「彼女さん、結局お見舞いに来てくれたの初日だけでしたねー?」
自称「患者のアイドル」である美人看護師が、退院する俺に向かって揶揄うように言った。
「たった3日しか入院していないんで、わざわざお見舞いに来てもらうまでもないというか……そもそも彼女じゃないし」
俺の言葉に、彼女は「はぁー……」と大きく溜め息を吐いた。
「そういう感じだから、愛想を尽かされちゃったのかもしれませんねー」
責めるように、彼女は俺を見てくる。
「あんなに美人で頭も良くて献身的に尽くしてくれる人なんて、この先絶対現れないだろうに……あーあ、彼女さんかわいそー、見る目なーい」
「はいはい、とりあえずサボってないで仕事に戻ってください」
俺がそう言うと、彼女はやれやれと肩をすくめてから言う。
「まだしばらく左手のギプス取れなくて不便すると思いますけど。お大事にね、あっきー」
「お世話になりました。……またな、伊織」
俺は入院中お世話になった、かつてのクラスメイトにお礼を言って、呼んでいたタクシーへと乗り込んだ。
職場の近くに借りている1Kの自宅に帰りつくと、スマホに着信があったことに気が付いた。
俺は通話アプリの履歴から、折り返し電話をかける。
『もしもし、熱田です。折り返し悪いな』
熱田先生が、電話に応答した。
「こっちこそ電話すぐに気づかず、すみませんでした」
『交通事故に遭ったって聞いたけど、大丈夫か?』
「軽いケガで済みました。検査も終わって、さっき退院したところですよ」
『そうだったのか。それじゃあ来週は、予定通りこっちに帰ってこれるのか?』
「ええ、少し遅めの夏休みですけど、予定通り戻ります」
『それなら、退院祝いに最近見つけた飲み屋に連れてってやるよ』
「期待してますよ」
俺の言葉に、熱田先生は『楽しみにしとけ』と言ってから、落ち着いた声音で続けて言う。
『お前が交通事故で入院したって聞いて、あの卒業式前の時みたいな無茶をしたのかって思ったよ』
「あんな無茶は、この先一生するつもりないですから」
俺の呟きに、『そうか』と柔らかな声音で応じてから、
『昔話は、来週会った時の肴にとっておくか』
と、続けて言った。
『それじゃあ、また連絡するから』
熱田先生はそう言って、電話を切った。
彼の言葉を、思い返す。
卒業式前日、俺が那月と高校の屋上から飛び降りたあの日から、10年近くの月日が流れていた。
あの日、俺は全てが終わったのだと思っていたのだが……現実は、違った。
俺は那月と会話をした後、彼女が生きていた安心感で気が抜けてしまったのか、気絶をしてしまった。
その後、那月が飛び降りたことは、学校側が内々に処理をした(隠蔽とも言う)おかげで大きな問題になることはなく、俺と那月は、無事に合格していた大学へ進学をすることが出来た。
……そう。那月も大学に通えたのだ。
那月はあの後、父に全てを話した。
父はひどくショックを受けていたが、那月を責めることは一切なかった。
両親の関係は修復不可能で、二人はすぐに離婚をした。
しかし、全てを妻に任せきりにして、娘の卒業式の日程すら知らなかったことについて、思うところがあったのだろう。
母が作った借金は、都内のマンションを手放すことで、肩代わりして返済したようだ。
「購入時よりも価格が上がって、儲かったな」
そう言った父の、やりきれない顔を忘れることは出来ないだろう、と那月は言っていた。
母とはあれから一度も会ってはいないらしい。
ただ、毎月少しずつだが、父親の口座に肩代わりしてくれた借金を返済するための入金があるらしい。
預金通帳に毎月刻まれる数字だけが、母親が今もどこかで生きていることを証明している。
無事に大学に進学した俺と那月は、高校を卒業してからも東京で頻繁に会った。
