1.
「旦那様……! おかえりなさいませ」
淑女としては元気が良すぎる声だったが、旦那様は口元を僅かに緩めて「ああ」と答えた。旦那様は私よりも十歳上の大人の方で、元騎士団団長でもあったすごい人!
オーガスト・アッシュベリー侯爵。元騎士団団長で、今は騎士団指南役及び王太子殿下の警護を務めているのよね。
「ただいま。私の可愛いお姫様」
「!」
キュン。
素敵な声に、さっと私を抱きあげる旦那様。幸せすぎて夢のよう。
旦那様の白銀の長い髪は、いつもサラサラしていて、片目の傷を隠すためにわざと長くして不揃いな髪型にしている。私が一度眼帯を贈ったらつけてくださるようにはなったけれど、こうワイルドだが増して直視できないほどかっこいい!
狼人族の特徴的なケモ耳や尻尾もチャーミングなのだけど、周囲はどうしてか怖がってしまう。亜人族の祖は神々か精霊なのだけれど、特に狼人族は、少し近寄りがたい雰囲気があるみたい。
旦那様はこんなに素敵なのに。
私が一目惚れして、国王や王妃、お姉様にお兄様に無理をいって会う機会を作って貰ったりして、結婚も結構な強引さがあったのに「嬉しい」と受け入れてくれた旦那様。
あー、好き。
もう少し時間をかけて関係を築きたかったけれど、私が蛇人族の王族に目をつけられてしまったのもあって、婚姻を急がせてしまって申し訳なかったのに……。
夫婦になってからも旦那様は変わらず優しいし、私をたくさん甘やかす。
私が第六王女だった時、護衛として傍にいてくれた旦那様はとても紳士的で素敵だったけれど、今のほうがずっと好き。
何より満月の夜は──。
「ハフッ」
「きゃーーーー! 旦那様素敵! 綺麗、美しいですわぁああ! モフモフ……ギュッとしても?」
旦那様が白銀の美しい狼になると、どうしてもはしゃいでしまう。普段から体格のいい旦那様は狼になっても私よりも大きくて、毛並みも美しい。私のはしゃぎように旦那様は「まったくもうしょうがない人だ」とのそのそと私の傍に歩み寄る。
「……ワフ」
「ふふふっ、ありがとうございます!」
狼人族は満月の夜、伴侶に毛繕いしてもらうのが慣わしらしく、その凛々しいお姿にうっとりしつつ、モフモフを堪能させてもらう。
ギュッと抱きしめると最初は照れて離れようとしたけれど、今は体をすり寄せてくれる。
あー、いつもキリッとした旦那様が甘えてくれているなんて!
「シトラスの良い匂いがします」
「ハフ!?」
「大好き」
「ハフゥ……」
本当はお風呂でモフモフな体を洗ってみたいけれど、全力で拒否されてしまう。
ぐすん。
今日は少し肌寒いのもあり、暖炉の傍で絨毯を引いてブラッシングをすることにした。
暖炉からパチパチと木々が燃える音を聞きながら、旦那様専用で購入した高級なブラシで毛並みを丁寧に梳かす。
ここが好きとか、もっとするがいいというところも心得ているので、旦那様は途中でウトウトして可愛い。私の傍でリラックスしているわ! ああ、嬉しい!
満月の夜は強制的に獣の姿になるので、幼い頃は感情的で気性が激しかったとか。
それの話を聞いてから、満月の夜は旦那様を甘やかす日と心の中で決意したのよね。
背中のブラッシングを終えて、ぐでーんとしている旦那様をごろんとひっくり返す。
ハッと、旦那様が目を覚ますが顎用のブラシで梳かし始めると再びウトウトし出した。
その姿も普段とのギャップがまたいい。
「旦那様、来週は収穫祭だからお忙しくなるでしょう? 無理をしないでくださいね」
「ウォン」
「収穫祭ではヒイラギの木下でキスをすると一年間、魔を払って幸せに暮らせるそうです。旦那様の仕事がもし早く終わるようなら、試してみたいですわ」
ぶんぶんと揺れていた尻尾がしゅんと床に落ちて、耳も垂れている。申し訳ないというように私の頬に擦り寄る白銀の狼の姿に胸がキュンキュンしてしまう。
私の我が儘なのに、申し訳ないわ。
侯爵夫人になったけれど、結婚してから旦那様は私の安全を第一に考えて、超過保護だったりする。
王女から侯爵夫人になる前は、略奪婚を目論んだ方々が多かったらしい。幸いにも私自身が危険に陥ることはなかったけれど……旦那様、オーガスト様の左目の深い傷と呪いは、私のせいで負ったものだと思う。
お父様もお母様、兄様や姉様も何も言わない。オーガスト様も「襲撃者に遅れを取っただけ」という。でもなんとなく、それだけじゃないんじゃないかと思ったのは、嫁いできてからだ。
屋敷内は広いし、図書室も用意してあって人を呼ぶサロンやお茶会もできる。庭園もバラや百合、季節それぞれの花を植えていて、温室まであるのだからビックリしてしまう。
至れり尽くせりだけれど、屋敷の外に出してもらえないのだ。
侯爵家の領地内では?
と今回提案してみたが、ダメだった。旦那様があんまりにもションボリしてしまうので、鼻先にキスをする。
「──っ!?」
「言ってみただけですわ。代わりに収穫祭の期間中、温室で薄紅色のバラを一緒にみたいです」
「ワフ!」
「ふふふっ。それとホットワインか、前にいただいたことにあるチャイというのを飲んでみたいですわ」
「ウォン!」
旦那様の尻尾はすごい勢いで揺れていて、グリグリと頭を擦り付けてくる。普段なら私を抱き上げて「君が望むのなら、喜んで」と素敵なセリフと共にキスの雨を降らせた溺愛ぶりなんだけど、こっちの甘える感じの擦り寄りが、こう、普段とのギャップで、あーーーーー好き!
「オーガスト様……大好きです」
「ウォンン」
「ふふふっ、久し振りにお名前を呼んでしまいました。やっぱり旦那様のほうがいいですか?」
「ワウウ」
真剣に悩んで唸っている姿をしっかりと目に焼き付けながら、そうだ、と思い出して部屋の抽出の中から、貝殻に入っている塗り薬を取り出す。
淡いパール色の貝殻はいつ見ても綺麗で不思議な甘い匂いがする。
「今月も妖精さんの塗り薬を分けて貰ったんですよ。これで旦那様の片目の痛みが和らぐはずです」
「ワフゥ」
旦那様は耳をピクピクさせながら私の周りをうろうろする。「その妖精に求婚とかされてないかい?」とか「私のために無茶はしていないだろうね?」と言いたいのだろう。本当に過保護なのだから。
「大丈夫です。庭先で私が作ったジンジャークッキーと交換しただけですよ。ほら、ジッとして下さい」
「ハウゥ」
妖精の塗り薬にはちゃんと手順を踏まなければならい。満月の夜、思い人が傷口にキスをした後で塗り薬を塗らないと効果がないという。
旦那様の傷ついた左目にキスをする。一度でキスは良いのだけれど、念ためといって何度もキスをするのはナイショだ。早くよく治りますように。そう願いながら塗り薬をした後は、包帯で丁寧に巻く。
ねえ、旦那様。
私は旦那様、オーガスト様と一緒になれて幸せですよ?
だからそれ以外でなにか無理していたりしていませんよね?
私はずっと屋敷から出られないとしても、オーガスト様がこれ以上傷つくほうが耐えられないですよ。
そう言葉にできれば良いのに、心の何処かで昔のようにオーガスト様と城下町でデートや旅行に行きたい気持ちが燻っている。
うう、欲張りな妻でごめんなさい。
2.(旦那様、オーガスト様の視点)
妻、ルーシィが超絶可愛い。愛おしくて、たまらない。
亜人族は元々万物の神々を祖に持ち、魔力量も高く四属性の魔法を操ることができる。
私は狼人族として風と氷魔法を使えるのだが満月の夜は魔力のコントロールが難しく、人の姿では暴走してしまうため獣の姿に変えてやり過ごす。
昔から獣になると魔力のコントロールに神経を削るので、苛立ちやすく気性も荒くなる。結果些細なことでトラブルを起こしてしまい、誰も彼もが私を恐れた。
そんな私にとって満月の夜は、人生で最悪な時間──だったはずなのだが、妻であるルーシィと出会ってから、でろんでろんに甘やかされて溺愛されまくる──控えめにいって最高の時間に早変わりした。
思えば彼女が妖精に拐かされる時に、狼の姿で出会ったのが最初だったと思う。あの時は見習いの騎士だった……怖がると思ったのに、目を輝かせてギュッと抱きついた時は正直驚いた。
いやあれほどの衝撃はなかったと思う。
幼子だった彼女が大人になっていくにつれて、娘あるいは妹だと言い聞かせていたけれど──自分の気持ちには抗えなかった。
もう彼女のいない生き方は考えられない。
「────はあ、ルーシィに会いたい。もう帰りたい」
「幸せそうだな──っ!?」
「殿下お覚悟!」
「その首もらった!」
「術式展開──」
殿下を狙った暗殺者五人が転移魔法を使って突如執務室に乱入してきた。
が、空中からの落下時。その僅かな時間で、叫んで注目を引こうとした一人目を蹴り飛ばし、傍にいた暗殺者もろとも壁に叩きつけ、帯剣していた剣を鞘ごと三人目の暗殺者に投擲。
頭蓋骨を貫き、残る透明魔法を使った二人は、氷結魔法で体全身を氷漬けにして暗殺者阻止終了。
時間にして五秒ほど。
「もうルーシィが可愛くて可愛くて。今日も私のために明日の分のおやつを作るんだとか。……超幸せです。ですので、殿下。もう帰っていいですか」
「駄目に決まっているだろう! 僕の護衛なのに、何帰ろうと考えているの! ……というか今襲撃あったのに、帰りたいって! ……グッ、僕だって妹に会いたい。そして美味しいアップルパイが食べたい」
「駄目です。私の分が減るじゃないですか」
「いいだろう。お前は毎日食べているんだし」
「え、夫ですし当然です」
「ドヤ顔むかつく!」
暗殺者は衛兵に撤収させて、後で拷問官に預ける。一人殺してしまったが、物騒な術式を組みかけていたからしょうがない。
あー、ルーシィに会いたい。ギュッと抱きしめて癒されたい。
「転移魔法による襲撃が増えましたね……。城の術式を強化すべきでは?」
「そうだな、《真夜中の魔女》殿に相談してみよう」
執務室で仕事に追われているルーシィの兄アルフィー王太子殿下は、彼女と同じオレンジ色の明るい髪に翠色の瞳をしている。童顔なのは兄妹一緒なようで、年の割に幼い。
言動も時々幼いが、これはふざけている時だけなので、普段はかなり真面目で頭の切れる方だ。あと怒らせては一番いけない相手でもある。
「──と、そうだ。あのベルトラン王子だが、また妙な動きを見せている。お前を呪ったことで満足したのかと思ったが、最近また王家に縁談の打診が来ていた。末の第七王女ではなく、元第六王女ルーシィをご指名だ」
「ルーシィは私の超絶愛している嫁ですが」
「僕も妹は嫁いでいると返答したのだが、『本人が望めば離婚できるでしょう』と来た」
