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球技大会前にあったテストが返却された。思ったよりもよくない点数だ。来年は受験だし、今から弛んでいたらまずいと一念発起して、わたしは夏期講習に申し込んだ。7月下旬から始まる夏休みの最初の十日間に学校で行われるもので、希望の科目だけ受講できる。日本史と数学、化学、そして漢文の講習に申し込んで時間割を確認すると、中途半端に時間があくタイミングが多いことに気がついた。
「香帆、夏期講習申し込んだ?」
「うん。4科目」
「やる気に満ちあふれてるじゃん。わたしなんか、英語と日本史だけだよ」
「志望校が私大なんでしょ、美優は。科目が絞られるけど、それはそれで得意な人が集まるだろうし、大変だよね」
美優は入学当初からとある私大を第一志望に掲げている。その大学のその学部に何としても行きたいんだ、あの先生のところで勉強したいんだと何度も話しているのを聞いているし、そのための努力や情報収集をずっと続けて努力していることも知っている。理沙も華恵も、ある程度照準は定まっているらしい、けれど。
わたしはまだ何も決まっていない。弟と妹がいるから私大は無理だよなあ、という程度の気持ちしかない。ある程度選択肢が広く持てる程度の学力はキープしているつもりだけれど、どこで何をどんなふうに勉強したいのかというビジョンは何も見えていない。
その日は所属している家庭科部の活動がある日だった。夏の夜は短い。活動が終わる6時半になっても、外はまだ真昼と同じように明るかった。
挨拶をして解散し、生徒玄関で靴を履き替えていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「柳井さん」
「渡部くん。部活終わり?」
「うん。ね、邪魔じゃなかったら一緒に帰らない?」
玄関は多くの生徒でひしめきあっている。こんな中で2人で帰っていたら周りから何か言われるのではないかと言いかけた頃には、彼は既に駐輪場へ走り出していた。モスグリーンの自転車を押して早くとわたしを呼ぶ彼に、仕方なくわたしは駆け寄った。
「ねえ、こんなに人がいるのに大丈夫?」
「そんなに気にしなくても平気だよ。悪いことをしてるわけじゃないんだし、むしろ堂々としてれば誰も変なこと言わないよ」
わたしの不安を切り捨てて、渡部くんは駅と反対方向へ歩き出した。日々、ちょっとしたメッセージのやり取りはしているけれど、部活や勉強で忙しいので頻度は低い。内容も「今何してる?」「数学の宿題」程度のものだ。いまだにわたしは、彼のことがあまり掴めていない。誕生日も最寄駅も、好きな食べ物や趣味もまだわからないし、わたしの何を見てどこを好きになったのかも聞くことができていない。
「家、こっちなの?」
「ううん。駅を挟んで反対側だね」
「じゃあなんでこっちに」
「そりゃ、柳井さんとちょっとでも長く話したいからに決まってるでしょ。まだいくらでも、お互いのことを知る余地はあるもんね」
ね、と語尾の音に合わせて、歩きながら彼は器用にわたしの目を覗き込んできた。その仕草に、否応なしに心臓が跳ねる。ときめいてしまった事実に蓋をするように、わたしは話題を変えた。
「そ、そういえば、夏期講習申し込んだ?」
「うん。俺は英語と漢文と、数学。今やってるところが苦手な範囲だから、早めに克服したくて。柳井さんは?」
「日本史と数学と化学、あと漢文。今回のテストがあんまり良くなかった科目にしたんだけど……」
「じゃあ数学と漢文は一緒に受けられるね。空き時間、一緒に勉強しようよ」
美優は科目選択の都合上空き時間ができないし、理沙と華恵は通っている予備校の勉強合宿に参加すると言っていたので、ひとりで過ごすしかないかと思っていた。クラスメイトとはそれなりに仲良くしているけれど、こういう時にお互い声を掛け合えるほど親しいわけではない。
「じゃあ、お願いしようかな。ひとりだとさぼっちゃいそうだし」
「わかる。俺も、自分の部屋で勉強してるとスマホとか漫画とか気になっちゃってだめなんだよな」
「わたしも。ついつい、今観なくてもいい動画を観ちゃったりとか、急に漫画を1巻から読破しようとしちゃったりとか」