那月は大学で友人が出来たようで、嬉しそうにその友人を俺に紹介してくれたこともあった。
これまでの地獄が嘘のように、俺と那月はキャンパスライフを満喫した。
あっという間に4年の月日が流れ、俺たちは大学を卒業することになった。
俺は、1周目の時と同じ会社に就職をした。
就職をした理由はシンプルで、購入していた株の価格が、かつてのような高値になることがなかったから、食っていくために働く必要があったからだ。
その他の短期間で値上がりをした銘柄も、俺が知っている銘柄とは異なっていた。
那月が今も生きているこの世界はいつの間にか、かつて俺が生きていた世界と似ているようで、全くの別物となっていた。
那月も、もちろん東京で就職をした。
日々の労働で不満や鬱憤が溜まれば、大学時代と変わらず、那月と一緒に気晴らしに出掛けることが多かった。
飲みたくなった時には、すっかり那月と仲良くなった伊織も一緒に集まって、酒を飲むこともあった。
俺は、いつも傍にいる那月に対し、自然と特別な想いを寄せるようになっていた。
だけど決して、自分の気持ちを伝えることはなかった。
そうして日々を過ごしているうちに、10年近くの月日が流れ。
――俺はかつて死んだ時と、同じ年齢になっていた。
☆
退院してから、1週間後。
俺は、年末年始以来の帰省をしていた。
腕にはギプスをはめていて、両親が何かと世話を焼いてくれる。
素直にありがたかったが、これでは体が鈍ってしょうがない。
俺は気晴らしに、散歩をすることにした。
久しぶりに歩く町並みは、相変わらずのど田舎だ。
のどかな風景を眺めながら歩いていると……偶然、彼女と再会した。
「あれ、暁じゃん。戻ってきてたの? ていうか腕大丈夫?」
朗らかに俺に笑いかけてくるのは、かつて愛した幼馴染の狛江今宵だった。
「ああ、ちょっと遅い夏休みだ。腕は交通事故で怪我したけど、特に問題なし。そっちは……?」
そう問いかけてから、彼女の大きくなったお腹を見て、察した。
「気分転換に散歩を兼ねて、お買い物」
今宵はそう言って、食材が入ったエコバックを掲げて見せてきた。
「持つよ」
「良いよ、怪我人。無理すんな」
「妊婦さんこそ、自分の身体をお大事にしてください」
俺はそう言って、ひったくるように彼女からエコバックを奪う。
「はいはい、ありがとね」
今宵は苦笑を浮かべて、そう言った。
それから、互いの近況を話しながら歩く。
今宵とこうして楽しく話が出来ているのが、俺には不思議な気分だった。
「一つ、聞きたいことがあるんだけど、良い?」
「良いよ」
俺は歩みを止めないまま、世間話の延長線上にある話題のように、言う。
「2年前。今宵の結婚式で会ったときには怖くて聞けなかったんだけど――。どうして、俺のことを許せたんだ?」
「あー……。高校生の時、公園で暁が言った言葉は本当に酷かったもんね」
困ったような表情を浮かべる今宵につられて、俺は苦笑しながら「そうだよな、ごめん」と謝罪した。
「暁を結婚式に呼んだのは、やっぱり幸せになったあたしを見せたかったから、なんだけど。実際暁が本心から喜んでくれていたのがすぐにわかってさ。なんだか怒ってるのがバカバカしくなった。それに……勘違いだったのかもしれないけど。あたしが夫と笑いあっていた時。暁が少しだけ、悲しそうにしてたのを見てさ――あたしはそれで、満足しちゃった」
意地悪な笑顔を浮かべて、今宵は続けて俺に問う。
「こっちからも一つ質問なんだけどさ。暁はあたしを振ったこと、後悔してる?」
今宵からの質問に、俺はかつて彼女に『死ぬなら、あたしが幸せになったのをその目でちゃんと確かめて、心底後悔してから死んで』と告げられたことを思い出し、答えた。
「ああ、心底後悔してるよ」
俺の言葉に、今宵はクスリと笑ってから、
