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担任の荻野先生に頼まれた掲示物の貼り替えをしようと放課後の教室に戻ると、ドアの向こうから誰かの話し声が聞こえてきた。取っ手にかけていた手をそっと離し、耳を澄ます。誰だかわからないが、どうやら告白の真っ只中のようだった。
――ずっと前から好きでした。
女子の震える声が、溢れる想いを告げる。数秒の間の後、男子の声が低く響いた。
――ごめん。気持ちはありがたいけど、俺は部活仲間だとしか思えなくて。
――そっか。わかった。ごめんね。これからも友達として仲良くしてほしい。
わかった、という返事が聞こえて、靴底が床に擦れる音がした。慌てて階段のほうまで戻る。男子が行って、半泣きの女子がその後にゆっくり歩いていくのを踊り場から確認して教室に戻る。もうすぐ修学旅行だから、それまでにと思って告白の一歩を踏み出す人が多いのだろうか。この間も神妙な面持ちで部室棟側に歩いていく男女を見かけた。あまりに微妙な距離感と表情だったのでよく覚えている。彼らはどうだったのだろう。
名前も知らない誰かのことを考えながら夏の掲示物を剥がして、新しいものを貼っていく。ボランティア募集のチラシとか、読書週間の告知とか、貼ったって何人が内容を読むのだろうかと思うようなものばかりだ。それらと併せて、修学旅行にむけてホームルームで作成した事前研究のレポートを40人分貼ることになっている。おのおのが当日の工程に入っている観光予定地の中からひとつピックアップして調べたものだ。わたしは八坂神社にしたけれど、いろんな神社やお寺だけでなく抹茶や和菓子にまつわることを調べてまとめた子もいて興味深い。
作業のついでにそれを読んでいると、名前を呼ばれた。振り向くと渡部くんが立っていた。バドミントン部のユニフォームを着ている。珍しいところを見ることができたなと、胸の奥がきゅんと疼いた。
「ロッカーの上にあがって、何してるの」
「みんなの事前レポートの掲示を頼まれたんだけど、つい読んじゃってて」
「ああ、先週のホームルームでやったやつか。柳井さんはどこについて調べたの」
「八坂神社。渡部くんは?」
「金閣寺にした。あと小学校のときから授業で聞いてて馴染みがあるからやりやすそうと思って。あと金色ってやっぱかっこいいじゃん」
「なにそれ」
渡部くんは真面目な顔で冗談みたいなことを言うことが多い。わたしの笑いのツボをいつも刺激するので、どうしても我慢できずに笑ってしまう。
「気をつけてね。落っこちないように」
「さすがに大丈夫だと思うけど、今のが面白かったから思い出し笑いで転ぶかも」
「そりゃ大変だ。マットでも敷いておいたほうがいいかな」
忘れ物を取りに来ていたらしい渡部くんは、部活に戻ると言って小走りで教室から出ていった。
彼氏と彼女の関係なのだから、見かけたら話しかけるのはきっと当然の流れだろう。わかってはいるけれど、そんな些細なことで胸の奥がじんわりと温かくなる。渡部くんの声に、言葉に、笑顔に安心を覚えている自分に気がついて、他人に対してこんなふうに感じるのはいつぶりだろうかとふと思い返す。
誰といても、いつも不安だった。まわりの全員が敵だと思えて仕方なかった中学時代後半の1年半はわたしの中で自覚しているよりも大きな傷になっていて、環境が大きく変わって人間関係をリセットできた高校入学後もずっと息苦しくて仕方なかった。わたしのことを何ひとつ疑わずに仲良くしてくれる美優たちに対しても、心を許そうとしてもあの頃の周りの声や視線がちらついて、ずっと閉ざしたままだ。――今も、まだ。
疑う方が楽だと思っていたのに、全然楽なんかじゃなかった。信じるほうが気持ちは楽だと気づいてしまった。
それなのに、誰とも向き合えない。自分自身からさえも逃げ続けている。
渡部くんの存在は、過去に囚われ続けているわたしにとって大事な道標だ。彼といることで、わたしに向けられる優しさをちゃんと正面から受け止められるようになれるかもしれない。――ううん、なりたい。優しさを、気遣いを、素直に受け入れて笑えるように。
そこまで考えてはたと気がついた。わたしは、渡部くんを自分のために利用しようとしているのではないか、と。
気づいた瞬間に背中を悪寒が這い上がって、頭の中の温度がすうっと引いていった。
「……違う、よね」
恋人関係に利害を持ち込むなんて卑しいことはしたくない。そもそも、わたしと付き合うことで渡部くんへのメリットなどないのだ。先に好意を向けてくれたのは渡部くんのほうだけれど、わたしはその気持ちを使って自分のリハビリをしようとしているのではないか。
事実、わたしの心は少しだけ変化している。彼が向けてくれる好意を言葉のまま受け止めて、それに対して素直に嬉しいと思っている。
これは、わたしが彼を利用しているということ?
手に持っていた誰かのレポートにくしゃりと皺が寄った。まずいと思って見てみると、わたしが書いた八坂神社のレポートだった。用紙の角が変によれて、握りつぶした痕がわかりやすく残っている。
「最悪……」
指先で擦っても、ついた皺は消えない。なんとか見た目に汚く感じない程度にはごまかして、画鋲で貼り付けた。
うわついた気持ちは、一瞬ではじけて消えた。わたしの過去に関係のない人たちまで疑い続けて生きているのだから、きっと当然の苦しみだ。疑っても信じても、楽になれたとしたって幸せにはきっとなれない。