自然とあの場所へ向かう足が、ピタリと止まった。
「七瀬!何してるんだ」
怖いことで有名な体育教師の平永先生が、私の名前を呼んだから。そのまま、平永先生は腕を力強く引き寄せるように、私の手を掴んだ。まるで、「早まるな」と言うように。
「別に、何も……」
「そんな顔して、こんなところ来るな。天野が心配するだろ?」
首からぶら下がるホイッスルを揺らしながら、全校集会で校則を破る人を怒るときの、あの威厳のある顔からは想像できないような、大切な誰かを思うときの優しい顔をしていた。
「知ってたよ。お前らがここで昼休みを一緒に過ごしてただろ?俺も見えてたからさ、天野のこと」
私を階段に座らせて、平永先生も少し距離を置いて、そこに腰かけた。
「そうなんですか?でも、それならなんで怒らないんですか?この注意書きを見て、それでもここに入ったのに」
あんなに校則に厳しい平永先生が、こんなに優しい顔をして見逃してくれていたことが不思議でしょうがない。私の中では、ほんの少しでも校則違反をすると、反省するまで怒鳴られるイメージだったのに。話してみると、全然そんな感じがしなかった。
「慶……じゃなくて、天野は、俺の年の離れた従兄弟なんだよ。生徒には誰にも言ってないから、秘密な」
控えめに、でも豪快に笑うと、ガラスを扱うように、そっと優しく、首から提げたホイッスルを手に取った。
「これな、慶がくれたんだよ。今年の誕生日に」
もしかして、昨日窓から眺めていたのは、例の友達じゃなくて、そのホイッスルを鳴らす平永先生だったのかな。辛そうにしていたのは、もう平永先生と話すチャンスがなくなってしまうからだったのかな。
「素敵ですね。すごくお似合いです」
「ありがとう」
いい音が鳴るんだと、嬉しそうに話してくれる。時折寂しそうに、ホイッスルに目を落としながら。
「慶が事故に遭った日の朝、誰かを手紙で呼び出したって言ってたんだけど、その待ち合わせに向かう最中の出来事だったんだ」
慶汰くんの事故のことを話す平永先生の悔しそうな顔を見て、ドクッと、心臓が嫌な音を鳴らした。
私の心の中は、平永先生に怒られるかもしれないという気持ちの再発で焦っていた。頭の中は忙しかった。何から話すべきかと、考えていた。
「ごめんなさい」
つい話を遮ってしまった。こんなことをしたら、失礼極まりないのに。
「いや、いいよ。今回は、慶のことを大切にしてくれたら、わざと見逃してるんだ。言ったら、俺も共犯だな」
私の謝罪の意図がちゃんとわかっていないから、平永先生はそうやって笑っていられるんだ。理解したら、胸ぐらを掴まれてもおかしくないほど、平永先生が慶汰くんのことが大好きだということは、大事に使われている首元のホイッスルを見たら一瞬でわかる。
「それに対しての謝罪じゃないんです。だって慶汰くんは、私のせいで事故に遭ったようなものなんです」
慶汰くんは、秘密をいくつか打ち明けてくれた。その中の一つに、『事故に遭って、呼び出すだけ呼び出して会いに行けなくてごめんなさい』と言っていた。
「……それは、七瀬が責任感じることじゃないよ。慶が事故に遭った日、七瀬が呼び出されていたからって、その前後の出来事は全部、慶と運転手の不注意が原因だろ?」
気にすんな、と私の背中を強く叩いた。思わず前を向くような、強くて軽い手のひらが、慶汰くんの面影を感じさせる気がした。
「ごめんな。こんなふうにしか言ってやれなくて。でも、慶にとって七瀬はずっと、支えになってきたことは知ってるから。あの日会おうとしてたのも七瀬だったっていうのは、さすがに驚いたけど」
膝に肘をついて、向かいの窓の外を眺めて言った。
「ずっと見てたらわかるからな。一応幼なじみの七瀬と長谷川と同じくらい長い付き合いだったと思ってるから」
「そうですよね。わかっちゃいますよね」
少し高めのところに座っているからか、目の前を通る生徒たちは私たちに全く気付かないまま、自分たちの教室へと向かっていく。
「慶もこんな気分だったんだろうな」
ちゃんとここにいるのに、誰にも気付かれない。それに、もし見つかったら声を出して驚かれること間違いなし。