「ざまぁみろ。後悔したって、もう遅いから」
と、楽しそうに言った。
その美しい表情を見て、俺が彼女に別れを告げたことが間違いではなかったのだと確信した。
「いつの間にか、お家に着いちゃった。せっかくだし、お茶でも飲んでいく?」
「いや、良いよ。もう少し、散歩したいし」
俺は、今宵の誘いを断ってから、彼女に荷物を返した。
「そっか。それじゃあ、荷物運んでくれて、ありがとね暁」
「ああ、それじゃあな」
今宵に別れを告げてから、俺は再び歩き始めた。
「あのさ、暁!」
そんな俺の背中に、彼女は声を掛けた。
「何?」
俺は振り返って、尋ねる。
「……暁もさ、もう幸せになって良いんだよ?」
その言葉は、いつか、どこかの世界で。
かつての今宵が俺に言ってくれた言葉、そのままだった。
俺は無言のまま、苦笑をしながら頷いた。
今宵は知らない。
繰り返した時間の中で、俺が多くの人を不幸にしてしまったことを。
それなのに、今さら俺が幸せになろうとするなんて――許されることではない。
だから俺は、想いを寄せる那月に対して、これまで自らの気持ちを伝えられないでいたのだ。
俺は思案をしながら歩き続け、かつて今宵に別れを告げた、展望台に辿り着いていた。
高校時代は平然とここまで来ることが出来たのに、今は呼吸を乱し、身体も汗ばんでいる。
ベンチに腰掛けようと見ると、そこには先客がいた。
「なんで……ここにいんの?」
「私がいちゃ悪い?」
俺が質問をした相手は――東京で暮らしているはずの、那月だった。
「良いとか悪いとかじゃなくて、なんか普通に怖いんだけど……」
俺が引き気味に言うと、那月は咳ばらいをしてから言う。
「直接話したいことがあったから、あんたがお気に入りの場所で待ってたってわけ」
俺は那月のことを大切に想っているので、決して口には出さないのだが、彼女のやっていることはほとんどストーカーだった。
俺が無言で那月を見ていると、彼女は顔を真っ赤にして「な、なによ……?」と呟いた。
「いや、気にしないでくれ。それで……話したいことって、何だ?」
俺の言葉を聞いてから、彼女は恨めしそうにこちらを見てから、大きく溜め息を吐いてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私の人生、あんたのせいでめちゃくちゃよ」
その言葉に反して、彼女の表情は柔らかかった。
「卒業式の前日。一緒に屋上から飛び降りて、生き残って。良いことも悪いことも、たくさんあった。でも、良いことがあるときは、やっぱり決まってあんたが私の隣にいた。それなのに、私を置いて死なれたら、困る。……事故に遭ったって聞いて、本当に心配したから。だから、ほんの少しだけフライングだけど、次に会った時は言おうって決めてたの」
那月は真剣な表情で、まっすぐに俺を見て告げた。
「あれからもう、10年経ったわよ?」
那月が何を言いたいのか、分からないような鈍感ではない。
だけど俺の心には、複雑な思いが渦巻いている。
「俺は――幸せになっちゃいけないんだ」
「知ったことじゃないわよ、そんなの」
俺の言葉に、那月はばかばかしいとでも言いたげな態度で言う。
「あんたが幸せになっちゃいけないと思ってるなら、別にそれでいいの。でもあんたには、私を生かした責任がある。つまり……私のことを、幸せにする義務がある」
責めるような口調で、諭すような表情で――。
「私はね、10年前のあの日からあんたのために生きているの。だからあんたは、これから一生私のために生きなくちゃダメなの」
那月未来は、まっすぐに自分の想いを俺に伝える。
「だから言いなさい、今度こそ。10年前のあの時、私に言ってくれなかった言葉を」
俺は――怖かったのだ。
1度目と4度目。