「離婚は絶対にしない。離婚はしない……絶対に!」
力強く二度というとアルフィー殿下の側近、ロイは顔がウンザリした顔で盛大な溜息を吐いた。
黒縁メガネの青年でルーシィとは同年代の級友で、現在は殿下の片腕として活躍している。もっとも恋愛話、ルーシィの話になると頭が痛そうな顔をしているのだが、恋愛嫌いなのかもしれない。
「……オーガスト殿の重苦しい愛情は、この際どうでもいいのですが、昨今の隣国は大羽振がいいそうですよ。魔導具に欠かせない鉱石のある鉱山、呪術と香水が盛んで財力は、我が国と並ぶほど。その第二王子がそこまでルーシィ様を妻にと求めている今、貴族派閥の中には『王族の婚姻によって隣国との仲を固めては?』との意見がちらほら聞きます。正直、肩身の狭い思いを彼女にさせてしまっているのなら、他国に嫁ぐのもありなのでは?」
王族の婚姻は政略結婚が常だ。
私とルーシィは恋愛結婚で珍しいが、それでも王家の盾である狼人族のアッシュベリー家と王族との結びを強くするという意味では、悪くない婚姻だったはずだ。
もっとも今の言い方にカチンときたが、私よりも先に導火線どころか、ブチ切れした人物がいた。
アルフィー殿下がロイに微笑む。
これは本当にヤバイやつだ。ロイはそのことにまだ気付いて入らず、書類に視線を落としていた。
「ロイ」
「なんですか。事実じ──っ!」
「確かに政治的に利益がでるなら一考する価値はあるよ。でもすでに人妻になっていて、その幸せな家庭を壊すって、どうかな? それに国同士の結びを深めるだけなら、王家ではなく我が国の三大貴族でも代用は可能だよね」
「え、あの……」
「君が片恋しているマリアンヌ公爵令嬢をベルトランの花嫁候補に入れるように手配しておこう。なに王族だけではなく、貴族の責務というやつだ」
「で、殿下!?」
「君がオーガストに言っているのは、そういうことだよ」
「──ッ!」
笑っているほうが、この方は迫力あるのだ。サーッとロイの顔が土色に変わる。
「も、申し訳ありません!」
「君にしては珍しい失言だったね。でも先ほどは簡単に聞き流せないな。マリアンヌ嬢への縁談はこちらから手配する」
「殿下!」
「それが嫌ならすぐに行動を起こしたらどうだ。君が出世したらプロポーズする──とか息巻いてもう何年だ? 令嬢には結婚適齢期があるというのを忘れているのかな?」
「で、殿下。本日は──先に上がらせて頂きます!」
ロイは書類の束をかき集めて執務室を飛び出していった。それを見送って私は殿下を軽く睨んだ。
「殿下。私のことをダシに焚きつけないで下さい」
「そういうな。公爵閣下からも娘がヤキモキしていると相談されていてね。初恋を拗らせると本当に面倒なことになる」
「殿下もそのようなことが?」
「僕は目の前に居る人物のことを言っているんだが」
「……殿下も人のことはいえないでしょうに。ディアナ侯爵令嬢の件で勝手に暴走したのは違うと?」
「あー、その話を持ち出してくるのか。そうか、そうか。……じゃあ、この際だけど! 妹への思いを誤魔化して逃げ回った件について詳しく話を聞こうか?」
「──っ!」
お互いに触れて欲しくなかった話題を掘り返した結果、執務室の温度が急激に下がる。「え、ちょ、殿下、オーガスト様?」とか「寒っ!」などの声が聞こえたが、今はそれどころではない。
だいたいあの話は結婚前に決着をつけた。
それを──。
いや殿下の婚約者の件も私と同じく決着が付いた話なのだが、つい口を滑らせてしまったのだ。私の失態だと、少しばかり平静さを取り戻そうとしたのだが──。
「た、大変です! ルーシィ夫人が蛇に噛まれて倒れたと連絡が入りました! なんでも魔術的なものとかで……!」
「「は? はああああああああああ!?」」
蛇。そう聞いてベルトラン王子のことが脳裏を過った。あの黒髪、鱗のある皮膚、ギラついた黒曜石の瞳。
あの粘ついた目は、まさに狙った獲物を逃さんとするものだった。隣国は自然毒と香水、呪術が豊富な国でもある。
蛇に噛まれた?
もう寒くなる時期に生息しているはずがない……術式的なもの。
嫌な予感がした。
ルーシィ。護衛や魔法結界、護符のアクセサリーだって贈って、安全な場所を用意したというのにっ!
***
そこからはアルフィー殿下の許可の元、急いで転移魔法を使用して屋敷に戻った。
ルーシィ。
ルーシィ!
屋敷前に転移すると、執事に案内されてルーシィの部屋に急いだ。普段ならノックをするのだが、そんな余裕はなく勢い任せに扉を開いた。
「ルーシィ!」
「あはははははっ! 遅かったな、狼男! ひっくっ。貴様が鳥籠に閉じ込めた姫君を、ういっ、俺様が華麗に救うのだぁあ!」
強烈なアルコールと甘ったるい匂いが部屋に充満していた。すでに極大魔法を使った形跡がある。ルーシィはシーツごと男に横抱きにされて抱えられていた。意識が無いのかぐったりしてピクリとも動いていない。
周りには衛兵が何人も折り重なるように倒れている。
魔法術式も砕かれているとか、本気で奪いに来たわけか!
「ベルトラン王子っ、ルーシィを離せ!」
「ばーか。せっかく捕まえたのに離すわけがないだろう、うぃっく」
「──っ!」
隣国独自の民族衣装姿は、少しだけはだけている。頭にターバンを巻いた軽薄そうな男──ベルトラン王子に殺意が沸いた。
この男を今逃せばルーシィを奪還する機会は遠のく!
全魔力を両足に集中させて、閃光のように速く奪い取る!
「展開」
一歩踏み出した瞬間、地面が青白く輝き魔法円が浮かび上がる。その速度は並の術式とは違い、瞬時に展開。
「──っ、ルーシィ!!」
「じゃあなぁ」
「ルーシィ!!!」
咄嗟に短剣を投げようとして、万が一ルーシィに当たったら──そう考えたら一瞬、体が硬直して動けなかった。
青白い光はベルトラン王子を包み込み、光の残滓だけが部屋に残った。
「くそっ!」
咄嗟に動けなかった。
目の前でルーシィを奪われるなって、なんたる失態!
歯を食いしばり怒りを抑えようとするも、激しい感情を制御しきれず魔力暴走を起こす。
ガシャン、ガシャンと屋敷の窓が割れて、爪を軽く降っただけで壁が抉れる。
「ルーシィっ……! 君を守ると約束したというのに……」
油断と後悔で自分に対して、怒りでどうにかなりそうだった。感情の高まりのせいで自身の体が獣化していくのが分かる。
ああ、こんな衝動に駆られるのはいつぶりだろう。
全てを破壊してしまいたい──圧倒的な怒り。
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオン」
「きゅい」
ガタッ、と寝室のベッドから愛らしい声が漏れた。怒り狂いかけた中で、沸騰しかけた理性が留まる。
「──っ」
鋭い爪が縮み人の手に、四足歩行から二足に戻った。怒りで髪紐が解けてしまったが、この際あとで何とかすれば良い。
心臓の音がバクバクと煩い。
空耳?
いやだが──。
「ルーシィ?」
「…………」
周囲にはアルコールの匂いが充満していて、ルーシィの匂いを辿るのは難しい。ベッドに視線を向けるが、人間の膨らみはなかった。
気のせいか。
そう思った瞬間、ベッドから小さな塊が飛び出してきた。
オレンジ色の子兎が体を震わせながら「きゅい、きゅい」と鳴いている。垂れた耳、琥珀色の瞳、愛くるしいフォルムになってもすぐに彼女がルーシィだと分かった。
「ルーシィ!」
「きゅい!」
目を潤ませる妻に、愛おしさが溢れて怒りがあっという間に霧散して消えた。そっと腕の中に妻の温もりを感じると視界が歪んだ。
溢れ出る涙が止まらない。
「ルーシィ……ああ、どうしてそんな愛らしい兎の姿に? 今までも軽くて小さくて愛らしかったのに、さらに愛らしくて可愛くなってしまうなんて……」
「きゅっ」
ポッと頬を赤らめて前肢で顔を隠そうとする妻がいじらしくて、ちょっと心臓が保ちそうにない。なにこの可愛い生き物!
モフモフで、温かくて、仕草一つ一つがなんと愛くるしいのだろう。
今、衝撃的に妻が私の獣姿を好いている気持ちがわかった!
こんな愛くるしい妻の姿を見たらモフモフしたい、ギュッと抱きつきたいなんて真理じゃないか。なによりも傍にいて温もりを感じる幸福感。
さっきのクソ王子とか、部屋の破損具合とかがどうでも良いぐらいに心が満たされる。
早急にもろもろ動かなければならないが、今この瞬間だけ妻がここにいることを実感して小さな温もりを抱きしめた。
私がシトラスの香りなら、妻は甘い花の香りがする。
3.
朝、旦那様を見送ってから領地運営のことで執事と打ち合わせをしたあと、今日のオヤツを作ろうとキッチンに向かった。
旦那様は意外と甘い物が好きなので、携帯用のクッキーや焼き菓子を作って渡している。
お兄様はアップルパイが好きだったわ。ふふっ、オーガスト様はふわふわのシフォンケーキやチョコレートケーキ、ドーナッツも好きだわ。
収穫祭はたくさんの南瓜を貰うから、その時は南瓜のシフォンケーキを作るとして今日は──葡萄のムースケーキにしましょう!
レアチーズにしてもいいかも。
屋敷の裏は森に繋がっているのだけれど、少し畑も作っていて水葡萄の木もガゼボの傍にある。ちょうど実を付けて収穫できるころだったはず。
そう思って侍女たちと篭を持って収穫しに屋敷の外に出た。
いつもの日常。
その日も旦那様の帰りを待って、たくさんお話をして一緒に食事をして、寝るまでの間のんびりまったりする。
旦那様が美味しそうに食べてくれるのを傍で見られるなんて、幸せすぎる!
しゅるり、と何かが走る音を聞いた時には遅かった。
カプッ、とふくらはぎに黒蛇の牙が食い込むのが見える。黒蛇と目があった気がした──。
あ。
蛇?
秋口だから冬眠してなかった? でも黒いのなんて……。
そうぐるぐると考えている間に、私の視界は昼下がりの青空を見上げていた。
あれ? 私、倒れた?
『お前はベルトラン王子を愛している』
ゾッとするような声が耳朶に届く。「違う」と叫ぼうとしても舌が上手く回らない。
その間に低い声がずっと聞こえておかしくなりそう。『オーガストと別れるべきだ』とか。『本当の番は彼じゃない』とか。耳元でずっと囁くの。
頭が割れるほど痛くなって、声の洪水に飲まれて他の声が──届かない。
オーガスト様、助けて。
いつもみたいにギュッとしてほしい。オーガスト様っ。
『お前はベルトラン王子を愛している。彼こそ真の番』
ちがう。私が好きなのはオーガスト様!