「悪魔が囁くんだよな。だから集中したい時は図書館の自習室によく行くんだ。周りも勉強したり何か調べ物をしたりしてる人が多くて、さぼってる場合じゃないって思えるから」
渡部くんは笑うと目尻がふにゃりと垂れる。刻まれる笑いじわと弧を描くのに慣れた口角が、彼の内面をよく表している。朗らかで、清廉で、きらきらしている。
渡部くんと直接話したことはほとんどなかったけれど、名前はよく聞いていた。彼と同じバドミントン部に所属している子の話だったり、去年同じクラスだったことで仲が良いらしい子の話だったり。
渡部も誘おうよとか、あいつが行くなら俺も行こうかなとか、諒太に助けられたとか。彼のことを悪く言ったり、陰口を叩いたりするような人は見たことがない。万人から嫌われない魅力を持った人なのだ。
初めて彼を認識したのは、去年の体育の時だった。2クラス合同で男女にわかれておこなわれるのだが、その時は渡部くんがいた5組との合同だった。準備体操後、男子は走り幅跳びに、女子は棒高跳びに分かれてしばらく経ったころ、わあっと男子のほうから歓声が上がった。
「渡部、新記録だな」
「まじっすか。ありがとうございます」
「それじゃ、もう1回いくか」
体育の男性教師も驚いたように目を瞠っていた。順番待ちをしていた女子たちも振り返って、2回目の彼の計測を見守っていた。
軽やかなステップで走り出し、徐々にスピードを上げる。きっと全力なのだろうけれど、どこか余裕があって――白線で踏み切った跳躍は、まるでしなやかに飛び跳ねる野生動物みたいで。
尻もちをつくこともなく砂場に着地した彼は、白い歯を見せてにっと笑った。横に引いたメジャーで飛距離を確認した先生が、手元の用紙に数字を書き込んだ。
「また新記録だな。お前らも渡部を超えるつもりで頑張れよ」
さすがにこれは無理だろー、と不満を垂れる男子を見るに、かなりぶっちぎりの記録だったらしい。離れたところから見ていた女子たちは、あれ誰? と小声で話していた。そこで、5組の子が言っていた名前を聞いたのだ。
必死に跳んだって平均に届かない記録しか出せていないわたしと違って、能力が高い人なんだなと思った。身体能力だけじゃない。あの振る舞いから察するに、きっと友達も多いし、誰とも仲良くできるタイプだ。
わたしとは別の世界の人。
そう思っていたのに。
夕焼け色に染まった空を見ながら、隣を歩く渡部くんが口を開いた。
「柳井さんって、いつもにこにこしてて穏やかだよね。学級委員の集まりの話とかもよく聞くけど、困ったことがあったり意見が散らばってもうまくまとめてくれるし、気配りもできるって」
「そんなことないよ。こうしたほうがいいかなって思ってやったことが、たまたまうまくはまっただけで
「でもそのたまたまが何度もあるなら、それはやっぱり柳井さんの才能なんだと思うよ」
まっすぐな言葉。うっかり信じてしまいそうになる。
けれど簡単に信じたらいけないのだ。人間は笑顔で嘘をつけるし、思ってもいないことを言葉にすることだってさほど難しいことじゃない。彼にどんな目的や意図があるのかはまだわからないけれど、いくら彼が好青年だからと言ってその言葉の全てを簡単に信じられるものではない。
自分がそうだから。
明るく優しく振る舞って、本当はそのどちらも持ち合わせていないはりぼてが自分だと、わかっているから。
この人もそうなんじゃないか、と疑うしかないのだ。
信じたら負け。初めから信じなければ、傷つくことも絶望もしなくていい。
「ありがとう。渡部くんからそう言ってもらえると嬉しいな。周りのことをよく見てるんだね」
「周り……っていうか、好きな人のことはついつい見ちゃうんだよね。俺、結構前から柳井さんのことが気になってたから」
「そ……そうなんだ」
駅が見えてきた。街中をぐるりと遠回りしたせいで時間はかなりずれ込んで、学校の正門前で見たような制服の集団はほとんど見当たらなくなっていた。かわりに仕事帰りらしいサラリーマンの姿が多い。
「えっと……じゃあ、今日はこの辺で」
「うん。またね」
駅の改札へ続く階段の前で手を振って別れる。小さくなっていく背中を見送って、ゆっくりと階段を上がるあいだ、わたしは彼の笑いじわばかり思い出していた。