俺は決まって、28歳の8月に死んでいた。
だから今回も、同じように28歳の8月に死んでしまうのではないかと、そう恐れていた。
もしも那月と結ばれた上で死んでしまった場合、彼女を一人残してこの世を去ることが、後悔になると思った。
――そのことを言い訳にして、俺は彼女とまっすぐに向き合えなかった。
俺が後悔を抱えたまま死ぬことによって起こるタイムリープという現象が、この先に起こらない保証はない。
あの原因不明の悪夢に、俺は今も脅かされ続けている。
――だけどもう、どうしようもなかった。
先月、28歳の8月に俺は交通事故に遭った。
やっぱり俺は、死んでしまうのか。
そう思った時――どうしようもなく、俺は後悔をしていた。
『死ぬ前に、那月に想いを伝えるべきだった――』と。
那月未来。
多分、君の全てに魅せられたその時から――。
俺の結末は、定められてしまったのだ。
もう二度と繰り返さないように。
もう一度、君と死ぬことを……。
「この先俺は、那月のために生きていく。幸せな家庭を作って、俺たちは皺だらけの爺さん婆さんになって、お互い最後の時には悔いなく『良い人生だったな』って言い合えるように、俺はこれから先も、那月の傍で生きて――そして、死ぬから。俺と、ずっと一緒にいてください」
俺の言葉を聞いた那月は、顔を真っ赤にして俯いて、「そこまで言えとは、言ってない」と呟いた。
それから顔を上げて、俺を見た彼女は驚いた表情を浮かべた。
彼女は俺に歩み寄り、そしていつの間にか俺の頬を流れていた涙を拭った。
少しだけ笑って、そして困っているような、喜んでいるような表情を浮かべて、彼女は俺に向かって言う。
「約束する」
それは、俺と那月の関係が始まったあの日に告げられた言葉と同じで。
「私が死ぬときは――あんたと一緒に、死んであげる」
だけどその言葉に込められているのは、全く別の温かな想いだと、俺はもう知っていた。
自称「患者のアイドル」である美人看護師が、退院する俺に向かって揶揄うように言った。
「たった3日しか入院していないんで、わざわざお見舞いに来てもらうまでもないというか……そもそも彼女じゃないし」
俺の言葉に、彼女は「はぁー……」と大きく溜め息を吐いた。
「そういう感じだから、愛想を尽かされちゃったのかもしれませんねー」
責めるように、彼女は俺を見てくる。
「あんなに美人で頭も良くて献身的に尽くしてくれる人なんて、この先絶対現れないだろうに……あーあ、彼女さんかわいそー、見る目なーい」
「はいはい、とりあえずサボってないで仕事に戻ってください」
俺がそう言うと、彼女はやれやれと肩をすくめてから言う。
「まだしばらく左手のギプス取れなくて不便すると思いますけど。お大事にね、あっきー」
「お世話になりました。……またな、伊織」
俺は入院中お世話になった、かつてのクラスメイトにお礼を言って、呼んでいたタクシーへと乗り込んだ。
職場の近くに借りている1Kの自宅に帰りつくと、スマホに着信があったことに気が付いた。
俺は通話アプリの履歴から、折り返し電話をかける。
『もしもし、熱田です。折り返し悪いな』
熱田先生が、電話に応答した。
「こっちこそ電話すぐに気づかず、すみませんでした」
『交通事故に遭ったって聞いたけど、大丈夫か?』
「軽いケガで済みました。検査も終わって、さっき退院したところですよ」
『そうだったのか。それじゃあ来週は、予定通りこっちに帰ってこれるのか?』
「ええ、少し遅めの夏休みですけど、予定通り戻ります」
『それなら、退院祝いに最近見つけた飲み屋に連れてってやるよ』
「期待してますよ」
俺の言葉に、熱田先生は『楽しみにしとけ』と言ってから、落ち着いた声音で続けて言う。
『お前が交通事故で入院したって聞いて、あの卒業式前の時みたいな無茶をしたのかって思ったよ』
