どれくらいそうしていただろうか。
制服越しに陸の体温が伝わってきて、少し暑い。
かなでの肩に顔を埋めたまま、陸が何かを呟いた。
くぐもって声が聞き取れなかったので、かなでが聞き返すと、陸はそっと顔を上げた。
息がかかってしまいそうなほど顔の距離が近くて、かなでは静かに息を飲んだ。
キスをしようと思えばできてしまいそうだ。
もちろん、そんなことはしないけれど。
「…………なるには敵わないな」
「えっ?」
陸の額が、こつん、とかなでの額にぶつかる。
思わず息を止めたかなでに気づき、陸は笑いながら距離をとる。
「振られてからさ、自分が否定されたみたいな気持ちになったんだ」
「萌さんは陸くんの気持ちに応えられなかったかもしれないけど、陸くんを否定したかったわけじゃないと思うよ……!」
「うん。萌はそんなことしない。分かってる」
あんなにも優しい声で陸の名前を呼ぶ人が、陸のことを否定するはずがない。
そのことは、陸も分かっているのだ。
頭では分かっていても、心が追いつかないこともある。
陸もきっとそうだったのだろう。
「萌は悪くない。でも、本当にしんどかったんだよ」
「陸くん…………」
「でもさ、この世の終わりみたいな気持ちで次の日学校に行ったら、いつもみたいになるが言うんだ」
陸くん大好き、って。
やわらかい声で語る陸に、かなでは首を傾げる。
萌の話をしていたはずなのに、突然出てきた自分の名前。
目をまたたかせて困惑するかなでに、陸は笑いかける。
「なるがすごいって話だよ」
「ええ? 私?」
「うん。なるのその底抜けの明るさと、俺を好きだって言ってくれる優しさに、俺は救われてるんだよ」
どくん、と大きく心臓が鳴った。
中学生のあの頃。人目がこわくて息もできなかったかなでを、陸が救ってくれたように。
かなでも陸のことを救えているのだ、と。
その言葉がどれだけかなでの心を救っているか、陸は知らない。
救われているのはいつだって、かなでの方なのに。
陸はそんなかなでの心情など知らぬまま、言葉を続ける。
「なるはさ、俺が何をしてもかっこいいって言うじゃん」
「うん。陸くんは、どんなときでもかっこいいよ」
「かっこ悪いところも、情けないところも受け入れて、大好きって言ってくれる」
なるのおかげで元気でいられるんだよね、と泣き出してしまいそうなほど嬉しい言葉が紡がれる。
陸は眉を下げて笑い、かなでをまっすぐ見つめる。
それから、先ほどまでの会話で気持ちが浮かれていたかなでを、奈落の底へ突き落とすような言葉を、陸は口にした。
「だからさ、なる。なるさえよければ、高校を卒業した後もずっと、俺の友達でいてよ」
ずっと友達でいてよ。
何気ない一言。でもきっと、その言葉には陸の本心が詰まっている。
今までも、これから先も、ずっと。
かなでが陸の恋愛対象になることは、永遠にない。
叶わない恋だと知っていた。
覚悟していたはずだった。
それなのに、胸の奥がずきんずきんと悲鳴を上げている。
泣き出してしまいたい。
でも泣いてしまったら、陸が気づいてしまうかもしれないから。
かなでは笑顔を作って、今日も嘘をつく。
「当たり前じゃん! ずっと友達だよ! 陸くんは今日も明日も、高校を卒業したってずーっと私の推しなんだから!」
痛々しいくらいに明るいかなでの声が、ずるくて悲しい嘘を紡いだ。
どうかこの嘘を隠し通せますように。
そう願いながら、かなでは必死に涙を押し隠した。
文化祭が終わると、あっという間にテスト期間がやってきた。
就職を希望している生徒たちが集まる中、必死で勉強をしているのはかなでくらいのものだ。
テスト期間でなかったとしても、高校三年生。
陸と同じクラスになりたいがために、進路希望調査には就職希望と記入したが、かなでは大学に進学するつもりでいる。
つまり、受験生なのだ。
数学の応用問題が何度やってもできなくて、頭を抱える昼休み。
ずこー、と間の抜けた音を立てながら紙パックのジュースを飲んでいた咲夜が、ふいに口を開いた。
「かなでって、志望校どこなの? そんなに頭いいところ狙ってんの?」
「言ってもねぎちゃん分かんないでしょ」
