教室へ戻るとき、いつもは階段で別れる慶汰くんも一緒についてきた。
「邪魔はしないので!」と、思い切り頭を下げられる渾身のお願いをされて、断りきれなかった。
まぁ、半年前くらいから離れられるように対策を始めればいいかと、甘い考えで二つ返事で了承した。自分の意思の弱さが垣間見えたけど、見なかったことにした。
「二年生の授業って難しいですか?」
「楽しくはないよね」
楽しく笑ったあとだからかな。それとも、隣に慶汰くんがいてくれているからかな。教室の電気を全部新調したのかと思うほど明るくて、雨上がりの晴れの空みたいにクリーンで、目がしょぼしょぼした。
さすがに慶汰くんも会話をしづらいのか、窓からの景色を眺めて「おぉ、地面が近い」と感動したり、教室の掲示物を見て回ったりして、なんだか小さい子どもみたいだった。
「ゆき、ちょっと」
朝といい、残り少ない昼休みにもまた、朝と同じくらいの落ち着いたトーンで私のことを呼んだ。
ついて行くと、フロアの端にある空き教室の中に入って、扉を閉めた。
「なに?」
私の問いかけに、花楓は目を伏せる。
一メートル以上離れた距離なのに、何かを言い出そうとしている重い顔つきをしているのがよく見えた。
「ごめんなさい」
花楓は、深々と頭を下げた。何か言われるんだろうなとは思っていたけど、まさか謝られるなんて思ってもいなかったから、戸惑ってしまう。
「本当にごめん。鬱陶しいってわかってたんだけど、どうしても印象に残したくて」
頭を下げたまま、花楓は話し始めた。私もどう反応したらいいかわからなくて、黙りこくってしまった。
「お父さんが転勤することになって、冬休みに家族でお父さんの転勤先に引っ越すことになってたの。だから、忘れてほしくなくて印象深くしようと思った。でもこれ以上仲良くなると離れ難いから、嫌われようとも思った」
花楓は頭を上げて、鼻をかんだ。泣いていた。目を真っ赤にして、涙を何度も頬を伝わせて。
「一番身近で、聞きやすい話題が恋バナだったから、そればっかりになって、しつこく苦しめてごめんなさい」
ちゃんと理由があったんだ。あるならいいというわけじゃないけど、本心でこういう性格に成り代わったわけじゃないということに安心した。前みたいな友達に戻れるかもしれない。
「でも、それならもっと早く言ってくれたらよかったのに」
「すごく後悔してる。絶対失うって思ってた。ゆきのこと大好きなのに、毎日こんなにゆきに酷い顔させてる自分が嫌になった」
花楓は涙を拭うこともせずに、何度も私に謝った。ごめん、ごめんと謝って、泣いて、膝から崩れ落ちた。
「ちょっと、もういいよ。わかったから」
花楓の背中をさする。なんだか前より小さくなったように感じたけど、それはきっと、これだけ弱っているからだろう。
「まだ時間あるよ。一ヶ月くらいだけど。だから、寂しくなるような思い出つくって、それで会いたいなって、私のことを思い出して。そのほうが幸せだよ。私も、花楓も」
花楓がいなくなって、あの子は印象悪かったなって思い出したくない。夏休み前までは仲が良かったんだから、また会いたいなって、連絡できる仲のままがいい。
花楓だって、私とこんな関係のまま別れて、ずっと罪悪感に苛まれる日々を過ごすなんて苦しい。
「本当に、後悔してもしきれない。ありがとうって、何度も言っても言い足りない」
花楓は、私の背に手を回し、ぎゅっとしがみついた。私も、花楓の背中に手を回して、それを了承するようにハグをした。
「こんなことしなければよかった。一昨日お父さんが、単身赴任にするって話してくれたの。ちょうどゆきと、言い合いになったあの日の夜に」
「もういいよ。これからは前みたいに、ね?」
「……こんな私だけど、いいの?」
「いいの。私も、あのころに戻りたくてあの日、問い詰めたんだから」
「ありがとう、ありがとうっ」
ふと顔をあげたら、窓の外にふわふわ浮かぶ慶汰くんが微笑ましそうにして笑っていた。それなのに、なんであんなに辛そうなの?
