夏休みが明けて、校舎がまた賑やかになった。夏休み後半、毎日のように学校に行って文化祭準備に明け暮れたおかげで、なんとか当日には間に合いそうだ。

「香帆ちゃん、本当にごめんね。全部やってもらっちゃって……書類も間に合ってなかったよね」
「最重要の暗幕の使用申請が出てたから、大丈夫。お母さん、元気になってよかったね」

本来の実行委員である美里ちゃんは、休み明け早々にわたしのところに飛んできて何度も頭を下げていた。事故に遭ったお母さんは退院できたものの、完治まではまだ時間がかかるようで、まだしばらく家のことを優先せざるを得ないようだ。

「それで、申し訳ないんだけど……このまま、文化祭のことお願いしてもいいかな」

そうなるだろうと予想していた通りになった。もちろん、断るなんて選択肢はない。

「大丈夫だよ」

頭がくらくらする。わたしは本当に大丈夫なのだろうか。
でも、目の前にいる美里ちゃんはわたしに対してありがとうと言っただけで、それ以上の追求をしなかった。きっと周りからはちゃんと大丈夫に見えている。

大丈夫。大丈夫だ。
大丈夫じゃないなんて言ったって、周りがどうにかしてくれるわけじゃない。

6時間の授業を受けて、放課後には文化祭の準備。9月の2週目になると授業が短縮になって、浮いた30分は授業後にクラス全員での準備時間となった。

「これはこっちでいいの?」
「あ、その飾りはあっちにもつけて」
「ウィッグはこんなもんかな? もっと切ったほうがいい?」

みんなで集まると、結局楽しそうにあれこれと作業をし出す。それが大勢でやっているからなのか、面倒な最初のところがもうとっくに終わっているからなのか――どっちでも構わないが。

「あ、どうしよう。ビニール紐が足りない」
「生徒会室からもらってくるよ。他に何かいるものある?」

通路の仕切りを作っていた男子のぼやきに反応して立ち上がると、ここ数日ずっとふわふわしていた視界がぐらりと傾いて真っ白になった。まずい、と思った時には右手と背中に痛みが走って、がたがたと何かがぶつかる音がした。

「柳井さん!」
「香帆ちゃん? 大丈夫?」

大丈夫、と声を出そうとしたのに声が出ない。体のどこにも力が入らないし、視界がずっと真っ白で何も見えない。騒がしくわたしを呼ぶ声と、先生を探すと言って飛び出した誰かの足音を遠くに聞きながら、意識を手放した。

――目を覚ましたのは保健室のベッドの上だった。ゆっくりと瞼を開けると、天井とカーテンレールが視界に入る。動かそうとした右手がずきんと痛んで、思わず声を上げた。

「気がついた?」

入るわね、とカーテン越しに聞こえたのは保健の先生の声だった。返事をするとベッドの横まで進んできて、熱を測ったり手の様子を見たりしてくれた。

「軽い熱中症と貧血だったみたいね。倒れた時にあちこち打ったみたいであざになっているけど、動きには問題ないから骨は大丈夫そうね。頭が痛いとかはないでしょう? 上手に受け身をとったみたいだもの」
「はい。右手だけ痛いですけど、他は特に」
「手首を痛めたみたいだから、しばらくは湿布して様子見たほうがいいわね。念のため整形外科に行ったほうが安心かもしれないけど……まだ体のほうが本調子じゃないだろうし、まずは安静にしておきなさい。親御さんにも連絡はいってるから、もう少ししたらお迎えに来られると思うわ」
「わかりました。ご迷惑おかけしてすみません」
「いいのよ。とにかく無理せずに寝てなさいな」

先生はそう言って保健室を出て行った。カーテンを閉めて、もう一度ベッドに横になる。スカートのポケットに入れたままだったスマホを取り出すと、お母さんからメッセージが入っていた。あと15分くらいで着くらしい。