ずっと好きで、私なんか子供か妹みたいにしか思われていなかったけれど、早く大人になって振り向いてもらおうと、料理や包帯の巻き方、オーガスト様のいる訓練場に行くために何度も図書館に通ったわ。
その日、少しでもオーガスト様と話ができたら飛び上がるほど嬉しくて、ダンスの練習を無理矢理頼んで……、時々城下町の買い物にも付き合ってくれて……。
ずっと、ずっと、好きで。
やっと彼が私を見てくれた時は、心臓の音がうるさくて、夢じゃないかって何度も頬を抓ったわ。
私だけの一方通行じゃないって分かった時は、飛び上がるほど嬉しかった。オーガスト様は大人で、紳士で、とても優しい素敵な方。
ちょっと負けず嫌いで、ブロッコリーが苦手。雨の日は少し機嫌が悪くて、耳と尻尾は正直だからポーカーは不得意で、実は甘いお菓子が好き。菜園が趣味なのも意外で、大好き。
満月の夜はいつも辛そうで、感情的になるオーガスト様が少しずつ私に甘えて、ゆったりできるようになったことが私の自慢なの。
お腹を撫でて、毛繕いするたびにオーガスト様の特別になれたって実感する。
私の大好きな人。
誰よりも大好きで傍にいたい!
もし彼と離れてしまうのなら、私は私じゃなくなってもいい!
ボフン!
爆発音?
あれ? 声が止んだ?
そう思って周囲を見渡すけれど、なんだか視界が変だわ。ベッドに寝かされていた?
うーん。蛇に噛まれたあとのことがよく思い出せないような?
コツコツ、と誰かがベッドに近づいてくる。でもドアを開ける音なんてした?
ゾッとするような感覚に襲われて、私はベッドの端っこに素早く移動する。
あれ?
ベッドってこんなに広かったかしら?
「ああ、迎えに来たよ。私の愛しい人……ひっく」
「ヒヒヒ……。王子、思ったよりもこの屋敷の術式は厄介だ。さっさと目的の姫君を」
「うぃっく、分かっている」
さっき、頭の中で聞こえた声!
もしかして術者? 私を攫おうとしている?
「ああ、なんて愛らしいんだろう。落とさないようにしっかりと抱きしめて……」
「ではゲートを開きます」
……あ、あれ?
私はここに居るのに、誰かと間違っている?
疑問が次から次へと浮かび上がるが、その答えを私は持っていない。
そうこうしている間に、ドタバタと荒々しい足音が近づいてくる。ドアを蹴り破るんじゃないかというような勢いで誰かが飛び込んできた。
「ルーシィ!」
今の声はオーガスト様だわ!
一目見たいけれど……私の状態ってどうなっているのかしら? 顔を出したいけれど雰囲気的に不味いわよね。
「あはははははっ! 遅かったな、狼男! ひっくっ。貴様が鳥籠に閉じ込めた姫君を、ういっ、俺様が華麗に救うのだぁあ!」
「ベルトラン王子っ、ルーシィを離せ!」
「ばーか。せっかく捕まえたのに離すわけがないだろう、うぃっく」
「──っ!」
んー、私はベッドの上にいるけれど、じゃあ声の主は誰を抱きかかえているの?
んーー、と唸っていると、ふとオーガスト様がくださった護符の存在を思い出す。そういえば、いざという時に魔女様が作った『身代わり人形』が発動するとか言っていたような?
いつも寝室傍の棚に小さなヌイグルミとして置いてあったアレが起動した?
いろいろ考えている間に、王子は転移魔法で消えてしまったようだ。
あんなに速くて詠唱なしなんてすごい。そう思っていたのだが、オーガスト様の怒りと絶望に空気が凍り付く。
オーガスト様!
そう叫んだのだが、どうにも声が変だ。
「──っ、うう、きゅ?」
へんな声が出た。
というかこれは声なのかしら? ここで自分の手足を見て固まった。
モフモフだ。前肢、しかもオレンジ色。
猫? ううんなんか違う。でもどうして?
「ルーシィっ……! 君を守ると約束したというのに……」
悲痛な声に、胸がズキンと痛んだ。
違う。
オーガスト様は悪くない。悪くないの!
そう飛び出そうとしたけれど、溢れんばかりの殺気に身が震えた。本能的に体が硬直して動けない。声も、出ない。
体中がビリビリする。今、ベッドから飛び出したら──狼の本能のまま私は食べられちゃう?
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオン」
「きゅい」
声が出た。
オーガスト様の悲痛な咆吼に、体じゃなくて魂が反応する。
ほんの少しだけ怒りが緩んだ。でも体がうまく動かせない。
「ルーシィ?」
「…………」
オーガスト様に食べられちゃうかもしれない。狼さんだもの。ううん、オーガスト様は狼さんだけれど、私の旦那様だわ!
悲しんでいるオーガスト様、旦那様のためにも、ベッドから飛び出す。
毛布から抜け出して転がるようにベッドの上に立った。ああ、私を怖がらせないように人の姿に戻ってくださるなんて……!
「オーガスト様、私はここです!」と言ってみたが、果たして通じるかしら?
「ルーシィ!」
「(オーガスト様!)きゅ!」
私だって分かってくれた! すごい、すごいオーガスト様!
ああ、オーガスト様にギュッとしてもらって、やっと安心できる。
大好きです、オーガスト様以外のどなたの元にも嫁ぎたくありません。そう思ってギュッと抱きつく。
ふとオーガスト様が泣いている事に気付いた。
ああ、泣かないでください。
私はここにいます。
貴方様の傍から離れません。
「ルーシィ……ああ、どうして愛らしい兎の姿に? 今までも軽くて小さくて愛らしかったのに、さらに愛らしくて可愛くなってしまうなんて……」
「もしかしたら魔法術式の影響かもしれません」と喋ってみるけれど、言葉的には「きゅいきゅう」という感じになってしまう。
「魔法術式の影響? 呪いが変に作用してしまったとかだろうか」
「(オーガスト様、私の言いたいことがわかるのですか?)きゅう?」
「ん? もちろん、妻の言葉が分からないわけないだろう。それに君だって私が狼の時に意思疎通できているだろう」
「(いわれてみれば……)きゅ」
「ふふっ、子兎の姿でも私の妻は可愛らしい」
チュッと頬にキスするので、垂れていた耳がビクリと跳ねる。
だ、旦那様がイケメン過ぎる。
ご自身が酷く傷ついたのに、私をたくさん気遣ってくださるんだもの。
惚れ惚れしちゃう。好きです。
旦那様にキスを返したら、涙が止まってくれた。よかったわ。
……でも、私の体……どうなっているの?
ちなみにあの後、屋敷内の惨状よりも旦那様が私の体を洗うと言い出して一悶着あったのだが、それはまた別のお話。
4.
「──で、その愛くるしいモフモフが妹のルーシィだと?」
「ええ。この垂れた耳にオレンジ色のふわふわした子兎はルーシィです。見てください、私の嫁超絶可愛い。こんな姿であっても愛おしすぎてたまりません」
「すみません、……絵面的に捕食者と被食者にしか見えないのですが」
「そ、そうだが。なんだかこう……緊迫感のある絵面だ」
お兄様とロイ様がいうのも分からなくはないわ。
私だって最初は食べられてしまうんじゃ? ──って不安になったもの。でも、旦那様は旦那様だった。それに……。
「ルーシィ、ほら、兄様だぞぉ」
「きゅ(オーガスト様……)」
旦那様以外の人に触れられるのが怖くて、本能的に旦那様から離れられない。というか離れたくない!
旦那様の肩に乗り、頬にしがみつく。
「がはっ……。僕まで拒絶された」
「しかたありません……ぷぷっ、ルーシィは私と離れたくないらしいので。私以外だと怖がってしまうの……ですよ」
旦那様がすっごくご機嫌だわ。耳と尻尾がすごく動いているもの。声も上ずっている。
前肢で旦那様の頬に触れると、大きな手が私の背中を優しく撫でる。
温かくて安心する。
「恐ろしくて目が離せない」
「精神的にくるものがあるな」
「そうですか? 私には愛おしい妻とこうして一緒に居られるのでかなり幸せです」
「(旦那様、私も幸せです! 大好きです)きゅきゅ!」
「私も愛していますよ」
思わずいつものように甘えてしまって恥ずかしい!
前肢でペシペシしながら旦那様に、事のあらましをお兄様に話すように促す。微妙な空気になっている場合ではないのだから。
「どうやら妻を噛んだ毒蛇は魔法術式で形成されたものらしく、妻から……っ、……離婚をするよう……洗脳しよう……としたそうです」
「(術者の声だったと思うわ!)きゅうきゅい!」
「あの王子と術者を殺してきていいですか、いいですよね?」
「(え!?)きゅ!」
「殺すのは却下だ。王子の対応に関してはこちらに任せてもらう」
「アルフィー殿下!」
「それよりも、君は僕の妹を元に戻す方法を探すべきだろう」
「うっ、それは……そのとおりです」
「先日の刺客は陽動だったのだろうな。……恐らく『身代わり人形』や他の護符によって洗脳を無効化したが、その代償として一時的に獣化による姿になっている……可能性が高いと僕はみている」
「代償……ですか」
「ルーシィの話では『君と別れるぐらいなら違う存在になってもいい』そう強く願ったのだろう。強い願いは呪いを打ち消すがその分、魔力や生命エネルギーを消費する。ルーシィの場合、毒の影響で支払えるだけの体力が残っていなかったから、獣人の姿になった──というなら筋は通る」
流石お兄様、そう考えれば確かにしっくりくる。毒で体力を削りつつ、洗脳ってなんて恐ろしいことを考えたのかしら。
うう、怖い。
旦那様の頬に擦り寄りながら、会話に耳を傾ける。
「解決策として《真夜中の魔女》に相談してみるとしよう。二つ名の通り、真夜中にしか交信が取れないので、オーガストとルーシィは、王城に泊まっていくといい」
「承知しました」
「きゅ(はい、兄様)」
《真夜中の魔女》。我が国に古くから存在する魔女の一人。《叡智の森》に住み様々な魔導具や魔法グッズを提供してくれる。この国の相談屋さん。
もっとも相談する場合は、《叡智の森》を抜けて魔女さんの屋敷に辿り着いた者、限定なのだ。気軽に相談できないような処置らしいけれど、私との婚姻関係でオーガスト様は相談に乗って貰ったらしい。最高新記録を叩き出したとか、お兄様から聞いたことがある。
「この状態が早く解ければいいのに」と思う反面、「このままなら旦那様と一緒に居られる」という緊張感がないというか、不謹慎な気持ちでいっぱいになる。
「ルーシィ、ずっと起きていて平気かい? その体ですと不便もあるだろう」
「(そんなことないです。オーガスト様こそ、私がこんな風になって大変では?)きゅきゅ……」
「何を言うんだ。妻の危機に間に合い、こうして傍にいられるだけで幸福だよ。それにルーシィが獣の私を好いてくれる理由も、君が愛くるしい子兎の姿になったことで理解できました」
「(オーガスト様……)きゅ」
「ルーシィ」
「…………口の中が砂糖でいっぱいな気分です。殿下、この二人もうこのままでもいいんじゃ?」
「駄目だ! ルーシィが僕を怖がるなんて耐えられない!」
「…………もう帰りたい」
ロイ様がゲッソリした顔をしているのは、私たちだけ──のことじゃなさそうね。だって彼の頬に手形の痕が残っているんだもの。
またマリアンヌ様と言い合いをしてしまったのかしら。お二人とも学生時代から負けず嫌いで、顔を合わせると言い合いをしていたわね。
「ルーシィ?」
「(マリアンヌ様とロイ様の関係がよい方向に向かって欲しいと思ったのです。お二人とも意地っ張りなだけなので)きゅうきゅいきゅうう……」
「ああ、私の妻はこんな状態だというのに、他人を慮ることができる。なんて素晴らしい人なんだ」
「なんで君たちは意思疎通が難しい姿なのに、心を通わせられるのか」
「愛している、大切だ、傍にいて欲しいと真剣に伝えないと伝わるものも伝わらない」
「(大好きだって、たくさん言って伝える努力をしてきた結果よ)きゅううう」
ロイ様は項垂れていた。それができれば苦労はしないのだろう。
***
ベルトラン王子の誘拐未遂による国としての対応。
私の獣化を解く方法。
旦那様の片目の傷。
ロイ様とマリアンヌ嬢との問題。
これらの問題が《真夜中の魔女》の相談によって一気に解決した。
というのも──。
「あ、ベルトランという馬鹿なら、昨日から弟子として働いているわよ」
「「「は?」」」
「(え!?)きゅ!?」
さらっと《真夜中の魔女》は答えた。
年齢不詳。大人の女性で赤紫色の長い髪に、真っ黒なドレスはなんともエレガントかつ魅惑的だわ。箒で空を飛ぶってやっぱり憧れる……!
