「ねえ、昨日の『Color』のライブ見た? ユンくん、まじで推し」
「本当それ! ずっとテレビ陣取ってたから、親が勉強しなさいってうるさかったけど、あのライブ映像を見ずに勉強なんてできるわけないっての」
シンナーの香りのする美術室で、後ろの女子たちの話し声が嫌に響いて聞こえる。
5分前に先生が「職員室に忘れ物をとりに行ってくる」と言って出て行ってから、ずっとみんな、ざわざわと近くの席の人たちと話している。自画像を描きなさいという課題は、彼彼女たちの頭の中からはとっくに忘れ去られていた。
きゃははっという女子の笑い声が、耳障りで顔を顰める。
ダメだ。集中、集中しよう。
色のない紙の上を、さらさらと鉛筆の線が走っていく。
鏡を見ながら指先で左の頬を撫で、自分の顔の形を確認する。
見たまま、感じたままに描いた自画像は、どこか不格好で、それでいてちっとも特徴がないように見えた。
ちょうどその時、後ろの席の子の肘が私の右腕に当たり紙の上を滑らせていた鉛筆の線が、びいんと机の方まではみ出した。
「うわ〜ごめん。てか織部、なに真面目に自画像なんて描いてんの?」
小山内美雪。このクラスのボスである彼女は、先ほど韓国系アイドルグループの『Color』の話をしていた人物だ。
「本当だよ。せんせーいないのに。織部もあたしらの話混ざる?」
美雪の隣から声をかけてきたのは、美雪の一番の仲良しである林蘭。
「……いや、私はちょっと。そういうの、興味ないし……」
早く課題を終わらせたいのに、どうして話しかけてくるんだろう。
そっけなく答えた私に、美雪と蘭は顔を見合わせて、ひどくつまらなそうに無表情になった。
「そっか。織部は推しとかいないんだよね。彩葉って名前も、全然似合ってないし。あんたの人生、灰色じゃん」
「まじでそれ! 推しがいないなんて、何のために生きてるの?」
きゃはは、という笑い声がもう一度耳に響いて、私は瞬時に両耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
やめて、それ以上何も言わないで。
心の中では立派に抵抗できるのに、自分よりも発言力のある人を前にすると、なんにも言えなくなる。私は、自分のことを何一つ主張することができない。
控えめだとか大人しいとかよく言われるけれど、一番言われるのは、「織部さんって、自分がないよね」という言葉だ。
自分がない。
つまり、空っぽだということ。
そんなふうに言われるたび、私は惨めな気持ちに苛まれる。
「このクラスで推しがいないっていう女子、織部だけじゃん」
「うわ、それって孤高アピール? そういえば織部、SNS一個もしてないんだっけ。おかげでクラス会の連絡もできなかったんだよ」
はっきり言って迷惑、とでも言いたげな様子で蘭が私を睨みつける。
授業中なのに、躊躇なく人を見下せる彼女たちが、私には獣のように見えた。
二人の言う通り、私には“推し”がいない。
クラスのみんな、大抵一人は自分の中に“推し”が存在する。“推し”はアイドルグループだったり、漫画やアニメのキャラクターだったり、声優や俳優だったり、様々だ。推し活だから東京に行くって、学校を休む人までいる。だけど、私には何かを推すということが、どういうことなのかが分からない。恋をしているのとも違うというけれど、具体的にどんな気持ちなのか。分からないから、女子たちの会話にはうまく入れない。世間の“推しブーム”に、私は一人、大海原に取り残された気分だ。
元々の性格も相まって、私は完全にクラスメイトの女子から孤立していた。
さらに蘭の言うように、私はZ世代としては天然記念物レベルに珍しく、SNSを一つもしていない。だから、学校以外で誰かと連絡を取ることもない。先週、一年一組で三学期お疲れ様のクラス会があったという話だって、昨日まで知らなかった。
私にだって、好きなことはあるのに……。
歪んだ鉛筆の線が、白い紙の上で孤独な私を嘲笑うかのように滲んで見える。
なんでだろうって不思議に思っていると、自分の瞳の縁に涙が溜まっているのだと気づいた。
「はいはい、課題は終わりましたか?」
忘れ物を取りに行っていた先生が、美術室に戻ってきた。
さっきまでガヤガヤと話していたクラスのみんなが、途端に口を塞ぎ静まり返る。
「あれ、どうかしました? 自画像、描き終わったものは後ろの人から集めてください」
先生だって、クラスのみんなの雰囲気がきゅっとコンパクトに縮こまっていることに気づいたのだろう。でも、何も注意をすることはなく、淡々と課題を集め始めた。
私は、完成させられなかった不恰好な自画像を、一番後ろの席の人に集めてもらおうと振り返ったけれど、その人は私の席を通り過ぎて一つ前の席の子の課題を受け取った。
仕方なく、教室から出る間際に自分で先生の元へと持っていく。
線のはみ出した中途半端な絵を見られたくなくて、先生と目を合わせることなく、そそくさと教室を後にした。
*
推しがいなくて、SNSもやっていない私は、文字通りクラスで浮いていた。
浮いているどころか、友達は一人もいない。
だから私はいつも一人、教室で絵を描いて過ごしている。
友達なんて、この先一生できるはずがない。
友達がいなくても、私には大好きな絵があるから——なんて、割り切れるはずがなかった。
私だって、大切だと思える友達がほしい。
放課後にカラオケに行ったり、ファミレスに行ってしょうもない話をしたりする友達が。
でも、そんな私の些細な願いは、叶わないことなのかな……。
毎日、絶望感に苛まれながら教室の扉を開ける。今日は。今日こそは誰かと友達になろう。話しかけてみよう。ほら、私と同じくらい控えめなあの子なら。いつも席で本を読んでるあの子なら。大丈夫なはずだ——と精一杯勇気を振り絞ってみる。でも、どうしてもダメだ。「織部さんは空っぽ」だって、また言われないか不安で仕方がないのだ。
こうして折り合いのつかない気持ちと葛藤しながら、結局友達ができずに迎えることになった高校二年生の一学期、始業式の日。例年より満開が遅くなった桜が、校門を囲むようにして咲いていた。桜の花びらが、ふわりふわりと左右に揺れて地面に落下する。桜は、枝から落ちた後も、アルファルトの地面を桃色に染めて、とても綺麗だ。下ばかり見て歩いている私だから、散ってしまった桜の花びらに目がいってしまう。
二年一組は、一年生の時からの持ち上がりのクラスだった。
だからメンバーは変わらない。
その事実に軽くめまいを覚えながら、私は今日、教室の扉を開けた。
私を見かけた時のみんなの視線が、「なんだアイツか」とつまらなそうなものに変わる。自分に向かってくる感情が、明るいものではないのだとすぐに分かってしまう。
二年生になったって、何も変わらない。
変わらないと、思っていた。
でもこの日、私はとある人物と初めて視線を交わして、自分の中で、新しい感情が芽生えていくのを感じた。それが希望だと気づいた時、校門で散ってもなお人の心を癒すあの桜の花びらを思い出した。
その人のことを、みんな「アイ」と呼んだ。アイが自ら、そう呼んでくれていいと言ったのだ。
アイは転校生だった。黒板に書かれた「愛」という漢字が、そこだけ熱を帯びているように赤く染まっているように見える。漢字に対するただのイメージだけど。教卓の前に立っているクール系のアイとは、どこか不釣り合いだという気はした。
色素の薄い髪の毛は艶を帯び、同じく瞳も外国人のような美しいな輝きを放っている。宝石みたいだ、という言葉がこれほど似合う人物に、私はいまだかつて出会ったことがない。
軽い挨拶をして頭を下げたアイと、教室のど真ん中の席に座っていた私は自然と目が合った。あ、どうも、というようにもう一度軽く頭を下げるアイ。私は、アイにつられてぺこりとお辞儀をした。そんな私に、クラスメイトたちが奇異な目を向けているのが分かって痛かった。
でも、どうしてかアイとはシンパシーを覚えた。たったの数秒目が合っただけなのに、ずっと前から友達だった、みたいな。運命の人ならぬ、運命の友達。そんな陳腐な表現が頭の中に浮かんで、ばかなことを考えるなと、大きく首を振る。
「いって、周り見ろよ織部」
私の髪の毛が隣の男子に当たり、きつく睨まれた。
私は身をすくめて、ごめんなさいと小さく呟く。
きっとアイも同じだ。