「分かんねーけど。調べれば出てくるだろ」
「じゃあ京都、国立で検索して一番に出てくるところ」
「は!? おまえ京都に行くの!?」
突然大声を上げた咲夜に驚いて、かなでは顔を上げた。
「受かればだよ。国立だし、難しいところだから、落ちたら私立に行くしかないし」
私立ってどこだよ、と咲夜が再び質問してくるので、かなではため息をついて一枚のルーズリーフを取り出した。
かなでが受験する予定の大学名をボールペンで殴り書きし、一、二、三、と隣に数字も書き足す。
これは志望順位ね、と一言添えて咲夜に渡すと、眉をひそめてスマートフォンを取り出した。
ようやく静かになったので、再び数学の問題に戻る。
何度も自分の回答を見返して、ようやくミスの原因に辿り着いた。
かなでは勉強するとき、必ずボールペンを使う。
シャープペンシルだと間違えたときにすぐ消せるが、何をどう間違えたのか、形に残しておきたいのだ。
間違えた部分を蛍光ペンでチェックし、もう一度解き直す。
こうすると後で見返したときに、自分がどういうミスをしやすいか、傾向が読み取れるのだ。
「…………全部東京じゃねえじゃん」
再び咲夜が口を開き、想像していた通りの言葉を口にした。
かなでの志望校は、国立、私立含め、全て実家から通えない場所にある。
もともと東京に住んでいるので、都内、もしくは関東圏ならば実家から通うこともできるだろう。
でもかなでは、東京から離れると決めていた。
「一人暮らし、してみたいし?」
「陸が遠かったらどうするんだよ」
高校を卒業したら、プロになりたいと陸は言っていた。
実際にプロ入りできるのか、そしてどこの球団になるのかは、もちろんまだ分からない。
でも無知なりに調べたところ、プロの球団は十二球団あるらしい。
そして、そのうち五球団は関東が本拠地なのだ。
約半数が関東ならば、陸が関東圏内にとどまる可能性もかなり高いはずだ。
「…………私は、陸くん離れしなきゃダメだから」
小さな声で呟くと、咲夜は何も言わずにかなでの額を指で弾いた。
いつもなら手加減をしてくれるのに、かなり強い力だった。
痛い! と悲鳴を上げるかなでに、咲夜はバーカ、と笑った。どこか寂しそうな笑顔だった。
陸がプロ野球選手になったとしたら。
そのことについて考え始めたのは、高校生になってすぐのことだった。
ずっとそばで応援し続けたい。
陸がくれる優しい言葉をお守りに、生きていきたい。
でも陸がプロになるならば、今までのようにはいられない。
かなでは普通の大学生になり、どこかの企業に就職するはずだ。その未来に、陸はいない。
だから、かなでも陸に頼らず、ひとりで立って歩いていかないといけないのだ。
今は想像もできないけれど、いつか遠い未来、かなでも他の誰かと恋をする日が来るかもしれない。
そうして陸への恋心を思い出にできたとき、本人に笑って話せたらいいな、と思うのだ。
私ね、あの頃陸くんのことを推しだって言ってたけどね、本当はずっと、恋だったんだよ。
かなでの嘘を、陸は許してくれるだろうか。
もし許してくれたなら、今度こそ本当に、偽りなしで友達になれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いているのだ。
ぼんやり考え事をしていたかなでに、咲夜が再び呼びかける。
「陸は、ほぼ確実に、プロになる。そしたら物理的に距離をおかなくても、ほとんど会えなくなるだろ」
わざわざかなでが遠い地に引っ越さなくてもいい。咲夜はそう言ってくれているのだ。
かなでは解いた問題の答え合わせをしながら、そうだねぇ、と笑った。
そして自分に都合の悪い今の話題から逃げるため、話を変えることにした。
「私のことより、ねぎちゃんは? 就職先どうするの?」
「俺は……まだ決めてない」
「ねぎちゃんも野球好きでしょ。プロにはならないの?」
「あのなぁ、プロなんてそんな簡単になれるものじゃないから」
陸が特別なんだよ、と呟いたその声には、悔しさが見え隠れしている。
咲夜は小学生の頃に少年野球を始め、高校三年の今に至るまでずっと続けてきている。