意識を失っていたのは1時間弱といったところだろうか。もうとっくに部活動の時間になっていて、グラウンドからは賑やかな掛け声が聞こえてくる。

何も考えられなくて、頭の中が空っぽだ。さっきまであれもこれもと文化祭のことを考えていたはずなのに、それらが全部すっ飛んで、ただぼんやりすることしかできない。
カーテンの布地を眺めていたら、保健室のドアが開く音がした。先生かと思ったが、あれ、という小さな声は男子のもので、――たぶん知っている声だ。
少しだけカーテンをめくってみると、案の定だった。

「先生なら、ちょっと前にどこかに行ったよ。渡部くん」
「え? ……あ、柳井さん! 倒れたって聞いたけど、平気? 体調悪いの?」

わたしに気づいた瞬間、渡部くんは目の色を変えてこちらに駆け寄ってきた。その勢いに思わず体を後ろに引いたけれど、彼はお構いなしにわたしの目の前まで距離を詰める。迷いなく伸ばされた手がわたしの頬にやさしく触れた。

「よかった、無事で」
「貧血と熱中症だって。こんなことになって情けないな」
「頑張りすぎだよ。夏休み中、文化祭準備の穴埋めで走り回ってたんでしょ。誰かから自転車借りて、駅の向こうのホームセンターまで往復してたとかって聞いたよ。あんなとこまで行ったら自転車でも20分以上かかるでしょ。そんなことしてたら疲れも溜まるって」
「でも、わたしがやらないとだったし……」
「もっとみんなを頼りなよ。ひとりであれもこれもなんて無茶だよ」

簡単に他人を頼れない、こんな気持ちは渡部くんにはきっとわからない。
わからないなら、言う必要もない。胸の中にぐちゃぐちゃと渦巻いた言葉はぐっと押し殺して、そうだねと笑った。

「みんなもう部活に行ったり帰ったりしてるよね。明日、謝らないと」
「……そんな笑い方、しないでよ」

頬に触れていた彼の手が離れた。見上げると、いつもの優しい眼差しがなくて、かわりに真っ直ぐにわたしを見つめる強い視線が刺さってくる。あまりにそれが鋭くて、喉の奥がぎゅっと締まった。

「渡部くん?」
「しんどいのに笑う必要ないよ。なんでいつも、そんなふうに笑うの」
「え、っと……」

答えられずに彼をただ見つめたまま、わたしは動けなかった。廊下から誰かの話し声が聞こえて、はっと我に返る。渡部くんがさりげなくわたしから距離をとって、それと同時に保健室のドアが開いた。

「香帆。もう大丈夫なの」
「大丈夫だよ、お母さん。ごめんね。仕事、抜けてきたんでしょ」
「そんなの気にしなくていいのよ」

渡部くんはこちらに一礼して、そのまま保健室を後にしていった。何か用事があったはずなのによかったのだろうかと思いつつ、わたしは荷物を取りに教室へ向かった。誰もいなくなった教室から鞄を回収し、階段を降りていると、どこからか話し声が聞こえてきた。

「ねえ、聞いた? 2組で誰か倒れたって」
「学級委員の人でしょ。いつもへらへらしてる感じの」
「ああ、あの子ね。大騒ぎだったから何事かと思ったよ」

くすくすと笑う声。階段裏、倉庫があるあたりから聞こえてきたので、人が通ることを気づかれないように足音を忍ばせた。

知らない声だった。どこかのクラスの子なのだろうけど、下品だなと思った。
よく知りもしない相手のことを上っ面だけ見て、こうして影でこそこそ話しているのだろう。もっとも、いつもへらへらしているというのはあながち間違っちゃいない部分ではあるが。
底意地の悪さがなせる技だろうが、誰も疑わないわたしの空虚さを見抜くなんて大したものだ。

そういえば、さっきの渡部くんもわたしが笑うことについて言っていた。無理して笑う必要がない、と。
わたしは無理をしているんだろうか。自分ではわからない。どの顔も、自分のなかからそのまま出てくるだけなのだ。疑う気持ちを隠すために。

生徒玄関でお母さんと合流して、学校を後にする。お母さんも、わたしが誰も彼も疑って生きていることを知らない。心の中でごめんと謝りながら、わたしは車の助手席に乗り込んだ。