期待なんかしない方がいい。
そう思う反面、もしかしたら、この人となら仲良くなれるかもしれないという微かな希望が胸の中で渦巻く。根拠のない自信は持つなって、最近お兄ちゃんによく言われる。ろくに練習もしていないのに自信満々で出たバスケの試合で、木っ端微塵にやられてしまったからだそう。
だけどこの時ばかりは、根拠のない自信に心救われていた。
それから数日してアイが教室の中に溶け込むようになると、アイは最初のイメージと違って朗らかでよく笑う人だと分かった。
「ねえねえ、アイって血液型何型?」
「O型」
「お前そんな質問してどうすんだよ」
「いいじゃんいいじゃん! なんでも知りたいんだって」
「なんでも聞いてくれて構わないよ」
「優し〜。あ、じゃあ好きな食べ物は? 趣味は? 恋人はいますかー?」
「好きな食べ物はオムライス。趣味はピアノ。恋人は……いないよ」
新人に興味津々のクラスメイトたちからの質問攻めにも、嫌な顔一つせずに答えていくアイ。恋人のところで一瞬眉を顰めたような気もしたが、この質問だけ突っ込んだ質問だったので、ちょっと困っただけだろう。それでもきちんと答えていて、好感度が高い。
もしかしたら自分と同類かもしれない、なんて思った少し前の自分をなじってやりたい。
やっぱり、私と気が合うはずなんてない。
あんなに綺麗な顔をしていて、見た目と名前にギャップがあって。性格だって朗らかで明るくて。
根暗で世間のブームについていけなくて、友達がいなくて、むしろみんなから嫌われてる私とは、正反対だ……。
わずかに芽生えた希望の光も、すぐに空気に溶けてしまう。この感じ。一度じゃない。今まで何度も、同じような目に遭った。アイのせいじゃないはずなのに、アイのことを少し恨めしく思う。
アイも結局、“あちら側”の人間だ。
私と人生の道を交えることなんて、この先一度だってないだろう。
目が合っただけで自分と同じだと感じたのは、私だけだ。
その証拠に、あの挨拶の時以降、アイは私と目を合わせようとしない。
運命の友達だなんて思ったのも、私の一方的な片想い。
私はその日、家に帰ると、趣味で使っているスケッチブックに、アイの絵を描き始めた。あの煌めきを身に纏うアイのことを、どうしても描きたくて。手に入らないと思ったからこそ、私だけのアイを私の掌の中に収めておきたいという、ひどく独善的な理由だった。
まず初めに鉛筆でデッサンをし、線を重ねていく。輪郭も艶のある髪の毛も、すべて記憶のまま、アイを描き出す。あの美しい瞳には、最後に光の珠を入れる。
その一つ一つの作業は、とても神経がいった。
少しでもずれてしまったら、完璧なアイの像が、私の中で壊れてしまうような気がして。
アイのことが手に入らないと分かっているからこそ、描き出すアイは特別なものにしたかった。
「アイ、私と友達になってくれないよね」
アイの絵に問いかける淋しい声は、部屋の中の静寂に溶けて消えた。
そうやって私は、アイのことを簡単に諦めた。
でも、この時の私はアイについて、ほんの1%も知らなかったのだ。
アイが二年一組に転校してきてから一ヶ月が経った。
その間、“二年一組にとっても美しい転校生がいる”という噂が学校中を駆け巡った。連日のように、噂の転校生を一目拝みたいという人波が押し寄せる。やって来る人たちは、同級生だけじゃない。一年生も三年生もいた。私は、アイがいろんな人の好奇の視線に晒されるたび、なぜか心臓が鷲掴みされるような居心地の悪さを覚えた。
だけど、そうやってアイの噂に学校中の視線が集まるたびに、クラスメイトたちの私に対する嫌がらせは少なくなっていた。アイのおかげだ。それなのに私は、いまだアイに話しかけることもできず、今でも教室で一人ぼっち。
きっとこのまま、私という存在は誰の心にも留まらない。
友達がいなくて、彩りのない人生を、私はこれからも送っていくんだろうって、諦めているんだ……——。
アイは、そんな私とは正反対で、学年・男女関係なくよくモテる。
それは、この一ヶ月間にアイが告白されたという噂を耳にしていれば、よく分かった。
でも、アイはどの人からの告白も「ごめんなさい」の一言ですべて断っているようだ。
最初はみんな、転校早々告白されまくるアイの気持ちを慮って「アイって大変だね」と同情していた。でも、告白を断る回数が三回、四回、五回と増えていくうちに、次第にクラスメイトたちのアイを見る視線が、冷たくなっていくのに気づいた。
ある日の放課後、いつも私のことを“空っぽ”だと揶揄していた美雪や蘭、その取り巻きたちが、鞄を肩にかけて教室から出ようとするアイを取り囲んだ。同じように、教室から出ようとした私は、反射的にまずい、と察知する。
アイを囲んでいる彼らは、アイが転校してきてからしばらく、アイを持ち上げて仲良くしようとしていた人たちだ。でも、彼らの一つ一つの目が、意地悪く吊り上がっている。見たことがある。私も、いつも同じ視線を向けられているから。
「アイさぁ〜、ちょっと調子乗りすぎじゃない?」
善良な人間のなめらかな心に、尖った刃を突き立てるみたいに、美雪が牙を向いた。
「……」
アイは何も答えない。突如降りかかってきたはっきりとした悪意に、戸惑っているように見えた。
「ちょっと、聞いてる? 吉井も、赤坂も、和田も、みんなあんたに告白して振られたって、泣きついてきたんだけど。『ごめんなさい』って一言だけ言って去って行ったって、あんまりだって言ってたわよ。なんで? そんなふうに済ました顔してのうのうと学校に来られるの? あんたはたくさんの人を、傷つけてる」
ねっとりとした声色に、当事者ではない私の方が、吐き気を覚えた。
私のいる位置からは、アイの横顔しか見えない。でも、普段はみんなと朗らかに会話をしているアイの頬がこわばっていることはよく分かった。
「そんなこと、言われても」
美雪だけじゃない。蘭や、他の取り巻きたちの圧を感じたアイが、ふっとそれだけ吐き出して黙り込む。いつものアイなら、もっと上手く立ち回れそうなのに。この時ばかりは、心が萎えているようだった。
「ちょっと、みんなを傷つけたのに、謝罪は何もなし? ちょっとモテるからって、調子乗ってんじゃないよ。最初は綺麗な顔して喋りやすいからって思ってたのに、最低だね」
ただ、他人を傷つけるためだけに生まれた言葉が、アイを通り越して、私の胸を突き刺した。
違う。アイはそんなんじゃないのに。
アイは誰かを傷つけようと思って、告白を断っているわけではない。
アイと話したことはないけれど、アイが悪人ではないことだけは分かる。
私は、この場で何もできない自分に歯痒さを覚えて、奥歯をギリギリと噛み締める。もう、言ってやろうか。アイはそんな人間じゃないって。自分のことなら反撃なんかできそうにないのに、どうしてか、アイの尊厳を守るためならば美雪たちに言い返せそうな気がしたのだ。
「あの——」
私は拳を握り締め、自分では精一杯の大きな声を出して彼らの会話に割り込もうとした。けれど、私が意味のある言葉を発するよりも先に、アイの口が開いた。
「自分は、告白とは関係のない人たちに謝らなきゃいけないようなことはしてないはずだよ」
自分、という聞き慣れない一人称を使うアイが、透明な声でそう告げた。とてもはっきりとした口調で、美雪たちに有無を言わさない強さがあった。私は、喉元まで出かけていた抗議の声を唾と一緒に飲み込む。生ぬるい感触が、気持ち悪い。
アイの抗議の言葉に、美雪や蘭たちが一歩後ずさる。彼女たちにとっても、予想外の展開だったのだろう。たぶん美雪たちは、私のようにアイが口ごたえできないことを狙って、意地悪なことを言ったのだ。でもアイは違った。アイは、私なんかとは違う。自分の意思を強く持って、毅然とした態度で彼女たちに刃向かった。
「……もういいっ」
返す言葉がなくなった美雪が、そっぽを向いて教室から出ていく。
美雪の後を追って、蘭と取り巻きたちもぞろぞろと教室を後にした。
「何あれ、美雪に逆らうなんてやばいやつ」
と、廊下から蘭の下品な声が聞こえてくる。きっと、アイの耳にも届いているはずだ。でもアイは、顔色ひとつ変えることなく、美雪たちが去っていったあと、たっぷり間を置いてから教室を出ようとした。
私は、慌ててアイの元へと駆け寄る。どうしてだろう。今、話しかけなければ、もう二度とアイと視線を交わすことができないような気がした。