「そうですね。なんだか結構、寂しいですね」
気付かれたいわけじゃない。でも、気付いてほしいような気もする。
「きっとそうだろうって思ったから、余計見ていないふりをしてきた。この世に残れる間は、この世で幸せをもう一度、一分一秒でも長く感じてほしいと思っていたから」
優しさは、慶汰くんの血筋の人と同じようなものを感じた。顔も似ていなくて、体育教師なんて慶汰くんにはあまり向いていないように見えるけど、平永先生はいかにも体育教師です、みたいな性格が今までの全面にでていた。
「まぁ、教師としては失格だろうけどな」
乾いた笑いを口にして、立ち上がった。
「慶は、成仏したんだろ?それでも多分、慶は七瀬のそばにいるよ。あいつ、しぶといから。こんなところに来なくても、もう七瀬は大丈夫だ。あいつの気持ち、ちゃんと聞いたんだろ?」
なにもかもわかっている様子で、ついさっきの慶汰くんの行動を言い当てた。
「はい。ついさっき、聞きました」
私も立ち上がった。耳元で、慶汰くんの最後の言葉たちがリピートして聞こえてくる。まだ、今さっきの出来事だから涙がぶり返してきそうだったけど、下唇を噛んで必死に堪えた。
「じゃあ、それを支えにして、ちゃんと前向け。慶も、七瀬に苦しんでほしくないと思う。だから、今日はめいっぱい慶との別れを悲しんで、明日からは前向けよ」
「はい、先生」
「次、ここに入るのを見かけたら、今度からは呼び出しだからな。覚悟しとけよ」
それだけ言って、平永先生はトントン音を立てながら階段を降りた。
その後ろ姿は、どこか慶汰くんと同じ雰囲気を感じた。
否定も肯定も、ありがとうも言えなかった最後の瞬間を思って、慶汰くんに向けた最後の涙を流した。必死に押さえつけていたのに、溢れてきてしまった。
「七瀬。最近慶の墓が立ったから、後ろ向きそうになったら手を合わせてやって。そうしたら、きっと慶も喜んでくれるだろうから」
振り返ってそう教えてくれた平永先生も、きっと泣きそうになっているのに。必死にこらえて、私の前から立ち去った。
そうだよね。平永先生が言うように、慶汰くんがこの世界から去ることを選んだように。私も前を向かないといけない。
私も立ち上がった。さっき心に決めたことを、あのもみじの隙間から覗く光を、忘れないために。
思い出のこの場所にはもう、来られないけど。心にはしっかり残っているから。
「平永先生!」
「おぉ、どうした?」
流れる涙を雑に拭いながら、走って呼び止めた。振り向いた平永先生の目は、少しだけ潤んでいた。
「ありがとうございます。今日、あの場所で平永先生と話せてよかったです」
たまに怖いけど、この身内思いの優しい一面を思い出したら、きっとなんだか面白く思える。
怖いと思っていたあの印象を崩すのも、もしかしたら慶汰くんの企みだったのかな。そうだったら面白いのに。
「こちらこそ、慶のそばにいてくれて本当にありがとな。親戚として、すごく嬉しかったよ」
目尻を下げて、微笑んだ。この表情の方が、ずっと平永先生に似合っていると思った。
「平永先生は、笑っていた方が慶汰くんが喜ぶと思います」
「仏壇の前では笑ってるから、いいんだよ。それよりそろそろ教室戻れ。予鈴鳴るぞ」
行った行ったと、追い払うように手を動かし、他の生徒に挨拶をしながら背を向けて歩いていった。
私も、平永先生に背を向けて、教室へ向かった。
「おはよう」
ちょうど教室前で鉢合わせた花楓が、先に声をかけてくれた。昨日の今日で、なんだかくすぐったい。
「おはよう。いい天気だね」
廊下の窓から、青い空を見上げる。ふわふわ浮かんでいる慶汰くんをつい探してしまうけど、一度追い出すように首を振った。
「天気もいいから、お昼は中庭で食べようよ」
もみじの木が植わっている向かい側に、木製のテーブルと椅子がある。今日、もう一度あの場所に行くことになるとは思っていなかったけど、紅葉狩りをするにはうってつけだと、今更ながらに思った。
「もみじも綺麗だから、楽しみだね」
慶汰くんという大切な人を失った穴は、さすがに花楓には埋められないけど、その穴を治す工程で、宝箱にできたらいいな、なんて思った。無限に入る、大切なことをたくさん詰められる宝箱。
