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修学旅行2日目は班別散策で、わたしは同じクラスの3人と一緒に京都の街を回っていた。有名な観光地も多く、写真や映像で見たことがあるところばかりだけど、実際に来てみるとその独特の空気が肌で感じられる。人々が暮らしている生活圏からすぐ近くに、これだけ多くの神様がいるのだ。
「実物を見るとやっぱり違うな」
「うん。思っていたよりも大きくて、重厚で、綺麗」
八坂神社の南楼門に見惚れて、わたしたちはしばらくぼうっとその美しさを眺めていた。
中を進んでいくと、平日にもかかわらず観光客も多い。外国人、年配の夫婦、バスツアーらしい団体など、さまざまな人たちが入り乱れていた。その人波をぬって参拝し、見学する。班ごとにタクシーを借り切っての移動なので、大きく時間がずれ込まなければある程度融通が利く。タクシー運転手のおじさんの解説も合わさって、1カ所だけでもかなり充実した観光になっていた。目尻の笑い皺が印象的な運転手のおじさんは、心の底から楽しそうに話してくれる。疑いようがないほど真っ直ぐで真摯なその語り口が、聞いていて心地いい。
南禅寺へ向かいながら昼食を済ませ、2カ所めの観光を終える。お父さんから借りてきたデジカメには既に100枚近い写真が保存されていて、整理するのが大変だなと思いながらタクシーに乗り込んだ。3カ所めは下鴨神社だ。
街中を走りながらも、運転手のおじさんはいろいろな京都のこぼれ話をしてくれた。有名なお店はたくさんあるけれど、地元の人だけが知るような隠れ家的な名店も多く、そういうところを見つけるのも旅の醍醐味だと話すその口ぶりは、本当にこの街が好きなのだとよくわかるほどに弾んでいる。さっき昼食を食べたのも、運転手のおじさんのおすすめのお店だった。観光地らしい混雑はなく落ち着いた雰囲気のうどん店で、味もおいしかった。きっと、修学旅行の学生を乗せるたびにあんなふうにおすすめのお店を案内しているのだろう。
「よし、そろそろ下鴨神社に着きますよ」
タクシーから降りると、人気の観光スポットらしい喧騒が耳に入る。少し先に、同じように制服で歩く4人ほどの集団がいた。
「うちらと同じ、修学旅行っぽいね」
「さっきもいたよね。秋のこの時期はやっぱり多いのかな」
「タクシーも今が稼ぎどきですよ。紅葉もありますから」
鮮やかな朱色の門をくぐって中に進むといくつもの社があった。ひとつひとつをゆっくり眺めて、最後に水みくじを引こうという話になった。初穂料を納め、おみくじの紙を受け取って、4人で川の水におみくじを浸す。しばらくすると文字がじんわりと浮かび上がってきた。
「あ、大吉!」
「俺も」
「俺は吉だ。柳井さんは?」
「えっと……小吉」
盛り上がっていた3人が、急に憐れむような表情になった。書いてあることもあまりいいことではなく、願い事は「他人を尊重せよ」などという始末だ。神様からしてもわたしはそのほうがいい道を歩めると見えているのか、と内心げんなりしつつも、お通夜状態になった3人にことさら明るい声を出してみせた。
「でもほら、悪い結果なら今後上向きになれるポテンシャルがあるってことでしょ。何もかもだめってわけじゃないみたいだし、前向きに生きてたらきっといいことあるもんね」
「確かにそうかも。伸びしろってやつ?」
あはは、と4人に笑顔が戻ってほっと胸を撫で下ろす。本当はそれなりに落ち込んでいるけれど、引きずったってしょうがない。
川縁から立ち上がり、タクシーに戻ろうかとおみくじをしまっていると、後ろから賑やかな声が聞こえてきた。さっきここに着いた時にも見かけた、どこかの高校の修学旅行生らしいグループだ。なんとなく既視感を覚えてじっと見ていると、隣にいた班の男子が小声で囁いた。
「あの制服、見たことある気がしない?」
言われて思い出した。地元にある公立高校の制服だ。
わたしが通っていた中学校からも多くの生徒が進学していた、家から電車で二駅のところにある学校。