「あの! 私、織部、彩葉、です。さっきの会話、聞いちゃって……」
初めてだった。アイに面と向かって声をかけるのは。アイが教室の扉が出られないようにして、アイの正面に立ちはだかる。アイはとても驚いた顔をして私を二度見した。
「知ってる、けど」
「え?」
「だから、織部彩葉って名前。クラスメイトなんだから、知ってて当たり前だよ」
「そっか……そうだよね」
アイのきっぱりとした物言いに、先ほどの美雪たちではないが、私も少したじろいでしまう。アイの瞳は水晶玉みたいにキラキラ光ってて、その目に見つめられると、私の心臓は不自然なほど大きく脈打ち始める。
「彩葉って名前、とっても綺麗だと思って。だから話したことなくても覚えてた。物覚えは悪い方なんだけどね」
ふっと目を細めて笑うアイ。
私は、アイの柔らかな声に包まれるような心地がして、ひどく安堵していた。
「綺麗だなんて、言ってもらったの、初めて。私って、“空っぽ”だって言われるから」
「空っぽ? どうして?」
アイの瞳が純粋な疑問の色を帯びている。
私はアイに、クラスメイトから受けている仕打ちを話そうか迷った。きっと話さなくても、薄々は気づいているだろうけれど。アイになら、素直な自分を曝け出してもいいような気がする。
「最近さ、推し活って流行ってるでしょう? そういうの、私にはよく分からなくて。推しと呼べるものが、自分にはないの。SNSも、特に面白いって感じないからやってなくて。私は、それでいいと思ってた。でもそんな私を、美雪たちは疎ましく思ってるみたい。推しの話も、クラスの女子みんなでSNSにアップする動画を撮ろうって話も、ついていけないから。彩葉って名前なのに、空っぽで、灰色の人生だって言われるんだ」
口にすると、自分が思ったより傷ついていることに気がつく。
ああ、私は。みんなから“普通の女子高生”とは違うように見られていることが、つらいんだ。
大丈夫だと思っていても、心には少しずつ切り傷みたいなものが刻まれていく。痛みに気づかないように鈍感なふりをしていたけれど、私はたぶん、痛みを我慢できなくなっている。
アイは突然の私の告白を聞いて、どう思っただろう。
重たい女だと感じたかもしれない。
ちっぽけな悩みだって、笑われるかもしれない。
怖くて、ぎゅっと両目を瞑った。
「……これは自分の勝手な見解だけど」
アイの声が、閉じた瞼の向こうから降ってくる。
私はごくりと生唾を飲み込んだ。
「彩葉が、好きなものだけを好きだと思えばいいんじゃないかな。周りの人からどう思われようと、自分が好きなものを好きって言えばいい。だからさ、誰かに嫌われても、素直な自分でいようよ」
「素直な自分……? でもそうしたら、友達がいなくなっちゃうよ。私は、友達がほしい。なんでも話せる友達。心を許せる友達が」
「それなら、自分と友達になろう」
「え?」
アイからの提案に、私はどきりとした。それと同時に、湧き上がってくる言いようもないほどの喜び。迸る柔らかな希望の光が、目の前にいるアイの瞳の中に宿っている。そこに映る私の表情が、鏡で見る暗い顔をした自分とは違って見えた。
「友達になるの、嫌?」
戸惑う私に、アイの透明な声がもう一度問いかける。
「ううん、なりたい。私、アイと友達になりたいっ」
感情のままに、私はそう口にしていた。途端、アイの綺麗な形をした目が、にゅっと細くなって、漫画の主人公みたいに笑う。
「よかった。それじゃあ、今日から友達だよ。あ、さっき言い忘れてたけど、話しかけてくれてありがとう。すごく嬉しかった」
アイの笑顔が、大輪のひまわりのようだと思う。
嬉しかったというその言葉だけで、私の胸はすっと軽くなった。
孤独だった高校生活に、ほのかな光が差した瞬間だった。
「えー今日は二人でペアをつくって、お互いの泳ぎ方を指摘し合う授業だ。みんな、誰でもいいからペアをつくって」
アイと初めて言葉を交わしてから二週間が経った。
私は、プールサイドの端っこに立っているアイの姿を、ぼんやりと眺めていた。
……やっぱりアイは、きれいだ。
もともと、色素の薄い髪の毛が太陽の光に反射して宝石みたいにキラキラと輝いている。艶のある光の輪が、アイの髪の表面に浮かぶ。パサついた髪の毛をした私とは正反対だ。
あの日からアイとは、昼休みや放課後に少し話をしている。というのも、アイも最近クラスで一人になることが多いからだ。きっと、美雪や蘭が、周りのクラスメイトたちにアイに関わらないように指令を出しているに違いない。アイは美雪たちに正論をぶつけていたから、それが気に食わなかったんだろう。
アイと少し話ができるようになったとはいえ、あまり深い会話はできていない。挨拶とか、今アイがハマってるアニメの話とか、その程度だ。
今日は今年初めての水泳の授業の日。梅雨の時期なので雨になることも多いけれど、幸い晴れだった。普段の体育は男女別で授業をするのだが、水泳だけは別だ。何しろ、プールが学校に一つしかないから。
「ねえ、なんでこの歳になって男子と一緒なのお?」
不満気な美雪の声が、プールサイドに響き渡る。そう言いつつも、男子と一緒に水泳をできることが嬉しいのか、頬を染めて男子の方を見ている。男子も男子で、下心がばれないようにこちら側を見ているのが分かった。
「はい、文句はあとで聞くからなー。さっさとペアつくれ」
体育の先生が美雪の文句を軽く流し、生徒たちに二人組になるように促す。
女子は文句を垂れ流しながらも、楽しそうにペアを組み始めた。男子も、仲の良いメンバー同士がペアになる。
当然、私は誰ともペアをつくることができなかった。目の前で次々と繰り広げられるペア決めに、置いてきぼりをくらったように、その場で立ち尽くす。
「あー、織部は、雨宮とペアでもいいか?」
先生が、ペアづくりであぶれた私と、アイの苗字を告げる。
「え? あ、はい」
アイが、私と同じようにペアをつくれていないことに今気がついた私は、アイの方に視線を向ける。アイは私を見て、ゆっくりと微笑んだ。
アイのそばに進むと、クラスメイトたちが私たちをじっと見ていた。でも私は、そんな彼らの視線には気づかないふりをして、アイだけを求める。
アイがいれば、私は一人にならない。
その事実が、教室の中で凍りついていた私の孤独心を溶かしていく。
「よろしくね、彩葉」
「こちらこそ、よろしくアイ」
私たちが人知れず仲良くしていることを、みんなは知らないだろう。私もアイも、二人だけの居場所をつくった。この密やかな関係は、誰にも侵されたくない。
「じゃあ、二人組で泳ぎの練習をするぞー。片方がクロールをして、もう片方がその様子を見る。お互いに同じことをして、良かったところと改善すべきところをアドバイスして」
先生の指示通りに、クラスの半分の生徒がプールへと身体を浸す。
「先に私からでいいかな?」
「うん、いいよ」
私はアイの了承を得てから、プールへと入った。蒸し暑い季節とはいえ、プールの水は冷たくて、ぶるりと身体を震わせる。そんな私を見て、アイがククッと小さく笑う。
「それじゃあいくぞ。よーい、はじめっ!」
先生の合図とともに、私を含めたクラスメイトの半分がクロールを始めた。
水泳は小学生の頃に習っていたので、得意な方だ。
クロールは一番基本の泳ぎ。私は、精一杯腕で水を掻いて、足で水を蹴った。
久しぶりだったけれど、身体は泳ぎ方をしっかりと覚えている。
しばらく順調に泳ぎを進めた。もう少しで二十五m地点に到達する。向こうのプールの壁が見えてきた。しっかり息継ぎをして、腕を動かして。大丈夫、もうすぐゴールだ——そう思ったとき、私は誰かに足をぐっと引っ張られた。
「えっ!?」
声を上げたのは私ではない。プールサイドで私のことを見てくれていたアイだった。
突然、何者かによって足を取られてしまった私は、バランスを崩して水の中に沈む。
誰かに足を引っ張られた衝撃で、足がつって、思うように動かせない。
く、苦しいっ。
ごぼごぼと水面で空気と水を一度に吸ってしまい、水が気管に入り込む。
どうしよう。苦しい……このままじゃ、私——。
水の外で、クラスメイトたちがざわめく声が聞こえる。「おい、大丈夫か!」と先生が叫ぶ声も。でもそのどれもが、私をこの苦しみから救ってくれるとは思えなかった。
私、このまま死ぬ……?