「あんな無茶は、この先一生するつもりないですから」
俺の呟きに、『そうか』と柔らかな声音で応じてから、
『昔話は、来週会った時の肴にとっておくか』
と、続けて言った。
『それじゃあ、また連絡するから』
熱田先生はそう言って、電話を切った。
彼の言葉を、思い返す。
卒業式前日、俺が那月と高校の屋上から飛び降りたあの日から、10年近くの月日が流れていた。
あの日、俺は全てが終わったのだと思っていたのだが……現実は、違った。
俺は那月と会話をした後、彼女が生きていた安心感で気が抜けてしまったのか、気絶をしてしまった。
その後、那月が飛び降りたことは、学校側が内々に処理をした(隠蔽とも言う)おかげで大きな問題になることはなく、俺と那月は、無事に合格していた大学へ進学をすることが出来た。
……そう。那月も大学に通えたのだ。
那月はあの後、父に全てを話した。
父はひどくショックを受けていたが、那月を責めることは一切なかった。
両親の関係は修復不可能で、二人はすぐに離婚をした。
しかし、全てを妻に任せきりにして、娘の卒業式の日程すら知らなかったことについて、思うところがあったのだろう。
母が作った借金は、都内のマンションを手放すことで、肩代わりして返済したようだ。
「購入時よりも価格が上がって、儲かったな」
そう言った父の、やりきれない顔を忘れることは出来ないだろう、と那月は言っていた。
母とはあれから一度も会ってはいないらしい。
ただ、毎月少しずつだが、父親の口座に肩代わりしてくれた借金を返済するための入金があるらしい。
預金通帳に毎月刻まれる数字だけが、母親が今もどこかで生きていることを証明している。
無事に大学に進学した俺と那月は、高校を卒業してからも東京で頻繁に会った。
那月は大学で友人が出来たようで、嬉しそうにその友人を俺に紹介してくれたこともあった。
これまでの地獄が嘘のように、俺と那月はキャンパスライフを満喫した。
あっという間に4年の月日が流れ、俺たちは大学を卒業することになった。
俺は、1周目の時と同じ会社に就職をした。
就職をした理由はシンプルで、購入していた株の価格が、かつてのような高値になることがなかったから、食っていくために働く必要があったからだ。
その他の短期間で値上がりをした銘柄も、俺が知っている銘柄とは異なっていた。
那月が今も生きているこの世界はいつの間にか、かつて俺が生きていた世界と似ているようで、全くの別物となっていた。
那月も、もちろん東京で就職をした。
日々の労働で不満や鬱憤が溜まれば、大学時代と変わらず、那月と一緒に気晴らしに出掛けることが多かった。
飲みたくなった時には、すっかり那月と仲良くなった伊織も一緒に集まって、酒を飲むこともあった。
俺は、いつも傍にいる那月に対し、自然と特別な想いを寄せるようになっていた。
だけど決して、自分の気持ちを伝えることはなかった。
そうして日々を過ごしているうちに、10年近くの月日が流れ。
――俺はかつて死んだ時と、同じ年齢になっていた。
☆
退院してから、1週間後。
俺は、年末年始以来の帰省をしていた。
腕にはギプスをはめていて、両親が何かと世話を焼いてくれる。
素直にありがたかったが、これでは体が鈍ってしょうがない。
俺は気晴らしに、散歩をすることにした。
久しぶりに歩く町並みは、相変わらずのど田舎だ。
のどかな風景を眺めながら歩いていると……偶然、彼女と再会した。
「あれ、暁じゃん。戻ってきてたの? ていうか腕大丈夫?」
朗らかに俺に笑いかけてくるのは、かつて愛した幼馴染の狛江今宵だった。
「ああ、ちょっと遅い夏休みだ。腕は交通事故で怪我したけど、特に問題なし。そっちは……?」
