかない。
「そうだ、出席する顔ぶれの紹介もしておくか」
「今言われても、覚えられませんよ。とにかくエリオット様と踊ることしか」
「本命は見合いとはいえ、パーティーは社交の場だ。できるなら他の家とも繋がりをつくっておきたい」
「無理言わないでください」
「聞き流してもいいから、聞くだけ聞いておいてくれ。まず外せないのがウォートン侯爵家。嫡男のギリアム殿が……」
結局、ダグラス伯爵領に入るまで、延々とフィリップの貴族紹介は続いた。アニーはそれを取り繕うことすらできず、終始うんざりとした顔で聞いていた。
ダグラス伯爵家の敷地に入ると、他にも馬車がいくつも見えた。あれは全て、パーティーに参加する家のものだろう。アニーの緊張が増していく。
馬車に乗ったまま門を潜り、エントランス前の開けた場所まで進み、そこで案内されるままに馬車を降りた。高いヒールをかつりと鳴らして、フィリップのエスコートの手をとる。
(……大きい)
見上げたダグラス伯爵邸は、オズボーン男爵邸の五倍はあろうかという広さだった。E字型のオーソドックスな屋敷だが、壁面の彫刻やランタンタワーなど、各所に意匠がこらされている。
サラとノアとは、ここまでだ。今日はこのまま伯爵邸に宿泊するため、二人も待機はしているが、ホールの中までは入れない。そのことに不安を抱きながらも、ここから先は一人で頑張らねば、とアニーは意識して胸を張った。
ダグラス伯爵家の紋章が掲げられたエントランスを潜り抜け、ホールへと歩を進める。意を決して足を踏み入れると、にわかに周囲がざわついた。そのことにアニーは怯みそうになったが、その視線が自分に向けられていること、頬を紅潮させた男性の様子に、すぐに合点がいった。できるだけ余裕があるように、ゆったりと微笑んでみせる。どこからか、ほぅと恍惚の溜息が聞こえた。
ホールの中は、別世界だった。少なくとも、アニーにとっては。眩いほどのシャンデリア。その光を反射する真っ白なダマスク柄の壁紙。ベルベットのカーテン。奥には生演奏用の楽団。会場には色とりどりのドレスを着た貴族女性たちが、テールコートの貴族男性にエスコートされている。
その目も眩むような景色の中で、ひときわ輝いているのが自分だということに、眩暈がした。パートナーの目を奪われた女性の嫉妬の眼差しが突き刺さる。これだけの貴族女性を前にしても尚、段違いの美貌で圧倒できるのがソフィアという女性なのだ。
ここまできたらもう、本当に性格などどうでもいいのでは。ダグラス伯爵家に拘らずとも、侯爵だろうが公爵だろうが、魅了された男性から適当に選べばいいのに。
アニーは役目を放棄したい衝動に駆られたが、フィリップがすぐ横にいるのにそういうわけにもいくまい。胸中で吐き出すにとどめた。
「ソフィア嬢!」
誰が最初に声をかけるか。周囲が牽制し合う中、真っ先に声をかけてきたのはエリオットだった。
「エリオット様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
優雅に礼をしてみせたアニーに、エリオットは嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ。今日はまた一段と美しい」
すっとエリオットの手がアニーの髪に触れた。
「……髪飾り、つけてきてくださったのですね」
「ええ、もちろん。エリオット様からの贈り物ですもの」
アニーの模範解答に、エリオットは少年のように頬をほころばせた。
(なんて素直な人)
アニーは余計なお世話ながら心配になった。明日には、この体にソフィアが戻る。この人は、果たして熟練の手練手管を持つソフィアに転がされずにやっていけるのだろうか。
アニーとエリオットが話していると、楽団が演奏を始めた。周囲がぱらぱらと踊りはじめる。それを見て、エリオットがすっと手を差し出した。
「ソフィア嬢。よろしければ、一曲お相手願えませんか?」
アニーは目を丸くした。事前に聞いていた話では、ダンスを申し込まれたら婚約成立、だったはずだ。だからてっきり、このパーティーでのアニーの振る舞いを見て判断し、申し込まれるなら終盤だとばかり思っていた。
「……よろしいのですか?」
戸惑いから、思わず確認してしまった。聞き返すなんて失礼だっただろうか、と動揺するも、エリオットは気にした風もなく頷いた。
「もちろんです。私は、昨日の時点で既に心は決めていました。今日は家族への紹介も兼ねて、純粋にパーティーを楽しんでいただけたらと。それに……」
照れたように眉を下げて、エリオットは続けた。
「あなたの一番最初のお相手を、他の誰にも譲りたくないのです」
アニーは、胸がぎゅうっと締めつけられるのを感じた。この感情は、なんだろう。絆されたのか、罪悪感か、それともこの美しい人に恋をしたとでもいうのだろうか。
「……喜んで」
全ての感情を隠して、アニーは微笑んで手を取った。
ホールの真ん中に歩み出て踊り出した美男美女に、周囲が注目する。これだけの視線の中で、ミスは許されない。アニーは頭の中で繰り返し練習のステップを思い出した。
――『私を見てください』
ふっと耳に蘇る声に、アニーの視線がエリオットへ向く。そう。そうだ。相手を、見なくては。
アニーがエリオットに身を委ねるようにすると、彼は難なくエスコートしてみせた。二人の微笑みが交わされる。自分の姿を客観視することはできないが、周囲の反応を見れば成功しているのだろう。額縁に飾られた絵画でも見るような視線だ。
無事一曲踊り終えてお辞儀をすると、周囲から拍手が巻き起こった。内心はやり切った気持ちでいっぱいだったが、おくびにも出さずにアニーは笑顔で答えた。
ダンスが終わると、エリオットはアニーとフィリップに家族を紹介した。そこでの会話内容は正直ろくに覚えていない。家族間のことや今後のことについては、アニーは口を挟めない。そこからはソフィアの管轄だ。会話の主導はフィリップに任せて、アニーは控えめに振る舞った。
暫く歓談した後、伯爵たちは他のゲストにも挨拶をするためアニーたちから離れた。それを見計らったかのように、アニーへ次々とダンスのお誘いがかかる。正直役目は果たしたのだし、あとは断ってしまいたかったが、フィリップからはできるだけ顔を売るように言われている。笑顔の仮面を貼りつけて、アニーは貴族たちの相手をした。
数曲踊って疲れたアニーは、壁際へ寄って少し休もうとした。
「お疲れですか?」
「エリオット様」
飲み物を両手に持って現れたのはエリオットだった。挨拶回りはもういいのだろうか。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
片方のグラスを受け取って、アニーは喉を潤した。
「ここにいるとまた注目を集めそうです。良ければ、少し外へ出ませんか?」
「……ええ、喜んで」
アニーはエリオットの誘いに乗って、ホールからテラスへと二人で出た。
外は爽やかな風が吹いていて、火照った肌に心地よい。アニーは目を閉じて深呼吸した。
「ひっきりなしでしたね」
「光栄なことです」
「皆あなたの美しさに夢中なのですよ」
ソフィアが美しいことは、もはやただの事実だ。謙遜も肯定もせず、アニーは曖昧に微笑んだ。
「私は……伴侶に美しさを求めるつもりはありませんでした。ただ、お互いに尊重し合うことができ、自分をしっかり持った女性と、共に領地を守っていきたいと。だから父が容姿だけで見合いを決めた時、正直気乗りしなかったのです」
エリオットの告白は、アニーにはある程度予想できていた。ただ、彼はこのタイミングで全てを吐き出してしまいたかったのだろう。だから黙って聞いていた。
「ですが、あなたを一目見た時、私は心を奪われました。これほどまでに美しい人がいるのかと。そしてあなたと言葉を交わして、気づきました。あなたがこれほどまでに輝いて見えるのは、あなたの内面が、そうさせているのだと」
アニーは笑い出しそうな気分だった。内面。内面が、外見に出るものか。視線や表情に、それとなく滲み出るものはあるだろう。けれど、それと造形は全く別の話だ。強面の人間に小心者はいないとでも思っているのだろうか。
特に女は演技力に優れている。清廉にも妖艶にも、いくらでも相手の思うような人格を演じてみせる。本当に、なんて素直な人なのか。この人は女が自在に泣けることなど知らないのだろう。
「親同士が決めた見合いではありますが、あなた自身を見て、今私の気持ちはあなたに向いているということを、きちんと伝えておきたくて」
エリオットが、恭しくアニーの手をとって口づけた。
「ソフィア嬢。あなたを、お慕いしております。どうか私と結婚していただけないでしょうか」
アニーの胸が、またぎゅうっと締めつけられた。これは多分、恋ではない。それでも、泣きたくなる。まっすぐな眼差しが、痛くてたまらない。
自分はこの正直で誠実な人を騙している。そして、騙している立場でありながら、どうして自分ではないのかという醜い感情が湧いてくる。
アニーは十七年間、誰からも愛されたことはなかった。だから、初めて向けられた異性からの好意が、自分を尊重してくれる存在が、アニーの主義主張を聞いて尚肯定してくれるこの人が、眩しくて仕方なかった。