「あらあら、そちらの可愛らしい子ウサギさんは、ルーシィちゃんね。ハロー。あの強烈な呪いと術式を無意識に弾いて、最小限の代償で済ませるなんてすごいわ。普通の人間なら完全に洗脳されるか廃人になっていたもの」
「ルーシィ!」
「きゅ!」
オーガスト様は私をぎゅうぎゅうに抱きしめる。「大丈夫です、私は廃人とかになっていませんから!」と声をかけるが、旦那様は涙目だ。旦那様の過保護ぶりが加速しているような?
よしよしと前足で頬を撫でる。
「あー。オーガストが取り乱してすまない。魔女殿、話を戻してすまないが、どうしてベルトラン第二王子を弟子にしたんだい?」
「かなり酔っていたみたいだけれど、私の商品『身代わり人形』に文句を言ってきたから、躾直しのために今は五歳から育成中よ。王子だろうとなんだろうと魔女に喧嘩を売ったのだから、それ相応の対処をしたわ。……ああ、一緒について来た術者は、屋敷を爆破して腹が立ったから、蜥蜴にして使い魔が食べちゃったわ」
「くっ、私が八つ裂きにしたかった」
「きゅう(躾直し……)」
「うわぁ……魔女殿に喧嘩を売る愚か者がこの世界に存在していたことに驚いている」
「隣国とはいえ《真夜中の魔女》様を筆頭に魔女に対して、無礼な振る舞いは自己責任というのを知らないはずはないのですが……にしていても泥酔していたんですかね?」
お兄様もロイ様も呆気と取られていたが、話はサクサクと進む。
「《真夜中の魔女》殿、私の妻を元に戻す方法は無いのだろうか?」
「そんなの好いた相手のキスで元に戻るはずよ。もっともルーシィちゃんは魔力ないし、体力を回復しているところだから、手っ取り早く戻したいのならオーガストくんが獣の姿で傍にいてあげる感じがいいのかも。魔力も獣の姿のほうが強いでしょう。魔力供給も獣の姿でキスするほうが回復も早いはずよ」
「わかった。助言感謝する」
「(ありがとうございます!)きゅい!」
「……それこそ絵面的に不味いのではないか? 食物連鎖的に」
「この姿でも結構心臓に悪いのに、狼と子兎って……」
「あら、そんなことないわよ。二人は番としてしっかりと結びつきがあるんだから。あ。もし不安なのなら新しく開発した『素直になる薬』と『本音しか言えない薬』と『特定の相手を攻撃できない薬』を飲んじゃえば?」
「素直になる薬……ハッ!」
「本音しか言えない薬!」
「きゅう(特定の相手を攻撃できない薬!)」
「え、なぜ、私を見たのですか?」
私たちはロイ様に視線を向けた。お兄様もそれで察したようで二パックを即購入。なぜかこういう時だけ察しの悪いロイ様は、これがマリアンヌ様との関係修復になるとは思っていない。
政治面において有能なのに、どうしてもこと恋愛になるとあんなにポンコツになるのでしょう。マリアンヌ様が少しだけ可哀想に思ってしまった。
マリアンヌ様が報われますように。
5.
私とオーガスト様は王城の客間に戻ってきていた。早速オーガスト様が『特定の相手を攻撃できない薬』を服用して試すことに。満月以外で獣姿になるなんて!
またあのモフモフを堪能できることが嬉しくて堪らない。絵面的に食べられないか不安は少しあるけれど、オーガスト様なら大丈夫なはず!
「それでは始めるけれど、万が一も考えて安全だと分かるまでルーシィは魔法陣の外に出ないこと。いいね」
「きゅい(うん!)」
「良い子だ」
この説明、すでに十回目だけど素直に頷く。隣の部屋には、いざという時のために衛兵と魔術師が待機してもらっている。
同席していないのは、オーガスト様が狼になると神経質になりるので、気性を荒げないためだ。
「ルーシィ……」
いつもよりもずっと大きく感じるオーガスト様の手が心地よい。こんな風に撫でてくれるのなら、たまにならこの姿になるのも良いかもしれない──なんて、言ったら罰が当たるわね。
ボフン、と音を立てて旦那様の姿は獣──白銀の狼に変わる。
ああ、やっぱりなんて凜々しいのかしら。人の姿とまた違って、すっごく大きく感じるわ。
『旦那様?』
『……ルーシィ。今気付いたのだが、この姿だと君を撫でる時に爪で引っ掻いてしまうかもしれない。それに人間のように小回りがきかないので、私は横になるから怖くないなら近づいてきてほしい』
不思議なことに獣同士だと普段と変わらない感じで会話ができるのね。私は旦那様のモフモフの毛並みを堪能すべく魔法陣を出て歩み寄る。
兎の体って思っていたより俊敏に動けるわ。わあ、あっという間に旦那様の傍に!
長椅子に寝そべっている旦那様は前肢を伸ばしてだらんとしている。シトラスの良い匂いがするわ。前肢の傍に体を寄せるとモフモフ具合が半端ない。
『モフモフの絨毯みたい! すごいわ。どこかしこもモフモフで温かい』
『ルーシィ、可愛すぎるから、ほらキスして試すんだろう?』
『でも、もう少し旦那様のモフモフを堪能したい。それに背中に登ってみたいわ』
『あ、危ないだろう。こんなに愛くるしくて可愛いのに、君はお転婆なのだから』
『駄目?』
『いくら君が可愛くても、危ないことはさせられないな』
前肢でオーガスト様の頬をペシペシ触れるが、どうやら許可は下りそうにない。もう、誘拐未遂で旦那様の過保護ぶりが増したんだわ。
仕方がないので、旦那様のモフモフを堪能すべく顔を埋める。顔どろこか体もモフモフに身を預けた。至福……。
鼻をフンフンしつつ、旦那は額にキスを落とす。擽ったい。お返しにキスをしようとするけれど、鼻に当たってしまう。むう、難しい。
『今、ふと思ったのだが、この状態で唇にキスをして元の姿に戻ったとしたら、君の恰好はどうなるのだろう』
『え!?』
思わず顔を上げた瞬間、狼の大きな口が触れた。口というかタブン舌的な!?
ボフン、という音後に、自分の視界が大きく変わる。旦那様のほうに倒れかけてしまう──が、ガッシリと私を抱きしめた。
「──っ!?」
「ふう。私の魔力がごっそりと持っていかれたところを見るに成功ようだね」
「ひゃい」
きゃあああああーーーー。
旦那様は白のチュニックに黒ズボンという感じで、かなり薄着に対して、私は──寝間着。しかもかなり薄着というか下着のようなもの。
なんて恰好を! お、お嫁に行けない!
……あ、すでに嫁いでいるからいいのかしら?
「はぁーーーー、元に戻って良かった……」
「旦那様っ!」
旦那様は魔法で毛布を呼び寄せて私の肩にかけてくれた。ああ、どこまでも私を気遣ってくださる! 紳士ですわ。好き。
ギュッと抱きつくと、旦那様の耳と尻尾は嬉しそうに揺れているのが見えた。
「旦那様は、どこも異変はありませんか?」
「ないよ。私の妻が元に戻って嬉しさでいっぱいだけれど」
「まあ。私は──」
チュッと旦那様の唇にそっとキスをする。
「この姿でやっと自分からキスができるのが嬉しいですわ」
「君は……本当に」
旦那様の左目の傷は未だ癒えていないけれど、以前よりも薄くなったような?
左目の瞼にキスを落とす。傷の痛みがなくなりますように。
「ルーシィ、君は私にとって誰よりも愛おしくて、私には勿体ないほど、素晴らしい治癒魔法使いだよ」
「まあ! 魔力がなくてもオーガスト様を癒せるのなら嬉しいですわ! 私も大好きです。ずっとずっと前から、愛していますわ」
コツンと額を合わせると、どちらともなく唇が触れかけた瞬間、隣室からのノックの音でキスどころではなく、旦那様に毛布でグルグル巻きにされたのでした。
うう……隣に衛兵さんたちが隣にいるのを忘れて……恥ずかしくて死にそう。
6.
国家間での問題は、あくまで第二王子の暴走による自爆として、処理されたらしい。
双方の王家は、表向き関与していないという体裁を整えた。今回喧嘩を売ったのが魔女という妖精や精霊と同等の超越者だったからこその対応だった。
私を狙うこともなくなったようなので、それは嬉しい。もっともベルトラン様の関心は《真夜中の魔女》様に移ったというのは、だいぶ後になってオーガスト様から教えてもらった。
「昔、蛇の姿で迷子になったのを助けたのが、ルーシィだと思っていたらしい」
「まあ、そうだったのですね。確かに妖精さんや精霊さんを昔手当をしたことはありますけど……」
「それを何処かで聞いて、勘違いしたんだろうね。実際はあの魔女殿だったらしいし」
そう考えると、ベルトラン様を泥酔させて煽った人物は全てを見通していたのでは?
多分隣国の王太子か国王……だったのかも?