恐怖心と共に意識が遠のいていきそうになった時、ばしゃん、と近くで水が跳ねる音が聞こえると同時に、誰かに身体を持ち上げられた。
「彩葉っ!」
私をプールサイドまで引っ張り上げてくれたアイが、声を張り上げて私の名前を叫ぶ。
駆けつけた先生と一緒に、何度も名前を呼んでくれた。
「アイ……」
幸いはっきりと意識を取り戻した私は、うっすらと目を開けてアイと先生の顔を交互に見た。最初、ぼんやりとしていた視界がだんだんとクリアになっていく。アイが不安で押しつぶされそうな表情をしていたけれど、すぐにほっと安心したものに変わった。
「よ、よかった……。どうなっちゃうかと、思った」
深く息を吐くアイの肩に、先生がぽんと手を置く。
「ありがとう、雨宮。お前のおかげで織部が助かった」
先生もきっと、動転したことだろう。生徒が溺れる様子を目の当たりにしてしまったんだから。
「織部、大丈夫か? すまない。俺の監督不足だ」
先生が頭を垂れて私に謝る。私はすぐに首を横に振る。
私が溺れたのは先生のせいではない。
たぶん、美雪か蘭のどちらかが私の足を引っ張ったんだ——。
遠くのプールサイドに立ち尽くすクラスメイトたちが、複雑な表情で私たちを見つめている。哀れみでも悦びでもない。彼らは、私たちのことを、迷いなく私を助けたアイのことを、どう思っているんだろうか……。
「先生、織部さんを保健室に連れて行ってもいいですか? 自分も、ちょっと休みたくて」
「あ、ああ。そうだな。二人とも、今日は保健室でしばらく休みなさい」
アイの提案で、私はアイと共に保健室に向かうことにした。身体を拭いて制服に着替え、まだ乾き切っていない髪の毛をタオルで拭きながら、廊下を歩く。足の痺れはすっかり良くなっていた。
「アイ、助けてくれてありがとう」
「ううん。友達なんだから当たり前だよ。あの人……小山内さんが、彩葉の足を引っ張ったってすぐに分かって、ぞっとした。とにかく助け
なきゃって、必死だった」
アイのまっすぐな言葉が灯火となって、恐怖心で凍りついていた私の心を簡単に溶かしてくれる。
ああ、好きだなぁ。
アイのこと、私は特別な存在だと思っている。
もちろんこの「好き」は友達として、に違いないのだけれど。こんなにも心がぽっと照らされて温かく、澄んだ秋の空みたいに和らいでいく感覚は初めてだった。
保健室にたどり着くと、養護教諭の先生が私たちから事情を聞いてくれた。
しばらく休みなさい、と言ってくれたので、私はアイと並んでベッドに腰掛ける。
先生は仕事が忙しいのか、「ちょっと空けるわね。誰か来たら、職員室にいるから」と言って保健室から出て行った。私たちは自然に二人きりになった。
「アイ、改めてさっきはありがとう。私、あのまま死ぬんじゃないかってすごく怖かった。だから助けてくれて涙が出そうなほど嬉しかったんだ」
隣に腰掛けるアイの吐息を感じながら、私はびっくりするほど素直に自分の感情が溢れ出していた。私は、怖かったんだ。美雪に足を引っ張られて、足が動かなくなって。生まれて初めて溺れる経験をして。このまま空気が吸えなくなるんじゃないかって、本当に怖かった。
「どういたしまして。でも本当は自分もさ、すごい怖かった。助けられなかったらどうしようって、一瞬頭をよぎったんだ」
アイは、私の方を見ずに、保健室の窓の外を眺めていた。体育の授業でサッカーをしている生徒が、あちらこちらへと駆け回る。「そっちパス!」「ナイス!」などという微笑ましい掛け声が聞こえてきて、私は泣きそうになった。
私に優しい声をかけてくれるのはきっと、後にも先にもアイだけだ。
アイだけが、私を孤独の海から引っ張り上げてくれる。
「そっか。怖かったのに、助けてくれて本当にありがとう。アイのおかげで、私は今生きてる」
大袈裟かもしれないけれど、あのまま溺れていたら命だって危なかったかもしれない。
そう思うと、アイはただの友達ではなくて、私の命の恩人だった。
「……助けられなかったことが、あるんだ」
「え?」
アイの囁くような声に、後悔の色が滲んでいる。
驚いて見たアイの横顔は、あの美しい瞳に鈍色の光を宿す。
「両親が、事故で死んで。自分が、大雨の日に喧嘩して家を飛び出して。一級河川がある町に住んでたんだ。雨で川が氾濫していて、大雨洪水警報がずっと鳴り止まなかった。そんな日に家を飛び出した自分は、川に流されかけた。あとで追いかけてきて自分を助けてくれた両親が、身代わりになって流された。自分は無我夢中で両親を助けようとしたけど、手が届かなくて……そのまま。それから親戚の家に引き取られて、この学校に転校してきたんだよ」
アイの心を巣食う大きな後悔の塊が、一気に吐き出される。
まさか……まさかそんな。
アイが、ご両親を失っていたなんて。
強くて、綺麗で、いつも凛としているアイ。
みんなの憧れで、性別問わず告白され続けるアイ。
そんなアイに、これほどまでに壮絶な過去があるなんて、知らなかった。
私は、震えているアイの身体にそっと触れて、ぎゅっと抱きしめた。アイの身体がぴくりと反応する。驚いているのだろうということはすぐにわかった。心臓がバクバクして止まらない。こんなこと、今まで一度だってしたことがない。恥ずかしい気持ちはあったけれど、それ以上にアイの心を少しでも慰めたかった。
「彩葉……」
アイが、私を求めるように、胸の前に回された私の腕をぎゅっと握る。
アイと初めて、繋がれた瞬間だった。
「ねえ、アイ。辛かったね……。でも、アイは強いよ。そんなに大変なことがあったのに、いつもきらきら輝いてる。私は……空っぽだった私は、アイと出会って、毎日心が満たされてくんだよ」
アイが息をのむ音が、アイの身体の中で脈打つ心臓の音が、私にはすべてはっきりと聞こえていた。アイの身体は温かくて、晴れた日に干したばかりのお布団みたいだと思った。
私はしばらく、お互いの体温を感じながら、無言の時を過ごした。
言葉はなかったけれど、決して気まずくはない。
ふたりぼっちで胸がぎゅっと締め付けられそう。普通の女子高生と同じ趣味を持たない自分が、こんなふうに誰かと心を通わせられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
私は、アイの身体からそっと自分の身体を離し、最初みたいに隣に腰を下ろした。
「アイ、一個聞いていい?」
「なに?」
「アイはどうして自分のことを『自分』って言うの?」
私は、アイが転校してきてからずっと気になっていたことを聞いた。
「ああ、それは、ちょっと込み入った話になるんだけど……。自分には恋愛感情がないんだ」
「え?」
一人称の話を聞いたのに、アイの口から突如恋愛感情がないという言葉が出てきて、私は目を丸くする。
「恋愛感情がない……異性を、好きにならないってこと?」
震える声で尋ねる。頭上では授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
しかしそんなことにも構わずに、アイは続ける。
「ううん。異性だけじゃない。同性愛だって立派な恋愛だから。自分の場合は、誰も、好きになることがない。そのことにずっと悩んでて。考えすぎてたらさ、自分が何者なのか、分からなくなってきて……。『私』とか『僕』とか、一人称っていっぱいあるけど。どの一人称を使っても、自分がなくなっていくような気がしたんだ。だからずっと『自分』。他者を愛せないやつが、自分のことなんて愛せるはず、ないよねえ」
自重気味に笑うアイが、心の底でずっと苦しんでいたことを曝け出した。
私は、どんな言葉をかけたらいいのか分からなくて、「えっと……」と口籠る。そんな私を見かねたのか、アイは「ごめんごめん」と小さく笑った。
「そんなに深刻な顔しないでよ。今はもう、逆に開き直ってるというか! ほら、誰も好きいならないなら、片想いとかで苦しい思いもしなくて済むでしょ? だから悪いことばかりじゃないって」
私がアイを慰めるはずなのに、なぜか逆に私がアイに慰められてしまう。
「アイはすごいなぁ……。私は、みんなから空っぽだって言われるたび、めちゃくちゃ凹んじゃうから」
アイと話していると、自然とため息が漏れる。アイの強さに、ちょっぴり情けなくなる。
そんな私の心のうちを見破ったのか、アイが「大丈夫」と呟いた。
「彩葉は空っぽなんかじゃないって、前も言ったでしょ。みんなと同じじゃないことに、卑屈にならなくていいんだって」
「そっか……。うん、そうだよね。アイにそう言ってもらえると、大丈夫だって思えるかも」
「うんうん。それでいいんだよ。自分を強く持って」
アイがくれる言葉の一つ一つが、私に向けてくれる微笑みが、びっくりするほど胸にすっと浸透していく。
「ありがとう、アイ。実はね、私、絵を描くのが好きなの。将来、画家になりたいって思ってて……。恥ずかしいけど、アイの絵を描いてもいいかな?」
気がつけば私は、アイにそんなことを聞いていた。
本当はもうすでにアイの絵を描き始めているということは伝えずに。
私の将来の夢を聞いたアイの目が大きく開き、それからふっと優しく微笑んだ。
「素敵な夢だね。ぜひ、描いてほしい」
アイのことを、いちばん近くで見ていたい。
私にはアイがいる。それだけで、空っぽだった私の隙間はどんどん埋まっていくから。
アイと私は、あのプールでの一件以来、学校でも堂々と一緒にいるようになった。そのことを、陰でとやかく言う人たちもいた。あぶれ者の私とアイがデキてるんじゃないかって、不埒な噂まで飛び交った。それでも私は、アイと一緒に行動することをやめない。移動教室の時も、登下校も、アイの隣を歩く私。クラスの垣根を超えれば、まだ学校中の生徒から人気者であるアイは、その後も告白をされ続けた。その度に、罪悪感に塗れながら断り続けるアイのことを、私はいつも隣で励ましている。
アイと私は二人とも電車通学なので、最寄駅まで並んで歩く。その道中に、お墓があるのだけれど、アイは時々お墓の方を見てぼんやりと目を細めることがあった。
「アイどうしたの?」
「ううん。ちょっとね。ここに、おじいちゃんとおばあちゃんが眠ってるから」
「そうなんだ」
アイは転校生なのに、祖父母がこのお墓に眠っているということは、もともとのルーツはこの街にあるのかもしれない。確か、親戚の家で暮らしているって言っていたし。そんなことを考えていると、アイがすぐに「ねえ、駅前のクレープ食べない?」と誘ってくれて、私はお墓のことなんてすぐに頭から抜け落ちた。
私がアイのそばにいることで、私へのやっかみは以前よりもうんと増した。
「あの子、ずっとアイと一緒にいるけど何様のつもり?」
「一組でハブられてるんだって。だからアイに近づこうなんておこがましいよね」
私は、周囲からの声に耳を塞ぎ、自分と、アイだけの世界に浸っていた。現実逃避だと思われても仕方がない。だって、私はあの教室の中では息ができない。アイの隣にいる時しか、私は私でいられないから——。
アイと常に一緒にいるようになってから、さらに一ヶ月の時が流れた。
7月、始まりかけた蝉の合唱が、教室の窓の外でゆらめく陽炎をつくりだしているみたいに、ぐわんぐわんとうるさいくらいに響いていた。
「ねえ、話があるんだけど」
キツイ目をした美雪と蘭が、私の席の前に立ちはだかる。昼休みに、お弁当を食べようとしている時だった。
この日、アイは家の用事で学校を休んでいて、私は教室で一人、なりを潜めていた。
プールで私の足を引っ張った美雪は生徒指導を受け、一時停学処分を受けた。でも、その停学期間も一週間前に終わり、私は再び美雪の監視下にいる。
「なに?」
美雪や蘭とはできる限り会話をしたくない。そんな気持ちが声に滲み出て、暗い影が落ちる。
「あんたさあ、私がプールで足引っ張ったこと、先生にチクったでしょ?」
「まじで最低! なんで自分が足攣ったのを美雪のせいにするの?」
バン、と美雪が私の机に手をついて、衝撃でお弁当が床に落下した。運悪く、反対向きで。お弁当の中の具材が、べちゃりと飛び散った。
何が起こったんだと、教室に残っていた人たちがこちらを振り返る。ああ、またやってるよ。あいつらか、とげんなりしたような表情がたくさん浮かんでいる。私はそんな彼らの顔さえ、見えないふりをした。
「……っ」
悔しくて、私は強く唇を噛み締める。
美雪たちに言い返せない自分に腹が立って、情けなくって、反吐が出そうだ。
こんな時、アイがそばにいてくれたら立ち向かう勇気が出たのかもしれない。けれど今日の私は一人だ。一人の私は、あまりにも脆く、弱い。
私は、口の中に広がる血の味を感じながら、床に転がったお弁当箱を拾って、素手でおかずを拾い始めた。
「黙ってんじゃねえよ」
「きゃっ」
蘭がもう一度、私のお弁当を踏んづけた。私の手も一緒に踏まれて、鋭い痛みが走る。
拾い集めたおかずが、再び床にぐちゃっと落ちて、「汚いなあ」と美雪がせせら笑う。
さすがに見ていられなくなったのか、クラスメイトたちは私たちの方から一斉に目をそらした。
悔しい……。
どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないの……?