そう問いかけてから、彼女の大きくなったお腹を見て、察した。
「気分転換に散歩を兼ねて、お買い物」
今宵はそう言って、食材が入ったエコバックを掲げて見せてきた。
「持つよ」
「良いよ、怪我人。無理すんな」
「妊婦さんこそ、自分の身体をお大事にしてください」
俺はそう言って、ひったくるように彼女からエコバックを奪う。
「はいはい、ありがとね」
今宵は苦笑を浮かべて、そう言った。
それから、互いの近況を話しながら歩く。
今宵とこうして楽しく話が出来ているのが、俺には不思議な気分だった。
「一つ、聞きたいことがあるんだけど、良い?」
「良いよ」
俺は歩みを止めないまま、世間話の延長線上にある話題のように、言う。
「2年前。今宵の結婚式で会ったときには怖くて聞けなかったんだけど――。どうして、俺のことを許せたんだ?」
「あー……。高校生の時、公園で暁が言った言葉は本当に酷かったもんね」
困ったような表情を浮かべる今宵につられて、俺は苦笑しながら「そうだよな、ごめん」と謝罪した。
「暁を結婚式に呼んだのは、やっぱり幸せになったあたしを見せたかったから、なんだけど。実際暁が本心から喜んでくれていたのがすぐにわかってさ。なんだか怒ってるのがバカバカしくなった。それに……勘違いだったのかもしれないけど。あたしが夫と笑いあっていた時。暁が少しだけ、悲しそうにしてたのを見てさ――あたしはそれで、満足しちゃった」
意地悪な笑顔を浮かべて、今宵は続けて俺に問う。
「こっちからも一つ質問なんだけどさ。暁はあたしを振ったこと、後悔してる?」
今宵からの質問に、俺はかつて彼女に『死ぬなら、あたしが幸せになったのをその目でちゃんと確かめて、心底後悔してから死んで』と告げられたことを思い出し、答えた。
「ああ、心底後悔してるよ」
俺の言葉に、今宵はクスリと笑ってから、
「ざまぁみろ。後悔したって、もう遅いから」
と、楽しそうに言った。
その美しい表情を見て、俺が彼女に別れを告げたことが間違いではなかったのだと確信した。
「いつの間にか、お家に着いちゃった。せっかくだし、お茶でも飲んでいく?」
「いや、良いよ。もう少し、散歩したいし」
俺は、今宵の誘いを断ってから、彼女に荷物を返した。
「そっか。それじゃあ、荷物運んでくれて、ありがとね暁」
「ああ、それじゃあな」
今宵に別れを告げてから、俺は再び歩き始めた。
「あのさ、暁!」
そんな俺の背中に、彼女は声を掛けた。
「何?」
俺は振り返って、尋ねる。
「……暁もさ、もう幸せになって良いんだよ?」
その言葉は、いつか、どこかの世界で。
かつての今宵が俺に言ってくれた言葉、そのままだった。
俺は無言のまま、苦笑をしながら頷いた。
今宵は知らない。
繰り返した時間の中で、俺が多くの人を不幸にしてしまったことを。
それなのに、今さら俺が幸せになろうとするなんて――許されることではない。
だから俺は、想いを寄せる那月に対して、これまで自らの気持ちを伝えられないでいたのだ。
俺は思案をしながら歩き続け、かつて今宵に別れを告げた、展望台に辿り着いていた。
高校時代は平然とここまで来ることが出来たのに、今は呼吸を乱し、身体も汗ばんでいる。
ベンチに腰掛けようと見ると、そこには先客がいた。
「なんで……ここにいんの?」
「私がいちゃ悪い?」
俺が質問をした相手は――東京で暮らしているはずの、那月だった。
「良いとか悪いとかじゃなくて、なんか普通に怖いんだけど……」
俺が引き気味に言うと、那月は咳ばらいをしてから言う。
「直接話したいことがあったから、あんたがお気に入りの場所で待ってたってわけ」
俺は那月のことを大切に想っているので、決して口には出さないのだが、彼女のやっていることはほとんどストーカーだった。