陸曰く、咲夜は相当うまいよ、とのことなので、てっきり高校を卒業した後も野球を続けるものだと思っていた。
「じゃあ野球、やめちゃうの?」
せっかく頑張ってきたのに、とかなでが言葉を続けると、咲夜は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「まあ今年の夏の結果にもよるけど、たぶん続ける」
「そうなんだ、よかった……!」
「大学から声がかかったり、社会人野球のチームに入れたらかなりラッキーだな」
大学から野球を続けることを条件に推薦をもらえることもあるらしい。
社会人野球については全く知らない話だった。
咲夜の話によると、本気で勝ちを狙っているチームは採用人数も少ないので、かなり狭き門らしい。
しかし企業チームからプロ入りを果たした選手もいるそうで、本格的に野球に取り組んでいることが窺える。
「今年の夏の結果次第なの?」
「……俺はな。去年も出てたけど、陸ほど実績は残せてないから」
でも陸は去年の成績だけでほぼ確実だと思う。
咲夜の言葉に、かなでは昨年の夏を思い出す。
甲子園で準優勝という結果を残した後、陸は一躍有名になった。
学校内はもちろん、外部のファンもかなり増え、野球部の練習の見物人の数が大変なことになっていたのだ。
あれから約一年。最近では陸の追っかけの勢いも少し落ち着いているが、大会が始まればまた昨年のような賑やかさになるのだろう。
「ねぎちゃんも、いいところに決まるといいね」
陸のように派手にもてはやされなくてもいい。
咲夜の努力と実力を認めてくれるところが現れればいい。
かなでは心からそう願うのだった。
陸、咲夜、蓮、かなでの中で進路が一番に決まったのは、蓮だった。
熱心にOB訪問を続け、ヘアメイクの仕事を現場で学ばせてもらえることになったのだ。
「昼は現場、夜は専門学校っていうハードスケジュールになりそうだよ」
困ったように笑いながらも嬉しそうなのは、きっと憧れていた仕事に関われることになったからだろう。
ずっと蓮の進路に反対していたという両親も、お世話になるアテまで自分で見つけてきた蓮の熱意に押され、ついには折れてくれたという。
大事な友達が希望通りの進路を勝ち取ったというニュースは、かなでにも勇気をくれた。
かなでも志望校に合格し、みんなで笑って春を迎えたい。
そんな気持ちが強くなった。
二年生のときまでやっていたアルバイトは辞めた。
使える時間は全て勉強にあてていると、夢の中でまで勉強をするようになってしまった。
それでも夏を迎える頃には第一志望校がC判定を取れるようになった。最初はE判定だったことを考えればかなりマシになった方である。
模試の結果に一喜一憂しながら迎えたテストは、過去一番の結果を残した。
テストが終わると、学校は夏休みに入った。
授業があろうがなかろうが、勉強漬けの日々であることには変わらない。
ただ一点を除いては。
「…………陸くんに会えない」
家よりもよほど環境が整っているので、勉強に集中するために、夏休み中も毎日学校に通っている。
運が良ければ、練習する陸を見ることができるかも。そう思っていたのだが、現実はそんなに甘くない。
夏休みに入ってから、かなでは一度も陸に会えていなかった。
大好きな陸に会えない。そのことが想像以上にかなでの精神を削っていた。
暇さえあれば学校にやって来て、かなでに差し入れをしてくれる蓮が、困ったように笑った。
「それは仕方ないよ。野球部は大会中で忙しいからね」
蓮の言葉に、かなでは窓の外を見る。
いつもなら野球部が練習をしているはずのグラウンドは、ひと気がない。
負けたら即引退のトーナメント戦。その試合のため、今日も専用バスで移動し、どこかで試合をしているのだろう。
「勝ってるのかな、野球部」
「かなちゃんはりっくんのファンなのに、野球には本当に興味がないよね」
確かにファンのほとんどは、野球をしている陸のことが好きだと言うだろう。
でもかなでは、陸が野球をしているから好きになったわけではない。
たとえば他のスポーツをしていたり、かなでのように運動神経がすごく悪かったとしても、絶対に好きになった。