私は、悪いことなんて一つもしていないはずなのに——……。
悪意に満ちた空間に耐えられなくなった私は、お弁当箱も、床に飛び散ったおかずの残骸もすべてかなぐり捨てて、教室から飛び出した。
「うわ、あいつ逃げてやがる」
後ろから聞こえてきた蘭の声に、私はやめてと心の中で叫んだ。
やめて、もうやめてっ。
ただ、みんなと同じような趣味がないってだけで、どうしてここまで……。
アイ、やっぱり私は、アイがいないとだめだよ。
自分一人で、自分らしくいるなんてできない。
ありのままの自分を曝け出せば、今みたいに美雪たちに暗い感情をぶつけられるから——。
「ひゃっ!?」
校舎を飛び出して、学校から自宅までなりふり構わず走っていると、何かにつまずいて、前のめりにずでんと転んだ。
「いった……」
住宅街なので、幸い車通りは少なく、誰にも見られずに済んだ。でも、擦りむいた足や腕が痛くて、なかなか起き上がることができない。鼻も地面にぶつけて、目尻から自然と涙が溢れてくる。
痛いのは、身体じゃない。
泣いているのは、心だ。
そうと分かると、さらにやるせない気持ちで満たされていく。悔しくて、地面に拳をぎゅっと押し付ける。身体を持ち上げようと、腕に力を込めるけれど、やっぱり傷がギシギシと痛んだ。
「私なんか、消えちゃえ……」
ぽつりと独りごちた声が、真昼間の住宅街を吹き抜ける風にかき消される。
「彩葉?」
前方から聞き馴染みのある声と、二つの足音が聞こえたのはその時だった。
転んだ体勢のまま、はっと顔だけ上げると、アイと、もう一人、知らない女の子が寄り添って立っているのが目に飛び込んできた。
「アイ……」
「ちょっと、どうしたの!? 大丈夫?」
慌てた様子のアイが、私の元へと駆け寄ってくる。
「う、うん。大丈夫……」
アイに会えて嬉しいという気持ちより、見窄らしい姿を見られて恥ずかしいという気持ちが勝って私は俯いた。
「こんな時間にどうしたの?」
アイは私の肩を掴み、私を立たせてくれる。
「なんでも、ない」
「嘘、なんでもないわけないでしょ」
今日、学校を休んでいたアイとこうして昼間に出会すなんて、さすがに想定外だ。アイの隣に立っていた女の子が、私たちの方を不安げなまなざしで見ている。
「アイ、あの子は……?」
私はアイの言葉には答えずに、ただ一つ疑問に思っていたことを口にした。
女の子は、私たちと同じぐらいか、年下に見える。一体どうして? 家の用事で欠席すると言っていたのに、アイはこんな時間に、学生の女の子と一緒にいるの……?
「あの子は、その……」
アイは分かりやすく口籠る。私は、そんなアイの様子を見て、どうしてか心がすっと固く閉じていくのを感じた。
「……アイは、私じゃなくても、いいんだね」
分かっている。きっと事情があるのだ。
アイにだって、私以外に友達ぐらいいる。だから、私以外の女の子と仲良くしていても、咎められる権利はない。
私が歪んでいるだけなのだ。
私が、みんなと同じじゃないからいけないのだ。
優しくしてくれたアイを、自分のものだと思っている私が悪い——。
だけど、今日までずっと心の支えにしていたアイに、裏切られたような気持ちになった。
「違う。違うよ、あの子はね」
アイは必死に取り繕おうとする。
でも、私が「……もういいよ」と低い声で言ったから、アイははっと口を噤んだ。
「アイには、私の気持ちなんて分からないよ」
分からない。
顔立ちも心も綺麗で、人気者のアイには分からない。
私が抱えている孤独の海が、どれだけ深く澱んでいるかなんて。
自分でも、自分の口からこんなに冷たい言葉が出てきたことに、びっくりしていた。
アイは分かりやすく傷ついた顔をし、必死に何かを堪えているように震えている。
言ってしまった。もう、後戻りはできない。
「ごめん、もう行かなきゃ」
そう言って振り返ったのは私ではなく、アイの方だ。
アイはふらふらとした足取りで女の子の方へと向かう。女の子はアイの腕を掴み、まるでアイがいなければ立っていられないのだというふうにアイに寄りかかる。
私は、心が通じ合ったような二人の姿を、去っていく二つの後ろ姿を、夏の陽炎の向こうにぼんやりと眺めていた。
ぐわん、ぐわん。
耳鳴りが止まない。
「昨日の展開もやばかったねー!」
「キュン死にするかと思った」
「あたしもユンに頭撫でられたい」
「歌も歌って演技もできるなんてすごすぎ」
「あー推しがいるって最高!」
クラスメイトたちが昨日のドラマについて談笑する声が、ぎぃんという金属音のように聞こえる。昨日、教室のエアコンが壊れた。扇風機が四台運ばれてきたけど、そのうちの二台は、推しのドラマについて話す彼女たちが占領している。あとの二台は男子たちが。
暑い。うるさい。
ねっとりとした背中の汗が、制服の内側を伝う。薄手のシャツだから、汗をかけばすぐに濡れてしまう。脇の下なんか、もうはっきりと分かるほど汗で透けているだろう。
あの日から——アイと真昼間の住宅街で別れてから、一週間が経った。アイはまだ学校に来ない。担任の先生は、ずっと「家の用事だ」と言っている。家の用事? 忌引きなら忌引きだとはっきり言うだろう。そうでもなく、ただ「家の用事」だというなら、普通、一週間も休むだろうか。
でも、たとえ学校にアイが来たとしても、私はどういう顔をしてアイと話せばいいか分からない。あんなふうに別れてしまった後だから、アイと顔を合わせるのも気まずい。アイの方だって、ひどい言葉を浴びせてきた私を、恨んでいるかもしれないのだから。
「うあ〜織部、汗でびっしょびしょじゃん!」
「やっばー! これやるよ! 汗拭きな」
ぼうっとする頭でアイのことを考えていると、後ろから美雪と蘭の声がして、何かを頭の上に載せられた。
「わっ」
驚いて一瞬身体が跳ねる。
咄嗟に頭の上にあるものを掴むと、それは濡れたボロ雑巾だった。
ほのかに匂う埃臭さに、吐き気が込み上げる。
「きったね〜! なんだよ、雑巾握りしめてさあ」
私の頭に雑巾を乗せた張本人である美雪が、他人事のように吠える。
この悔しさや恥ずかしさを、私はその場で爆発させることもできない。
ただ美雪たちにされるがままに、自分の気持ちを押し殺していた。
そうしなければ、もっとひどい仕打ちに遭うことが、分かっていたから。
その日、美雪たちからの嫌がらせに耐え、なんとか六時間目までの授業を受け終えた私は、我先にと教室から出て一目散に帰宅した。
一秒だって長く、あの教室にはいたくない。
悪意と、傍観者たちの諦観に満ち溢れたあの教室に。
アイがいなければ、所詮私は二年一組の中で意地悪をするに値する、ひとりぼっちの可哀想な人間なのだ。
外の暑さも気にならないぐらい、教室の中ですでにぐっしょりと汗をかいていた私は、自宅に着いてエアコンのスイッチをオンにした途端、まるで別世界に迷い込んだかってくらい心地よかった。でもそれは身体だけのこと。心はずっと、滝のような涙を流している。
幸い両親はまだ仕事で帰ってきていない。
この惨めな娘の姿を、二人には見せたくなかった。
自室へと閉じこもると、机の端に置いていたスケッチブックを無造作に開いた。このスケッチブックには、描きかけのアイの絵がある。
アイのことを想って、優しく描いたデッサンの上に、絵の具で色を載せていく。
「違う……こんな色じゃない」
何度も色を重ねては、水を含ませたティッシュで色を吸い取った。
アイの髪の毛は、アイの瞳は、アイの唇は。
一体、どんな色をしていただろう……?