不特定多数からの羨望の眼差しはどうでもいい。そんなものを欲しいとは思わない。それでも、エリオットからの好意は、アニーが切望してやまないものだった。自分だけを特別だと思ってくれる、ただ一人の人。
内面を見てというのなら。どうしてアニーではないの。
どうして誰もアニーを愛さないの。
ソフィアの容姿さえあれば、アニーだって。
(私だって……)
泥のような感情を抱えて、それでも全てを覆い隠す微笑みで、アニーはエリオットに答えた。
「喜んで。私も、お慕いしておりますわ。エリオット様」
答えを聞いた途端、エリオットはアニーを抱き上げた。驚いて声をもらすアニーを、それでも嬉しそうに抱きかかえる。幸せでたまらない、という顔に、アニーは同じ顔をしてみせる。
ほら。内面など、外見には出ない。これほど醜い感情を抱えていても、ソフィアの美貌は決して損なわれることなどないのだ。
エリオットとのやり取りで完全に疲弊したアニーは、ホールには戻らずにそのまま部屋に下がることにした。待機していたサラとノアを連れて、割り当てられた客室へと向かう。廊下では、まだ誰が見ているかわからない。しゃんとして、令嬢としての品格をたもった。
ノアをドアの前に残して部屋に入り、共に入室したサラがドアをきちんと閉めたのを確認して、アニーは椅子に崩れ落ちるように腰かけた。
「終わった……! 終わったわ! これで全部おしまいよ、よく頑張ったわ私……!」
「お疲れ様でございました」
アニーをねぎらいながら、サラが装飾品を外していく。今日ばかりは世話をされるのがありがたい。ドレスを脱ぎ、化粧を落とし、楽な格好へと着替える。
「ノアを呼んでくれる?」
「かしこまりました」
サラがドアを開け、ノアを室内へ呼び込む。
今日は二人と話せる最後の夜だ。改めて話をしておきたい。
サラとノアが並び立ったのを確認して、アニーは椅子に座ったまま二人を見上げた。
「二人とも、一週間本当にありがとう。二人が令嬢として扱ってくれたから、私はソフィアになれたのよ。エリオット様との婚約が無事済んだのも、二人の協力のおかげだわ。本当に感謝してる」
「いえ、わたしどもは、これが仕事ですから」
「こちらこそ、旦那様の無茶を叶えていただいて、ありがとうございました」
最後まで従者としての姿勢を崩さない二人に、アニーは苦笑した。ここは伯爵家の邸宅でもあるし、仕方ない部分もあるだろう。二人の素顔は、昨日少しだけ垣間見ることができた。それで十分だ。
「明日目覚めたら、この体にはソフィアが戻っているわ。だから、私があなたたちと話すのはこれが最後。もう、こんな風に話すことはないだろうけど……楽しかったわ。ありがとう」
「……もったいないお言葉です」
微笑んだアニーに、二人は頭を下げた。その表情がどこか寂しげに見えて、自分の願望かもしれないが、寂しく思ってくれたなら嬉しい、とアニーは目を細めた。
「あとのことは任せたわね。それじゃ……おやすみなさい。さよなら」
「……おやすみなさいませ」
「お休みなさいませ。良い夢を」
二人が下がったのを確認して、アニーはベッドに転がった。
この術の期限は、今晩零時。その前に眠っていれば寝ている間に入れ替わるし、起きていたとしても零時前に強制的に眠らされ、入れ替わることになるらしい。
もう、眠ってしまおうか。自分の役目は終わった。二人への挨拶も済ませた。やり残したことはない。そう思って目を閉じる。なのに、ちらつく顔がある。あの、鳶色の目が、消えてくれない。
本当は。最後に、二人で話したかった。でもそれはできない。ここは伯爵邸だ。部屋に二人きりなんて言語道断だし、廊下で話すだけでもいただけない。二人きりになれるタイミングなどなかった。もやもやした思いを振り払うように勢いをつけて上半身を起こし、アニーはベッドから下りた。
そのまま大きな窓を開けて、バルコニーに出る。オズボーン男爵邸にはバルコニーはなかったので、新鮮だ。下ろした髪が風でなびく。
ぼうっと夜空を眺めて、アニーは物憂げな顔をした。
そういえば。オズボーン男爵邸では、夜にノアが来てくれたことがあった。明かりが灯っていた、とか、窓が開いていた、とか。
なら、こんな風にバルコニーにいたら、また来てくれるだろうか。
馬鹿な想像に、アニーは吹き出した。それは無理だ。ここは伯爵邸だ。夜間に従者が令嬢の部屋を訪れるなど、どんな噂を立てられるかわかったものではない。ノアはそういう不用意なことをするタイプではない。
最後の挨拶は済ませたというのに、こんな未練がましい真似を。
そう思いながらも、何故か部屋に戻る気にはなれなかった。時間ギリギリまで、こうしているのもいいかもしれない。ソフィアでいられる最後の夜を、一人思い出にひたりながら過ごすのも悪くない。
「ソフィア様」
小さく聞こえた声に、幻聴かと目を瞬かせた。
「ソフィア様、下です」
「え……ノア!?」
思わず大きな声が出てしまって、口を塞ぐ。
見下ろすと、バルコニーがある側の庭に、ノアが立っていた。
「ど、どうしてそこに?」
「外に出たのは偶然なのですが……バルコニーにソフィア様のお姿が見えたので」
アニーは、鼓動が高まるのを感じていた。望んだ人が、そこにいる。
だとしても。いったい、何を話せばいいのか。
時間はそうない。屋外でこれだけ距離があれば不貞を疑われることはないだろうが、それでもあまり褒められた光景ではない。それに、二階から下へ声を届けるにはそれなりの音量で喋らなければならない。長く話していれば、すぐに人に気づかれるだろう。
だから。たった一つだけ。
「ノア。最後に一つだけ、わがままを言っていいかしら」
「……なんなりと」
ノアは意外そうにしながらも、従者らしい言葉を返した。
「私の名前を、呼んでほしいの」
ノアが目を瞠った。意味は、わかっているだろう。
この場所で、それを口にすることは危険が伴うかもしれない。だとしても。たった一度だけでいい。その声で、名前を呼んでくれたら。
「アニー」
零れ落ちそうなほどに目を見開いて、ノアを見つめた。鳶色の瞳と、視線が絡む。一秒、二秒、三秒。
アニーの瞳から、雫が落ちた。
「ありがとうございます」
全ての感情を込めて。アニーの顔で微笑んで、そのまま部屋へと姿を消した。
ベッドに潜り込んで、目を閉じる。大丈夫。この思い出だけで、この先ずっと耐えていける。
アニーは幸せな気持ちで瞼を閉じた。
庭に立つノアは、暫くその場を動かなかった。夜の零時を、過ぎるまで。
アニーが目覚めると、そこは見慣れた自分の部屋だった。
起き上がって頭を押さえ、その手を見る。粉が入らないように深爪された指先、水仕事でがさがさの肌。見慣れたアニーの手だった。
靴を履いてベッドから下り、くすんだ鏡を覗き込む。黄色い肌。黒い髪と目。丸い鼻。薄い唇。平坦な顔と体。
「……おかえり、アニー」
鏡の中の彼女は、歪んだ顔で笑った。
「おいアニー、おっせぇぞ! 早く仕事にかかれ!」
「ごめん、すぐやる」
ささっと身支度を整えたアニーは、父の怒声で急いで作業にかかった。時間はまだ早朝だが、パン屋の朝は早い。日が昇ってから起きたのでは遅いくらいだ。
粉にまみれて、煤を被って、息つく間もなく目まぐるしく動く。これが、アニーの日常。この小さな町のパン屋が、アニーの居場所。
たかが一週間。体は何も忘れることなく、自然に動いた。忙しいくらいでちょうどいい。何も考えなくて済む。
「ったくよぉ、あのお嬢様は全然使いモンにならなかったからな」
愚痴を零す父に、アニーはどきりとした。
「ソフィア様に、失礼はなかった?」
「あー、まぁな。男爵令嬢だってのは説明されたからよ。ただ、アニーと同じように使ってくれって言うから、それなりに仕事ができるのかと思えば何もできやしねぇ。あとからイチャモンつけられたら堪らんし、丁重に扱ったがな」
父の言う「丁重」がどの程度のものかはわからないが、一応気はつかったのだ、とアニーはほっとした。本当に自分と同じように扱っていたらと思うとぞっとする。
「もう開店するぞ。お前は表に出るなよ」
「わかってるよ」
売り子は母に任せて、混んでくると父も対応する。アニーは厨房にこもる。それがいつものやり方だ。それでいい。ずっと、そうしてきた。
朝は一番客が来る。忙しなく動き回り、片手間で早めの昼食を取り、また昼のピークが来る。それが過ぎたら、やっと落ち着く。朝が早い分、夕刻前には店を閉めてしまう。そろそろ終わりかな、とアニーは息を吐いた。店を閉めたら暫く休憩して、それから翌日の仕込みだ。
「ア、アニー、ちょっと!」
慌てた様子で、母が厨房に顔を出す。アニーが首を傾げると、母は顔を赤らめて興奮した様子で続けた。
「あなたに、お客様が来てるのよ! 伯爵家の方ですって!」
その言葉に、アニーは目を丸くした。アニーに会いに来る伯爵家の人間など、一人しかいない。エリオットだ。
入れ替わりがばれたのだろうか。だとしたら、わざわざアニーに会いに来る理由は。
冷や汗が伝う。心臓が、嫌な音を立てている。
「もう休憩でしょう? 店はいいから、お話してらっしゃいな」
アニーの様子とは正反対に、母は少女のように頬を染めてはしゃいでいる。おそらくエリオットの見目にやられたのだろう。事情を知っていて、そうも楽観視できるものか。
しかし、母がこの反応ということは、少なくともわかりやすく怒ってはいないということだ。怒りに任せて飛んできたのだとしたら、その緊張感が伝わらないはずはないだろう。