自信を持ってそう言えるのだ。
「……甲子園の決勝まで勝ち残ったら、応援に行こうよ」
「え?」
「りっくんも、…………さっくんも。かなちゃんが応援に来たら喜ぶよ、絶対に」
かなでは英語のテキストに目線を落とし、言葉を探した。
野球をやっている幼馴染がいて、好きな人も野球に打ち込んでいるのに、かなでは一度も応援に行ったことがない。
ルールの分からないかなでは、試合を見ていてもきっと何がなんだか分からないだろう。
それに、陸のことを応援している人はたくさんいる。かなでの応援なんて、取るに足りないものに違いない。
「ルールも分からないのに、見に行ってもいいのかな」
「当たり前じゃん。俺だって全部は分からないけど、それでも応援に行きたいって思うよ」
ね、と笑いかけてくれる蓮に、かなでは少し悩んで、頷いた。
東星学園野球部は、順当に勝ち進み、甲子園への切符を手に入れた。
昨年活躍した陸は、どうやら今年も注目選手のようで、テレビでも少し取り上げられていた。
決勝まで勝ち上がったのを知ったのは、テレビの中継を流していたからだった。
すぐ後に蓮からも電話が来て、クラスのメッセージグループや学校からの連絡網が鳴り止まない。
都合がつく生徒は応援に来るように、という昨年と同じ連絡だったが、かなでは行きます、と連絡をした。
兵庫県にある甲子園球場まで応援に行くため、前泊することになった。
さすがは由緒ある私立高校。学校のバスを総動員して、たくさんの生徒を乗せて高速道路を走る。
蓮と合流できたので、バスでは蓮の隣に座り、バスの中でもかなではひたすら勉強をした。
たまに眠ったり、蓮と会話をしたりしながら、バスに揺られること約七時間。
宿に着く頃にはすっかり疲れ切っていた。
野球部のメンバーは違う宿に泊まっているらしく、陸や咲夜と会うことはできなかった。
東星学園野球部の寮生たちは、野球に集中するため、スマートフォンも普段は監督に預けている。
かなでは二人に連絡する手段を持っていない。
野球部のマネージャーをやっていたならば、こんなときでも声をかけられたのかもしれない。
でも、野球に興味のない人がマネージャーをやるのは選手に対して失礼だと思うから、かなでの選択は間違っていなかった、と思うのだ。
どうか二人が怪我なく実力を発揮できますように。
伝えることはできないけれど、かなでは心の中で祈るのだった。
決勝戦当日は、雲一つない快晴だった。
うだるような暑さの中、蓮が貸してくれた日焼け止めをしっかり塗り、スタンドに入る。
東星学園は生徒が多いため、応援の人数もかなりのものになる。
レギュラーメンバーのクラスメイトや友人は、優先して前の方に通してもらえた。
球場内は応援席が全て埋まっているように見えた。
こんなに多くの人に見られる中でスポーツをするなんて、緊張しないのかな。
そんなことを考えていると、スタンド席にいる、ベンチメンバーに入れなかった野球部の男の子と目が合ってしまう。
同じクラスにはなったことがないけれど、たぶん三年生だ。咲夜と話しているのを見たことがある。
目が合ったのに、そのまま逸らすのはなんとなくためらわれて、かなではぺこりと小さく会釈をした。
するとその男子は隣の部員に話しかけ、あたりの部員の視線が、かなでに集まる。
「えっ、えっ、なに!?」
「どうしたの、かなちゃん」
「蓮くん! なんかあっち側! 野球部の人たちにすごく見られてるんだけど……!」
「んー、超見られてるね。人気者じゃん」
「そんなわけないよ! 話したこともないもん!」
野球部の知り合いなんて、陸と咲夜しかいない。
かなでが隣に立つ蓮の背中に隠れるようにすると、ようやく視線の嵐がおさまった。
しかし、一番最初にかなでと目があった部員だけが、その場を離れた。
何だったんだろうね、と蓮が首を傾げ、かなでも同じようにこてんと首を傾げた。
まもなく試合が始まる。
騒がしいスタンドに、成海さん! とよく通る声が響いた。
かなでは反射的に振り向いたが、これだけの大人数が集まるところだ。なるみ、という苗字や名前の人なんて、大勢いるはずだ。
自意識過剰だったかな、と再び前を向くかなでの肩を、誰かがとんと叩いた。