思い出そうとすればするほど、頭がずきんと痛くなった。どうしてだろう。アイのこと、あんなに好きだったのに。好きだから、アイの絵を描きたいって思ったのに。
アイの肌や、瞳の色を考えていると、どうしてもこの間アイと一緒にいた女の子のことが
頭にちらついた。だめだ。こんな気持ちじゃ、アイの絵は描けない——。
「ううっ……」
私のことを、唯一そのままの自分でいたらいいって認めてくれた親友。
私はそんな大切な友達にさえ、黒い感情を抱いてしまっている。
「私って最低だ……」
誰もいない部屋の中でひとり、流れてくる涙を抑えることもできず、慟哭する。
自分が嫌いだ。
自分じゃなくなりたい。
自分が、いなくなってしまえばいいと、思った。
東向きの部屋なのに、朝日が差し込まない。いつもよりたくさん寝てしまって、慌ててベッドの上で飛び起きた。洗面所で鏡を見たら、両目のまぶたが腫れぼったい。目尻にうっすらと涙の跡がある。ゴシゴシと水で顔を洗うと、涙の跡は消えた。でも、相変わらず目は腫れていた。
朝ごはんを食べることもままならないまま制服に着替え、スケッチブックを学校の鞄に入れて、靴を履く。
「彩葉、ごはんはいいの?」
バタバタと準備をする私を見かねたお母さんが、リビングから顔を覗かせる。
お母さん。
お母さんにはずっと、学校でクラスのみんなから嫌がらせをされていることを伝えていない。心配かけなくないというのもあったし、単にそんな自分を知られるのが恥ずかしかったから。
ごめんね、お母さん。
「今日はいいや。コンビニで何か買ってく」
「そう。あ、あと雨降ってるから傘を持っていくのよ。それから——」
お母さんは私の方へと近づくと、胸元のリボンをきゅっと結び直してくれた。
「曲がってたわ。直しておいたから」
「ありがとう、お母さん」
お母さんは私が高校に入学する時、今日みたいに私の制服のリボンを綺麗に結んでくれた。
『制服のリボンが曲がってたら、堂々と歩けないでしょ。女の子はいつ何時でも、胸を張っていれば輝けるの』
その時お母さんはえへん、と少女みたいに笑って胸を反らしていたのを思い出す。こんな大事なことを忘れたなんて、私はどうかしている。
「行ってきます」
「はい。いってらっしゃい。彩葉、堂々とね」
もしかしたらお母さんは、私が話していなくても、私が学校でクラスメイトからどんな扱いを受けているのか、知っているのかもしれない。母親って、そういうものなのかも。娘のことなら、なんでもお見通し。
お母さん。
もし知ってるなら、私に「どうしたの?」って言わないでくれてありがとう。
何も聞かないで見守ってくれてありがとう。
私はお母さんのおかげで、ちょっとだけ今、前を向けているよ。
結局、学校への道中でコンビニに行くことはできなかった。人身事故で通学電車が遅延していて、さらにこの雨で普段より電車を利用する人が多く、最寄駅に着いた頃には遅刻寸前だった。傘をさして駅から学校までなんとか走って滑り込む。教室に足を踏み入れた瞬間に頭上からチャイムが降り注いで、ほっと、胸を撫で下ろした。
「あっ」
教室に入ると、私は隣の席にアイが座っているのを見て固まった。
アイ、と心の中で呟く。
アイと会うのはあの住宅街で出会してからまる一週間ぶりだ。私はその時、『アイには、私の気持ちなんて分からないよ』って、ひどい言葉をぶつけた。じわりと、その時の苦い気持ちが蘇る。アイは、私が何も言ってこないことで何かを悟ったのか、「おはよう」と声をかけてくることはなかった。
一時間目の授業が始まる。
窓を全部閉めているのに、授業中ずっとザアザアという雨の音がBGMのように響いていた。大雨の日、教室の中はやけに重たい空気に包まれる。現代文の授業ということもあって、うつらうつらと船を漕ぐ生徒が多かった。
そんな中、私は朝ごはんを食べなかったことで、早速お腹が空いてしまっていた。先生の話を聞かなきゃ、と思うのに、気を抜くと神経が空腹の方へと向かってしまう。何度もお腹を抑え、腹の虫が鳴かないようにと気を張っていた。
おかげで授業の内容は一切頭に入ってこない。
授業の合間に机の中に忍ばせておいたチョコレートを食べようと思ったけれど、どういうわけかなくなっていた。
美雪と蘭の仕業かもしれない。
間食をすることも許されず、そのまま四時間目までぐるぐると鳴りそうなお腹を必死に宥めながら過ごす。隣の席でアイがまっすぐに黒板と先生の方を見ているのを感じながら、真面目に授業を聞いているふりをした。
まったく、なんという苦行だろう。こんなことなら、遅刻してもいいから朝ごはんを食べてくれば良かった……。そう後悔していた時だ。
ぐるるるるるるううううぅぅぅっ!
ついに、私のお腹が盛大な音を立てて鳴ってしまった。ちょうど、数学の授業で、先生が「問一と二を今から解けー」と言ったあとだ。シンと静まり返る教室で、先生が教壇の上を歩く足音だけが響いていた。
そんなタイミングだったので、当然机に向かっていたクラスメイトたちが一斉に頭を上げる。
「いまの誰?」
「位置的に織部じゃない?」
「めっちゃデカかったね」
「驚かせやがって」
と、ひそひそと囁き合う声が聞こえる。私は耳まで真っ赤になるのを感じ、すっと俯いた。
前の方の席に座っている美雪と蘭が、いやらしい顔を私に向けているのが分かった。顔を上げなくても、彼女たちの視線を感じる。
先生が「はいはい集中しなさい」と言っても、みんな何か言いたげな顔でこちらを見ている。どうしよう。あんまり恥ずかしくて、私は身体が震え出す。また、美雪たちから何か言われる——。
ガタン、と隣から音がしたのはその時だ。
「すみません。お腹が鳴ってしまいました。みんなの集中切ってしまって申し訳ないです」
えっ……。
凛とした声でそう主張したのは、紛れもなくアイだった。アイは、椅子から立ち上がり、小さく頭を下げる。そんなアイの姿を、先生もみんなも、呆気に取られて見つめていた。
「え、今のってアイだったの?」
「うわあ。アイってあんなでっかい音出すんだ」
語尾に「笑」でもつきそうな囁きが、はっきりと私の耳に響く。きっと、アイにだって聞こえているはずだ。私はずっと、悪意に満ちた嘲笑を聞きながら、動悸が止まらなかった。
「アイ——」
違う。アイではない。お腹が鳴ったのは私——そう否定しかけた時、先生が「はい、静かに」と口を開く。
「みんな問題は解けたのか? 雨宮、いいからもう座りなさい」
「はい」
先生の一言で、その場はシンと静まり返る。アイは音も立てずに椅子に座り、まっすぐに黒板を見つめた。
「じゃあこの問題、山田、解いてみろ」
何事もなかったかのように先生が一人の男子を当て、授業を再開する。
私は鳴り止まない心臓の音がうるさくて、痛くて、ずっと何も聞こえなかった。
金縛りにあったような心地のまま四時間目の授業が終わると、昼休みに突入する。私は、お弁当を広げる前に、「アイ」と声をかけた。
「さっきは、庇ってくれてありがとう。それから、本当にごめん」
と、アイに感謝と謝罪の気持ちを伝えるつもりだった。でもその言葉は、チャイムが鳴ると同時に私とアイを取り囲む美雪と蘭、その取り巻きたちによってかき消される。喉元まで出かかっていた言葉を、ごくりと飲み込まざるをえなかった。
「まったくすごい友情物語だったねえ」
「ほんとほんと、あんな嘘、バレバレなのに」
「そこまでして織部のこと庇いたかったんだ? アイ、あんたってほんと、偽善者じゃない?」
「綺麗な顔して人気者だからって、調子乗ってじゃないわよ」
「てか織部も、いくら空っぽだからって、あんなふうに目立とうとするなよ」
間髪を容れず、彼女たちは次々と私とアイに罵詈雑言を並べ立てる。一体、どうして授業中にお腹が鳴っただけでここまで言われる筋合いがあるのか、私には理解ができなかった。
でも、心には小さな棘がぷすぷすと刺さっていく。やがてその棘はどんなに頑張っても取れなくなるほど奥底まで深く入り込む。
私は迫り来る痛みを必死に止めようとするけど間に合わない。自分の表情がどんどん強張っていくのが分かった。
この状況を打破するために、どうしたらいいか分からない。
美雪たちにはずっとこうして酷い言葉を浴びせられてきた。私はその度に萎縮して、言い返すこともできない。
身体中の筋肉が縮こまり、手も足も動かないような心地がした。「違う……」と震える声で呟いてみるも、美雪たちの鋭い目つきにすっかり萎縮してしまう。
こんな自分が、嫌だ。
と何度も思ったのに。私はやっぱりまだ、自分を変えられそうにない——。
「彩葉は、空っぽじゃない。心に色を持ってる」
凛とした声が隣から響いてきた。まるで、美しいピアノの音色のよう。私ははっとしてアイの方を見やる。アイは、数々の悪口に少しも動じることなく、美雪たちのことをまっすぐに見つめていた。
「はあ? あんた、何言ってんの。長いこと学校サボって、やっと来たと思ったら意味わかんないこと言って。大体、前から思ってたのよね。あんたってほんと、いけすかない」
蘭がアイの心臓を打ちにいく。それでもアイは顔色ひとつ変えない。
どうして。
どうしてアイは、そんなふうに凛としていられるの——。
アイの様子が変わらないことに苛立ちを覚えたのか、美雪がチッと舌打ちをした。拳をぎゅっと握り締め、何かを堪えている様子だ。
私は今にも飛びかかってきそうな美雪を見て、反射的に目を瞑る。
「そっか、そうだよねえ。アイも、“空っぽ”だったわね。アイってさあ、誰のことも好きになれないんでしょ? 恋愛感情がなくて空っぽ。だから、自分に告白してくれる人の気持ちも分からないのよね。そんで、たくさん傷つけて自分は知らんぷり。ほんっとうに最低! 恋愛感情がないのに“アイ”だなんて笑っちゃうわ」
あははははは、という美雪の下品な笑い声が教室中、いや廊下の外まで聞こえるんじゃないかってくらいに反響した。
私は彼女の言葉に耳を疑う。
アイに恋愛感情がないことを、どうして美雪が知ってるの……?
