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暑苦しい体育館での終業式が終わっても、夏期講習での登校日が8月の初めまで続く。蝉の鳴き声と灼熱の日差しが肌を刺す中をなんとか歩き、エアコンの効いた教室に入ると、生き返ったような気分になる。
漢文と数学の講習を立て続けに終えると、その後は空き時間だった。午後は日本史があるので帰れないが、昼休みを合わせると2時間近く時間があく。それまでいた教室は物理の講習で使われるので、荷物をまとめて教室を出ると、ポケットに入れていたスマホは短く振動した。
《空き時間になるよね? 6組の教室が空いてるからそこで自習しない?》
渡部くんからだった。そういえば一緒に勉強しようと話していたんだと思い出し、スタンプで返事をして6組に向かう。他には誰もいなかった。
「エアコンはつけられないけど、窓を全部開けておいたら多少はましでしょ」
「そうだね。さっきの教室、冷房効きすぎなのかちょっと寒かったし」
「外から着いた時はちょうど良いけど、だんだん寒く感じてくるんだよなー。でも汗かきまくってるやつもいるし、勝手に下げられないもんね」
開け放たれた窓から、ぬるい風が時折吹き込む。暑くないと言ったら嘘になるが、溶けそうなほどのつらさはない。
隣どうしに座って、同じテキストを開く。渡部くんの手元の漢文のテキストには、びっしりと書き込みがされていた。
「わあ……すごい」
「理解するのに時間がかかっちゃってさ。調べるうちに新しく知ったこととかも、とりあえずこの1冊に集約しちゃおうと思って」
慣れない言葉や読み方のせいで、わたしも漢文には苦手意識がある。ひとりで勉強していても、行き詰まるとそれ以上どうにもならなくなって諦めてばかりだったので、こうして自力で解決できる彼に素直に尊敬の念を抱いた。
「柳井さんの得意科目って何?」
「英語かな。英単語を覚えるのは好きだし、発音はうまくないけど読み書きはけっこう安定して点を取れるかな」
「それなら、今度英語を教えてほしいな。構文とかもよくわからないから、いつも微妙に間違っちゃうんだ」
「いいよ。ねえ、そしたら漢文の勉強のコツ、教えてくれない?」
話しながらテキストを進めていると、チャイムが鳴った。昼前の講習が終わったらしい。廊下がざわざわと賑やかになって、昼飯どうする、などと声が飛び交う。
「もう昼か。俺は何も持ってきてないから買いに行くけど、柳井さんはどうする?」
「わたしはお弁当があるから」
「了解」
テキストや電子辞書を広げていた机の上をぱぱっと片付けて、渡部くんは早足で教室を出ていった。クラスの友達と合流するのかと思いながら弁当を広げて食べ始めようとした時、彼が鞄を置いたままにしていることに気がついた。
もしかして、ここに戻ってくるのだろうか?でも、そこまでしてわたしと過ごすことを優先したいのだろうか。――いや、男女問わず友達が多いはずの彼が、わざわざここでわたしとご飯を食べる必要はない。思い直して弁当の蓋を開けた時、教室に誰か入ってくる気配がした。
「お待たせ」
「……お、おかえり」
豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしているであろうわたしを見て、その間抜けな表情に彼は吹き出したようだ。
「なんでそんなに驚いてるの?」
「ほかの友達と食べるのかなと思って」
「仲良いやつらは取ってる講習がばらばらでさ。3限と4限が立て続けで移動しないやつもいるし、そもそも部活でこの後会うから別にいいんだ」
学校前のコンビニでお湯を入れてきたらしいカップうどんをすすって、渡部くんはあついなと漏らした。わかりきっていたことなのに、思わず笑ってしまう。
「こんなに暑いのに、カップ麺にしたの?」
「無性にうどんが食べたくてさ。でもさすがにあつい、ふたつの意味で」
「だろうね。湯気がすごいもん。この季節に見る景色じゃないよ」
汗をかきながらつゆの染みたお揚げを頬張る彼をぼんやり見つめる。どうしてわたしは、この人に流されるままに二人きりでお昼を食べているのだろう。
思考がストップしていたので、渡部くんがふと上げた視線とまともにぶつかったことに気がつくまでわずかに遅れた。
「どうしたの、そんなに見つめてきて」
「あ、ご、ごめん。ちょっと考え事してて」
「そっか。……ところで、ちょっと相談があるんだけど」
そう言いながら差し出されたスマホの画面には、夜空に咲く花火の写真が表示されていた。フライヤーの画像のようで、写真の横に花火大会の文字が入っている。
「一緒に行かない?」
ざわ、と窓の外の木々が風に揺れる音がいやに大きく聞こえた。
花火大会があるのは、夏期講習の最終日だ。このあたりではいちばん大きい夏のイベントで、毎年何万人という人出がある。屋台や近隣の飲食店のサービスも豊富で、幼い頃はわたしもよく家族と一緒に出かけていた。けれど、この数年はニュースで眺めるのみだ。
そして、中高生のあいだでまことしやかに囁かれるジンクスがある。
この花火大会が初デートのふたりは末長く結ばれる、と。
もちろんこんなものは願掛けのようなもので、実際はそうとは限らない。花火大会をきっかけに付き合ってもすぐ別れたなんて話もあふれているし、たかが1回の花火大会に人生の伴侶まで左右されるわけがないのだ。
もちろん、渡部くんがこの噂を知っているのか――知った上で信じているのか、というのはわからない。ただ、今のわたしにはその可能性を秘めたこの誘いに二つ返事で乗れるほどの覚悟がないことは、確かだ。
「いいね。せっかくだから、みんなで行こうよ」
「みんな……」
「うん。友達も誘ってもいい? どうせなら人数が多いほうが楽しいし、安全じゃない? ほら、変な人に絡まれたりとかしたら台無しでしょ」
我ながら強引な誘導だと思った。ふたりきりを避けたいというわたしの思惑は、彼にはもう伝わっているはずだ。
数秒間動かなかった表情を弛緩させて、渡部くんはゆるりと微笑んだ。
「そうだね。せっかくのイベントなのに因縁つけられるとか、怖いし」
「そうそう。きっと酔っ払いとか、悪いこと考える人もいるだろうしさ。みんなでレジャーシートとかも持ち寄って、早めに河川敷に場所取りして、交代で屋台をまわるのがいいかも」
はっきりと言わずに、ずるいことをしている自覚はある。わたしに対して好意を明確にしてくれている彼が何を言いたかったかなんてわかっている。
でも、まだわからないのだ。イエスもノーも、まだ結論を出せるような時じゃない。
心の中で謝り倒しながら、わたしはその場で美優たちに花火大会の誘いのメッセージを送った。すぐに承諾の返事があり、渡部くんも友達3人を誘ったので、当日は総勢8人で花火を見ることが決定したのだった。