「あ、知ってるわ。この前の練習試合で当たったところだ」
「奇遇だね、こんなところで地元の子を見かけるなんて」
3人は口々にそう言って、さほど気にも留めずに歩き出そうとした。彼らに続こうとしたのに、わたしの足は動かない。
あの横顔を知っている。――若林くんだ。その隣にいるのは、今井くん。
悪夢が色鮮やかに蘇る。胃の奥を鷲掴みにされたような不快感に襲われて、その恐怖を逃がそうと口を開けてみたけれど、声も出なければ酸素を吸うこともできない。どくどくと、嫌なリズムで心臓が暴走しはじめた。
向こうは何も気づいていない。早く、この場を離れなければ。
「柳井さん?」
「香帆ちゃん!」
ぐいと腕を引かれて、ちかちか点滅しかけていた視界がクリアになる。ようやく新しい酸素を肺に吸い込んで、傾いた体のバランスをとるために足が勝手にステップを踏んだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
「具合悪いのか?」
班の3人がそっとわたしの体を支えながら、顔を覗き込んできた。何度も頷いて、ようやくなんとか、大丈夫、と答えた。
「ごめん。ちょっと、一瞬ふらついて」
「ふらついてって感じじゃないよ。顔面蒼白で脂汗までかいて。早くタクシーに戻って、ちょっと休ませてもらおう」
「大丈夫だよ。すぐ治るから」
「大丈夫に見えないよ、その様子じゃ。今のところ予定は順調だし、時間のことなら心配しなくていいから。ちょっとくらい予定が変わったってなんとかなるよ」
離れたところを散策していたタクシー運転手のおじさんも近寄ってきて、おやおやとわたしの目を覗き込んできた。
「貧血かな。朝も早かっただろうし疲れが出たのかもね。とりあえず駐車場に戻ろうか」
鶴の一声には逆らえなかった。タクシーに戻り、助手席の背もたれをふらっとに倒して横になる。大丈夫とは言ったものの、めまいのような症状がは緩やかにまだ続いていた。
――こんなところで会うとは思っていなかった。もう、二度と顔を合わせることなどないと思っていたのに。
この先開催されるであろう同窓会にも行くつもりなどなかったし、今も連絡を取り合うような地元の友達などいない。わたしの交友関係は15歳で完全にリセットされたはずなのだ。それなのに、まさかこのタイミングで。
向こうは向こうではしゃいでいたので、きっとこちらには気づいていないだろう。冷たいペットボトルを首元に当てながら、わたしが彼らの視界に入っていないことをひたすらに祈り続ける。
わたしに嘘告白をした今井くん。
その直後にとどめを刺した挙句、わたしの友達と付き合い出した若林くん。
わたしからしたら、ふたりとも二度と思い出したくない存在でしかなかった。
誰を好いて誰を嫌ったって、それ自体は個人の自由なのはわかっている。それでもあの時、どうしてわたしをターゲットにしてふざけたことをしたのか、その理由は未だにわからないし、わかりたくもない。他人をいたずらに傷つける権利などないはずなのに。きっと彼らに訊ねたって、理解できない理屈をこねくり回すだけだろう。
あれからわたしがどれだけ苦しんでいるのか、彼らは想像すらしたこともないはずだ。それどころか、冗談かと軽く受け流さなかったわたしが悪いとすら思っているのかもしれない。思考回路がどんどん悪いほうに引きずられて、負のループに入っていく。
班の3人と運転手のおじさんは、気を遣って車の外で待ってくれている。駐車場の料金もかかるのに、彼らは何ひとつ文句を言わない。ありがたいと思いながらも、本当は今ごろわたしの愚痴を言い合っているのではないかと疑心暗鬼になってしまって――これだって、あの頃の彼らのせいなのに。
なんでわたしばっかり、ずっと苦しんでいないといけないのだろう。わたしが何かしたのだろうか。あの頃のわたしは、彼らにとって目障りだったのだろうか。おもちゃにしてからかってもいい対象と思われるような何かがあったのだろうか。
「……っ」