「成海さんだよね?」
「え…………? えっと……?」
「咲夜の幼馴染の!」
「あ、は、はい……!」
咲夜の幼馴染の成海さんならば、かなでで間違いないだろう。
慌てて身体の向きを変えて向き直ると、先ほどスタンドで目があった部員だと気がついた。
「あ…………さっきの」
「さっきはすみません。本当に成海さんか自信なくて、隣のやつに確認したんすよ」
その言葉の意味が分からなくて、かなでは首を傾げる。
隣にいる蓮が、「九条咲夜の友達の成海さんってこと?」と助け船を出してくれる。
部員の男の子が頷いたのを見て、かなではようやく納得した。
かなでは幼馴染のくせに応援にも来ない、と咲夜がぼやいていたのかもしれない。
今まで一度も応援に来たことがなかったので、そう言われてしまってもおかしくない。
それならば、咲夜の愚痴を聞いていた部員が、たまたまかなでを見つけ、驚いたことも納得できる。
しかし、どうしてわざわざかなでの元へやって来たのか、それだけが分からない。
困った表情でわたわたと慌てるかなでに、その男子は帽子を差し出した。
見覚えのあるキャップ。
かなでの記憶が正しければ、咲夜のものだ。
「え、なんですか、これ」
「昨日の夜、あいつ拗ねてたからさっき伝えてきたんすよ。成海さん来てるよ、って。そしたらこれ、渡してくれって言われました」
「なんで帽子なんだろう?」
「陸も熱中症に気をつけてねって言ってたから、たぶん暑さ対策っすね」
スタンド暑いんで、気をつけてくださいね!
かなでに注意を促し、部員は早足で元の席へと戻っていった。
嵐みたいだったな、とかなでがぼんやりしていると、選手の入場です、というアナウンスが流れた。
東星学園野球部のベンチメンバーが紹介され、次々に入場してくる。
そして相手高校のメンバーも同じように入場すると、応援席の歓声がひときわ大きくなった。
咲夜から野球部員づてに渡されたキャップを胸に抱きしめながら、かなではグラウンドに整列している陸と咲夜を見守った。
ドキドキと心臓がうるさく鳴り響く。
多くの観客が見守る、真夏の甲子園決勝戦。
戦いの火蓋が切られた。
東星学園は、後攻だった。
その意味が分からなくて蓮に訊ねると、簡単に言うとりっくんが先に投げるってことだよ、と分かりやすく教えてくれた。
野球における攻撃とは、バッティングのことらしい。
ボールを投げている方が攻撃だと思い込んでいたので、かなでは大きな勘違いをしていたようだ。
守備につくため、東星学園野球部のスターティングメンバーがベンチから出てきた。
咲夜のポジションは、ショートというらしい。かなり難しいポジションなんだって、と蓮が教えてくれた。
かなでにキャップを貸してくれたので、咲夜の帽子はあるのかと心配だったが、ちゃんと被っていて安心した。
陸はまっさらなマウンドに立ち、空を見上げる。それから迎え打つために構えるバッターと、正面に座るキャッチャーの方を見て、大きく頷いた。
一回表、陸が投げたボールは、三人目のバッターに打たれてしまう。飛んできたボールを咲夜がキャッチし、素早く一塁に投げるが、バッターが塁を駆け抜ける方がほんの少し速かった。
『決勝まで無失点の東星学園、速水陸。一回表、いきなりのピンチです』
そんなアナウンスが流れ、かなでは目を丸くする。
まだ一人に打たれただけなのに、ピンチなの? と疑問に思っていると、次のバッターの名前がアナウンスされる。
次が四番バッターだと分かり、かなでは状況を理解した。
野球はほとんど分からないが、四番バッターが特別な存在であることは、かなででも知っている。
チームで一番、得点がとれる人。そのバッティングで守備を嘲笑うように、ボールを飛ばす人が任されるポジションだ。
陸くん、と無意識に呟き、かなでは胸の前でぎゅうと強く帽子を抱きしめる。
祈るように見守った一球目は、バッターの空振りに終わった。
二球目、三球目はボール。ストライクゾーンから外れた変化球らしい。
四球目。陸の投げたボールを、バットが捉える。高く飛んだボールは、外野手がノーバウンドでキャッチ。
