数曲踊って疲れたアニーは、壁際へ寄って少し休もうとした。

「お疲れですか?」
「エリオット様」

 飲み物を両手に持って現れたのはエリオットだった。挨拶回りはもういいのだろうか。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 片方のグラスを受け取って、アニーは喉を潤した。

「ここにいるとまた注目を集めそうです。良ければ、少し外へ出ませんか?」
「……ええ、喜んで」

 アニーはエリオットの誘いに乗って、ホールからテラスへと二人で出た。
 外は爽やかな風が吹いていて、火照った肌に心地よい。アニーは目を閉じて深呼吸した。

「ひっきりなしでしたね」
「光栄なことです」
「皆あなたの美しさに夢中なのですよ」

 ソフィアが美しいことは、もはやただの事実だ。謙遜も肯定もせず、アニーは曖昧に微笑んだ。

「私は……伴侶に美しさを求めるつもりはありませんでした。ただ、お互いに尊重し合うことができ、自分をしっかり持った女性と、共に領地を守っていきたいと。だから父が容姿だけで見合いを決めた時、正直気乗りしなかったのです」

 エリオットの告白は、アニーにはある程度予想できていた。ただ、彼はこのタイミングで全てを吐き出してしまいたかったのだろう。だから黙って聞いていた。

「ですが、あなたを一目見た時、私は心を奪われました。これほどまでに美しい人がいるのかと。そしてあなたと言葉を交わして、気づきました。あなたがこれほどまでに輝いて見えるのは、あなたの内面が、そうさせているのだと」

 アニーは笑い出しそうな気分だった。内面。内面が、外見に出るものか。視線や表情に、それとなく滲み出るものはあるだろう。けれど、それと造形は全く別の話だ。強面の人間に小心者はいないとでも思っているのだろうか。
 特に女は演技力に優れている。清廉にも妖艶にも、いくらでも相手の思うような人格を演じてみせる。本当に、なんて素直な人なのか。この人は女が自在に泣けることなど知らないのだろう。

「親同士が決めた見合いではありますが、あなた自身を見て、今私の気持ちはあなたに向いているということを、きちんと伝えておきたくて」

 エリオットが、恭しくアニーの手をとって口づけた。

「ソフィア嬢。あなたを、お慕いしております。どうか私と結婚していただけないでしょうか」

 アニーの胸が、またぎゅうっと締めつけられた。これは多分、恋ではない。それでも、泣きたくなる。まっすぐな眼差しが、痛くてたまらない。
 自分はこの正直で誠実な人を騙している。そして、騙している立場でありながら、どうして自分ではないのかという醜い感情が湧いてくる。
 アニーは十七年間、誰からも愛されたことはなかった。だから、初めて向けられた異性からの好意が、自分を尊重してくれる存在が、アニーの主義主張を聞いて尚肯定してくれるこの人が、眩しくて仕方なかった。
 不特定多数からの羨望の眼差しはどうでもいい。そんなものを欲しいとは思わない。それでも、エリオットからの好意は、アニーが切望してやまないものだった。自分だけを特別だと思ってくれる、ただ一人の人。

 内面を見てというのなら。どうしてアニーではないの。
 どうして誰もアニーを愛さないの。
 ソフィアの容姿さえあれば、アニーだって。

(私だって……)

 泥のような感情を抱えて、それでも全てを覆い隠す微笑みで、アニーはエリオットに答えた。

「喜んで。私も、お慕いしておりますわ。エリオット様」

 答えを聞いた途端、エリオットはアニーを抱き上げた。驚いて声をもらすアニーを、それでも嬉しそうに抱きかかえる。幸せでたまらない、という顔に、アニーは同じ顔をしてみせる。

 ほら。内面など、外見には出ない。これほど醜い感情を抱えていても、ソフィアの美貌は決して損なわれることなどないのだ。



 エリオットとのやり取りで完全に疲弊したアニーは、ホールには戻らずにそのまま部屋に下がることにした。待機していたサラとノアを連れて、割り当てられた客室へと向かう。廊下では、まだ誰が見ているかわからない。しゃんとして、令嬢としての品格をたもった。
 ノアをドアの前に残して部屋に入り、共に入室したサラがドアをきちんと閉めたのを確認して、アニーは椅子に崩れ落ちるように腰かけた。

「終わった……! 終わったわ! これで全部おしまいよ、よく頑張ったわ私……!」
「お疲れ様でございました」

 アニーをねぎらいながら、サラが装飾品を外していく。今日ばかりは世話をされるのがありがたい。ドレスを脱ぎ、化粧を落とし、楽な格好へと着替える。

「ノアを呼んでくれる?」
「かしこまりました」

 サラがドアを開け、ノアを室内へ呼び込む。
 今日は二人と話せる最後の夜だ。改めて話をしておきたい。
 サラとノアが並び立ったのを確認して、アニーは椅子に座ったまま二人を見上げた。

