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数日後の放課後、学級委員の集まりがあったのでわたしは空き教室に向かっていた。教室に入るとまだほとんど委員のメンバーは集まっていない。適当に座ろうとした時、美優の声がした。
「お疲れー……あ」
「あ……お疲れ」
ばっちり目があってごまかしがきかない距離感。あの日から、美優とはまったく顔を合わせていない。毎日のように動いていた4人のメッセージグループも、美優との個別のやり取りも、数日前の日づけで止まったままだ。
彼女たちが何も言わないのをいいことに、わたしは3人との接触を避け続けていた。選択科目で一緒になるクラスではないし、わたしの教室は彼女たちと離れているうえに移動教室の動線にもかからないので、会いに行かなければ顔を見ることはない。
その弊害が今まさに発生していた。美優がわたしと仲良しであることは多くの人が知っていることで、こんなふうにぎこちないところを見られてはいけない。
もっと早くにわだかまりを解消させるよう、動くべきだった。後悔してももう遅い。
歪なわたしの表情を見て、美優は意を決したように隣にやってきた。席に座りながら小声で囁く。
「調子はどう?」
「……うん。大丈夫」
「そっか、それならよかった」
いつもならもっといろんな話をする。クラスでの出来事、理沙や華恵の話、テレビや映画や新しい洋服やコスメ。
どれひとつとして、彼女の口からは出てこない。もちろん、わたしの口からも。
「あ、あの」
「あとで、話そう」
言いかけた言葉は、美優の視線と学年主任の入室によって遮られた。滝沢先生からプリントを受け取り、委員会が始まる。挨拶運動や読書週間についての話が進んでいっても、わたしはずっと上の空だった。
ぼんやりしているうちに終わっていた委員会で決まった仕事の分担をプリントに書き込んで、荷物をまとめる。他の委員の子が次々と帰っていって、最後に残ったのは美優とわたしだけになった。
「……ちょうどいいからこのまま話そうか」
そう言って、美優は姿勢を少しくずした。机に肘をついて、斜めからわたしに視線を向ける彼女の肩から髪が一房滑り落ちた。
「その……ごめん。不愉快な思いにさせて、気を遣わせて」
「まあ、それはもういいよ。わたしが聞きたいのは謝罪じゃなくて、理由」
ふっと美優の視線がわたしの指先に移動した。机のうえで、不安を押し込めるように固く絡ませた指の先は、じんわりと赤くなっている。
さらに力を入れると、鬱血してしまうんじゃないかと思うような痺れが走った。
「この間も言ったけど、言いたくないことは言わなくていいよ。友達だからってなんでもつまびらかにする必要はないと思ってるから。ただ、個人的な意見を言うと、何があってもあんまり感情を乱すところを見せない香帆がどうしてあんな発言をして帰っていってしまったのかが気になるっていう話なんだけど」
「そ……れ、は」
どこまで話してもいいだろうか。そう咄嗟に考えて、やっぱりわたしは美優のことをまだ信じられるようにはなれていないんだと悟った。
絡まった指先を見つめて、小さく深呼吸をする。
「昔、サプライズでちょっと嫌な思いをしたことがあって。そのことがフラッシュバックしてしまったって感じかな」
「……それだけ?」
「それだけ、って……」
全部言わなくていいと言ったのは美優じゃないか。まるでわたしが適当に取り繕ったことを見透かしたように、彼女はじっとわたしの瞳をその視線で貫いてくる。どくんと心臓が嫌な音を立てた。
「それだけの説明じゃ納得はできない」
「でも」
「全部話さなくていいって言ったけど、納得できる程度の説明はしてほしい。当然でしょ」
「そんなこと言われたって、これ以上は」
がたん、と大きな音がした。立ち上がった美優が、怒りに揺れる瞳でわたしを見下ろしてくる。
「もっと教えてくれると思ってた。全然わかんないよ、香帆のこと。上っ面の建前だけ上手に作ってさ。本当は何を考えてるの? ちゃちゃっと用意したたったひと言の曖昧な説明だけでわたしがはいわかりました、って言うと思わないでよ。全部話す必要ないってそういう意味じゃないよ。わたし、香帆の友達だよね? 具体的なことを話したいとは思えないほど、信頼されてなかったってこと?」
「美優、」
「香帆のことが本当に心配だったんだよ。困ってるなら力になりたいし、本当は香帆がどうしてあんなふうになったのか詳しいことだって知りたい。うまく話せないことだろうから、と思って言わなかったけど、だからってそんな説明で終わらせようとするなんて卑怯だよ」
「待って、美優」
帰る、と言い捨てて、美優は駆け足で教室を飛び出していった。
卑怯。
突き刺さったその言葉の鋭利さが、時間差で滲み出した血のようにじわじわと広がっていく。息ができなくなって、胸の奥から何かが迫り上がる。目と鼻の奥が燃えるように熱くなって、あ、と悲鳴になりきれない音が漏れた。
最低で最悪だ。こうなったのは間違いなくわたしのせいだ。
適当に軽い感じに取り繕ってそれらしくまとめておけば言い訳になるだろうというわたしの浅はかさは、あっさり見抜かれていた。そして、だったら半端な優しさなんか最初から見せてくれなくてよかったのにという八つ当たりの感情。美優がそう言ったからじゃないかという責任のなすりつけをしたくてたまらない自分の、まごうことなき卑怯な部分が見えて、その醜さに吐き気がする。
頬から下がぐしゃぐしゃになって、流れ出す涙の合間にかろうじて息を吸って吐いた。