それなら、とアニーの脳裏にほんのわずかな期待がよぎって、首を振った。余計な期待をかければ、傷つくのは自分だ。あり得ない夢を描くのはやめよう。
アニーは身支度を整えるかどうか迷って、そのまま出ることにした。これが、町娘のアニーだ。変に取り繕わない方がいいだろう。
「お待たせしました」
店のドアを開けて外に出ると、予想通りエリオットとその従者、そして何故かノアが一緒にいた。そのことに内心驚きつつも、平静を装う。
はっとしたようにアニーに視線を向けたエリオットは、一瞬だけ目を瞠って、その瞳を曇らせた。その後すぐに動揺の色へと変化する。
(ああ、やっぱり)
つきりと、針を刺したように胸が痛んだ。
アニーにはエリオットの心情が手に取るようにわかった。この人はアニーを見て、落胆したのだ。そして、落胆した自分に動揺している。
仮にも三日間一緒に過ごした女だ。エリオットは美しいものに拘る父親のせいか、最初から容姿と内面を切り離して考えるようなところがあった。だから、アニーがどんな容姿をしていたとしても、受け入れられるつもりだったのだろう。
だがそんなのは綺麗事だ。人間は、外見も内面も全て含めて一人の人間なのだ。切り離して考えることなど、できるはずもない。
父親が美しいものが好きなのならば、エリオットの周りには常に美しいものが溢れていたはずだ。人も、物も。つまり美の価値基準が高い。醜いものと接した経験など、ほとんどないだろう。それなら、生理的嫌悪感が働くのは当然の心理だ。
いったい何を、期待したのか。
アニーは唇を吊り上げて、エリオットに微笑みかけた。
「申し訳ありません。店内には、全員が入れるスペースがなくて。立ち話でもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ」
「おそれいります。では、こちらへ」
アニーは店の裏手に三人を案内した。さすがに店の正面で話し込むわけにはいかない。しかしアニーの部屋に四人も入れないし、店内には特に飲食用のスペースがあるわけでもない。父母が様子を見にくる可能性の高いダイニングには案内したくなかった。失礼かもしれないが、長話にもならないだろう。早く切り上げるためにも、落ち着ける場所に移動するのは避けたかった。
「この姿では初めまして、エリオット様。アニーと申します」
頭を下げたアニーに、動揺を隠せない声でエリオットが答えた。
「この姿では、か。にわかには信じがたいが、本当に、君が……」
「はい。ソフィア様のお体をお借りして、三日間エリオット様とお見合いさせていただいたのは、私です。ご事情は、オズボーン男爵様から伺っておりますか?」
「……ああ。聞いている」
やはり。アニーは見えないように息を吐いた。全くの別人が入れ替わっていて、気づかれないわけがない。違和感を覚えたエリオットがフィリップを問い詰めた、といったところか。
アニーは謝罪のため、深く頭を下げた。
「どのような事情であれ、エリオット様を騙す形になったこと、申し開きもありません。大変申し訳ありませんでした。処罰をお望みでしたら、いかようにも」
「よしてくれ。君の身分では、男爵には逆らえなかっただろう。それに私は、そんなつもりで来たわけではない」
「では……」
何をしに?
アニーは口を噤んだ。そんなことは聞きたくない。糾弾しにきたわけではないのなら、考えられる可能性は一つ。そしてそれは、先ほどアニーを見た瞬間に潰れたのだ。
「わざわざ、ご挨拶に来てくださったのですね」
「え……」
にこりと笑いかけたアニーに、エリオットはうろたえた。そして、アニーの意図を察したのだろう。一度俯いて唇を噛みしめた後、顔を上げて微笑んだ。
「……ああ。君と過ごした三日間は、確かに私にとって意味のある素晴らしいものだった。その礼を、是非とも君自身に伝えたかった」
「もったいないお言葉です」
これで、この話はおしまい。だが一つ、気がかりなことがある。
「ソフィア様とは、うまくやっていけそうですか?」
万が一にも婚約破棄などされていたら、アニーの苦労が水の泡だ。そこは確認しておかねばなるまい。
尋ねると、エリオットは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「中身が別人だったんだ。私は婚約破棄を申し出たんだが、形式に則った正式な婚約だったからな。そう簡単にはいかない」
「良いではありませんか。私は、ソフィア様とエリオット様はお似合いだと思いますよ」
「……君がそれを言うのか」
「あら、エリオット様がおっしゃったのですよ。一目見て心を奪われた、と。エリオット様は、一言も言葉を交わさなくても、ソフィア様に好意を抱いていたのでしょう」
エリオットが口をへの字に曲げた。揚げ足を取られた気分なのだろう。あの言葉は、アニーと何度も言葉を交わした後で告げられたものだ。
「こうもおっしゃいましたね。ソフィア様が輝いて見えるのは、内面のおかげだと。私もそう思います」
知らないが。アニーは心の中でだけ付け足した。
アニーはソフィアと会ったこともない。彼女がどんな人物なのかは、人づてにしか知らない。しかし、嘘も方便。エリオットにはソフィアとうまくいってもらわねば困る。
「人は、外見も内面も全て含めてその人なのです。ソフィア様の容姿に好意を抱かれたのなら、きっと内面も、深く知ればお気に召すはずです。入れ替わっていた私が言うのもなんですが、ソフィア様は第一印象が誤解されがちなので私が見合いを代行しただけで、結婚されれば良い奥方になられると思いますよ」
知らないが。二度目の言い訳を心中でする。
非常に無責任な話だが、男爵家は伯爵家より格下なのだ。格上の伯爵家に嫁いで奔放に振る舞えるとは思えない。きちんとした教育もつくだろう。自然、ソフィアのわがままは抑えられるはずだ。
「君が、そう言うのなら。暫くは様子を見よう。婚約は交わしたが、結婚まではまだ時間があるからな」
「ありがとうございます。ソフィア様をよろしくお願いします」
ソフィアがエリオットを嫌っているならまだしも、ソフィアはソフィアで面食いだったはずだ。エリオットを逃すとは思えない。時間さえあれば、いいようにするだろう。
エリオットは幾分かすっきりした顔をして、従者を連れて帰っていった。あとには、ノア一人が残った。
「それで、ノア……さんは、どうしてここに?」
もう呼び捨てにするわけにはいかない。しかし様付けというのもなんだかわざとらしい。僅かに迷って、さん付けで呼んだ。
「私はエリオット様の案内役でまいりました。それと、フィリップ様から預かりものを」
「預かりもの?」
「入れ替わりの報酬です」
てっきり親にでも送られるものかと思っていたが、どうやらアニーに直接渡してくれるようだ。どうせアニー個人のものにはならないだろうが、別に受け取るのは誰でもいい。事情がばれても成功と見なしてくれたのだな、とアニーは安心した。
「ノアさん、もう私はアニーなんですから、敬語を使わなくてもいいんですよ」
「職業病のようなものなので。私が男爵家の使用人である間は気にしないでください」
「わかりました」
妙な言い方をする、と首を傾げながらも、アニーは納得した。別に敬語を使われるのが嫌というわけではない。
ノアは、一枚の紙きれを差し出した。
「こちらは小切手です。店舗を丸ごと建て替えてもおつりがきます」
金額を見てアニーは目を見開いた。確かに、十分すぎるほどの額が記されている。
「こんなに……いいんですか?」
「旦那様が書かれたものです。小切手を選ばれるなら、満額あなたのものです」
また。不思議な言い方に、アニーは首を傾げた。
「小切手を選ばなかったら、何があるんですか?」
アニーの問いかけに、ノアは小切手を胸ポケットにしまうと、じっとアニーを見つめた。
「私です」
「……んん?」
「私を、差し上げます」
アニーは思考が停止した。ノアを、くれる。とは。
「私はオズボーン男爵家の使用人です。生涯あの家に仕えるという契約を結んでいます。ですが、あなたが私を望まれるなら、私はただの一市民となり、あなたのものになります」
「……待って、待ってください」
アニーは頭を抱えた。話が全く飲み込めないのだが、それはつまり、フィリップは小切手を惜しんで代わりにノアを売り払おうとしているのだろうか。或いは、厄介払いを。
「ノアさん。まさか、そんな人身売買まがいのことを受け入れたんですか? 正気じゃないですよ。抗議しましょう」
いくらなんでもあり得ない。入れ替わりの提案からあり得ない男だと思っていたが、これはさすがに度が過ぎている。人種差別をしないアピールのために雇ったんじゃなかったのか。真逆のことをしている。
「いえ、旦那様の提案ではありません。私が自ら、旦那様に頼みました」
アニーは口を開けた。わけがわからない。
「ノアさんもしかして、男爵家に仕えるの嫌だったんですか?」
顔に出さないだけで、ソフィアに付き合うことに辟易していたのかもしれない。これ幸いと口実にしたのなら。アニーはノアにはさんざん世話になった。一市民として人生をやり直したいというのなら、応援する。
しかしノアは困ったように眉を下げた。