スリーアウトになり、攻守交代となった。
「ひぇぇ……、こわかったぁ…………」
陸たちがベンチに戻っていくのを見ながら、かなでは思わず呟いた。
隣で同じように固唾を飲んで見守っていた蓮も、安堵のため息をこぼす。
「りっくん、打たせる気はないって言ってたけど……。もしかして調子悪いのかな」
「え、陸くんそんなこと言ってたの!? すごく強気だね!?」
野球に関してはかなり負けん気が強いらしい。
いつも優しい陸が、そんな強い言葉を使うなんて信じられない。
目をまたたかせていると、知った名前がアナウンスされ、かなでは慌てて目線を戻した。
バッターボックスには咲夜が立っている。一番バッターを任されているらしい。
はらはらしながら見守っていると、咲夜は初球から強気にバットを振り、一気に二塁まで駆け抜けてみせた。
「わー、相変わらず足が速い……」
「さっくん、さすがだね」
咲夜への応援の声が大きくて、蓮と言葉を交わすのも一苦労だ。
野太い応援の声に混じり、女子の黄色い声援が飛んでいることに気がつき、かなでは驚いてしまった。
かなでは知らなかったのだが、咲夜も今大会の注目選手と言われているらしい。そして、試合での活躍も多いことから、女子人気も高まっているのだと蓮が笑う。
「ま、でもさっくんは歓声なんてこれっぽっちも気にしてないと思うけどね」
「集中してるってこと?」
「ん? それもあるだろうけど。もう欲しい応援はもらってる、って言ってたからさ」
かっこいいよね、と言いながら咲夜を視線で追う蓮は、どこか切なげな表情をしていた。
七回までは投手戦が続いた。
蓮が心配していた通り、陸は少し調子が悪いようで、応援席からは心配の声が上がっている。
普段の陸は狙い球を絞らせないよう、正確なコントロールと緩急で揺さぶり、速球で仕留めるスタイルらしい。
よく分からずにかなでが首を傾げていると、才能と技術のごり押しで空振りを取るってことだよ、と蓮が説明してくれた。
しかし今日の陸はいつもの投球ができないようで、打たせて取るピッチングスタイルに変えているようだ。
野球は、ストライクを三つ取れば、一つアウトがもらえる。そして、スリーアウトで攻守が交代する。
しかしピッチャーは必ずしもストライクを取りにいく必要はない。
わざと打者にボールを高く打ち上げさせ、野手がノーバウンドでボールを取っても同じアウト一つ。
他にも打者が塁を踏む前に送球すればアウトは取れるのだ。
当てることはできるけれど、打ちづらいボール。そんな投球をすることで、打者にボールを打たせて、アウトを取っているようだった。
七回裏、ようやくスコアボードが動いた。
先取点は東星学園。三番バッターが進塁してから四番、五番が大きなヒットを放ち、二得点。
かなでと蓮は手を取り合って喜んだ。
八回表、九回表の陸は、一味違った。
それまでの不調が嘘のように、気持ちがいいほどきれいに三振をとっていく。
二点リードした状態で、九回表、ツーアウト。
あと一つアウトをとれば、優勝。
大きく心臓が鳴り響く。
両校の応援がヒートアップし、鼓膜が破れてしまいそうだ。
それまでかなでは、ほとんど声を出していなかった。人よりも大きな声を出すのは苦手だし、どうせ陸や咲夜には届かないから、と。
でもかなでもこのときばかりは、必死で声を上げていた。
「陸くん! 咲夜ー! 頑張ってー!!」
届くはずはない。それでも、叫ばずにはいられなかったのだ。
勝利を目前に立ちはだかるのは、相手高校の四番バッターだった。
キャッチャーのサインに、陸が頷く。
そして振りかぶった一球目。身体近くに投げられたボールに、バッターは手が出ない。
二球目。フルスイングしたバットを嘲笑うかのように、ボールはキャッチのミットにおさまる。
これで、ツーアウト、ツーストライク。つまり、あと一つストライクを取れば、試合が決まる。
「陸くんーっ!! 頑張れーっ!!」
周りの応援に負けないように、かなでも必死に叫ぶ。
大きく振りかぶり、陸が投げたボールは、キャッチャーのミットを小気味よく鳴らした。
バットは空を切り、ストライクバッターアウト! と審判のよく通る声が響いた。