視界がじわりと滲む。握りしめていたタオルで顔を覆って、息を止める。こんなところでみっともなく泣きたくない。修学旅行中なのだ。
「柳井さん? 具合はどう?」
なんとか涙を飲み込んだ頃、遠慮がちにドアをノックする音とともに声をかけられた。起き上がって車を降りると、ほっとしたように表情を緩ませた4人が立っていた。
「ごめんなさい。迷惑かけて」
「全然いいよ。顔色も良くなったみたいだね」
駐車場に戻ってきてから、既に15分ほど経過していた。最後に行く予定だった甘味のお店は、今から向かうとちょうどピークにあたってしまいそうだ。そうなるとホテルに戻る指定の時間には間に合わない可能性が高い。
「ごめんね。スイーツ、食べられなくなっちゃった」
「ああ、それなら運転手さんが穴場を教えてくれたから、平気だよ」
「え」
運転手のおじさんはにっこりと笑って、お任せくださいと胸を叩いてみせた。
「伊達にこの仕事を続けていません。みなさんの一生に一度の機会を、少しでもいいものにしてほしいですからね。調子が戻ってスイーツを食べられそうなら、さっそく向かいましょうか」
その言葉を合図にタクシーに乗り込む。ゆっくりと走り出した車はホテルの方面に戻りつつも、途中で何度か曲がって知らない通りに出た。さらに少し進み、静かに路肩に停車した。運転手のおじさんは店の名前を教えてくれたあと、タクシーを降りるように言った。
「すぐそこにあるお店です。小さい看板ですが、綺麗な外観なのですぐにわかりますよ。僕も近くのパーキングに車を置いたら行きますので、先に入っていてください」
話の通り、アプローチの石畳と植え込みが綺麗な喫茶店がそこにはあった。ドアを開けて入ってみると、眼鏡をかけた女性の店員さんが出迎えてくれた。グレーの髪を上品にまとめた、柔和な笑顔が素敵な人だ。
「さっき連絡をもらった学生さんかしら。奥のソファ席へどうぞ」
「ありがとうございます」
ちょうど席に通されたところで、運転手のおじさんもやってきた。親しい様子で店員の女性と軽口を叩き、わたしたちのほうへやってくる。
「昔の同級生なんです。知り合いというだけでなく、つくるものの味も確かなので、ときどきこうして学生さんを案内させてもらっているんです。場所が場所なのとあまり有名ではないので、大混雑していることも少ないですし」
「閑古鳥が鳴いてるわけじゃないのよ。週末は大繁盛なんだから。本当よ」
水のグラスを配りながら、女性は笑顔で反論する。それぞれに注文して、柔らかいソファに体を沈めた。
「こういう静かな場所でゆっくり落ち着く時間をとったほうがいいのかなと思いましてね。どうです、悪くないところでしょう」
「素敵です。外観も良かったですけど、インテリアもかわいくて」
「日差しの差し込み方が綺麗ですよね。眩しくなく、暗くもない具合に入るようにちゃんと設計されているんだなと思いました」
運転手のおじさんは、まるで自分が誉められたように目尻の皺を深くした。
「学生時代から、彼女は店を持つのが夢と話していたんです。こだわり抜いた世界にたった一つだけの自分の店で、たくさんの人に笑顔になって欲しいんだと。当時の自分にはこれといって夢や目標はなくて、やりたいこともみつけられないまま、なんとなく地元のメーカーに就職して。彼女とはお互いに家庭を持ってからもたびたび会うことがあったんですが、大人になってしばらくして本当に夢を叶えたと知った時、自分も何か夢中になれるものを見つけたいと思いましてね。生まれ育った京都にもっと貢献したいと思って一念発起しまして、観光タクシーの仕事に出会いました。そして、この業界で一番になろうと決めたんです。ついでにこの店をいろんな方に紹介して、恩を着せようと」
「褒めてくれるのはありがたいけど、最後の言葉が余計だわ。はい、お待たせ」
抹茶やほうじ茶をメインに使ったスイーツがテーブルに並べられた。スイーツそのものの形はごくシンプルだけど、生クリームやミントの葉、粉糖、フルーツなどの盛り付けや食器などの細部にもこだわりが見える。全てがこの空間として調和しているようだ。