「そうではありません。ただ、あの家の使用人のままでは、あなたの側にいるのは難しいと思ったからです」
アニーは息が止まった。ノアの顔を見ていられなくて、咄嗟に俯く。やめて。期待したくない。これ以上、傷つきたくない。
「短い間ではありましたが、私はあなたにお仕えして、もっとあなたのことが知りたいと思いました。そのために、あなたの側にありたいと」
ノアの真摯な声を耳にしながら、アニーは顔が上げられなかった。目が合わないまま、それでもノアは続ける。
「あなたは聡明で、意志のしっかりとした女性です。困難を前に諦めることをせず、立ち向かっていける強さを持っています。それでもどこか不安定で、弱くて、それを自覚しているから懸命に一人で立とうとしている。その姿を見て、私が支えられたらと思いました」
都合の良い幻聴を聞いている気分だ。アニーは耳を塞ぎたくなった。
「エリオット様がその役目を果たされるなら、それでもいいと思いました。その時は、私はこのことを言い出さず、小切手だけを渡して身を引こうと。ですが、エリオット様は結局ソフィア様を選ばれた」
ずきりと、アニーの胸が痛む。それが普通だ。そうなることなど、最初からわかっていた。
王子様は迎えに来ない。最後に幸せになるお姫様はいつも、美しい少女に限られている。
「あなたが私を選んでくださるなら。私が生涯をかけて、あなたを守ると誓います」
おそるおそる顔を上げれば、ノアの鳶色の瞳がアニーを見つめていた。瞳に宿る光を見ればわかる。嘘ではない。いっそ嘘だったなら、笑い飛ばしてしまえたものを。
アニーは唇を噛んだ。
「ノアさんのそれは、同情です」
ノアが息を呑む。けれど、アニーにだってプライドはある。優しい言葉をかけられて、無様に飛びつくわけにはいかない。
「一度、私がナダロアの血を引いているのではと尋ねましたね。自分と同じ境遇の者かもしれないと、親近感を抱いたのでしょう。でも違った。私の方が、もっと惨めだった。卑しく醜いアニー。利用だけされて、心を通わせたはずの相手からも見捨てられ。憐れだと思ったのでしょう。手を差し伸べてやれば、片棒を担いだ罪悪感が少しは薄れると思いましたか?」
嘲笑するアニーに、ノアは悲し気に眉を寄せた。
最低だ。けれど、こういう人間だ。アニーというのは。一人で立てるようにしたのは、誰も支えてなどくれないからだ。自立しているからじゃない。他人を信用していないからだ。こんな醜いアニーを好きになるわけがない。その卑屈な考えが、アニーの内面も醜くしていく。
心だけは美しいものなど、いるものか。悪意と侮蔑に晒されて、真白なものから潰されていく。立ち上がるために、牙が必要だった。噛みつかなければ喰いつくされる。
「あなたのそれには、覚えがあります。私もそうでした。全身に茨を纏わなければ生きていけない。自分の身を守るための術です。それを否定はしません。ですが」
ノアは一つの小箱を取り出して、蓋を開けてアニーに差し出した。おそるおそるその中身を見て、アニーは息を呑んだ。
「これ……」
それは、ソフィアとしてエリオットと町へ下りたあの日。アニーが露店で見ていた、白い鈴蘭の髪飾りだった。
「おつけしても?」
戸惑って、視線をうろうろさせた後、アニーは小さく頷いた。
ノアの手が優しく髪に触れて、身を固くする。
「ああ、やはり。よくお似合いです」
ふわりと笑ったノアに、アニーは目を奪われた。ちかちかと光が散る。泣きそうになって、ぐっと堪えた。
「似合わないですよ、こんな、可愛いの」
「いいえ。あなたの夜空のような黒髪に、よく映えています」
「お世辞が上手ですね」
憎まれ口を叩くアニーに、ノアは苦笑をもらした。
「人の美醜とは、なんでしょうか」
「え……」
「確かに、世間一般で言われる美の基準はあります。ですが、時代や土地によって変わるものもある中で、人間の造形が美しいかどうかなど、同じ人間がどうして判じられるものでしょう」
「詭弁ですよ、そんなの」
「そうかもしれません。けれど、誰かが『美しい』と言ったのなら、それは確かにその者にとっては『美しい』のです。所詮は主観ですから。そしてその一言が、誰かの力になることもあります」
そう言って微笑んだノアに、アニーは眉を顰めた。だからアニーが美しいとでもいうつもりだろうか。そんな言葉を、アニーが信じられるとでも。
「あなたは私を『素敵な人』だと称しましたが、私をそんな風に言ったのはあなたが初めてです」
「えっ嘘!」
思わず素で反応を返したアニーに、ノアは笑った。
アニーは顔を赤くしながらも、絶対に嘘だと思っていた。ノアの造形は、客観的に見たって整っている。アニーのひいき目では、ないはずだ。
「あなたが思っている以上に、まだこの国で、この容姿は受け入れがたいのですよ。特に貴族社会では。あなたの価値観の方が珍しいのです」
アニーは胡乱な顔をした。本当にそうだろうか。表向きはそうかもしれないが、特にご婦人は珍しいものに興味を惹かれるものだ。それとなくアプローチを受けたことはあったのではないだろうか。気づいていなかっただけ、というオチが捨てきれない。
「私はその言葉がすぐには信じられませんでしたが、あなたがそのように扱ってくださるから、信じることができました。同じように、私の言葉もすぐには信じられないでしょうが、もし叶うなら、これから少しずつでも信じていただきたいのです」
ノアは恭しくアニーの手を取って、その指に口づけた。
「あなたは私にとって、魅力的で素敵な女性です。どうか私を選んでいただけないでしょうか」
エリオットのプロポーズが頭を過ぎる。あれは、ソフィアに向けられたものだった。けれど今この言葉は、眼差しは、確かにアニーに向けられている。
アニーはきゅっと唇を引き結ぶと、ノアの胸ポケットから小切手を引き抜いた。
その行動に目を瞠ったノアの目の前で、アニーはそれを破り捨てた。
「これで、もう後戻りはできませんね」
力強く笑ったアニーを、ノアは破顔して抱き上げた。
「ひえっ!?」
驚いて奇妙な悲鳴をもらすアニーだったが、ノアは気にせず抱きかかえた。
「俺も、君を、こうしたかった。アニー」
「……あ、み、見てたんですね?」
どうりで。エリオットと行動が酷似していると思ったら。
「何も真似しなくても」
「その方が王子っぽいかと思って」
「私そんなこと言いましたっけ……?」
「言った」
ぎゅうと抱きしめたまま喋られて、耳がくすぐったい。急に崩れた言葉にどぎまぎする。素の一人称は俺なのか。意外だ。
「後悔しても知りませんよ」
「しないし、させない。約束する」
「それは頼もしいですね」
ノアの腕の中で、アニーは夢を見ているかのようだった。もしかしたら、ソフィアと入れ替わったあの日から、ずっと夢を見続けているのかもしれない。本当のアニーはずっとベッドの中にいて、これらは全部一晩の夢なのだ。
それでもいい。こんなに幸せなのだから。一生覚めなくてもいい。
「このあと、ご両親に挨拶させてもらえるか」
うっとりとした夢心地から覚めるような言葉に、アニーは体を離した。
「……んん?」
「正式に交際を始めるなら、必要だろう」
「いや、ちょっと気が早いというか」
「だが、俺は男爵邸を出たら君と暮らしたい」
「待った」
アニーは頭を抱えた。少々暴走気味ではないだろうか。確かに、ノアが男爵家の使用人を辞めるということは、住む家も仕事も一気に失うということだ。それを考えていく必要はあるだろう。しかし、まさかアニーの家に転がり込むつもりだとでも言うのだろうか。
首を傾げるノアに、アニーは決意した。
(私が、しっかりしよう)
女は夢見てばかりはいられない。現実と向き合って堅実な方法を考えなければ。
それでも。一人ではないから。この人と一緒なら、茨の道でも生きていける。
仕方なさそうに微笑むアニーを見て、ノアも優しく微笑んだ。
状況がわかっていないなぁと苦笑しつつも、アニーはさらに笑みを深めた。
ノアと見つめ合って幸せそうに微笑むアニーは、この瞬間。
世界で一番、美しかった。
「おいノア! これ表に持ってけって言っといただろうが!」
「すみません、すぐやります!」
朝からアニーの父の怒声が飛び、ノアがそれに答える。この光景は、もはや見慣れたものだ。アニーの母は微笑ましそうに見守り、アニーは頭を押さえた。
オズボーン男爵家を辞職したノアは、結局アニーの家に世話になることになった。ノアは何も考えていなかったのかといえば、そうでもなかった。アニーは小切手を破ったが、それとは別にノアは退職金を手にしていたのだ。考えてみれば当然だ。無一文で追い出すようなことはしないだろう。
それはノアが暫く家を借り、生活を送るのに十分な金額だった。その間に仕事を探すこともできただろう。ただノアは、純粋にアニーと早く一緒に暮らしたい、と思ってくれていただけだった。
とはいえ、アニーにはパン屋の仕事がある。ノアと別に家を借りたとして、パン屋の仕事のためには早朝から家を出ていかなければならない。夜も早く眠ってしまう。生活リズムがずれていると、一緒に暮らすのは難しいのではないか。そう主張するアニーに、「なら俺もパン屋で働く」と言って譲らなかった。家も職場も違うのでは、そうそう会えないから、と。
結局、最初にノアが言ったとおり、両親に挨拶することになった。