会場が、歓声に揺れた。
かなでは目からぼろぼろと大粒の涙が流れ、ひどくかすれた声でおめでとうー、と呟く。
隣で観戦していた蓮も涙を必死に堪えているようだった。咲夜に借りたキャップを蓮の頭にぽすんと乗せると、蓮は俯いてひくっと喉を鳴らした。
この日、高校球児の夏が終わった。
試合が終わっても、しばらくの間は泣き続けていた。スタンド席で応援していた東星学園の生徒たちは、みんな同じように泣いたりはしゃいだりしている。
ようやく会場の興奮が落ち着いてきた頃、引率の教師陣が生徒たちに呼びかけ、バスへと移動した。
生徒たちが乗りこんでしばらくしても、バスは出発しなかった。
甲子園優勝という快挙を成し遂げたので、理事長や校長だけでなく、教師たちも忙しいのかもしれない。
会場の熱気に当てられながらの応援、それに勝利への感動で号泣したせいか、かなでは疲れ切っていて、窓に寄りかかりながらうとうとしていた。
とん、と隣に座る蓮が肩を叩き、かなでは目を覚ます。
どうしたの? と訊ねると、蓮は嬉しそうに笑いながら窓の外を指差した。
そこには、試合に出場していたメンバー、ベンチで準備をしていた部員、それからスタンドで応援をしていた者も含め、おそらく全ての野球部員が整列していた。
バスの中が騒がしくなり、みんな慌てて窓を開ける。かなでも周りに倣って窓を開けると、爽やかな風が髪を揺らした。
「本日は暑い中、応援ありがとうございましたっ!」
部長らしき人がキャップをとり、大きな声でお礼の言葉を口にする。
部員たちがそれに続き、ありがとうございました! と声を揃え、全員が頭を下げた。
停車しているたくさんのバスから拍手とお祝いの言葉が飛び交い、野球部員たちは照れたように笑う。
甲子園優勝で、インタビューなどもあったはずだ。きっと慌ただしかっただろう。
それでも、応援をしてくれた人たちに直接お礼が言いたい、と言って、合間を縫って駆けつけて来てくれたのかもしれない。
かっこいいなぁ、野球部。
かなでがそんなことを考えながら眺めていると、陸と咲夜が二人で何やらひそひそ話している。
二人はたくさん並ぶバスを一つ一つ見て回り、かなでたちの乗るバスの前で立ち止まった。
「さっくん、りっくん、お疲れ。優勝おめでとう!」
「おー! 蓮わざわざありがとな!」
「なるも応援ありがとね」
「うん! 二人ともすっごくかっこよかったよ!」
笑いながら伝えた素直な感想に、陸と咲夜は顔を見合わせて笑った。
そんな反応をされるとは思ってもみなかったので、かなでは蓮の方を振り返り、「私、変なこと言った?」と訊ねる。
言ってないよ、と答えながらも、蓮もどこか楽しそうに笑っていた。
「いや? 甲子園で優勝しても、かなではいつも通りだなって話!」
「ん? え、ダメだった?」
「ダメじゃないよ。なるはそのままでいいよ」
陸がそう言ってやわらかく笑うので、かなでもつられて笑顔になった。
それからふいに思い出して、咲夜に借りていた帽子を窓から乗り出して返却する。
「帽子! ありがとね!」
「おー。使った?」
「ちょっと借りた! それ、前に使ってたやつなのに、よく持ってきてたね」
最初に受け取ったときは、かなでのせいで咲夜の帽子がなくなるのでは、と心配した。
しかしよく思い返してみれば、かなでが借りた帽子は、中学生のときに咲夜が使っていたものだ。
その証拠に、帽子のつばの裏側に、かなでの字でメッセージが書かれている。
さくやがんばれ! と平仮名で書かれたそれは、確か咲夜が中学のときに所属していたチームで、初めてレギュラーをとったときに書いたものだ。
懐かしいものを持ってるな、とかなでは感心した。
帽子を受け取った咲夜は、くるくると指でそれを回しながら、お守りみたいなもんだよ、と目を逸らして呟いた。
「そろそろ集合みたいだから。蓮もなるも、本当にありがとね。気をつけて帰って」
「疲れただろうからバスで寝て帰れよー」
「陸くんと咲夜こそ、ゆっくり休んでね!」
「二人とも本当におめでとう!」
最後に言葉を交わし、陸と咲夜は野球部の輪の中に戻っていく。
野球部に見送られながら、学園のバスは発進した。