両国間では、使節団を送る形で交流を深めることが決まってめでたしめでたしだもの。
それとロイ様とマリアンヌ様はというと──。
本音を長年言い出せなかったこともあり、三日三晩言いたいことを言い合った結果、来週結婚する。なんというスピード婚。
今までの喧嘩は一体……。
両家の両親たちは泣いて喜んだとかなんとか。
冬が間近に迫る中、結婚式は初雪になるかもしれない。それはそれでロマンチックかもしれない。
それから──。
満月の前夜になると、時々だが私の姿が子ウサギになってしまう時がある。後遺症のようなもので、しばらくは続くとのことだった。なので外へのお出かけはまだ禁止されている。
でも、以前のようなちりつく痛みも、寂しさはない。
子ウサギの姿に旦那様はたいそう喜び、モフモフを堪能する。翌日は私が狼になる旦那様のモフモフを堪能するので、これはこれで──ハッピーエンドなのかもしれない。
「旦那様……! おかえりなさいませ」
淑女としては元気が良すぎる声だったが、旦那様は口元を僅かに緩めて「ああ」と答えた。旦那様は私よりも十歳上の大人の方で、元騎士団団長でもあったすごい人!
オーガスト・アッシュベリー侯爵。元騎士団団長で、今は騎士団指南役及び王太子殿下の警護を務めているのよね。
「ただいま。私の可愛いお姫様」
「!」
キュン。
素敵な声に、さっと私を抱きあげる旦那様。幸せすぎて夢のよう。
旦那様の白銀の長い髪は、いつもサラサラしていて、片目の傷を隠すためにわざと長くして不揃いな髪型にしている。私が一度眼帯を贈ったらつけてくださるようにはなったけれど、こうワイルドだが増して直視できないほどかっこいい!
狼人族の特徴的なケモ耳や尻尾もチャーミングなのだけど、周囲はどうしてか怖がってしまう。亜人族の祖は神々か精霊なのだけれど、特に狼人族は、少し近寄りがたい雰囲気があるみたい。
旦那様はこんなに素敵なのに。
私が一目惚れして、国王や王妃、お姉様にお兄様に無理をいって会う機会を作って貰ったりして、結婚も結構な強引さがあったのに「嬉しい」と受け入れてくれた旦那様。
あー、好き。
もう少し時間をかけて関係を築きたかったけれど、私が蛇人族の王族に目をつけられてしまったのもあって、婚姻を急がせてしまって申し訳なかったのに……。
夫婦になってからも旦那様は変わらず優しいし、私をたくさん甘やかす。
私が第六王女だった時、護衛として傍にいてくれた旦那様はとても紳士的で素敵だったけれど、今のほうがずっと好き。
何より満月の夜は──。
「ハフッ」
「きゃーーーー! 旦那様素敵! 綺麗、美しいですわぁああ! モフモフ……ギュッとしても?」
旦那様が白銀の美しい狼になると、どうしてもはしゃいでしまう。普段から体格のいい旦那様は狼になっても私よりも大きくて、毛並みも美しい。私のはしゃぎように旦那様は「まったくもうしょうがない人だ」とのそのそと私の傍に歩み寄る。
「……ワフ」
「ふふふっ、ありがとうございます!」
狼人族は満月の夜、伴侶に毛繕いしてもらうのが慣わしらしく、その凛々しいお姿にうっとりしつつ、モフモフを堪能させてもらう。
ギュッと抱きしめると最初は照れて離れようとしたけれど、今は体をすり寄せてくれる。
あー、いつもキリッとした旦那様が甘えてくれているなんて!
「シトラスの良い匂いがします」
「ハフ!?」
「大好き」
「ハフゥ……」
本当はお風呂でモフモフな体を洗ってみたいけれど、全力で拒否されてしまう。
ぐすん。
今日は少し肌寒いのもあり、暖炉の傍で絨毯を引いてブラッシングをすることにした。
暖炉からパチパチと木々が燃える音を聞きながら、旦那様専用で購入した高級なブラシで毛並みを丁寧に梳かす。
ここが好きとか、もっとするがいいというところも心得ているので、旦那様は途中でウトウトして可愛い。私の傍でリラックスしているわ! ああ、嬉しい!
満月の夜は強制的に獣の姿になるので、幼い頃は感情的で気性が激しかったとか。
それの話を聞いてから、満月の夜は旦那様を甘やかす日と心の中で決意したのよね。
背中のブラッシングを終えて、ぐでーんとしている旦那様をごろんとひっくり返す。
ハッと、旦那様が目を覚ますが顎用のブラシで梳かし始めると再びウトウトし出した。
その姿も普段とのギャップがまたいい。
「旦那様、来週は収穫祭だからお忙しくなるでしょう? 無理をしないでくださいね」
「ウォン」
「収穫祭ではヒイラギの木下でキスをすると一年間、魔を払って幸せに暮らせるそうです。旦那様の仕事がもし早く終わるようなら、試してみたいですわ」
ぶんぶんと揺れていた尻尾がしゅんと床に落ちて、耳も垂れている。申し訳ないというように私の頬に擦り寄る白銀の狼の姿に胸がキュンキュンしてしまう。
私の我が儘なのに、申し訳ないわ。
侯爵夫人になったけれど、結婚してから旦那様は私の安全を第一に考えて、超過保護だったりする。
王女から侯爵夫人になる前は、略奪婚を目論んだ方々が多かったらしい。幸いにも私自身が危険に陥ることはなかったけれど……旦那様、オーガスト様の左目の深い傷と呪いは、私のせいで負ったものだと思う。
お父様もお母様、兄様や姉様も何も言わない。オーガスト様も「襲撃者に遅れを取っただけ」という。でもなんとなく、それだけじゃないんじゃないかと思ったのは、嫁いできてからだ。
屋敷内は広いし、図書室も用意してあって人を呼ぶサロンやお茶会もできる。庭園もバラや百合、季節それぞれの花を植えていて、温室まであるのだからビックリしてしまう。
至れり尽くせりだけれど、屋敷の外に出してもらえないのだ。
侯爵家の領地内では?
と今回提案してみたが、ダメだった。旦那様があんまりにもションボリしてしまうので、鼻先にキスをする。
「──っ!?」
「言ってみただけですわ。代わりに収穫祭の期間中、温室で薄紅色のバラを一緒にみたいです」
「ワフ!」
「ふふふっ。それとホットワインか、前にいただいたことにあるチャイというのを飲んでみたいですわ」
「ウォン!」
旦那様の尻尾はすごい勢いで揺れていて、グリグリと頭を擦り付けてくる。普段なら私を抱き上げて「君が望むのなら、喜んで」と素敵なセリフと共にキスの雨を降らせた溺愛ぶりなんだけど、こっちの甘える感じの擦り寄りが、こう、普段とのギャップで、あーーーーー好き!
「オーガスト様……大好きです」
「ウォンン」
「ふふふっ、久し振りにお名前を呼んでしまいました。やっぱり旦那様のほうがいいですか?」
「ワウウ」
真剣に悩んで唸っている姿をしっかりと目に焼き付けながら、そうだ、と思い出して部屋の抽出の中から、貝殻に入っている塗り薬を取り出す。
淡いパール色の貝殻はいつ見ても綺麗で不思議な甘い匂いがする。
「今月も妖精さんの塗り薬を分けて貰ったんですよ。これで旦那様の片目の痛みが和らぐはずです」
「ワフゥ」
旦那様は耳をピクピクさせながら私の周りをうろうろする。「その妖精に求婚とかされてないかい?」とか「私のために無茶はしていないだろうね?」と言いたいのだろう。本当に過保護なのだから。
「大丈夫です。庭先で私が作ったジンジャークッキーと交換しただけですよ。ほら、ジッとして下さい」
「ハウゥ」
妖精の塗り薬にはちゃんと手順を踏まなければならい。満月の夜、思い人が傷口にキスをした後で塗り薬を塗らないと効果がないという。
旦那様の傷ついた左目にキスをする。一度でキスは良いのだけれど、念ためといって何度もキスをするのはナイショだ。早くよく治りますように。そう願いながら塗り薬をした後は、包帯で丁寧に巻く。
ねえ、旦那様。
私は旦那様、オーガスト様と一緒になれて幸せですよ?
だからそれ以外でなにか無理していたりしていませんよね?