このお店を構えて軌道に載せるまで、きっとわたしたちにはわからない苦労や不安が山ほどあったのだろう。
眼鏡の奥の瞳を子どものようにきらきらと輝かせて、彼女はにっこりと微笑んだ。
「今の若い方は、自分が何をしたいのかを見つけるのも一苦労よね。昔にはなかった――もしくは諦めざるを得なかったことも、たくさん選択肢にあるから。人間関係も複雑になって、希望より悩みのほうが多くなっちゃうわよね。でも、若いうちに出会えた仲間は貴重よ。特別仲がいい子だけじゃなくて、いろんな人との広い縁を大事にしたらいいと思うわ。いつかきっとどこかで、その縁がちゃんとまた巡ってくるものよ。わたしもね、この人が店をお客さんに紹介するからって言い出したからこそ、この店の経営に本気になれたところもあるから」
「そうなんですか?」
女性は大きく頷いた。
「やっぱり、同じようなメニューを出す有名店はいくつもあるからね。最初はたくさんだったお客さんも徐々に減ってきて、どうやったら盛り返せるのか悩んでいたの。でも有名店や大きな会社と比べて、個人でやっているからできることにも限りがある。自分の考えることに自信が持てなくて……そんな時に、この人から観光タクシーのお客さんに紹介するって言われてね。コネでお客さんを連れてきてもらうなんて、って思ったけど、だったらがっかりさせないようにとにかく頑張らなくちゃって思えたわ」
「僕も連れてくるお客さんを途切れさせないように必死だったさ。でも、あれから数年経った今となっては、相乗効果でうまくお互いに成長できたと思ってるよ」
「それには同意よ」
お互いに切磋琢磨して、手を取り合うというよりは背中を預けあっているような2人の関係を、率直に羨ましいと思った。昔の同級生という話だったけれど、何十年と関わりが続いていくなんて滅多にないことのはずだ。
それをあらわすかのように、スイーツも濃厚でしっとりとした味わいだった。わたしが頼んだほうじ茶のムースケーキは、ふんわりとしたムース生地が甘すぎず、かといって淡すぎるわけでもない。口に入れると、舌から鼻の奥へゆったりとお茶の香りが抜けていって、飲み込んだあともその味を感じていられる奥行きがあった。
「香帆ちゃん、だいぶ顔色も良くなったね」
「あ……そうかな。ごめんね、心配かけて」
「ううん。謝らなくていいよ。だってわたしたち、友達でしょ」
屈託のない笑顔で言われた“友達”の単語に、どきりとする。
友達。そうか、彼女たちはわたしを友達だと思ってくれているのだ。
「俺らもさ、何かあったらお互いに助け合えるような関係性でいたいよな。せっかく修学旅行で同じ班になって、1日一緒にいるわけだし。今だけじゃなくて、この先もずっと」
「いいな、それ。夢があるな。今まではただのクラスメイトって感じだったけど、今日でかなり仲良くなれた気がするし」
「わかるわかる。修学旅行がなかったら、同じクラスなのにほとんど話してなかったかもしれないもんね。運命って感じ?」
人生の先輩ふたりの話にあてられたように、3人が口々にそう言い出した。どうせこの言葉だって今だけだ。学校に帰って、いつもの日常に戻ったらどうせほとんど話さなくなるはずだ。
3人が同じように思っているのかはわからないけれど。どうせ、人の言葉なんて刹那的なものだ。
「……そうだね。ずっと仲良くいられたら、嬉しいな」
嘘。いや、少なくとも本心からそう思っているわけではない言葉を、また口にした。罪悪感が押し寄せてきて、3人の表情から視線を逸らす。
苦しい。たとえ今だけだとしても、みんなと同じように無邪気に笑えないことも、気持ちと言葉がずれてしまって自分でも嘘か本当かわからないことも。
今この一瞬すら笑い合えないなんて。
口当たりが軽くてふわふわだったムースが、砂のようになってしまった気がした。
ホテルまで帰るタクシーの助手席で、わたしは写真を整理するふりをして、後ろに座る3人の会話にほとんど加わらないようにしていた。