「あーなんで知ってるのかって顔してるわね。じゃあ教えてあげる。あんたたちがプールでヘマして保健室に行った後、たまたま保健室の前を通りかかった時に聞いちゃったんだよねえ。アイと織部がそんな話してるとこ。特大ゴシップじゃない? 学校中に言いふらしてやったら、みんなきっとあんたに幻滅するわ。まあでも、何かに使えると思って今日まで黙ってた甲斐があったわ」
げらげらと笑う美雪の方を、教室にいるクラスメイト全員が見つめていた。
アイに恋愛感情がないこと。
みんな、そんな驚愕の事実を知って、「本当に?」と困惑している様子だった。
隣ではアイが、凍りついたように固まっている。
普段、何を言われても冷静でいたはずのアイが。
身体を震わせて、美雪たちから一歩後ずさる。
「ほおら。やっぱり気にしてたんだ? 自分のこと、気持ち悪いって思ってたんだ? だよねえ、人の気持ちが分からない、怪物だよあんた」
怪物。
その恐ろしい響きに、当事者ではない私も、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされる心地がする。
アイの呼吸が、突如荒々しく獣のようなものに変わるのを感じた。私ははっとしてアイの全身に目をやる。アイは過呼吸のように不規則な呼吸をしながら身体を縮こませ、そして突如、教室の外へと走り出した。
「アイ!」
私は、咄嗟にアイを追いかけようとした。でも、すぐに蘭に腕を掴まれる。
「離してっ」
いつになく大きな声が自分の口から出てきたことに、私自身驚いた。ここにはアイがいない。この人たちが。こいつらが。アイをあんなふうに追いやった。
“怪物”だなんて、どうしてそんな。そんな残酷なことが言えるの。
「織部、あんた、アイのことが好きなの?」
「そうだよ。好きなんでしょ。気持ち悪い。あんたもあいつと同じ、怪物じゃん!」
ギャハハハハハ! という複数人の笑い声が、耳にこだまする。違う。違う。アイはそんなんじゃない! 私はアイのこと、確かに友達として好きだ。でも決してそれは恋愛感情ではない。そうだ。私はアイを——。
「……っ」
そこまで考えて、私の中で何かがぷつんと切れるような感覚がした。
乱暴に蘭の手を振り払い、スケッチブックの入った通学鞄を持って、さっきのアイと同じように教室から飛び出す。
「もう二度と、教室に入れないようにしてやるから!」
という残酷な言葉が、後ろから私の足を引き摺る勢いで響いた。私は、震えながらどす黒い声を振り切る。
言葉は、いつだって鋭い刃だ。
私は美雪たちから刃を向けられ続けてきた。
そんな時現れた美しい戦士のようなアイは、美雪たちの言葉にびくともしない様子で凛とした佇まいを崩さなかった。
だけど、本当は。本当はアイだってずっと——。
私は、“怪物”という言葉をぶつけられた時のアイの姿を思い出す。身体を震わせ、息をすることすらままならない様子だったアイ。私はその時初めて気づいたのだ。
アイが、本当はどうしようもなく悩んでいたこと。
気づけなくて、馬鹿だ。アイの一番の友達になりたいって思っていたのに。
私は、本当に大馬鹿だ……。
アイの姿は簡単には見つからなかった。
運動場、中庭、ピロティ、体育館裏。雨の中たくさん走って見に行ったけれど、どこにもアイはいない。校舎の中だとすれば、すべて回って探すのは難しい。それとも、校舎から出ているのだろうか。
「アイっ! アイ、どこ!?」
難しいと分かっていても、私は広い校舎の中を駆けずり回る。頭上から降ってきた5時間目の開始を告げるチャイムが、残酷に余韻を残していく。
それでも私は止まらなかった。
アイは校舎の中にはいない。
すべて回ったわけではないけれど、ここまで走って見つからないのであれば、学校の外に出ていると考える方が自然だ。
私は大粒の雨が降り注ぐ外の世界へと飛び出した。
大量の雨が顔に張り付いて、気持ちが悪い。
傘を差さずに雨に当たっているのは初めてのことだ。幼い頃でさえレインコートを着ていた。
雨って、痛い。ばちばちと身体中を打ち付けるから、釘を刺されているみたい。
それでも前に進まなくちゃいけない。アイを見つけるため。アイの心に刺さっているのは小さな棘なんかじゃない。鋭利なナイフだ。
私は、行く当てもないまま、最寄駅へと続く道を走った。すれ違う主婦や小学生たちが、傘も差さずに駆け抜ける私を二度見する。自分がものすごく注目されていることが分かる。教室の片隅で、美雪や蘭たちから冷たい視線を浴びせられている時と同じ心地だ。濡れた雑巾で胸を撫でられているような気持ち悪さ。一刻も早く、誰かの視線から逃れたいと焦る気持ち。
だけど今は、立ち止まってはいられない。私がアイを、見つけないと。
だってアイは、私の唯一の友達だから——。
アイのことが、いちばん好きだから。
息も絶え絶えになりながら、いつもの道を駆け回っていた時、雨の音にかき消されそうなほど小さな嗚咽が聞こえてきた。はっとして、私はその場に立ち止まる。ちょうど、アイが以前眺めていたお墓の前の道だった。
「アイ……?」
そのお墓に入るのは初めてだった。そもそも、自分の親族のお墓ですら、ほとんど足を踏み入れたことがない。入り口を跨ぐと、異世界へ繋がっているような気がする。そんな馬鹿な想像をかき消して、私は一歩、また一歩と歩みを進めた。
こんな雨の日には、当たり前だけどお墓参りに来る人なんていない。
「誰もいないよね……」
口ではそう呟きつつも、心臓がばくばくと音を立てる。
お墓の中をゆっくりと歩いていくにつれ、嗚咽の音が、どんどん大きくなっていた。
いる。
ここに、アイがいる……!
根拠なんて何もないけれど、アイの気配を感じた私はずんずん大きく進み出す。嗚咽が聞こえてくるお墓の近くまでたどり着くと、探していた人の姿を見つけた。
「アイ」
アイが、地面に膝をつき、慟哭していた。
『雨宮家之墓』と彫られた墓石に並んでいる名前は二つ。男の人と、女の人の名前だ。
「これ、アイのおじいちゃんとおばあちゃん……?」
私の存在にまだ気づいていない様子のアイに話しかける。アイはびくりと身体を跳ねさせ、ゆっくりと顔を上げた。
「彩葉……、どうしてここに?」
アイの瞳は雨雫に濡れ、紺碧色のように見えた。深い海の底を思わせるまなざしに、私はきゅっと胸を掴まれる。
「アイの泣いてる声が聞こえてきたから。私、どうしてもアイのこと見つけなきゃって思って……。アイは私の、大切な友達だから」
友達、というところで言葉が詰まりそうになった。
アイは地面に膝をついたまま、私の方をじっと見つめる。吸い込まれそうなほど深い青色の瞳や白い首筋、すっと伸びた鼻、すべてのアイを、私は見つめ返す。
「……おじいちゃんたちのお墓もあっちにあるけど、ここに眠ってるのは、両親なんだ」
「ご両親……」
アイの瞳が後悔で揺れた。前にアイから聞いたご両親の話を思い出す。自分を救うために、ご両親が亡くなったこと。アイは今ここで、何を思っているのだろう……。
「小山内さんから“怪物”だって言われて、自分の中で何かが壊れていく心地がしたんだ。そうだよ。分かってたんだよ。自分が、愛することが分からない怪物だってこと。分かってたから、面と向かって突きつけられて、どうしたらいいか分からなくなった……」
アイの本音が全身を濡らす雨のように溢れ出す。
みんなの告白を断るアイを罵るクラスメイトたちの顔が浮かぶ。
アイには恋愛感情がない。
だから、告白を断るのは仕方のないことだ。それについて、アイが周りからとやかく言われる筋合いはないのに。
どうして私たちは、こんなにも“普通”じゃないことで、傷つかなければならないんだろう?