頭を下げるノアに、母は諸手を上げて喜んだ。嫁にいけないと思っていた娘の貰い手が見つかったことに、心底安心した様子だった。
父は暫くむっつりと黙って、頭をがしがしとかいた。
「うちはな、代々このパン屋を継いできたんだ。アニーは一人娘だ。だからこいつには、店を継がせるつもりでいる」
「はい。承知しております」
「だから嫁には出さん」
父の言葉に、ノアは手をぐっと握りしめた。
「てめぇが婿にこい。それ以外は許さん」
ふん、と息を吐く父に、ノアは一瞬呆けたあと、力強く答えた。
「はい」
そして二人ともパン屋で働くなら住居も一緒でいいだろう、と今はアニーの部屋に二人で住んでいる。
いずれは移れるようにと、既に増築の工事が進んでいる。二世帯住宅にするらしい。ノア一人増えるだけなら増築まで必要だろうか、とアニーは進言したのだが。
「バカお前、子どもができたら必要な部屋は増えてくだろうが」
父の言葉にアニーは赤面した。子ども。考えてもいなかったが、いずれ、持つことになるのだろうか。
それは置いておくにしても、いつまでも父母と部屋が近いのは何かと気まずい。移れるのなら、それに越したことはない。
着々と外堀が埋まっていく、と思いながらも、アニーはそれが嫌ではなかった。そんな自分に、うっすらと微笑んだ。
一日の労働を終え、ベッドに倒れ込む。この瞬間が一番生きている心地がする、とアニーは枕に顔をすりつけた。
アニーの部屋にもう一つベッドを入れるには狭く、かといってノアを床に寝かせるわけにもいかない。ベッドだけは、急場しのぎだがサイズの大きいものに変えた。
そう。つまり、ノアとアニーは一緒のベッドで寝ている。
これはアニーには難易度が高かった。何せ今まで異性とお付き合いしたことがない。正直同じ部屋で暮らすのだってまだ早いと思っていた。しかしその辺りはノアが心得ており、今のところ健全なお付き合いをしている。アニーのペースに合わせてくれているのだろう。
「もう寝るか?」
ぎし、とベッドが軋んで、顔を上げる。着替えたノアが、ベッドに腰掛けていた。
「うん。今日は、疲れたしね」
「そうか。おやすみ」
額にキスを一つ落として、ノアは明かりを落とした。
このキスは照れくさいのだが、ノアは毎晩のルーティーンにしている。アニーに自信を持たせたいのだろう。もう今更、ノアの気持ちを疑ってはいないのだが。
甘えるように、アニーはノアにすり寄った。甘えても許される存在なのだと、ようやく思えてきた。
「……お義父さんが」
「……うん?」
「子どもは、いつ頃にするのかと」
まどろんでいた意識が急激に浮上した。何故娘より先に婿の方にそれを言うのか。というか寝ると言ったのに何故今その話題を出した。
「今すぐできても、生まれる頃には工事は終わっているから心配いらないと」
「……父が、すみません」
「いや、謝るようなことじゃないんだが」
ノアは少し言い淀んで、話を続けた。
「アニーは、子どものことをどう考えているのかと思って」
「え……」
「君は子どものことを口にしたことがなかっただろう。もしかして……欲しくない可能性も、あるんじゃないかと」
どうしてそうなったのだろう。不安そうなノアの目を見つめると、疑問に気づいたのか、理由を口にした。
「アニーはずっと、容姿にコンプレックスがあっただろう。俺も、普通の見た目じゃない。どちらに似たとしても、子どもは多分……容姿に悩むことになる」
合点がいった。アニーもノアも、容姿が人と異なる辛さを知っている。だから、子どもにそれが受け継がれることに不安を感じているのだ。
アニーはノアをぎゅっと抱きしめた。
「私は、ノアとの子どもは欲しいと思ってる」
ノアが意外そうに息を呑んだ。
「確かに、私に似ちゃったらどうしよう……って気持ちはある。そうなったら、私は自分の子どもに可愛いって言えないんじゃないかって。愛せなかったらどうしようって、不安はあるよ」
自分のことが大嫌いだったのに。もし、自分とそっくりな娘なら。可愛いよ、なんて言葉は軽々しく言えない。それが嘘だと、誰より自分がわかっているから。
「でも、ノアが一緒だから」
微笑んで、アニーはノアの頬を撫でた。
「私に似た子どもなら、ノアが可愛いって言ってくれる。ノアに似た子どもなら、私がかっこいいって言う。悩み続けた私たちだから、言えることもあると思う。二人一緒なら、きっと大丈夫」
アニーの答えに、ノアは少しだけ泣きそうな顔をして微笑んだ。
こつりと額を合わせて、目を閉じる。大丈夫。根拠のないそんな言葉を、二人なら信じられる。
頬をすり寄せて、ノアのキスが降ってくる。額に、瞼に、耳に、頬に。少しくすぐったいそれを受け止めていると、唇が重なった。唇へのキスはまだ慣れない。緊張して固くなった体を宥めるように、ノアの手が優しく触れる。
ただその手がいつもと違う気がして、勘違いかもしれない、と思いながらも、アニーは強くノアの胸を押した。気づいたノアが唇を離す。
「あの、い、一応言っておくんだけど」
「……ああ」
「子どもつくるのは、その、部屋移ってから……ね?」
念を押すように見上げると、ノアは大層不満げな顔をしていた。
「俺は、結構、我慢をしてきたと思うんだが」
「ご、ごめん」
「やっとお許しが出たのかと」
「話題振ったのそっちじゃない! それとこれとは別でしょ」
赤い顔をしながら小声で抗議するアニーに、ノアは眉を寄せながらも深く息を吐いて表情を緩めた。
「わかった。おとなしく寝る。おやすみ」
「……おやすみ」
最後にキスを一つだけ落として、ノアは目を閉じた。
アニーも目を閉じるが、心臓がうるさくて寝られない。ノアが自分を女性として見てくれていることはわかっているつもりだったが、いざとなると、本当に自分で良いのかと思ってしまう。
顔だけでなく、アニーは体にも全く自信がない。正直見られたくない。幻滅されたら生きていけない。
これはまたひと悶着ありそうだ、とアニーはそっと息を吐いた。
これから何度も、こうしてぶつかったり、不安になったり、そういうことを繰り返していくのだろう。
繰り返し、繰り返し。
やがて、家族になる。
わたくしはソフィア・ギビンズ。オズボーン男爵家の一人娘として、蝶よ花よと育てられ、何不自由なく暮らしてまいりました。
絹糸のようなブロンドの髪。透き通るエメラルドの瞳。果実のようにふっくらとした唇。ミルクのように真っ白で滑らかな肌。持って生まれたこの美貌は、お母様譲り。お母様との記憶はないけれど、絵の中のお母様は、今のわたくしとそっくりですの。
早くにお母様を亡くしたわたくしに、お父様はとても優しくしてくださいました。可愛いソフィア。お前は何もしなくていい。だからわたくしは、自分で何かをしたことなどありません。黙っていても使用人が全てやるし、使用人ではできないことは、一つ微笑めば殿方が全て叶えてくださる。
だというのに。
「おいアニー! 少しは手伝え!」
下品な呼び声に、わたくしはきっと眦を吊り上げました。
「ですから! わたくしはソフィアですわ! アニーなんて芋臭い名前で呼ばないで!」
わたくしはソフィア。ソフィア・ギビンズ。その名に誇りを持っています。なのにどうしたことか、今この体はアニーとかいう町娘のものなのです。
見知らぬ部屋で目覚めたわたくしは、わけもわからないまま呆然としていました。そこへお父様からの使いがきて、わたくしに一週間、アニーとして過ごすようにと告げたのです。
悪い夢だと思いました。こんな目もあてられない醜い姿で、狭く汚い小屋で、一週間過ごせなどと。けれど使いはお父様のサインが入った書状を持っていて、それが偽物でないことはわたくしにもわかりました。
お父様。どうしてこんなひどい仕打ちをなさるの。わたくしはお父様に嫌われるようなことをしたの。
さめざめと泣いても、誰も涙を拭ってくれない。紅茶も淹れてくれないし、慰めのキスもくださらない。
一人で部屋に籠っていても誰も何もしてくれず、お腹が空いたというのに食事の一つも持ってこない。仕方なくわたくしは部屋を出て、階下におりました。
「アニー! 着替えもせずに、どうしたの」
「アニーだなんて呼ばないでちょうだい。わたくしはソフィアよ」
強い口調で言ったわたくしに、声を上げた女はうろたえながらも「ソフィア様」と呼び直しました。最初からそうしてちょうだい。
「それで、どうなさったんですか。着替えの場所がわかりませんでしたか?」
「知りませんわ。探してもいませんもの。わたくし、自分で着替えたことなんてありませんから」
わたくしの言葉に、その女は目を丸くしました。そしてわたくしを部屋に戻して、着替えの場所と、着替え方を教えました。
「明日からは、ご自分でなさってください」
「嫌よ。あなたがしてちょうだい。ここには下女はあなたしかいないのでしょう」
「私は下女ではありません。アニーの母ですから、アニーの体を傷つけられないよう、あなたの面倒は見ます。ですが、あなたに仕える者ではありません」
きっぱりと言った女に、わたくしは鼻を鳴らしました。これだから女は。生意気な口をきく。
着替えたわたくしは、食事を取るらしい場所へ行きました。けれどそこにあったのは、パンが一つとスープだけ。
「これが食事?」
「うちでは、これが普通です。食べ終わったら食器を片付けて、店の方へ来てください。手伝いをしていただきますので」