俺が無言で那月を見ていると、彼女は顔を真っ赤にして「な、なによ……?」と呟いた。
「いや、気にしないでくれ。それで……話したいことって、何だ?」
俺の言葉を聞いてから、彼女は恨めしそうにこちらを見てから、大きく溜め息を吐いてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私の人生、あんたのせいでめちゃくちゃよ」
その言葉に反して、彼女の表情は柔らかかった。
「卒業式の前日。一緒に屋上から飛び降りて、生き残って。良いことも悪いことも、たくさんあった。でも、良いことがあるときは、やっぱり決まってあんたが私の隣にいた。それなのに、私を置いて死なれたら、困る。……事故に遭ったって聞いて、本当に心配したから。だから、ほんの少しだけフライングだけど、次に会った時は言おうって決めてたの」
那月は真剣な表情で、まっすぐに俺を見て告げた。
「あれからもう、10年経ったわよ?」
那月が何を言いたいのか、分からないような鈍感ではない。
だけど俺の心には、複雑な思いが渦巻いている。
「俺は――幸せになっちゃいけないんだ」
「知ったことじゃないわよ、そんなの」
俺の言葉に、那月はばかばかしいとでも言いたげな態度で言う。
「あんたが幸せになっちゃいけないと思ってるなら、別にそれでいいの。でもあんたには、私を生かした責任がある。つまり……私のことを、幸せにする義務がある」
責めるような口調で、諭すような表情で――。
「私はね、10年前のあの日からあんたのために生きているの。だからあんたは、これから一生私のために生きなくちゃダメなの」
那月未来は、まっすぐに自分の想いを俺に伝える。
「だから言いなさい、今度こそ。10年前のあの時、私に言ってくれなかった言葉を」
俺は――怖かったのだ。
1度目と4度目。
俺は決まって、28歳の8月に死んでいた。
だから今回も、同じように28歳の8月に死んでしまうのではないかと、そう恐れていた。
もしも那月と結ばれた上で死んでしまった場合、彼女を一人残してこの世を去ることが、後悔になると思った。
――そのことを言い訳にして、俺は彼女とまっすぐに向き合えなかった。
俺が後悔を抱えたまま死ぬことによって起こるタイムリープという現象が、この先に起こらない保証はない。
あの原因不明の悪夢に、俺は今も脅かされ続けている。
――だけどもう、どうしようもなかった。
先月、28歳の8月に俺は交通事故に遭った。
やっぱり俺は、死んでしまうのか。
そう思った時――どうしようもなく、俺は後悔をしていた。
『死ぬ前に、那月に想いを伝えるべきだった――』と。
那月未来。
多分、君の全てに魅せられたその時から――。
俺の結末は、定められてしまったのだ。
もう二度と繰り返さないように。
もう一度、君と死ぬことを……。
「この先俺は、那月のために生きていく。幸せな家庭を作って、俺たちは皺だらけの爺さん婆さんになって、お互い最後の時には悔いなく『良い人生だったな』って言い合えるように、俺はこれから先も、那月の傍で生きて――そして、死ぬから。俺と、ずっと一緒にいてください」
俺の言葉を聞いた那月は、顔を真っ赤にして俯いて、「そこまで言えとは、言ってない」と呟いた。
それから顔を上げて、俺を見た彼女は驚いた表情を浮かべた。
彼女は俺に歩み寄り、そしていつの間にか俺の頬を流れていた涙を拭った。
少しだけ笑って、そして困っているような、喜んでいるような表情を浮かべて、彼女は俺に向かって言う。
「約束する」
それは、俺と那月の関係が始まったあの日に告げられた言葉と同じで。
「私が死ぬときは――あんたと一緒に、死んであげる」
だけどその言葉に込められているのは、全く別の温かな想いだと、俺はもう知っていた。