*
きっかけは中学2年生の時だった。夏も終わりかけのある日の放課後、クラスメイトの男子に声をかけられたのだ。
「ちょっと来てくれない?」
個人的にはほとんど話したことがないクラスメイトだった。わかったと応えて、指定された中庭に向かう。ひとりの男子が待っていた。彼ともほとんど話したことがなかったので、用事の見当がつかなかった。
「今井くん?」
「ごめんね、呼び出して。実は話したいことがあって」
好きです、付き合ってください。
人生で初めての告白だった。彼のことはまったく意識したことがなかったが、それでも好意を告げられるのは悪くないものだなと胸が高鳴った。平静を装ったつもりだったが、きっと隠しきれてはいなかったはずだ。とりあえずはお礼を言わないと、と発した声は震えていた。
「あ……えっと、ありがとう――」
「なーんて、うっそでーしたー!」
イエスもノーも言わないうちに、どっと下品な笑い声が弾けた。気がつけば、廊下から中庭に出るガラス戸越しに数人の男子たちが集まってこちらを見ていた。向かいにいた男子は両手で彼らにピースをしてはしゃいでいる。
「あはは、柳井さんごめんねー。ドッキリに気がつくかどうかチャレンジだったんだ」
「ありがとう、だって。純粋でかわいいねー」
何も言えずに固まっていると、おい、と彼らの後ろから声がした。はっと顔を上げると、当時片想いをしている相手がそこにいた。誰にでも分け隔てなく優しくて明るくてかっこよくて、小学校の時から密かに淡い気持ちを抱いていた、若林くん。班活動やホームルームで話す時はいつも目を合わせてくれて、本当に素敵な人だと憧れていた。
そんな彼に笑われているところを見られた恥ずかしさと、助けに来てくれたのだという安堵が混ざり合って、下瞼に込み上げた。
「何してるんだよお前ら。寄ってたかって」
「いいだろ別に。遊んでるだけじゃん」
嘲るようなその声を振り払うように、若林くんはわたしに近寄って、大丈夫? と声をかけてくれた。声が出ないままなんとか頷くと、よかった、と手を取ってくれて――
「なんてね。こうやってピンチを救ってもらえると、嬉しくて好きになるんでしょ? 漫画やドラマでよくあるよね。でも残念、俺は柳井さんのことなんて、全然興味ないから」
ふっと嘲笑うような吐息と、ワントーン下がって馬鹿にするような声。
一瞬触れて感じたはずの指先の温度が、氷点下まで落ちたのかと思った。ぱっと離された手が重力に従って落ち、ぶらぶらと振り子のように振れた。おまえって最悪だな、などとまた下品に歯を見せて笑いながら、オーディエンスの男子たちは彼を囲んで楽しげに校内に戻っていく。ひとりが振り向いて、立ち尽くしたままのわたしに声をかけた。
「というわけで、全部ドッキリです。日が落ちて冷えてきたし、風邪ひいちゃうから早く戻ったほうがいいよ、じゃあね」
――その後、ドッキリの話が同級生のなかで面白おかしく広められ、挙句の果てに嘘の告白をしてきた男子に片想いしていたという女子から変に恨まれて、さらにその周りの女子たちからも反感を買うはめになった。もともと多くなかった友達は慰めてはくれたものの、冬が始まる頃には彼女たちとも距離を置くようになって、結局残りの中学校生活はほとんど誰とも口をきかずに過ごした。
はじまりはただのちょっとしたからかい、いたずら、勘違い。
でも、それをきっかけにこじれた人間関係は、そう簡単に元には戻らない。
今でもときどき思い出す。
急速に下がっていく温度。幾重にも重なる下卑た笑い声。解けない周りの勘違い。心配してくれている数少ない同級生の控えめな言動すら最後には信じられなくなって、うまく笑えないままずっとつま先を見つめていたあの頃。
高校受験を控えたある日、決意した。
ここから通う人がいないような、遠方の高校に進学する、と。
県下でも難関と言われる進学校に必死で勉強して合格し、それまでの15年間をリセットするつもりで入学式に臨んだ。成績のいい生徒の大半は、この高校と反対方面にある進学校に通う。目論見は成功し、新入生の列の中に見知った顔はひとつもなかった。
そして決めた。誰のことも信用しない。何も信じない。褒められても羨望を向けられても、その裏にはきっと言葉を発した相手の下衆な思惑が潜んでいる。いくら外面に隙のない人だって、あるいは友達だと思っていたって、いつどこで掌を返されるかわかったものじゃない。自分の知らないうちに周囲がどんな感情をもつかなんて、誰にも予想などできないのだから。
笑顔の仮面を作るのは簡単だった。そして、いつもにこにこしていれば自然と周りからの印象は良くなって、そうそう敵が現れることもなく、今のところ平和に過ごすことができている。
人間関係の正解はこれなのだと思った。どんなに腹の奥底で黒い感情が渦巻いていたって、にこにこして都合のいい言葉を紡いでいれば角は立たない。誰のことも信じずにそんな自分を演じていれば、なにも怖くない。
わずかに芽生える苦しさからは目を逸らして、わたしは毎日を過ごしていた。