「手伝い? まさか。このわたくしが?」
「フィリップ様からの書状を読まれたでしょう。私たち夫婦には、ソフィア様をアニーとして扱うように。そしてソフィア様には、庶民の暮らしを学ばれるようにと」
わたくしは顔を顰めました。庶民の暮らしを学ぶ必要などありません。わたしくは男爵令嬢なのですから。いずれは貴族の殿方へ嫁ぐ身。上流貴族の振る舞いを学ぶことはあっても、庶民から学ぶことなどあるはずもありません。
姿を消した女を目で追って、わたくしはテーブルの上を見つめました。こんなもの、食べる気がしません。もっとましなものを食べることにしましょう。
わたくしはそっと裏口から外へ出ました。
この時、わたしくは自分の姿がいつもと違うのだということを、すっかり忘れていたのです。
食事が出てこないなら、殿方にご馳走していただけば良いのです。けれど町をふらついてみても、不思議なことに誰も声をかけてきません。こちらからアプローチしようにも、なかなか身なりの良い方がいらっしゃらない。適当なところで妥協するしかないと諦めて、わたくしは比較的ましな格好をしている殿方の背中にわざとぶつかりました。
「きゃっ!」
高い声を上げて、ふらついてみせる。こうすれば殿方が支えてくださる。そう思っていたのに、いっこうに手が伸びてこない。驚いているうちに、そのまま倒れて尻もちをついてしまいました。初めての出来事に、わたくしは呆然としておりました。
「……気をつけろよ」
舌打ちと共に、殿方がそう吐き捨てました。
舌打ち。わたくしに? 今のは、この、わたくしに向けて言ったの?
そのまま立ち去ろうとする殿方に、わたくしは声を上げました。
「お待ちなさい!」
嫌そうな顔をして、殿方が振り向きました。どうして、わたくしに向かって、そんな顔を。
「淑女を転ばせておいて、謝罪の一つもありませんの? 紳士なら手を貸すのがマナーでしてよ!」
「淑女? どこに淑女がいるんだよ。鏡見てから言えよな、不細工」
殿方は鼻で笑い飛ばし、そのまま立ち去りました。
わたくしは、しばらく立ち上がることができませんでした。不細工。およそ、人生において一度も言われたことがありません。
そしてさらに驚いたことに、わたくしが地べたに座り込んでいるというのに、誰一人手を差し伸べるどころか声もかけてくださらない。
これが、庶民の普通だと言うの?
呆然としたままあたりを見回すと、そうでないことがすぐにわかりました。女性の手を引いてエスコートする殿方。幼子のためにドアを開けてあげる殿方。転がり落ちてしまった女性の荷物を拾ってあげる殿方。
そう。皆、紳士に見えました。けれどその紳士たちは、誰もわたくしと目も合わせてくださらない。
尻もちをついた時に一緒に地面について、赤くなってしまった手を見ました。がさがさの、荒れた汚い手。そう、これは、わたくしの手ではない。
今のわたくしはアニー。町娘の、醜い、アニー。
「……なんて可哀そうな子」
女に生まれて、醜いなどと。もうその時点で、この子が幸せになることは一生ないのだわ。
可哀そうなアニー。せいぜい一週間、束の間の幸せを噛みしめなさい。
わたくしはパン屋に戻ると、そのまま真っすぐにアニーの部屋に戻ってベッドに転がりました。空腹など、忘れていました。何も食べる気がしません。こんな体で、何をする気にもなれませんでした。
仕事で忙しかったのでしょう。部屋に籠ったわたくしに、アニーの父母は声をかけに来ませんでした。そのことがまた、わたくしを惨めな気持ちにさせました。こんなに、誰も気にかけてくれないなんて。
夜になっても何も口にしていないわたくしに、ようやっとアニーの母が声をかけに来ました。
「ソフィア様。朝から何も召し上がっていないでしょう。少しは何か口になさらないと」
「結構ですわ。あんなもの、食べられたものじゃありませんもの」
「……それでも、その体はアニーのものです。お食事は、きちんととっていただかなければ困ります。アニーのために」
アニーの母の言葉に、わたくしはしぶしぶ部屋のドアを開けました。
「店の残りですが」
そう言って、アニーの母はパンと水を用意しました。とても美味しそうには見えませんでしたが、わざわざ部屋まで給仕しに来たのですから、食べてあげないこともありません。わたくしは仕方なくそれらを口にしました。咀嚼して、飲み込んで、わたくしはそのパンをじっと見ました。
「どうかなさいましたか?」
「驚きましたわ。味覚もアニーのものになりますのね。こんなものが美味しいなんて」
その言葉に、アニーの母は複雑そうな顔をしながらも微笑みました。
翌日も、アニーの母はわたくしに仕事を手伝うように言いましたが、わたくしは無視しました。わたくしがそんなことをする義理はありません。三日目にはアニーの父も怒鳴りながら部屋のドアを叩きましたが、それもわたくしは無視しました。あんな野蛮人とは口もききたくありません。
わたくしは一日中部屋に籠って過ごしました。外に出る気にはなりませんでした。だって、この醜い姿では、ひどく扱われるだけですもの。わざわざそんな思いをしに外へ行こうとは思えません。
ところが、三日間も部屋に閉じ籠って出てこないわたくしに、またしてもアニーの母は夜に部屋へ訪れました。放っておいても良かったのですが、甘い物を用意したというので、わたくしは迷った結果、部屋へ招き入れました。
「ソフィア様。三日間もお部屋に閉じ籠っていては、退屈ではありませんか?」
「とても退屈よ。でも、他にすることもないのですもの」
クッキーを齧りながらそう言うわたくしに、アニーの母は困ったように眉を下げました。
「では、少しでも店を手伝っていただけませんか? 普段はアニーと三人でやりくりしているものですから、手が足りないのです」
「嫌ですわ。わたくしがそんなことをする意味がありませんもの」
「……ソフィア様は、働くことに興味はありませんか?」
奇妙なことを言うものです。わたくしは首を傾げました。
「女は殿方の隣で微笑んでいるのが仕事です。あくせく働くのは、それほど貧しい者か、殿方に頼れない憐れな女だけですわ。このアニーのような」
クッキーを一つ摘まんで、わたくしはさくりとそれを割りました。
「これほど醜くては、誰も貰い手はないでしょう。アニーは女一人で生きていかねばならないのです。それはもう、馬車馬のように働かなければ、生活できないでしょうね」
鼻で笑ったわたくしに気分を害したように、アニーの母は拳を握りしめました。何を怒ることがあるのでしょう。ただの事実ですのに。
「ソフィア様の目にはどう映っても、私にとっては大切な娘です。そのように言うのはおやめください」
「あら、目を背けても現実は変わりませんわ。だからあなたもアニーに仕事を教え込んでいるのでしょう? 一人きりで生きられるように」
「違います。この店は、代々私たちが守ってきた大切な店です。ですからいつかはアニーとその大切な人に譲りたいと、そしてこの仕事が楽しいものだと知ってほしくて、アニーを働かせています」
「……そう。仕事が楽しいだなんて、変わっていますのね」
ほとんどの女は、働きたいなどとは思っていません。綺麗なものに囲まれて、美味しいものを食べて、優雅に暮らしたいと思っているものです。わたくしがそうしているように。そしてそうなれるように、日々美しさを磨いているのですわ。素敵な殿方に見染められるように。
「ソフィア様は、働きたいと思ったことはないのですか。一日中何もせず過ごしているだけで、満足なのですか」
「当然ですわ。言ったでしょう、女は美しくいることが仕事ですのよ」
「オズボーン男爵家には、跡取りの男児がいらっしゃらないでしょう。フィリップ様のお手伝いをしようと思ったことはないのですか?」
その言葉は、わたくしの逆鱗に触れました。
「気安く人の家のことに口をださないでちょうだい!」
声を荒げたわたくしに、アニーの母は目を丸くした後、落ち着いた声で問いかけました。
「怒るということは、そこにソフィア様の本当の御心があるのですね」
「知りませんわ。あなたごとき、男爵家のことに口を挟める立場ではなくてよ」
「今私は、男爵家のことを話しているのではありません。女として、あなたの話を聞きたいのです。ソフィア様」
手を取られて、わたくしは無様にも動揺してしまいました。わたくしには、母親がいません。お母様は早くに亡くなってしまって、家にいる女性は皆使用人で。社交界に出れば、女からは僻まれるばかり。誰もわたくしの話を真剣に聞いてくれる者など、ありませんでした。
別にそんなものは必要ありません。わたくしにはお父様がいます。たった一人の大切な家族。オズボーン男爵家を一人で背負って立ってらっしゃる。そのお父様が。
「お父様が、望まれたのよ」
わたくしが美しくあることを。美しいだけのお人形でいることを。そしていつか、格上の貴族へ嫁ぐことを。
「おとうさま、みてみて!」
「おお、どうしたソフィア」
「わたくし、もう文字が書けるようになったのよ!」
「そうか! えらいなぁ。ソフィアは賢いな」
おとうさまがわたくしを抱き上げて、頬をすり寄せてくださる。幼いわたくしは、それを無邪気に喜びました。
「つぎは計算ができるようになるわ!」
「そうか、そうか。だが、そんなに勉強ばかりしなくてもいいんだぞ」