私はずっと屋敷から出られないとしても、オーガスト様がこれ以上傷つくほうが耐えられないですよ。
そう言葉にできれば良いのに、心の何処かで昔のようにオーガスト様と城下町でデートや旅行に行きたい気持ちが燻っている。
うう、欲張りな妻でごめんなさい。
2.(旦那様、オーガスト様の視点)
妻、ルーシィが超絶可愛い。愛おしくて、たまらない。
亜人族は元々万物の神々を祖に持ち、魔力量も高く四属性の魔法を操ることができる。
私は狼人族として風と氷魔法を使えるのだが満月の夜は魔力のコントロールが難しく、人の姿では暴走してしまうため獣の姿に変えてやり過ごす。
昔から獣になると魔力のコントロールに神経を削るので、苛立ちやすく気性も荒くなる。結果些細なことでトラブルを起こしてしまい、誰も彼もが私を恐れた。
そんな私にとって満月の夜は、人生で最悪な時間──だったはずなのだが、妻であるルーシィと出会ってから、でろんでろんに甘やかされて溺愛されまくる──控えめにいって最高の時間に早変わりした。
思えば彼女が妖精に拐かされる時に、狼の姿で出会ったのが最初だったと思う。あの時は見習いの騎士だった……怖がると思ったのに、目を輝かせてギュッと抱きついた時は正直驚いた。
いやあれほどの衝撃はなかったと思う。
幼子だった彼女が大人になっていくにつれて、娘あるいは妹だと言い聞かせていたけれど──自分の気持ちには抗えなかった。
もう彼女のいない生き方は考えられない。
「────はあ、ルーシィに会いたい。もう帰りたい」
「幸せそうだな──っ!?」
「殿下お覚悟!」
「その首もらった!」
「術式展開──」
殿下を狙った暗殺者五人が転移魔法を使って突如執務室に乱入してきた。
が、空中からの落下時。その僅かな時間で、叫んで注目を引こうとした一人目を蹴り飛ばし、傍にいた暗殺者もろとも壁に叩きつけ、帯剣していた剣を鞘ごと三人目の暗殺者に投擲。
頭蓋骨を貫き、残る透明魔法を使った二人は、氷結魔法で体全身を氷漬けにして暗殺者阻止終了。
時間にして五秒ほど。
「もうルーシィが可愛くて可愛くて。今日も私のために明日の分のおやつを作るんだとか。……超幸せです。ですので、殿下。もう帰っていいですか」
「駄目に決まっているだろう! 僕の護衛なのに、何帰ろうと考えているの! ……というか今襲撃あったのに、帰りたいって! ……グッ、僕だって妹に会いたい。そして美味しいアップルパイが食べたい」
「駄目です。私の分が減るじゃないですか」
「いいだろう。お前は毎日食べているんだし」
「え、夫ですし当然です」
「ドヤ顔むかつく!」
暗殺者は衛兵に撤収させて、後で拷問官に預ける。一人殺してしまったが、物騒な術式を組みかけていたからしょうがない。
あー、ルーシィに会いたい。ギュッと抱きしめて癒されたい。
「転移魔法による襲撃が増えましたね……。城の術式を強化すべきでは?」
「そうだな、《真夜中の魔女》殿に相談してみよう」
執務室で仕事に追われているルーシィの兄アルフィー王太子殿下は、彼女と同じオレンジ色の明るい髪に翠色の瞳をしている。童顔なのは兄妹一緒なようで、年の割に幼い。
言動も時々幼いが、これはふざけている時だけなので、普段はかなり真面目で頭の切れる方だ。あと怒らせては一番いけない相手でもある。
「──と、そうだ。あのベルトラン王子だが、また妙な動きを見せている。お前を呪ったことで満足したのかと思ったが、最近また王家に縁談の打診が来ていた。末の第七王女ではなく、元第六王女ルーシィをご指名だ」
「ルーシィは私の超絶愛している嫁ですが」
「僕も妹は嫁いでいると返答したのだが、『本人が望めば離婚できるでしょう』と来た」
「離婚は絶対にしない。離婚はしない……絶対に!」
力強く二度というとアルフィー殿下の側近、ロイは顔がウンザリした顔で盛大な溜息を吐いた。
黒縁メガネの青年でルーシィとは同年代の級友で、現在は殿下の片腕として活躍している。もっとも恋愛話、ルーシィの話になると頭が痛そうな顔をしているのだが、恋愛嫌いなのかもしれない。
「……オーガスト殿の重苦しい愛情は、この際どうでもいいのですが、昨今の隣国は大羽振がいいそうですよ。魔導具に欠かせない鉱石のある鉱山、呪術と香水が盛んで財力は、我が国と並ぶほど。その第二王子がそこまでルーシィ様を妻にと求めている今、貴族派閥の中には『王族の婚姻によって隣国との仲を固めては?』との意見がちらほら聞きます。正直、肩身の狭い思いを彼女にさせてしまっているのなら、他国に嫁ぐのもありなのでは?」
王族の婚姻は政略結婚が常だ。
私とルーシィは恋愛結婚で珍しいが、それでも王家の盾である狼人族のアッシュベリー家と王族との結びを強くするという意味では、悪くない婚姻だったはずだ。
もっとも今の言い方にカチンときたが、私よりも先に導火線どころか、ブチ切れした人物がいた。
アルフィー殿下がロイに微笑む。
これは本当にヤバイやつだ。ロイはそのことにまだ気付いて入らず、書類に視線を落としていた。
「ロイ」
「なんですか。事実じ──っ!」
「確かに政治的に利益がでるなら一考する価値はあるよ。でもすでに人妻になっていて、その幸せな家庭を壊すって、どうかな? それに国同士の結びを深めるだけなら、王家ではなく我が国の三大貴族でも代用は可能だよね」
「え、あの……」
「君が片恋しているマリアンヌ公爵令嬢をベルトランの花嫁候補に入れるように手配しておこう。なに王族だけではなく、貴族の責務というやつだ」
「で、殿下!?」
「君がオーガストに言っているのは、そういうことだよ」
「──ッ!」
笑っているほうが、この方は迫力あるのだ。サーッとロイの顔が土色に変わる。
「も、申し訳ありません!」
「君にしては珍しい失言だったね。でも先ほどは簡単に聞き流せないな。マリアンヌ嬢への縁談はこちらから手配する」
「殿下!」
「それが嫌ならすぐに行動を起こしたらどうだ。君が出世したらプロポーズする──とか息巻いてもう何年だ? 令嬢には結婚適齢期があるというのを忘れているのかな?」
「で、殿下。本日は──先に上がらせて頂きます!」
ロイは書類の束をかき集めて執務室を飛び出していった。それを見送って私は殿下を軽く睨んだ。
「殿下。私のことをダシに焚きつけないで下さい」
「そういうな。公爵閣下からも娘がヤキモキしていると相談されていてね。初恋を拗らせると本当に面倒なことになる」
「殿下もそのようなことが?」
「僕は目の前に居る人物のことを言っているんだが」
「……殿下も人のことはいえないでしょうに。ディアナ侯爵令嬢の件で勝手に暴走したのは違うと?」
「あー、その話を持ち出してくるのか。そうか、そうか。……じゃあ、この際だけど! 妹への思いを誤魔化して逃げ回った件について詳しく話を聞こうか?」
「──っ!」
お互いに触れて欲しくなかった話題を掘り返した結果、執務室の温度が急激に下がる。「え、ちょ、殿下、オーガスト様?」とか「寒っ!」などの声が聞こえたが、今はそれどころではない。
だいたいあの話は結婚前に決着をつけた。
それを──。
いや殿下の婚約者の件も私と同じく決着が付いた話なのだが、つい口を滑らせてしまったのだ。私の失態だと、少しばかり平静さを取り戻そうとしたのだが──。
「た、大変です! ルーシィ夫人が蛇に噛まれて倒れたと連絡が入りました! なんでも魔術的なものとかで……!」
「「は? はああああああああああ!?」」
蛇。そう聞いてベルトラン王子のことが脳裏を過った。あの黒髪、鱗のある皮膚、ギラついた黒曜石の瞳。
あの粘ついた目は、まさに狙った獲物を逃さんとするものだった。隣国は自然毒と香水、呪術が豊富な国でもある。
蛇に噛まれた?
もう寒くなる時期に生息しているはずがない……術式的なもの。
嫌な予感がした。
ルーシィ。護衛や魔法結界、護符のアクセサリーだって贈って、安全な場所を用意したというのにっ!
***
そこからはアルフィー殿下の許可の元、急いで転移魔法を使用して屋敷に戻った。
ルーシィ。
ルーシィ!
屋敷前に転移すると、執事に案内されてルーシィの部屋に急いだ。普段ならノックをするのだが、そんな余裕はなく勢い任せに扉を開いた。
「ルーシィ!」
「あはははははっ! 遅かったな、狼男! ひっくっ。貴様が鳥籠に閉じ込めた姫君を、ういっ、俺様が華麗に救うのだぁあ!」
強烈なアルコールと甘ったるい匂いが部屋に充満していた。すでに極大魔法を使った形跡がある。ルーシィはシーツごと男に横抱きにされて抱えられていた。意識が無いのかぐったりしてピクリとも動いていない。
周りには衛兵が何人も折り重なるように倒れている。
魔法術式も砕かれているとか、本気で奪いに来たわけか!
「ベルトラン王子っ、ルーシィを離せ!」
「ばーか。せっかく捕まえたのに離すわけがないだろう、うぃっく」
「──っ!」
隣国独自の民族衣装姿は、少しだけはだけている。頭にターバンを巻いた軽薄そうな男──ベルトラン王子に殺意が沸いた。
この男を今逃せばルーシィを奪還する機会は遠のく!
全魔力を両足に集中させて、閃光のように速く奪い取る!
「展開」
一歩踏み出した瞬間、地面が青白く輝き魔法円が浮かび上がる。その速度は並の術式とは違い、瞬時に展開。
「──っ、ルーシィ!!」
「じゃあなぁ」
「ルーシィ!!!」
咄嗟に短剣を投げようとして、万が一ルーシィに当たったら──そう考えたら一瞬、体が硬直して動けなかった。
青白い光はベルトラン王子を包み込み、光の残滓だけが部屋に残った。
「くそっ!」
咄嗟に動けなかった。
目の前でルーシィを奪われるなって、なんたる失態!
歯を食いしばり怒りを抑えようとするも、激しい感情を制御しきれず魔力暴走を起こす。
ガシャン、ガシャンと屋敷の窓が割れて、爪を軽く降っただけで壁が抉れる。
「ルーシィっ……! 君を守ると約束したというのに……」
油断と後悔で自分に対して、怒りでどうにかなりそうだった。感情の高まりのせいで自身の体が獣化していくのが分かる。
ああ、こんな衝動に駆られるのはいつぶりだろう。
全てを破壊してしまいたい──圧倒的な怒り。
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオン」
「きゅい」
ガタッ、と寝室のベッドから愛らしい声が漏れた。怒り狂いかけた中で、沸騰しかけた理性が留まる。
「──っ」
鋭い爪が縮み人の手に、四足歩行から二足に戻った。怒りで髪紐が解けてしまったが、この際あとで何とかすれば良い。
心臓の音がバクバクと煩い。
空耳?
いやだが──。
「ルーシィ?」
「…………」
周囲にはアルコールの匂いが充満していて、ルーシィの匂いを辿るのは難しい。ベッドに視線を向けるが、人間の膨らみはなかった。
気のせいか。
そう思った瞬間、ベッドから小さな塊が飛び出してきた。
オレンジ色の子兎が体を震わせながら「きゅい、きゅい」と鳴いている。垂れた耳、琥珀色の瞳、愛くるしいフォルムになってもすぐに彼女がルーシィだと分かった。
「ルーシィ!」
「きゅい!」
目を潤ませる妻に、愛おしさが溢れて怒りがあっという間に霧散して消えた。そっと腕の中に妻の温もりを感じると視界が歪んだ。
溢れ出る涙が止まらない。
「ルーシィ……ああ、どうしてそんな愛らしい兎の姿に? 今までも軽くて小さくて愛らしかったのに、さらに愛らしくて可愛くなってしまうなんて……」
「きゅっ」
ポッと頬を赤らめて前肢で顔を隠そうとする妻がいじらしくて、ちょっと心臓が保ちそうにない。なにこの可愛い生き物!
モフモフで、温かくて、仕草一つ一つがなんと愛くるしいのだろう。
今、衝撃的に妻が私の獣姿を好いている気持ちがわかった!
こんな愛くるしい妻の姿を見たらモフモフしたい、ギュッと抱きつきたいなんて真理じゃないか。なによりも傍にいて温もりを感じる幸福感。
さっきのクソ王子とか、部屋の破損具合とかがどうでも良いぐらいに心が満たされる。
早急にもろもろ動かなければならないが、今この瞬間だけ妻がここにいることを実感して小さな温もりを抱きしめた。
私がシトラスの香りなら、妻は甘い花の香りがする。
3.
朝、旦那様を見送ってから領地運営のことで執事と打ち合わせをしたあと、今日のオヤツを作ろうとキッチンに向かった。
旦那様は意外と甘い物が好きなので、携帯用のクッキーや焼き菓子を作って渡している。
お兄様はアップルパイが好きだったわ。ふふっ、オーガスト様はふわふわのシフォンケーキやチョコレートケーキ、ドーナッツも好きだわ。
収穫祭はたくさんの南瓜を貰うから、その時は南瓜のシフォンケーキを作るとして今日は──葡萄のムースケーキにしましょう!
レアチーズにしてもいいかも。
屋敷の裏は森に繋がっているのだけれど、少し畑も作っていて水葡萄の木もガゼボの傍にある。ちょうど実を付けて収穫できるころだったはず。
そう思って侍女たちと篭を持って収穫しに屋敷の外に出た。
いつもの日常。
その日も旦那様の帰りを待って、たくさんお話をして一緒に食事をして、寝るまでの間のんびりまったりする。
旦那様が美味しそうに食べてくれるのを傍で見られるなんて、幸せすぎる!
