*
誰かを信じて裏切られるくらいなら、初めから信じない。誰かを好きになった後に嫌な面を知るくらいなら、誰のことも好きにならない。そうすればもう、あんな思いをしなくていい。
そう考えてこの一年半を過ごしてきた。美優たちが当時の同級生と違うことも、そもそもこの世の全ての人間がそうじゃないことも頭では理解している。
でも、また同じようなことが起こる可能性だってないわけじゃない。ゼロじゃないなら100と同じでしかない。警戒して、心を閉ざしていれば、幸せにはなれないとしても不幸を味わうことだってきっとないはずだ。
目の前にいる3人を見る。屈託なく笑い、誰かの裏面を疑うことなんてきっとないようなその無邪気な声がうらやましくて仕方ない。わたしだって、きっとあっち側にいられた未来もあったのに。
「どうした? 香帆」
「あ……ごめん。ちょっと考え事してて」
「そう? 具合悪いとかじゃないよね? 無理したらだめだよ」
「うん。ありがと」
先に屋台を楽しんでいた4人が戻ってくるのが見えた。理沙と江川くんが元気よく手を振って、華恵と須藤くんがいくつものビニール袋を提げている。。
「おかえり。……って、買いすぎじゃない?」
「お祭りっていったらたこ焼きでしょ。食べ盛りの高校生、こんなの瞬殺じゃないかな」
「樹、自分で食べ盛りとか言うか」
へへへと笑いながらビニール袋を開けた江川くんが、たこ焼きと焼きそばのパックをいくつも取り出して並べていく。その隣では、理沙がベビーカステラとから揚げをお披露目していた。
「見てこれ、かわいくない?」
理沙はカステラをひとつ取り出して見せてくれた。流行りのキャラクターの焼き印がついたそれを、じっくり見る前に彼女は自分の口の中に放り込んでしまった。
「あ、フライング!」
華恵が声を上げて、一斉に笑いが弾けた。みんなも行ってきなよと須藤くんに促されて、わたしたちは靴を履いて立ち上がった。
「溶けたりぬるくなったりするから、かき氷とか冷やしパインは買わなかったの。でも暑いし、もしできれば買ってきて」
「うん、わかった」
華恵のリクエストを了承して、土手に上がる。整備された舗道に、ビビッドな色合いの屋台がぎゅう詰めに並んでいた。確かその奥に神社があって、今夜の花火はその神社のお祭りのイベントのひとつだったはずだ。
「目移りしちゃうけど……とりあえずはお参りからかな」
「そうだね。奥まで行く間に買うものや遊ぶものの目処をつけて、帰りに順番に寄っていこう」
花火の時間が近づいてきたせいか、通路は人で埋まっていると言っていいほど混雑していた。少し進むだけでも難儀する雑踏に揉まれながら、わたしたちはなんとか神社にたどり着いて賽銭を投げ入れる。参拝の列もできていたので早々に離れて、屋台を回る順番を決めた。先に遊ぶものを回ったほうがいいよね、と口火を切ったのは美優だ。
「射的はやりたいよね。当たった試しないけど」
「俺得意だよ。あと、水風船! さっき見たけど無性にやりたくなってきてさ」
「いいね。久しぶりだから楽しみだな。昔は毎回、紙紐が切れて釣れなかったんだよね」
「じゃあ、重めの飯系は一通り買ってくれてたし、……射的と水風船釣りやって、あとは頼まれた冷たい系と甘味をいくつか買って帰ろうか」
渡部くんのひと声でまとまり、4人そろって歩き出す。神社に向かう人と屋台のほうに戻っていく人の流れに挟まれて、はぐれないようにするのがやっとだった。先頭を行く渡部くんの後頭部を見失わないように歩いていると、残りの2人の声が聞こえないことに気がついた。
「あれ? 美優?」
「どうした?」
わたしの声に気がついた渡部くんが振り向く。彼も友人を見失ったことを悟ったようだ。
「和真?」
その時、渡部くんのスマホが電話の着信を知らせた。画面に表示されていたのは、内山くんの名前だ。
「もしもし? どこにいるんだよ。……え、それはまずいな。……うん、わかった。了解。……いや、それは余計なお世話だって。花火の時間までには戻ってこいよな」
途中で苦笑いに変わったまま電話を終えた彼は、呆れたようなその視線をゆっくりとわたしに向けてきた。夜を煌々と照らすオレンジ色のライトがその瞳のなかで揺らいでいるのを見て、思わず見惚れてしまった。
「井上さんがスマホを落としたらしい。で、一緒に探してるうちに俺らを見失ったから、遊んでから冷やしパインと綿飴買って戻る、かき氷とチョコバナナはよろしく……だってさ」
「美優ったら……」
こんなところでスマホを落としたら一大事だ。基本的にはしっかりしている子だけど、たまにとんでもないことをやらかすことがある。買ったばかりのリップクリームを塗ろうとしたら手を滑らせて落とし、トイレの床にバウンドした勢いで中身が全部飛び出してしまって使えなくなったこともあった。