「いいえ。わたくし、大きくなったらおとうさまのお仕事を手伝うのだもの。うんとたくさん勉強して、だれよりゆーのーな、ひしょ? になるのだわ!」
満面の笑みで言ったわたくしを、おとうさまは悲しい顔で抱きしめました。
「いいんだ、ソフィア。いいんだよ」
「どうしたの? わたくし、おとうさまと一緒にいられるなら、どんなことだってがんばるわ」
「ソフィア。お前は、私とずっと一緒にいることはできないんだよ」
お父様から語られた衝撃の事実に、わたくしは涙を浮かべました。
「……どうして?」
「おまえはいつか、お嫁に行くからだ」
「いや! わたくし、お嫁になんかいかないわ。ずっとおとうさまと一緒にいる!」
「ソフィア。お前のお母様は、後継ぎを生まずに逝ってしまった。だが私は、新たに妻を迎える気はない。この家は私で絶える。だから、家のことなど気にしなくていいんだ。お前さえ幸せでいてくれれば、それでいいんだよ」
「しあわせ……?」
「そうだ。お前が毎日笑顔で過ごして、素敵な男性と巡り合って、祝福を受けて結婚して、温かい家庭を築いてくれれば。それが私は一番嬉しい」
「おとうさまは、それが、うれしいの」
「そうだ。可愛いソフィア。お前はお母様にそっくりだ。きっと美人に育つ。誰からも愛される、素敵な女性になるぞ」
「……わかったわ。わたくし、しあわせになるわ」
お父様の望まれるように。
毎日笑顔で楽しく過ごしていたら、周りも笑顔になってくれました。わたくしの笑顔は、人を笑顔にする力があるのだと、お父様は言ってくださいました。
お父様のおっしゃるように、わたくしはどんどん美しく育ちました。誰もがわたくしを見て恍惚のため息を吐き、羨望の目で見つめるのです。
淑女としての教育も受けましたが、多少の失敗は全く咎められませんでした。
「ソフィア様はお美しいですから。多少の欠点は愛嬌ですよ」
誰もわたくしの不出来を咎めない。何をしても許される。ああ、わたくしは、それを望まれているのね。完璧な美人は、隙がないものね。
わたくしは、努力することをやめました。
社交界にデビューすると、殿方の視線が一斉にわたくしに向くのがわかりました。次々と相手を申し込まれ、皆がわたくしを取り合うのです。
誰と話をしたのかも、ろくに覚えていませんでした。だというのに、相手はわたくしのことが忘れられないのです。
「ソフィア! ギラン公爵が、うちの事業に援助を申し出てくださった!」
「まあ、本当ですの?」
「ああ。どうなることかと思っていたが……これで暫く、なんとかなるぞ」
ほっとした様子のお父様に、わたくしは微笑みました。
ギラン公爵。かわいい人。わたくしが少し微笑みかけただけで、顔を真っ赤にしてお願いをきいてくださった。
社交界に出れば、否が応にも自分の使い方がわかります。殿方は皆かわいい操り人形です。結婚などちらつかせなくても、少し美味しい思いができるだけで、どんなお願いもきいてくださる。
女に用はありません。女は足を引っ張るものですもの。少しでも気を許そうものなら、蹴落とされる。嫉妬の視線はむしろ心地いい。醜いあなたが悪いのよ。
わたくしは、なるべく醜いものを排除したかった。だって、わたくしは常に美しいものだけに囲まれているべきですもの。それが、周囲が望む美しいソフィア。
ですから、側近の二人のことは嫌いでした。醜いものが側にあれば、わたくしの価値が落ちます。側近は、場合によっては嫁ぎ先にまで同行する可能性がありますもの。いくらわたくしが美しくても、二人の存在が結婚の邪魔になる可能性がありました。
わたくしは、最良の殿方と結婚する必要があるのです。お父様のために。
可愛いソフィア。美しいソフィア。何もできない、男に頼らなければ生きていけないお人形。私が、僕が、俺が、君を支えてあげよう。
それが、皆が望むわたくし。ソフィア・ギビンズ。
「……ソフィア様」
わたくしの話を聞いたアニーの母は、そっとわたくしの肩を抱きました。
「フィリップ様のことが、大好きなのですね」
「そうですわ。だからわたくしは、誰より美しいお父様のお人形として、お父様のお役に立ちますの」
「けれど、美しさはいつか必ず衰えます。そうなった時、あなたに何が残るのですか」
「そんなことはわかっていますわ! だから今しかありませんのよ。今、わたくしが一番美しいうちに! わたくしはこの美しさを存分に利用しますの!」
わたくしが美しいうちに、男たちを利用して。家のためになることを。そして一番価値のあるうちに、一番高値で売り払う。
結婚は家と家との契約です。わたくしの意志も好みもどうでもいい。オズボーン男爵家の利となる家へ、嫁がなければ。絶やさせたりなどするものですか。
それがお父様にできる最大の恩返し。お母様を亡くしたわたくしを、ずっと支えて愛してくださった、お父様への。
「ソフィア様。フィリップ様は、あなたに幸せになってほしいと言ったのです」
「そうですわ。だから、うんといい家に嫁がなければなりませんの」
「それは誰のためですか」
「お父様のためですわ」
「それであなたは、幸せになれますか」
何が言いたいのかしら。わたくしは、アニーの母を睨みつけました。
「フィリップ様が良家との縁談を望まれるのは、それがソフィア様の幸せに繋がると信じていらっしゃるからです。豊かな暮らしを保障することが、親としてできる最良のことだと思っていらっしゃるからです。でも、そこにソフィア様が喜びを感じないのであれば、何の意味もないのですよ」
「わたくしの、喜び」
「親は子の幸せを願うものです。私も心配から、ついアニーにあれこれ口を出してしまいますが……何を幸せと感じるかなど、本人にしかわからないものです。そしてそれは、言わなければ伝わらないのですよ」
わたくしの喜び。わたくしの幸せ。
わたくしが、本当にしたいこと。
「……わかりませんわ」
「ソフィア様」
「わたくしの幸せは、お父様の幸せですもの。お父様に尽くせることが、わたくしの喜び。家のための結婚は、お父様が望まれたこと。でも、わたくしが望んだことでもあるのです。わたくしは、自分が間違っているとは思いませんわ」
誰にやらされたわけでもありません。お父様は強制などしていません。わたくしが、わたくしの意志で決めたこと。それを他人のせいになどいたしません。
「ソフィア様は、誇り高い方ですね」
「当然ですわ。わたくしはソフィア・ギビンズ。オズボーン男爵令嬢ですもの」
胸を張ったわたくしに、アニーの母は微笑みました。
「では、ソフィア様。やはり明日から、少しだけでも店の手伝いをしてみましょう」
「何故そうなるの」
「あなたが庶民の暮らしを学ばれることは、フィリップ様が望まれたことですよ。きっと何か、意味のあることなのでしょう」
わたくしは顔を歪めました。確かに、お父様が指示なさったこと。深いお考えのもとになさったことには、違いありません。
それでも、この、わたくしが。
返事をしないわたくしにアニーの母は苦笑して、食器類を片付けると部屋を出ていきました。
わたくしはベッドに潜って、さきほどのアニーの母との会話を考えていました。
四日目の朝。わたくしは四苦八苦しながら身支度を整えて、ひとつ深呼吸をし、厨房へのドアを開けました。わたくしの姿を見たアニーの父母は驚いた顔をしましたが、すぐに表情を戻しました。
「何突っ立ってんだ、アニー! さっさと水汲んで来い!」
「ですから! わたくしはソフィアですわ!」
「ソフィア様、私がお教えいたします。こちらへ」
それから最終日の七日目まで、わたくしはしぶしぶ店の手伝いを行いました。何もかもが初めてで、正直何が楽しいのかは全くわかりませんでしたが、少なくとも退屈はしませんでしたわね。
最終日の眠りに就く前。アニーの母は、わたくしの頭を優しく撫でて、額にキスしてくださいました。
「ソフィア様。たった一週間でしたが、あなたはもう私の娘も同然です。何かありましたら、いつでもお訪ねください」
「……平民の分際で、図々しいですわね」
わたくしの憎まれ口に、アニーの母は苦笑して部屋を出ていこうとしました。その背中に、わたくしは最後の一言を告げました。
「わたくしも、お母様ができたようで嬉しかったわ。……ありがとう」
もう一人のお母様は、そっと微笑んで、ドアを閉めました。
目が覚めたわたくしは、見慣れない部屋で目を覚ましました。豪華なゲストルーム。ここは、ダグラス伯爵邸ですわね。事前に説明を聞いていたわたくしは、特に動揺することもなく、ベッドから身を起こしました。
すぐにノックの音が聞こえて、見慣れた使用人が姿を現します。
「おはよう、サラ。早く支度をしてちょうだい」
「……おはようございます、ソフィア様」
サラに身支度を整えさせ、ノアにエスコートさせて朝食をとりに食堂へ向かいます。そう、これがわたくし。男爵令嬢ソフィアの日常。やっと、戻ってきたのですわ。
食堂にはダグラス伯爵家のご家族と、お父様が既に席についていらっしゃいました。
お父様。一週間ぶりの再会に、自然と笑みが浮かびます。
「おはよう、ソフィア。よく眠れたかい?」
「おはようございます、エリオット様。ええ、おかげさまで」
文句のつけようもない完璧な笑顔で返して見せたのに、エリオット様は何故か物足りない顔をなさいました。いったい何が不満なのでしょう?