しゅるり、と何かが走る音を聞いた時には遅かった。
カプッ、とふくらはぎに黒蛇の牙が食い込むのが見える。黒蛇と目があった気がした──。
あ。
蛇?
秋口だから冬眠してなかった? でも黒いのなんて……。
そうぐるぐると考えている間に、私の視界は昼下がりの青空を見上げていた。
あれ? 私、倒れた?
『お前はベルトラン王子を愛している』
ゾッとするような声が耳朶に届く。「違う」と叫ぼうとしても舌が上手く回らない。
その間に低い声がずっと聞こえておかしくなりそう。『オーガストと別れるべきだ』とか。『本当の番は彼じゃない』とか。耳元でずっと囁くの。
頭が割れるほど痛くなって、声の洪水に飲まれて他の声が──届かない。
オーガスト様、助けて。
いつもみたいにギュッとしてほしい。オーガスト様っ。
『お前はベルトラン王子を愛している。彼こそ真の番』
ちがう。私が好きなのはオーガスト様!
ずっと好きで、私なんか子供か妹みたいにしか思われていなかったけれど、早く大人になって振り向いてもらおうと、料理や包帯の巻き方、オーガスト様のいる訓練場に行くために何度も図書館に通ったわ。
その日、少しでもオーガスト様と話ができたら飛び上がるほど嬉しくて、ダンスの練習を無理矢理頼んで……、時々城下町の買い物にも付き合ってくれて……。
ずっと、ずっと、好きで。
やっと彼が私を見てくれた時は、心臓の音がうるさくて、夢じゃないかって何度も頬を抓ったわ。
私だけの一方通行じゃないって分かった時は、飛び上がるほど嬉しかった。オーガスト様は大人で、紳士で、とても優しい素敵な方。
ちょっと負けず嫌いで、ブロッコリーが苦手。雨の日は少し機嫌が悪くて、耳と尻尾は正直だからポーカーは不得意で、実は甘いお菓子が好き。菜園が趣味なのも意外で、大好き。
満月の夜はいつも辛そうで、感情的になるオーガスト様が少しずつ私に甘えて、ゆったりできるようになったことが私の自慢なの。
お腹を撫でて、毛繕いするたびにオーガスト様の特別になれたって実感する。
私の大好きな人。
誰よりも大好きで傍にいたい!
もし彼と離れてしまうのなら、私は私じゃなくなってもいい!
ボフン!
爆発音?
あれ? 声が止んだ?
そう思って周囲を見渡すけれど、なんだか視界が変だわ。ベッドに寝かされていた?
うーん。蛇に噛まれたあとのことがよく思い出せないような?
コツコツ、と誰かがベッドに近づいてくる。でもドアを開ける音なんてした?
ゾッとするような感覚に襲われて、私はベッドの端っこに素早く移動する。
あれ?
ベッドってこんなに広かったかしら?
「ああ、迎えに来たよ。私の愛しい人……ひっく」
「ヒヒヒ……。王子、思ったよりもこの屋敷の術式は厄介だ。さっさと目的の姫君を」
「うぃっく、分かっている」
さっき、頭の中で聞こえた声!
もしかして術者? 私を攫おうとしている?
「ああ、なんて愛らしいんだろう。落とさないようにしっかりと抱きしめて……」
「ではゲートを開きます」
……あ、あれ?
私はここに居るのに、誰かと間違っている?
疑問が次から次へと浮かび上がるが、その答えを私は持っていない。
そうこうしている間に、ドタバタと荒々しい足音が近づいてくる。ドアを蹴り破るんじゃないかというような勢いで誰かが飛び込んできた。
「ルーシィ!」
今の声はオーガスト様だわ!
一目見たいけれど……私の状態ってどうなっているのかしら? 顔を出したいけれど雰囲気的に不味いわよね。
「あはははははっ! 遅かったな、狼男! ひっくっ。貴様が鳥籠に閉じ込めた姫君を、ういっ、俺様が華麗に救うのだぁあ!」
「ベルトラン王子っ、ルーシィを離せ!」
「ばーか。せっかく捕まえたのに離すわけがないだろう、うぃっく」
「──っ!」
んー、私はベッドの上にいるけれど、じゃあ声の主は誰を抱きかかえているの?
んーー、と唸っていると、ふとオーガスト様がくださった護符の存在を思い出す。そういえば、いざという時に魔女様が作った『身代わり人形』が発動するとか言っていたような?
いつも寝室傍の棚に小さなヌイグルミとして置いてあったアレが起動した?
いろいろ考えている間に、王子は転移魔法で消えてしまったようだ。
あんなに速くて詠唱なしなんてすごい。そう思っていたのだが、オーガスト様の怒りと絶望に空気が凍り付く。
オーガスト様!
そう叫んだのだが、どうにも声が変だ。
「──っ、うう、きゅ?」
へんな声が出た。
というかこれは声なのかしら? ここで自分の手足を見て固まった。
モフモフだ。前肢、しかもオレンジ色。
猫? ううんなんか違う。でもどうして?
「ルーシィっ……! 君を守ると約束したというのに……」
悲痛な声に、胸がズキンと痛んだ。
違う。
オーガスト様は悪くない。悪くないの!
そう飛び出そうとしたけれど、溢れんばかりの殺気に身が震えた。本能的に体が硬直して動けない。声も、出ない。
体中がビリビリする。今、ベッドから飛び出したら──狼の本能のまま私は食べられちゃう?
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオン」
「きゅい」
声が出た。
オーガスト様の悲痛な咆吼に、体じゃなくて魂が反応する。
ほんの少しだけ怒りが緩んだ。でも体がうまく動かせない。
「ルーシィ?」
「…………」
オーガスト様に食べられちゃうかもしれない。狼さんだもの。ううん、オーガスト様は狼さんだけれど、私の旦那様だわ!
悲しんでいるオーガスト様、旦那様のためにも、ベッドから飛び出す。
毛布から抜け出して転がるようにベッドの上に立った。ああ、私を怖がらせないように人の姿に戻ってくださるなんて……!
「オーガスト様、私はここです!」と言ってみたが、果たして通じるかしら?
「ルーシィ!」
「(オーガスト様!)きゅ!」
私だって分かってくれた! すごい、すごいオーガスト様!
ああ、オーガスト様にギュッとしてもらって、やっと安心できる。
大好きです、オーガスト様以外のどなたの元にも嫁ぎたくありません。そう思ってギュッと抱きつく。
ふとオーガスト様が泣いている事に気付いた。
ああ、泣かないでください。
私はここにいます。
貴方様の傍から離れません。
「ルーシィ……ああ、どうして愛らしい兎の姿に? 今までも軽くて小さくて愛らしかったのに、さらに愛らしくて可愛くなってしまうなんて……」
「もしかしたら魔法術式の影響かもしれません」と喋ってみるけれど、言葉的には「きゅいきゅう」という感じになってしまう。
「魔法術式の影響? 呪いが変に作用してしまったとかだろうか」
「(オーガスト様、私の言いたいことがわかるのですか?)きゅう?」
「ん? もちろん、妻の言葉が分からないわけないだろう。それに君だって私が狼の時に意思疎通できているだろう」
「(いわれてみれば……)きゅ」
「ふふっ、子兎の姿でも私の妻は可愛らしい」
チュッと頬にキスするので、垂れていた耳がビクリと跳ねる。
だ、旦那様がイケメン過ぎる。
ご自身が酷く傷ついたのに、私をたくさん気遣ってくださるんだもの。
惚れ惚れしちゃう。好きです。
旦那様にキスを返したら、涙が止まってくれた。よかったわ。
……でも、私の体……どうなっているの?
ちなみにあの後、屋敷内の惨状よりも旦那様が私の体を洗うと言い出して一悶着あったのだが、それはまた別のお話。
4.
「──で、その愛くるしいモフモフが妹のルーシィだと?」
「ええ。この垂れた耳にオレンジ色のふわふわした子兎はルーシィです。見てください、私の嫁超絶可愛い。こんな姿であっても愛おしすぎてたまりません」
「すみません、……絵面的に捕食者と被食者にしか見えないのですが」
「そ、そうだが。なんだかこう……緊迫感のある絵面だ」
お兄様とロイ様がいうのも分からなくはないわ。
私だって最初は食べられてしまうんじゃ? ──って不安になったもの。でも、旦那様は旦那様だった。それに……。
「ルーシィ、ほら、兄様だぞぉ」
「きゅ(オーガスト様……)」
旦那様以外の人に触れられるのが怖くて、本能的に旦那様から離れられない。というか離れたくない!
旦那様の肩に乗り、頬にしがみつく。
「がはっ……。僕まで拒絶された」
「しかたありません……ぷぷっ、ルーシィは私と離れたくないらしいので。私以外だと怖がってしまうの……ですよ」
旦那様がすっごくご機嫌だわ。耳と尻尾がすごく動いているもの。声も上ずっている。
前肢で旦那様の頬に触れると、大きな手が私の背中を優しく撫でる。
温かくて安心する。
「恐ろしくて目が離せない」
「精神的にくるものがあるな」
「そうですか? 私には愛おしい妻とこうして一緒に居られるのでかなり幸せです」
「(旦那様、私も幸せです! 大好きです)きゅきゅ!」
「私も愛していますよ」
思わずいつものように甘えてしまって恥ずかしい!