「しょうがないね。俺らは俺らで楽しんで戻ろうか。さっそくそこに射的の屋台があるし、勝負しようよ」
「あ、うん。でもわたし、ほとんどやったことないから勝負になるかどうか……」
「俺も何年かぶりだよ。気にしない気にしない」
料金を払って銃とコルクの玉を受け取る。景品台にはお菓子やよくわからないマスコットの小箱がいくつも並んでいる。
「じゃあ、1回目――」
渡部くんの合図で、同時にパンと小気味いい音が弾けた。屋台のおじさんがふたりともハズレね、と容赦ない判定を下す。事実、台の仕切り板や後ろの壁に当たっただけで景品はどれひとつとしてびくともしていない。
「ね? ほら、俺もたいしてうまくないから安心して。それじゃ2回目――」
引き金を引いた瞬間、台のいちばん上に載っていたお菓子の箱がわずかに動いた。当てたのはわたしじゃない。自分の手元から発射されたコルク玉は、また台の縁に当たって転がっていった。
「……ご謙遜。当たってるじゃない」
「はは、まぐれだよ。ほら、3回目いくよ」
ぐっと身を乗り出した彼が放った3発目で、さっきわずかに動いたお菓子の箱がぱたんと倒れた。いいねえ、とおじさんが破顔して、そのお菓子を渡部くんに手渡した。
「あと2発あるからね。柳井さんも頑張って」
「そんな、勝利確定みたいな感じ出さないでよ。わたしだって……」
――そう虚勢を張ったものの、結局わたしは一度も景品に玉を当てることができなかった。最後の一発でもうひとつお菓子をゲットした渡部くんは、得意気にそれを見せびらかしてくる。
「いやあ、大勝利でしたな」
「もう、だから下手だって言ったでしょ」
その後に挑戦した水風船釣りも案の定わたしは自力で釣れなくて、自慢気に黄色を釣りあげる渡部くんを尻目に水色の水風船をサービスしてもらうはめになった。
あとはいちばん街側にあったかき氷とチョコバナナの屋台に寄るだけだ。いちばん混んでいたところをようやく抜けて少し歩きやすくなったところで、わたしは渡部くんの隣に並んだ。
「何ひとつ勝てなかったな」
「俺、わりとなんでも器用にできちゃうからなー」
冗談めかしてそう言いながらも、彼は戦利品を露骨に見せびらかしてきた。演技ぶった小憎らしい表情につい笑ってしまう。
歩きながら、その歩幅に合わせて揺れた指先が互いを掠めた。唐突な人肌の温度に、反射で手を後ろに回してしまう。動揺した鼓動が聞こえてしまうのではないかと思ったけれど、この賑やかさの中では届くことはないはずだ。
「ねえ、柳井さん」
「ん?」
「……あらためて言うね。俺は、君のことが好きだよ」
掠めただけで離れる予定だった指先を捉えられて、息を呑んだ。人混みを抜けたところで足を止めて、渡部くんはわたしの目を斜めに見下ろしてきた。じんわりと首筋に滲んだ汗と、濡れた前髪の先がきらきらと光る。
「井上さんのことを心配したり呆れたりした時の表情とか、さっき射的でけっこうむきになってたところとか。普段は落ち着いていて穏やかだけど、意外と焦ったり無邪気な表情をしたりするんだな、かわいいなって思ったよ。夏期講習の時も、真剣にノートを取っているところとか、お弁当をおいしそうに食べるところとか、冗談を言ったらけっこう乗り気で返してくれたりとか、知れば知るほど好きだと思う気持ちが大きくなってきてる」
「そん……な、こと、言われても」
「ごめんね。困らせてる自覚はある。でも黙っていられないんだ。もっともっといろんな顔を見たいし、全部知りたくて仕方ないんだ」
目尻から耳にかけて紅く染めた渡部くんは、抑え切れないというように指先に力を入れて胸の内を吐露し続ける。握られたところだけが異様な熱をもって、わたしの気持ちをも急かす。
応えたい。怖い。信じたい。信じられない。
本当のわたしを知ったら――誰も何も信じていないわたしを知ったら、きっと幻滅するどことじゃないだろう。
こんなことで彼を傷つけたくないし、嫌われたくない。深い仲になったら、いずれはきっとあの過去を話すことになるだろう。そうでなくたって、何かの拍子にわたしの裏側を気づかれるかもしれない。
これ以上踏み込まないで。渡部くんはわたしのこんなところなんか知らなくていい。
「……ありがとう」
「まだ、柳井さんの特別にはなれない?」
「……ごめんね。まだ、こたえられない」
そっか、と小さく呟いて、ずっと繋いだままだった指先が離れた。言いたい言葉はたくさんあるような気がするのに、どれひとつとして明確にはならない。結局言えるのは、ごめん、だけだ。