「二人とも、一週間本当にありがとう。二人が令嬢として扱ってくれたから、私はソフィアになれたのよ。エリオット様との婚約が無事済んだのも、二人の協力のおかげだわ。本当に感謝してる」
「いえ、わたしどもは、これが仕事ですから」
「こちらこそ、旦那様の無茶を叶えていただいて、ありがとうございました」

 最後まで従者としての姿勢を崩さない二人に、アニーは苦笑した。ここは伯爵家の邸宅でもあるし、仕方ない部分もあるだろう。二人の素顔は、昨日少しだけ垣間見ることができた。それで十分だ。

「明日目覚めたら、この体にはソフィアが戻っているわ。だから、私があなたたちと話すのはこれが最後。もう、こんな風に話すことはないだろうけど……楽しかったわ。ありがとう」
「……もったいないお言葉です」

 微笑んだアニーに、二人は頭を下げた。その表情がどこか寂しげに見えて、自分の願望かもしれないが、寂しく思ってくれたなら嬉しい、とアニーは目を細めた。

「あとのことは任せたわね。それじゃ……おやすみなさい。さよなら」
「……おやすみなさいませ」
「お休みなさいませ。良い夢を」

 二人が下がったのを確認して、アニーはベッドに転がった。
 この術の期限は、今晩零時。その前に眠っていれば寝ている間に入れ替わるし、起きていたとしても零時前に強制的に眠らされ、入れ替わることになるらしい。
 もう、眠ってしまおうか。自分の役目は終わった。二人への挨拶も済ませた。やり残したことはない。そう思って目を閉じる。なのに、ちらつく顔がある。あの、鳶色の目が、消えてくれない。
 本当は。最後に、二人で話したかった。でもそれはできない。ここは伯爵邸だ。部屋に二人きりなんて言語道断だし、廊下で話すだけでもいただけない。二人きりになれるタイミングなどなかった。もやもやした思いを振り払うように勢いをつけて上半身を起こし、アニーはベッドから下りた。
 そのまま大きな窓を開けて、バルコニーに出る。オズボーン男爵邸にはバルコニーはなかったので、新鮮だ。下ろした髪が風でなびく。

 ぼうっと夜空を眺めて、アニーは物憂げな顔をした。
 そういえば。オズボーン男爵邸では、夜にノアが来てくれたことがあった。明かりが灯っていた、とか、窓が開いていた、とか。
 なら、こんな風にバルコニーにいたら、また来てくれるだろうか。
 馬鹿な想像に、アニーは吹き出した。それは無理だ。ここは伯爵邸だ。夜間に従者が令嬢の部屋を訪れるなど、どんな噂を立てられるかわかったものではない。ノアはそういう不用意なことをするタイプではない。
 最後の挨拶は済ませたというのに、こんな未練がましい真似を。
 そう思いながらも、何故か部屋に戻る気にはなれなかった。時間ギリギリまで、こうしているのもいいかもしれない。ソフィアでいられる最後の夜を、一人思い出にひたりながら過ごすのも悪くない。

「ソフィア様」

 小さく聞こえた声に、幻聴かと目を瞬かせた。

「ソフィア様、下です」
「え……ノア!?」

 思わず大きな声が出てしまって、口を塞ぐ。
 見下ろすと、バルコニーがある側の庭に、ノアが立っていた。

「ど、どうしてそこに?」
「外に出たのは偶然なのですが……バルコニーにソフィア様のお姿が見えたので」

 アニーは、鼓動が高まるのを感じていた。望んだ人が、そこにいる。
 だとしても。いったい、何を話せばいいのか。
 時間はそうない。屋外でこれだけ距離があれば不貞を疑われることはないだろうが、それでもあまり褒められた光景ではない。それに、二階から下へ声を届けるにはそれなりの音量で喋らなければならない。長く話していれば、すぐに人に気づかれるだろう。
 だから。たった一つだけ。

「ノア。最後に一つだけ、わがままを言っていいかしら」
「……なんなりと」

 ノアは意外そうにしながらも、従者らしい言葉を返した。

「私の名前を、呼んでほしいの」

 ノアが目を瞠った。意味は、わかっているだろう。
 この場所で、それを口にすることは危険が伴うかもしれない。だとしても。たった一度だけでいい。その声で、名前を呼んでくれたら。

「アニー」

 零れ落ちそうなほどに目を見開いて、ノアを見つめた。鳶色の瞳と、視線が絡む。一秒、二秒、三秒。
 アニーの瞳から、雫が落ちた。

「ありがとうございます」

 全ての感情を込めて。アニーの顔で微笑んで、そのまま部屋へと姿を消した。
 ベッドに潜り込んで、目を閉じる。大丈夫。この思い出だけで、この先ずっと耐えていける。
 アニーは幸せな気持ちで瞼を閉じた。

 庭に立つノアは、暫くその場を動かなかった。夜の零時を、過ぎるまで。