慶汰くんからもらった言葉たち。
平永先生からもらった優しさ。
幸輝からもらった愛。
花楓と仲直りできたときの喜び。
八重ちゃんが教えてくれた恋のトキメキ。
忘れたくないものばかりだから。できることなら、ずっと覚えておきたいから。それらを入れられたら、どれだけいいだろう。
「私、花楓のことが苦手になったと思ってたけど、信じたくなかっただけかも」
もみじがハラハラと散る中で、冷たい風が頬を撫でる中で、嫌な気持ちをひとつも感じない心を見つめて、そう感じた。
「え?」
「だって、私今、手のひらを返したみたいに花楓のことが大好きだもん。変かな?」
あんなに一緒にいたくないって思っていたのに。ころりと嫌いが好きに変わった。
ちゃんと理由があったからというのと、花楓も心を痛めていたとわかっているからこそ、少しづつと思っていた関係の修復が、ほとんど一日でできてしまいそうなほどのハイスピードで終わっていく。
「変じゃないけど、ちょっと驚いてる。そんなに簡単にそこまで戻ってくれるなんて、思ってなかったから」
「私も、自分のことなのにびっくりしてる。でもやっぱり、花楓とこんなふうに、楽しくお昼ご飯を食べられて嬉しい」
あまりもみじの木の方は見ないようにしながら、どこを見ようと迷うことなく、一直線に花楓の目を見られる時分がいることが、この時間で何よりも嬉しかった。
「ねぇ、ゆき覚えてる?私たちが初めてあったときのこと」
「もちろん」

私たちが初めて出会ったのは、入学式が終わって教室に集合したとき。ちょうど席が隣で、それをきっかけに話すようになった。誰もが一度は通る、一番メジャーな方法で私たちは友達になった。
「私、七瀬ゆき。あなたは?」
「松原花楓。よろしくね」
どんな字を書くの?得意教科は?趣味はなに?
先生が来るまでずっと、そんな話をしていたから、みんなの前で自己紹介をするときにはもう、大体の花楓の情報はもう、知っているものになっていた。小テストの答え合わせをしているような気分、というのが一番しっくりくるほど、最初からウマが合った。
昨日のドラマの話とか、恋愛関係の話は一切せず、あるときには先生の口癖を数え、またあるときは机をくっつけて絵しりとりをした。手紙を往復させたり、筆箱を交換して使ってみたり、休み時間にプチお菓子パーティーをしたり。
知られたら怒られるようなことが楽しい、中学生の延長線を生きていた。

「私、あのときの絵しりとり、まだ持ってるよ」
花楓は、少し上がり気味のテンションのまま、お弁当と一緒に持ってきていたスクールバッグからクリアファイルを取り出して、机の上に去年の絵しりとりを何枚も並べた。
「わー、懐かしい!」
去年のことなのに、もうずっと前のことみたいだ。
最初のものと最新のものを見比べると、若干絵が上手くなっているような、少し難しいものを書くようになっているような気がした。
「このときのゆきの絵、未だにわかんないときがあるんだよね」
「いやいや、どう見てもすべり台じゃん!」
「どうなってるの、これ」
「だから、ここが滑るところで、こっちが登るところ」
あの時と同じようなことを言っている気もするけど、これはどこからどう見ても、一瞬で滑り台ってわかる。
「私はすぐにわかるよ?」
「それは、書いた張本人だもん。わかんないと困るよ」
「これなに?」「簡単でしょ!」一年前の絵しりとりで、ここまで盛り上がれるなんて思ってもみなかった。ケラケラ笑って、涙が出るほど、お腹がよじれそうになるほど笑って、体内に溜まった抜けきれない笑いを発散するために、花楓の手を揺らし、机をバシバシ叩き、気付いたらペンを持って、最新の絵しりとりを更新し始めていた。
「ちょっと待って。これ難問すぎない?」
「なにこれ、新種の生物?」
机を挟み、ひとつのペンを渡し合いながら、私たちは予鈴がなるまで絵を描いた。
もう、すっかりあの頃と同じ私たちに戻っていた。
あの気まずさも消し去って、今の楽しさを求める、出会ったときと変わらない、他の人からしたら訳のわからないような、くだらないことで大袈裟なくらい笑い合える、そんな私たちに。