婚約は無事結ばれたと聞いています。わたくしはアニーと齟齬が出ないように気を払いながら、あまり会話をせずに過ごしました。
朝食を終えると、わたくしたちは領地へ戻るために帰り支度を始めました。エラマまでは距離があります。日の高いうちに帰らなくてはなりません。
雑事は使用人がするものです。わたくしは部屋で準備が整うのを待っていました。すると部屋にエリオット様が訪ねていらっしゃいました。二人きりで別れの挨拶でもしたいのでしょう。わたくしは快く部屋へ招き入れました。
「ソフィア、すまない。出発前に」
「いえ、構いませんわ。わたくしもエリオット様のお顔が見られて嬉しいですもの」
にっこりと笑ったわたくしに、やはりエリオット様は少しだけ寂しそうな顔をしました。
「どうかなさいました?」
「いや、その……なんだか、少し他人行儀な気がするというか、昨日までより距離を感じてしまって。やはり急に気安く話すのは、馴れ馴れしかっただろうか?」
わたくしは瞬きして、ちらりとサラを窺いました。サラが控えめに頷きます。どうやら、昨日までとエリオット様は口調を変えていらっしゃるようです。気づきませんでした。だって昨日までエリオット様と話していたのはアニーですもの。
「いいえ、そんなことはありませんわ。わたくしたちは婚約者ですもの。お好きなように話してくださればよろしいですわ」
わたくしが微笑むと、エリオット様はほっとしたように頷きました。
それにしても。ご自分の口調は気にされるのに、わたくしの口調には、気を払わないのですわね。アニーの口調は知りませんけど、わたくしと全く同じなのかしら。
「ソフィア。改めて、君と婚約できたことを嬉しく思う。結婚はまだ少し先になるだろうが、これからまたお互い交流を深めて、君と未来の話をしていきたい」
「ええ、もちろんですわ」
「君となら、お互いの領地をより良くしていけると信じている。誰もが笑顔に……いや、そこまではできずとも。せめて理不尽に傷つく者を減らすための方法を、二人で考えていこう」
エリオット様のお言葉に、わたしくは目を丸くしました。
わたくしの仕事は、夫の隣で微笑んでいること。社交界で美しさを見せつけること。そして男児を生むこと。領地の運営に口を出すことなど。
「わたくし、そんな話をしたかしら」
「ああいや、結婚後のこととして話したわけではないが。君が言った、差別のない世界を作るための一歩を、二人でなら踏み出せると思うんだ」
差別のない世界。なんの夢物語かしら。
差別など、あって当たり前。階級があるからこそ、人は機能するのです。醜く虐げられる者がいるからこそ、美しいものが光り輝くのです。
エリオット様も。わたくしが美しいから、縁談を受けたのではないの。わたくしの美しさを愛しているのではないの。
もし、そうでないのなら。
「わたくし、結婚後は自由気ままに過ごしたいですわ」
「……ソフィア?」
「美しいドレスを着て、宝石をつけて、流行りの遊びをしていたいんですの」
「どうしたんだ、ソフィア。君はそんなことを言う女性じゃなかっただろう」
「エリオット様は、美しいわたくしを手に入れられるだけではご不満ですの?」
じっと見つめるわたくしに、エリオット様は眉を寄せました。
「……君には、最初に話したはずだ。私は綺麗な人形が欲しいんじゃない。二人で共に歩んでいける、強い内面の女性と手を取り合って生きていきたい」
わたくしは目を伏せました。この方は、わたくしの美貌だけが目当てではなかったのね。わたくしと入れ替わっていたという、アニーの内面を見て、それを好きになられたのだわ。
可哀そうな醜いアニー。そんなあなたを、愛してくれる人も、いたのですわね。あなたのお母様は、そんな風に、あなたを育てたのね。
「エリオット様は、見る目がありませんのね」
「昨日までの君は、偽りだとでも?」
「まだわかりませんの? あなたは、目の前の女がご自分が愛した女かどうかもわかりませんの? それで内面がどうこうなどと、笑わせますわ!」
わたくしの強い口調に、エリオット様は怯んだ様子でした。
「どういう、ことだ」
「詳しいことは、わたくしのお父様に聞いてみたらいかがかしら」
エリオット様は逡巡した後、勢いよく部屋を出ていかれました。
部屋に残ったサラとノアは、わたくしを驚いた様子で見ていました。
わたくしも、何故こんなことをしたのかわかりません。黙っていれば、このまま穏便に話は済みましたのに。伯爵家と婚姻を結べれば、安泰でしたのに。
ごめんなさい、お父様。でも、わたくしがいます。わたくしがお父様を支えますわ。ですから、どうかこのわがままを許してください。
わたくしのもう一人のお母様に、一度だけチャンスを差し上げたいの。
二人の娘の幸せを願ってくださる、あの方に。
事情を知ったエリオット様はわたくしたちと共にエラマへと赴き、ノアを連れてアニーに会いに行きました。
サラから聞いた話では、結局エリオット様はアニーとどうなることもなかったようです。代わりに、ノアがアニーと交際することになったと聞きました。全く寝耳に水なのですが、そのようなことになっていたのですね。側近を辞めるということで挨拶も受けましたが、わたくしはもともとノアに執着などありません。勝手に余所で幸せになれば良いのです。
エリオット様との婚約は、そのまま継続となりました。伯爵家と正式に結んだものですから、そう簡単に反故にはできなかったようです。
そしてその後、エリオット様とは。
「……またいらしたんですの」
「それは、一応婚約者だからな。たまには会いに来ないと」
「それはそれは、遠いところまでご苦労なことですこと」
エリオット様は意外とまめなようで、度々わたくしに会いにまいりました。好いてもいない女相手に、よくやるものですわ。
「今日は、オズボーン男爵家についての話を聞きたいと思ってな」
「歴史の話ですの? それでしたら、お父様とどうぞ。嬉々として話してくださいますわよ」
「違う、君の口から、君の見解を交えて聞きたいんだ」
「わたくし、難しいことはわかりませんの」
わたくしの言葉に、エリオット様は大きくため息を吐きました。
「だったら、次会う時までに勉強しておいてくれ」
「嫌ですわよ。何故わたくしが」
「君は、この家を残したいんだろう」
わたくしは目を丸くしてエリオット様を見ました。
「オズボーン男爵家には跡取りがいない。私は全て吸収して、この地もダグラス領にするものだとばかり思っていたが、君が残したいのならここはオズボーン男爵領だ。そうするのなら、男爵家の一人娘である君が、誰よりも家のことも領地のことも知っておかなければならないだろう」
「……わたくしが? この家を、継ぐということですの?」
「どういう形になるかはわからない。養子をとるとか、君が男児を二人以上産めば片方に継がせるとか、色々方法はあるだろうが。とにかく、まずは君がしっかりしないことには始まらない」
腕を組んでくどくどと言うエリオット様はなんだか偉そうで癪でしたが、この方はわたくしの希望を尊重してくださるのですわ。
女に学問など、政治など。皆がそんな風に言う中で、この方は。
わたくしは、唇が吊り上がるのを感じました。
「仕方がありませんわね! どうしても、と言うのなら、協力して差し上げなくもなくてよ!」
「私の方が協力しているんだ!」
およそ貴族らしくない、大きな声での口喧嘩に、使用人たちはまたかと息を吐きました。わたくしたちの言い争いはしょっちゅうなのです。
けれど、エリオット様とは、こうしてお互い言いたいことをぶつけあえる関係であることは違いありません。
案外、良い関係を築いていけるのかも、なんて。
でも今はまだ腹が立ちますわ!