「ねえ、母さん。どうして俺に愛翔なんて名前を付けたの? 誰も愛せない俺に、どうして、どうして……“アイ”を与えたんだっ」
拳を墓石に殴りつけるようにして、母親のことを詰りだすアイ。何度も何度も、拳を打ちつける。アイの手から、うっすらと血が滲んでいく。けれどその赤い血液は、この雨にすべて流されて。私は、自分の心臓が苦しくて止まるんじゃないかってぐらい、速く脈打つのを感じていた。
初めてアイが転校してきた日のこと。
アイは黒板に、「雨宮愛翔」と綺麗な字で書き綴った。
名前全部が詩のように綺麗で、特に“愛”という文字に特別な想いが込められているかのように際立って見えたんだ。
『前の学校では、“アイ”って呼ばれていました。だからみなさんも、そう呼んでくれて構いません』
最初は冗談かと思った。でも、アイは目元を細め、口元を綻ばせて全員を見渡していた。その様子から、アイの言うことは本心なのだと分かった。
中性的な顔立ちや透き通るような声、柔らかい口調もあって、私たちクラスメイトは彼のことを“アイ”と呼ぶことにした。
アイはよくモテたけど、誰からの告白も受けなかったから、変わった性癖があるのでは? と噂されることもあった。心は女の子なんじゃない? という言葉を、何度耳にしたことか。でもすべて違っていて、アイは恋愛感情を持たないのだと教えてくれた。
私は、それでもアイが魅力的な人間であることには変わらないと思った。
今もずっと、アイは他の誰とも違う、まっすぐな心を私にぶつけてくれる優しい人だと思っている。だけど、アイ自身は今、自分の特別な性質に戸惑い、慟哭し、両親の眠るお墓を殴っている。
アイの叫びが、苦しみが、ズンと腹の底に沈む。プールで溺れてしまった日のことを思い出す。私はあの時、本気で死ぬんじゃないかって思った。アイが助けてくれなかったら、私はここで息をしていないかもしれない。
「俺は……俺は……! どうして“愛”が分からない!?」
気が狂ったように雄叫びを上げるアイは、自分自身に絶望しているように見える。
今、溺れているのはアイだ。
助けてくれって、叫んでいるのはアイ。
私の大切な親友。
私はぐっと唇を噛んで、赤くなったアイの拳を掴みにいった。
「アイやめてっ。アイの綺麗な手が、ぐちゃぐちゃになっちゃうよっ」
どんな言葉をかければいいか、分からない。
確かに私たちは二人とも周囲の人間とは違う性質を持っている。でもその質量も、種類も、何もかもが違う。
それでも、アイを助けたいという気持ちで一心不乱にアイの手を止める。
ねえ、アイ。“普通”って、一体なんなの?
「彩葉、やめてくれっ。俺は、君みたいに“綺麗”じゃない! ずっと心が冷え切ってるんだ……。青くて、冷たい、救いようのない人間なんだ……。だからもう、アイって呼ばないで……俺は死ぬまで一生、“愛”なんて分からないからっ」
ずるずると、墓石に手を這わせながら地面に両手をつくアイ。鞄からかろうじてまだ濡れていなかったハンカチを取り出して、アイの右手に巻いた。少しでも、アイの美しい肌が、綺麗なままでいられるように。
アイは、私が無言でハンカチを手の甲に巻き付ける様子を、ただただなすすべもなく見つめている様子だった。
「彩葉は、本当に優しいね。優しくて、心が綺麗だ。俺なんかとは違う。だから彩葉、君はきっと、未来でたくさん友達ができるよ。ほんの少し勇気を出せばきっと」
雨の音はうるさいのに、静謐な涙を流すアイの声が、柔らかい響きを帯びている。
だけど、アイ自身はまだ、海の底でもがいている。
私はアイの頬にそっと手を当てた。
「……本当は私、アイのこと裏切り者だって思ってた。前に、住宅街で女の子と一緒にいただでしょ? 二人はすごく仲が良さそうで、私、嫉妬してたの」
アイが「あっ」と小さく声を上げる。
「ああ、あの時のこと……そうか。ちゃんと言えなくてごめん。あの子は、一緒に暮らしてる親戚の娘なんだ。病気がちで最近入退院を繰り返してた。叔母さんたち、夜まで仕事があって。だから自分が学校を休んで、面倒を見てたんだ」
「そう、だったんだ……」
アイを少しでも疑っていた自分が恥ずかしい。
アイは一度だって、私を疑ったことなんてないはずなのに。
私はもう一度、アイに向き直る。
私とアイの心を、もう一度繋げるために。
「アイには誰かを愛する心がある。いじめられてる私を助けてくれたのも、愛がある人間だからだよ」
アイの濡れた瞳が大きく見開かれる。私の視線と交わって、いつかアイで出会った日のこ
とを思い出す。私は、視界がどんどん滲んでいくのが分かった。
「それは、彩葉が友達だから……」
「うん、そうだね。友達だから助けてくれたんだよね。それって、すごいことだと思わない? アイはちゃんと、“愛”を持ってる。恋愛
感情じゃなくたって、“愛”を感じられる。アイから助けてもらう時、私はいつも心に灯火がついたみたいだった。アイがいないと、冷たくて空っぽだった私の心が」
私は、まだ半信半疑で私を見つめるアイに、びしょ濡れの鞄からスケッチブックを取り出した。
スケッチブックには雨が滲んでいて、ところどころ柔らかくなっていた。破れないように、張り付いたページをめくり、アイの絵が描いてあるページを開く。
「私、アイの絵を、まだ完成させられてなかった。でも、今日この絵を描き切れる気がする。アイにはいろんな色があるって分かったから。アイの心の色を、つけてみようと思う」
「彩葉……」
雨が、少しずつ弱まっていく。やがて雲の切れ間から太陽の光が差し込み、雨に濡れた墓石は、きらきらと輝き出す。
「アイ、私が空っぽだったのは、きっと心をアイで埋めるため。アイは私の“推し”だから」
それからね、本当は私、アイのこと男の子として——。
喉元まで出かかった言葉を、私はぐっと飲み込む。
私たちの間に、この言葉はいらない。いつか、私が我慢できなくて言ってしまう日が来るとしても、今はその時じゃない。
私はアイと、心の底から繋がれるのなら、それで十分だ。
「……ずっと、自分が普通じゃないことに悩んでた。でも、そんな悩みを隠すために、人前では虚勢を張って、凛とした自分でいようとしてたんだ。“アイ”って呼んでもらうことで、自分が他の何者かになれる気がした。愛を、手に入れられる気がした。でも、そんなことする必要なかったんだね。彩葉、君が、君だけが俺を剥き出しにしたよ。だから本当に、ありがとう」
アイの顔に、見たことのない大輪の花が咲く。
屈託ない笑顔を浮かべるアイを、私は愛しいと思う。
「ううん、お礼を言うのは私の方だよ! アイ——いや、愛翔くん、これからもよろしくね」
私たちは手を握り合い、互いの体温を感じる。
アイの透き通る涙の跡が、日の光に乾いて、潤んだ瞳には力強い意思を宿していた。
*
「愛翔くん、“アイ”の絵が完成したよ」
お墓の前で心のうちを曝け出してから一週間。昼休みに中庭のベンチに座って、アイとお昼ご飯を食べた後、私はスケッチブックを彼に見せた。
「おお、すごく、綺麗だ。こんなふうに色をつけてくれたんだね」
アイが私の描いた絵を見て目を丸くする。この一週間、暇な時間があれば昼夜惜しまずアイの絵に色をつけていた。私が知っているアイは、肌色とか、髪の毛の黒とか、そういう単純な色をしていない。アイが、自分自身を偽っていたことも、たくさん悩んでいたことも、無邪気に笑うところも、クールに喋るところも、全部色に込めた。だから絵の中のアイは、いろんな色を持っている。
「うん。アイ——愛翔くんのこと、知ってるだけ全部描きたいと思って。でもきっとまだ足りない。私はこれから、あなたにもっとたくさんの色をつけるよ」
相変わらず、私たちはクラスのみんなから距離を置かれている。でも、以前のようにわかりやすい攻撃は受けなくなった。
きっと、私とアイの表情が変わったからだ。
誰に何を言われても、自分たちの世界で生きることを選んだ。
そんな私たちに、もう意地悪なことをする甲斐がなくなったんだろう。
「ありがとう。自分も——俺も、彩葉のことをもっと知りたい。彩葉はきっと画家になれるよ。可能な限り、そばで見守らせて」
愛の告白ともとれるような台詞を、私はドキドキしながら心にしまう。
アイと私は今でも大切な友達同士だ。
この先もこの関係は変わらないだろう。でも、もしいつかアイの心に、新しい感情が宿ったら。その時は私も素直に気持ちを伝えようと心に誓う。
今は、今だけはこの透明な関係を、続けていたいから。
中庭の真ん中に、大輪のひまわりが咲いている。
もうすぐ夏休みだ。
あのひまわりみたいに、真っ直ぐ胸を張って、ただ目標に向かってがむしゃらに生きよう。
隣にはきっと、あなたがいてくれるから。
【終わり】