「ねぇ、明日のお昼、一緒に食べない?」
きっとこの仲を修復するのにそんなに時間はかからないだろうけど、まずは、一歩づつ。
「いいよ。約束」
指切りをした。ひんやりとした手が、花楓の根本にある心の温かさを教えてくれている気がした。
「先行ってて。私ちょっと、一息ついてから戻るから」
「わかった」
もう五限目が始まっているけど、もう少しだけここにいたい。
カラカラと窓を開けて、まだそこにいてグラウンドを眺めている慶汰くんに声をかけた。
「無事に仲直りできたみたいでよかったです」
窓の外でサッカーの授業を受けている人たちを横並びになって眺める。ジャージの色が赤だから、一年生だ。
「うん。それでね、明日はお昼、花楓と食べることになったんだ」
「そうなんですね。わかりました」
私を見てにこにこ笑って、またグラウンドに目を落とした。
「あの子たち、同じクラス?」
「はい。あいつ、今シュート決めたやつ、特に仲が良かったんです。また話したいんですけど、やっぱり僕のことは見えないみたいで」
「そっか」
隣のクラスの授業が聞こえる。X=……と数学の声の大きな先生が話している。
「二年生の数学って、暗号ですね」
「私にとっては一年生のときからずっと暗号だよ」
小声で話しながら、時間が過ぎるにつれて慶汰くんの顔は暗くなる。
「……やっぱり、知られたくなかった?」
「いや、そんなことないです。それはないです」
「でも……」と言葉を濁す。やっぱり、人と話せないって言うのは寂しいものだよね。私だけが話し相手っていうのも、たまには同性の友達とも話したいに決まってる。
まっすぐに彼のことを見つめて、哀愁に満ちた顔をしていた。
「僕、好きな人がいるんです」
「うん」
「あのときの振られたって言うのは嘘です」
「うん」
「どうしても伝えたいので、明日、その瞬間だけゆき先輩の身体、貸してほしいです」
「うん、いいよ」
あの中に、いるのかな。慶汰くんの好きな人。
じゃあ、さっきまっすぐ見つめていたのは友達という男の子じゃなくてその子かな。
私に乗り移って、女の子から告白されたって思うと驚くだろうな。胸のドキドキを違う意味として取られないといいけど。
「どの子?慶汰くんの好きな人」
きっと生きていたらくっついてしまうような距離で、その子を探す。
どんな子だったかな。慶汰くんの好きな子。
確か、黒髪が綺麗な、桜みたいな女の子。優しくて、話すのが苦手な子、だったかな。
「僕の好きな人、あの中には居ないですよ」
辛そうに笑った。振られに行くようなものだ。そんな顔になるのもわかる。
「そうなの?」
「はい。一個上って言ったじゃないですか」
そうだったかな。年齢とか、あんまりよく覚えていない。色々あったから。あのときから、今日までの間に。
「明日の朝、時間貰ってもいいですか?」
「うん。何時くらい?」
「七時五十分に、中庭のもみじの下で集合にしませんか」
一瞬時計を見て、まるで何かを読むようにそう言った。どこか聞き覚えのある集合場所だった。
「うん。わかった」
「ありがとうございます」
乗り移られるなんて、初めてのことだから緊張するけど、どんな感じなんだろう。少しだけ、ほんの少しだけ、ワクワクした。
「本当は初夏がよかったんですけどね。中庭にある初夏のもみじの下で告白すると、成功率が上がるって言い伝えがあるの、知ってますか?」
「知らなかった。そんな言い伝えがあったんだ」
そういえば、私もそれくらいの時期に誰かから手紙をもらった。靴箱に入っているのを見つけたあの瞬間しか見ていないから、もう内容は覚えていないけど。
「初夏じゃないけど、きっと今は紅葉がすごく綺麗だから、夏よりロマンチックだよ」
「確かにそうですね。じゃあ、むしろラッキーかもです」
慶汰くんがそう言ったあと、五限目が終わったチャイムが鳴ってしまった。次の授業は出ないといけないから、今日はもう、この時間が話せる最後のチャンス。
「ゆき先輩には絶対、後悔してほしくないから。明日の約束、忘れないでくださいね」
そう、窓をすり抜けて外へ出た。
話の意図がよくわからなかったけど、明日も会えるから、そのときに聞けばいいか。
窓の中と外から手を振り合って、空き教室を出る。ちょうど数学の先生の後ろ姿が見えて、少しヒヤッとした。
「あれ、ゆき?」
「幸輝。あ、私明日、早く来るから。一人で登校してね」
とりあえず、伝え忘れる前に会えてよかった。きっと授業が終わった途端ここを歩いているなんて不審でしかないかもしれないけど、ちょうど言わないといけない用事があって助かった。
「ねぇ、この学校に告白するのにピッタリな場所があるなんて知ってた?」
「え、なにそれ。そんなとこあったの?」
「うん」
なんとなく流れでついてきた幸輝についさっき知ったうんちくを話しながら、自分のクラスに戻った。
「次好きな人ができたら、そこで告白したらどうかなって」
「その頃にはもう卒業してるよ、きっと」
「そっか」
まぁ、所詮言い伝えだし。気持ちがあればそんな言い伝えはいらないか。今回の慶汰くんみたいに、それでも伝えたいって思うんだから、それで十分。
「早く行くのはいいけど、気を付けろよ?」
「お父さんみたいなこと言うね」
「幼なじみだから、もう家族みたいなものだろ」
無邪気に笑う幸輝の言葉は、私の恋心を少し傷つけた。お前は伝えるべきじゃないと、遠回しに言われたような気がしてしまった。
「そうだね。私にとってもそうだよ」
そのことに変わりはないけど、割り切れない。
私が男なら良かったのに。私が普通に恋愛できればよかったのに。
おばけになってもなお、勇気がある慶汰くんとは違って、私はいつまでも立ち止まったまま。
同じことでくよくよ悩んで、いつまで経っても変われない。
どちらに転ぶこともできていないなんて恥ずかしいとまで思ってしまった。