投げつけられた卑怯という単語が、ずっと脳内を覆っている。力の入らない足で立ち上がり、よろめきながらトイレに向かった。洗面台で顔を洗ってふと鏡を見ると、ずぶ濡れになった顔がいびつにひきつったままになっていた。
顔を拭いてトイレを出る。そのまま玄関に向かって靴を履き替え、外に出ると、ランニングから帰ってきたらしいバドミントン部の部員たちが校門から入ってくるのが見えた。無意識に渡部くんの顔を探す。列の最後尾にいた彼は、後ろから全ての部員を見守りながら軽快な足取りで走っていた。
渡部くんにこの顔を見られる前にさっさと通り過ぎようとしたが、あっけなく見つかってしまった。彼の視線がこちらに振れたのがわかって、反射で俯いたけれど遅かった。ちょっと外すわ、と言う声が聞こえて、隊列から外れた足音が近づいてくる。
「どうしたの、その顔」
「……大丈夫」
「大丈夫かどうかじゃなくて、何があったかを訊いてるんだよ」
まともに顔を合わせることすら久しぶりなのに、それがこんなきっかけでなんて惨めすぎる。わたしは俯いたまま、平気だから、と繰り返した。
「ちょっといろいろあって」
「そのいろいろを話してはくれない?」
あっちに行こう、と言って、渡部くんは部室棟の裏にある薄暗い植え込みのほうへとわたしを引きずって移動した。気温のせいだけではない冷たい空間に、さらされている肌が寒さを覚えてしまう。
「そんな顔してる子を放ってはおけません。何があったのかちゃんと話して。溜め込まないで」
「……美優に、嫌われたかもしれなくて」
本当は吐き出したくてたまらなかったのかもしれない。話せ、と強制されて、わたしはさっきの出来事を渡部くんに全部打ち明けた。渡部くんは何も言わずに、わたしが話し終えるまでじっと黙って聞いてくれていた。
「わたしが悪いってのはわかってるよ。だけど、……無理に話さなくてもいいなんて言葉、そんなの何の優しさでも気遣いでもないのに。あんまり聞きたくはないのかなと思って軽めに要約して話したら、そんなのおかしいって怒られるなんて。わたしはどうしたらよかったの?」
「……井上さんも怖かったんじゃないかな」
「怖い?」
話しているうちにまた込み上げてきた涙を押し殺しながら聞き返す。渡部くんは遠いところに視線を向けたまま頷いた。
「本当は知りたいし、柳井さんの助けになりたい。でもそれを正面切って伝えたらかえって負担になるんじゃないかって考えたんだと、俺は予想するけど」
「……じゃあどうして、あんなに怒ったのかな」
「それは本人に聞くのが一番いいと思うよ。ここで俺と話していたって全部想像でしかないんだから。井上さんには井上さんの考えがあるでしょ」
「そんな……」
「柳井さんはさ、井上さんとどういう関係になることを望んでいるの?」
遠くに向いていた彼の視線がわたしのほうに向いた。唐突なことにびくっと体が跳ねて硬直した。
「どうって……それは、友達として」
「柳井さんの友達の基準って何? 具体的に、どんなふうに関わりたいと思ってるの?」
「それは、今までみたいに」
「でも今までの付き合い方に綻びが出たわけでしょ。だとしたら、次のステップに進まないといけない時なんじゃないかな。柳井さんがつらい思いを抱えているのは知っているけど――だからこそ、井上さんたちと友達として大事にし合っていきたいと思うなら、今のままを望むだけじゃだめだと思うよ」
「……そんなの、わかってるよ」
わかってる。渡部くんに言われなくたってわかっているのだ、そんなことくらい。
本当はずっと前からわかっていた。入学してすぐに仲良くなった3人と一緒に過ごす時間が増えるほど、わたしは変わらなくちゃいけないんだという焦りが大きくなっていった。まだ大丈夫、まだ急がなくていい――勝手にそう言い聞かせて現実から目を逸らしていたのは、間違いなくわたし自身で。
「このままだと、元に戻れなくなるよ」
「わかってるってば!」
耐えきれなくなって、思わず大声を出してしまった。胸の中で行き場をなくしていた言葉が、それをきっかけに次々と飛び出してくる。
「そんなのわかってる、たとえ美優たちに悟られなかったとしても今のわたしのままじゃいけない、こんなんじゃ誰とのどんな関係も長続きしないって、そんなのわかってるよ。人と仲良くなるたびに何度も何度も焦ったよ。今見せているわたしは表に出すための仮面を被っただけの偽りで、偽物で、本当のわたしの心はあなたたちのことをまったく信用してなくて、交わす言葉も向けられる優しさも全部空虚なものだという前提で生きてるんだよって。でもじゃあ、今更どうしたらいいっていうの。わたしは美優たちに腹を割って話せる覚悟がまだできていない」
「井上さんたちなら別に、柳井さんを嫌うなんてことは――」
「そういうのが全部信じられないって言ってるの。理屈ではわかるよ。だってそう思っていないと本音なんて言えないし。だけどそれで離れていかない保証なんてどこにもないでしょ。真実を曝け出してどうなるかわからないリスクを取るくらいなら、安全圏にい続けたほうがいいじゃん」
「信じたいって言ったのは柳井さんでしょ」
その言葉にはっとした。
結局、わたしは筋金入りの嘘つきだ。信じたいと言いながら疑って、信じるほうがきっと楽になると悟った同じ頭で、嘘つきの現状を維持するほうが安全だと矛盾した考えを正当化する。
「……嘘、じゃ、ない。それは」
「自分のこと、認めなよ。ちゃんとさ」
もう行くねと言って、渡部くんは歩き出した。
「待って」
叫んでも彼は足を止めなかった。バドミントン部のロゴが入ったウインドブレーカーが見えなくなるまで、わたしはその場から動けないでいた。