アニーが目覚めると、そこは見慣れた自分の部屋だった。
 起き上がって頭を押さえ、その手を見る。粉が入らないように深爪された指先、水仕事でがさがさの肌。見慣れたアニーの手だった。
 靴を履いてベッドから下り、くすんだ鏡を覗き込む。黄色い肌。黒い髪と目。丸い鼻。薄い唇。平坦な顔と体。

「……おかえり、アニー」

 鏡の中の彼女は、歪んだ顔で笑った。



「おいアニー、おっせぇぞ! 早く仕事にかかれ!」
「ごめん、すぐやる」

 ささっと身支度を整えたアニーは、父の怒声で急いで作業にかかった。時間はまだ早朝だが、パン屋の朝は早い。日が昇ってから起きたのでは遅いくらいだ。
 粉にまみれて、煤を被って、息つく間もなく目まぐるしく動く。これが、アニーの日常。この小さな町のパン屋が、アニーの居場所。
 たかが一週間。体は何も忘れることなく、自然に動いた。忙しいくらいでちょうどいい。何も考えなくて済む。

「ったくよぉ、あのお嬢様は全然使いモンにならなかったからな」

 愚痴を零す父に、アニーはどきりとした。

「ソフィア様に、失礼はなかった?」
「あー、まぁな。男爵令嬢だってのは説明されたからよ。ただ、アニーと同じように使ってくれって言うから、それなりに仕事ができるのかと思えば何もできやしねぇ。あとからイチャモンつけられたら堪らんし、丁重に扱ったがな」

 父の言う「丁重」がどの程度のものかはわからないが、一応気はつかったのだ、とアニーはほっとした。本当に自分と同じように扱っていたらと思うとぞっとする。

「もう開店するぞ。お前は表に出るなよ」
「わかってるよ」

 売り子は母に任せて、混んでくると父も対応する。アニーは厨房にこもる。それがいつものやり方だ。それでいい。ずっと、そうしてきた。

 朝は一番客が来る。忙しなく動き回り、片手間で早めの昼食を取り、また昼のピークが来る。それが過ぎたら、やっと落ち着く。朝が早い分、夕刻前には店を閉めてしまう。そろそろ終わりかな、とアニーは息を吐いた。店を閉めたら暫く休憩して、それから翌日の仕込みだ。

「ア、アニー、ちょっと!」

 慌てた様子で、母が厨房に顔を出す。アニーが首を傾げると、母は顔を赤らめて興奮した様子で続けた。

「あなたに、お客様が来てるのよ! 伯爵家の方ですって!」

 その言葉に、アニーは目を丸くした。アニーに会いに来る伯爵家の人間など、一人しかいない。エリオットだ。
 入れ替わりがばれたのだろうか。だとしたら、わざわざアニーに会いに来る理由は。
 冷や汗が伝う。心臓が、嫌な音を立てている。

「もう休憩でしょう? 店はいいから、お話してらっしゃいな」

 アニーの様子とは正反対に、母は少女のように頬を染めてはしゃいでいる。おそらくエリオットの見目にやられたのだろう。事情を知っていて、そうも楽観視できるものか。
 しかし、母がこの反応ということは、少なくともわかりやすく怒ってはいないということだ。怒りに任せて飛んできたのだとしたら、その緊張感が伝わらないはずはないだろう。
 それなら、とアニーの脳裏にほんのわずかな期待がよぎって、首を振った。余計な期待をかければ、傷つくのは自分だ。あり得ない夢を描くのはやめよう。
 アニーは身支度を整えるかどうか迷って、そのまま出ることにした。これが、町娘のアニーだ。変に取り繕わない方がいいだろう。

「お待たせしました」

 店のドアを開けて外に出ると、予想通りエリオットとその従者、そして何故かノアが一緒にいた。そのことに内心驚きつつも、平静を装う。
 はっとしたようにアニーに視線を向けたエリオットは、一瞬だけ目を瞠って、その瞳を曇らせた。その後すぐに動揺の色へと変化する。

(ああ、やっぱり)

 つきりと、針を刺したように胸が痛んだ。
 アニーにはエリオットの心情が手に取るようにわかった。この人はアニーを見て、落胆したのだ。そして、落胆した自分に動揺している。
 仮にも三日間一緒に過ごした女だ。エリオットは美しいものに拘る父親のせいか、最初から容姿と内面を切り離して考えるようなところがあった。だから、アニーがどんな容姿をしていたとしても、受け入れられるつもりだったのだろう。
 だがそんなのは綺麗事だ。人間は、外見も内面も全て含めて一人の人間なのだ。切り離して考えることなど、できるはずもない。
 父親が美しいものが好きなのならば、エリオットの周りには常に美しいものが溢れていたはずだ。人も、物も。つまり美の価値基準が高い。醜いものと接した経験など、ほとんどないだろう。それなら、生理的嫌悪感が働くのは当然の心理だ。