「謝らないでよ。まだ、ってことは望みはゼロじゃないんでしょ。少しでも希望があるなら諦めないよ。しつこい男だからね、俺は」
渡部くんはにやりと笑って歩き出した。慌ててその後を追う。
「あったよ、チョコバナナ。隣がかき氷だし、手分けして買おうか」
「そうだね」
どうしてこんなに心臓がうるさいのだろう。ずっと彼に翻弄されている。
信じたらいけない。好きになんかなったらいけない。いつかまた、裏切られるかもしれないのだから。心の奥底ごと奪われてしまったら終わりだ。
今なら、まだ踏みとどまれる。――踏みとどまれる、はずだ。
かき氷を注文しながら、小さく深呼吸をした。いちご、メロン、レモンと順番に受け取って、チョコバナナを手に待っていた渡部くんのもとへ合流する。
「それじゃあ戻ろうか。花火、もう少しで始まるね」
「うん。美優たちも戻ってるかな」
乱れた鼓動が落ち着いてきた。荷物で塞がった両手は、もううっかり触れることはない。
*
買ってきた大量の食べ物をおのおの好きなように味わっていると、花火大会が始まるアナウンスがスピーカーから流れた。それから少しして、最初の花火が打ち上げられた。腹の底に響くようなドンという音が、そこから立て続けに重なる。
赤、青、黄色に緑。形も大きさも様々な花火ひっきりなしに夜空を飾り続けるのを、言葉もなくただ眺め続けた。スマホをかざして写真を撮ろうとしても、綺麗には切り取れない。
牡丹と椰子。次は菊。小割にハートやスマイルがいくつも重なって、また牡丹が上がる。後追いで打ち上がった枝垂れ柳のような花火と一緒に夜空を埋め尽くす。
「綺麗……」
「火薬の種類で色が違うんだよね。あんなふうに色が変わっていくのもすごいなあ」
「炎色反応ってやつでしょ。化学でやった。えっと、リチウムが深紅で……」
「今くらい勉強のことは忘れようよぉ」
隣で話している理沙たちの声は、耳を素通りしていった。何日もかけて作られたのであろう花火が、たった数秒この夜を照らして散っていく。少しでもその多くを目に焼き付けたくなって、瞬きもせずに空を見つめ続けていると、指先に何かが触れたのを感じた。
「目、乾いちゃうよ」
「……うん。でも、ずっと見ていたくて。瞬きした瞬間がその花火の最高潮だったら勿体無いでしょ」
「確かに」
わたしの言葉に優しく頷いてくれた渡部くんは、かすかに触れていた指先を動かさずにまた空を見上げた。
続いては音楽花火です、とアナウンスが流れた。音楽に合わせて趣向を凝らした花火が上がり続けていく、この花火大会恒例の催しだ。
今年の音楽はご当地アイドルのヒット曲だった。綺麗なストリングスにギターとドラムが重なって、徐々に音が力強くなっていく。イントロの音に合わせて、低い位置に小ぶりの花火がいくつも上がり始めた。どこからかアイドルのファンらしい集団のコールと手拍子が聞こえてきて、次第にそれが周りの観客にも広がっていった。その勢いに乗るように花火の高度が上がって、開く花も大きくなる。
「いいね、こういうの。ただ上がり続けるのも王道で好きだけど、音楽があるとさらに楽しくなる」
「そうだね。しかもこんなふうに手拍子とか入ると、今この場にいるみんなで同じひとつのものを見て、作ってるんだなって感じじゃない?」
美優たちは写真や動画を撮るのに忙しない。その邪魔をしないように小声で渡部くんと話していると、不意打ちで内山くんがわたしたちに向かってシャッターを切った。
「ちょっと」
「はは、ちょうど上がった花火の光でいい感じだよ」
内山くんが見せてくれたスマホの画面には、花火のオレンジ色に照らされる渡部くんとわたしが映っていた。彼と同じ一点を見つめるその表情を見て、自分はこんな顔をしているんだなと他人事のように思う。自然に笑っているようには見えるけれど、無意識のうちにちゃんと計算して広角を上げている。優しく、楽しく、綺麗に見えるように。
なのに、こんなにも歪だ。本当の笑顔と並ぶとよくわかる。隣の渡部くんは無邪気にはしゃいだ笑顔をしていて、夜空の光に負けないくらいきらきらしていた。
作り物で、偽物で、汚れて歪んで、疑念を塗り固めて見せないようにするためだけの仮面。わたしはこの場にいたらいけない異分子なのだと突きつけられるようだ。
「あとでグループのアルバムに送っておくね」
「うん、ありがとう」
意識せずとも出てくるお礼と笑顔。これが本心からのものなのか、そうでないのかなんてもうわからない。本当にそう思って発した言葉はどれが最後だっただろう。
音楽が鳴り止んで、最後の一発が空のいちばん高いところで堂々と開花した。
散っていく火の粉すら綺麗だと思った。