 いったい何を、期待したのか。
 アニーは唇を吊り上げて、エリオットに微笑みかけた。

「申し訳ありません。店内には、全員が入れるスペースがなくて。立ち話でもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ」
「おそれいります。では、こちらへ」

 アニーは店の裏手に三人を案内した。さすがに店の正面で話し込むわけにはいかない。しかしアニーの部屋に四人も入れないし、店内には特に飲食用のスペースがあるわけでもない。父母が様子を見にくる可能性の高いダイニングには案内したくなかった。失礼かもしれないが、長話にもならないだろう。早く切り上げるためにも、落ち着ける場所に移動するのは避けたかった。

「この姿では初めまして、エリオット様。アニーと申します」

 頭を下げたアニーに、動揺を隠せない声でエリオットが答えた。

「この姿では、か。にわかには信じがたいが、本当に、君が……」
「はい。ソフィア様のお体をお借りして、三日間エリオット様とお見合いさせていただいたのは、私です。ご事情は、オズボーン男爵様から伺っておりますか?」
「……ああ。聞いている」

 やはり。アニーは見えないように息を吐いた。全くの別人が入れ替わっていて、気づかれないわけがない。違和感を覚えたエリオットがフィリップを問い詰めた、といったところか。
 アニーは謝罪のため、深く頭を下げた。

「どのような事情であれ、エリオット様を騙す形になったこと、申し開きもありません。大変申し訳ありませんでした。処罰をお望みでしたら、いかようにも」
「よしてくれ。君の身分では、男爵には逆らえなかっただろう。それに私は、そんなつもりで来たわけではない」
「では……」

 何をしに?
 アニーは口を噤んだ。そんなことは聞きたくない。糾弾しにきたわけではないのなら、考えられる可能性は一つ。そしてそれは、先ほどアニーを見た瞬間に潰れたのだ。

「わざわざ、()()()に来てくださったのですね」
「え……」

 にこりと笑いかけたアニーに、エリオットはうろたえた。そして、アニーの意図を察したのだろう。一度俯いて唇を噛みしめた後、顔を上げて微笑んだ。

「……ああ。君と過ごした三日間は、確かに私にとって意味のある素晴らしいものだった。その礼を、是非とも君自身に伝えたかった」
「もったいないお言葉です」

 これで、この話はおしまい。だが一つ、気がかりなことがある。

「ソフィア様とは、うまくやっていけそうですか?」

 万が一にも婚約破棄などされていたら、アニーの苦労が水の泡だ。そこは確認しておかねばなるまい。
 尋ねると、エリオットは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「中身が別人だったんだ。私は婚約破棄を申し出たんだが、形式に則った正式な婚約だったからな。そう簡単にはいかない」
「良いではありませんか。私は、ソフィア様とエリオット様はお似合いだと思いますよ」
「……君がそれを言うのか」
「あら、エリオット様がおっしゃったのですよ。一目見て心を奪われた、と。エリオット様は、一言も言葉を交わさなくても、ソフィア様に好意を抱いていたのでしょう」

 エリオットが口をへの字に曲げた。揚げ足を取られた気分なのだろう。あの言葉は、アニーと何度も言葉を交わした後で告げられたものだ。

「こうもおっしゃいましたね。ソフィア様が輝いて見えるのは、内面のおかげだと。私もそう思います」

 知らないが。アニーは心の中でだけ付け足した。
 アニーはソフィアと会ったこともない。彼女がどんな人物なのかは、人づてにしか知らない。しかし、嘘も方便。エリオットにはソフィアとうまくいってもらわねば困る。

「人は、外見も内面も全て含めてその人なのです。ソフィア様の容姿に好意を抱かれたのなら、きっと内面も、深く知ればお気に召すはずです。入れ替わっていた私が言うのもなんですが、ソフィア様は第一印象が誤解されがちなので私が見合いを代行しただけで、結婚されれば良い奥方になられると思いますよ」

 知らないが。二度目の言い訳を心中でする。
 非常に無責任な話だが、男爵家は伯爵家より格下なのだ。格上の伯爵家に嫁いで奔放に振る舞えるとは思えない。きちんとした教育もつくだろう。自然、ソフィアのわがままは抑えられるはずだ。

「君が、そう言うのなら。暫くは様子を見よう。婚約は交わしたが、結婚まではまだ時間があるからな」
「ありがとうございます。ソフィア様をよろしくお願いします」

 ソフィアがエリオットを嫌っているならまだしも、ソフィアはソフィアで面食いだったはずだ。エリオットを逃すとは思えない。時間さえあれば、いいようにするだろう。

 エリオットは幾分かすっきりした顔をして、従者を連れて帰っていった。あとには、ノア一人が残った。