前肢でペシペシしながら旦那様に、事のあらましをお兄様に話すように促す。微妙な空気になっている場合ではないのだから。
「どうやら妻を噛んだ毒蛇は魔法術式で形成されたものらしく、妻から……っ、……離婚をするよう……洗脳しよう……としたそうです」
「(術者の声だったと思うわ!)きゅうきゅい!」
「あの王子と術者を殺してきていいですか、いいですよね?」
「(え!?)きゅ!」
「殺すのは却下だ。王子の対応に関してはこちらに任せてもらう」
「アルフィー殿下!」
「それよりも、君は僕の妹を元に戻す方法を探すべきだろう」
「うっ、それは……そのとおりです」
「先日の刺客は陽動だったのだろうな。……恐らく『身代わり人形』や他の護符によって洗脳を無効化したが、その代償として一時的に獣化による姿になっている……可能性が高いと僕はみている」
「代償……ですか」
「ルーシィの話では『君と別れるぐらいなら違う存在になってもいい』そう強く願ったのだろう。強い願いは呪いを打ち消すがその分、魔力や生命エネルギーを消費する。ルーシィの場合、毒の影響で支払えるだけの体力が残っていなかったから、獣人の姿になった──というなら筋は通る」
流石お兄様、そう考えれば確かにしっくりくる。毒で体力を削りつつ、洗脳ってなんて恐ろしいことを考えたのかしら。
うう、怖い。
旦那様の頬に擦り寄りながら、会話に耳を傾ける。
「解決策として《真夜中の魔女》に相談してみるとしよう。二つ名の通り、真夜中にしか交信が取れないので、オーガストとルーシィは、王城に泊まっていくといい」
「承知しました」
「きゅ(はい、兄様)」
《真夜中の魔女》。我が国に古くから存在する魔女の一人。《叡智の森》に住み様々な魔導具や魔法グッズを提供してくれる。この国の相談屋さん。
もっとも相談する場合は、《叡智の森》を抜けて魔女さんの屋敷に辿り着いた者、限定なのだ。気軽に相談できないような処置らしいけれど、私との婚姻関係でオーガスト様は相談に乗って貰ったらしい。最高新記録を叩き出したとか、お兄様から聞いたことがある。
「この状態が早く解ければいいのに」と思う反面、「このままなら旦那様と一緒に居られる」という緊張感がないというか、不謹慎な気持ちでいっぱいになる。
「ルーシィ、ずっと起きていて平気かい? その体ですと不便もあるだろう」
「(そんなことないです。オーガスト様こそ、私がこんな風になって大変では?)きゅきゅ……」
「何を言うんだ。妻の危機に間に合い、こうして傍にいられるだけで幸福だよ。それにルーシィが獣の私を好いてくれる理由も、君が愛くるしい子兎の姿になったことで理解できました」
「(オーガスト様……)きゅ」
「ルーシィ」
「…………口の中が砂糖でいっぱいな気分です。殿下、この二人もうこのままでもいいんじゃ?」
「駄目だ! ルーシィが僕を怖がるなんて耐えられない!」
「…………もう帰りたい」
ロイ様がゲッソリした顔をしているのは、私たちだけ──のことじゃなさそうね。だって彼の頬に手形の痕が残っているんだもの。
またマリアンヌ様と言い合いをしてしまったのかしら。お二人とも学生時代から負けず嫌いで、顔を合わせると言い合いをしていたわね。
「ルーシィ?」
「(マリアンヌ様とロイ様の関係がよい方向に向かって欲しいと思ったのです。お二人とも意地っ張りなだけなので)きゅうきゅいきゅうう……」
「ああ、私の妻はこんな状態だというのに、他人を慮ることができる。なんて素晴らしい人なんだ」
「なんで君たちは意思疎通が難しい姿なのに、心を通わせられるのか」
「愛している、大切だ、傍にいて欲しいと真剣に伝えないと伝わるものも伝わらない」
「(大好きだって、たくさん言って伝える努力をしてきた結果よ)きゅううう」
ロイ様は項垂れていた。それができれば苦労はしないのだろう。
***
ベルトラン王子の誘拐未遂による国としての対応。
私の獣化を解く方法。
旦那様の片目の傷。
ロイ様とマリアンヌ嬢との問題。
これらの問題が《真夜中の魔女》の相談によって一気に解決した。
というのも──。
「あ、ベルトランという馬鹿なら、昨日から弟子として働いているわよ」
「「「は?」」」
「(え!?)きゅ!?」
さらっと《真夜中の魔女》は答えた。
年齢不詳。大人の女性で赤紫色の長い髪に、真っ黒なドレスはなんともエレガントかつ魅惑的だわ。箒で空を飛ぶってやっぱり憧れる……!
「あらあら、そちらの可愛らしい子ウサギさんは、ルーシィちゃんね。ハロー。あの強烈な呪いと術式を無意識に弾いて、最小限の代償で済ませるなんてすごいわ。普通の人間なら完全に洗脳されるか廃人になっていたもの」
「ルーシィ!」
「きゅ!」
オーガスト様は私をぎゅうぎゅうに抱きしめる。「大丈夫です、私は廃人とかになっていませんから!」と声をかけるが、旦那様は涙目だ。旦那様の過保護ぶりが加速しているような?
よしよしと前足で頬を撫でる。
「あー。オーガストが取り乱してすまない。魔女殿、話を戻してすまないが、どうしてベルトラン第二王子を弟子にしたんだい?」
「かなり酔っていたみたいだけれど、私の商品『身代わり人形』に文句を言ってきたから、躾直しのために今は五歳から育成中よ。王子だろうとなんだろうと魔女に喧嘩を売ったのだから、それ相応の対処をしたわ。……ああ、一緒について来た術者は、屋敷を爆破して腹が立ったから、蜥蜴にして使い魔が食べちゃったわ」
「くっ、私が八つ裂きにしたかった」
「きゅう(躾直し……)」
「うわぁ……魔女殿に喧嘩を売る愚か者がこの世界に存在していたことに驚いている」
「隣国とはいえ《真夜中の魔女》様を筆頭に魔女に対して、無礼な振る舞いは自己責任というのを知らないはずはないのですが……にしていても泥酔していたんですかね?」
お兄様もロイ様も呆気と取られていたが、話はサクサクと進む。
「《真夜中の魔女》殿、私の妻を元に戻す方法は無いのだろうか?」
「そんなの好いた相手のキスで元に戻るはずよ。もっともルーシィちゃんは魔力ないし、体力を回復しているところだから、手っ取り早く戻したいのならオーガストくんが獣の姿で傍にいてあげる感じがいいのかも。魔力も獣の姿のほうが強いでしょう。魔力供給も獣の姿でキスするほうが回復も早いはずよ」
「わかった。助言感謝する」
「(ありがとうございます!)きゅい!」
「……それこそ絵面的に不味いのではないか? 食物連鎖的に」
「この姿でも結構心臓に悪いのに、狼と子兎って……」
「あら、そんなことないわよ。二人は番としてしっかりと結びつきがあるんだから。あ。もし不安なのなら新しく開発した『素直になる薬』と『本音しか言えない薬』と『特定の相手を攻撃できない薬』を飲んじゃえば?」
「素直になる薬……ハッ!」
「本音しか言えない薬!」
「きゅう(特定の相手を攻撃できない薬!)」
「え、なぜ、私を見たのですか?」
私たちはロイ様に視線を向けた。お兄様もそれで察したようで二パックを即購入。なぜかこういう時だけ察しの悪いロイ様は、これがマリアンヌ様との関係修復になるとは思っていない。
政治面において有能なのに、どうしてもこと恋愛になるとあんなにポンコツになるのでしょう。マリアンヌ様が少しだけ可哀想に思ってしまった。
マリアンヌ様が報われますように。
5.
私とオーガスト様は王城の客間に戻ってきていた。早速オーガスト様が『特定の相手を攻撃できない薬』を服用して試すことに。満月以外で獣姿になるなんて!
またあのモフモフを堪能できることが嬉しくて堪らない。絵面的に食べられないか不安は少しあるけれど、オーガスト様なら大丈夫なはず!
「それでは始めるけれど、万が一も考えて安全だと分かるまでルーシィは魔法陣の外に出ないこと。いいね」
「きゅい(うん!)」
「良い子だ」
この説明、すでに十回目だけど素直に頷く。隣の部屋には、いざという時のために衛兵と魔術師が待機してもらっている。
同席していないのは、オーガスト様が狼になると神経質になりるので、気性を荒げないためだ。
「ルーシィ……」
いつもよりもずっと大きく感じるオーガスト様の手が心地よい。こんな風に撫でてくれるのなら、たまにならこの姿になるのも良いかもしれない──なんて、言ったら罰が当たるわね。
ボフン、と音を立てて旦那様の姿は獣──白銀の狼に変わる。
ああ、やっぱりなんて凜々しいのかしら。人の姿とまた違って、すっごく大きく感じるわ。
『旦那様?』
『……ルーシィ。今気付いたのだが、この姿だと君を撫でる時に爪で引っ掻いてしまうかもしれない。それに人間のように小回りがきかないので、私は横になるから怖くないなら近づいてきてほしい』
不思議なことに獣同士だと普段と変わらない感じで会話ができるのね。私は旦那様のモフモフの毛並みを堪能すべく魔法陣を出て歩み寄る。
兎の体って思っていたより俊敏に動けるわ。わあ、あっという間に旦那様の傍に!
長椅子に寝そべっている旦那様は前肢を伸ばしてだらんとしている。シトラスの良い匂いがするわ。前肢の傍に体を寄せるとモフモフ具合が半端ない。
『モフモフの絨毯みたい! すごいわ。どこかしこもモフモフで温かい』
『ルーシィ、可愛すぎるから、ほらキスして試すんだろう?』
『でも、もう少し旦那様のモフモフを堪能したい。それに背中に登ってみたいわ』
『あ、危ないだろう。こんなに愛くるしくて可愛いのに、君はお転婆なのだから』
『駄目?』
『いくら君が可愛くても、危ないことはさせられないな』
前肢でオーガスト様の頬をペシペシ触れるが、どうやら許可は下りそうにない。もう、誘拐未遂で旦那様の過保護ぶりが増したんだわ。
仕方がないので、旦那様のモフモフを堪能すべく顔を埋める。顔どろこか体もモフモフに身を預けた。至福……。
鼻をフンフンしつつ、旦那は額にキスを落とす。擽ったい。お返しにキスをしようとするけれど、鼻に当たってしまう。むう、難しい。
『今、ふと思ったのだが、この状態で唇にキスをして元の姿に戻ったとしたら、君の恰好はどうなるのだろう』
『え!?』
思わず顔を上げた瞬間、狼の大きな口が触れた。口というかタブン舌的な!?
ボフン、という音後に、自分の視界が大きく変わる。旦那様のほうに倒れかけてしまう──が、ガッシリと私を抱きしめた。
「──っ!?」
「ふう。私の魔力がごっそりと持っていかれたところを見るに成功ようだね」
「ひゃい」
きゃあああああーーーー。
旦那様は白のチュニックに黒ズボンという感じで、かなり薄着に対して、私は──寝間着。しかもかなり薄着というか下着のようなもの。
なんて恰好を! お、お嫁に行けない!
……あ、すでに嫁いでいるからいいのかしら?
「はぁーーーー、元に戻って良かった……」
「旦那様っ!」
旦那様は魔法で毛布を呼び寄せて私の肩にかけてくれた。ああ、どこまでも私を気遣ってくださる! 紳士ですわ。好き。
ギュッと抱きつくと、旦那様の耳と尻尾は嬉しそうに揺れているのが見えた。
「旦那様は、どこも異変はありませんか?」
「ないよ。私の妻が元に戻って嬉しさでいっぱいだけれど」
「まあ。私は──」
チュッと旦那様の唇にそっとキスをする。
「この姿でやっと自分からキスができるのが嬉しいですわ」
「君は……本当に」
旦那様の左目の傷は未だ癒えていないけれど、以前よりも薄くなったような?
左目の瞼にキスを落とす。傷の痛みがなくなりますように。
「ルーシィ、君は私にとって誰よりも愛おしくて、私には勿体ないほど、素晴らしい治癒魔法使いだよ」
「まあ! 魔力がなくてもオーガスト様を癒せるのなら嬉しいですわ! 私も大好きです。ずっとずっと前から、愛していますわ」
コツンと額を合わせると、どちらともなく唇が触れかけた瞬間、隣室からのノックの音でキスどころではなく、旦那様に毛布でグルグル巻きにされたのでした。
うう……隣に衛兵さんたちが隣にいるのを忘れて……恥ずかしくて死にそう。
6.
国家間での問題は、あくまで第二王子の暴走による自爆として、処理されたらしい。
双方の王家は、表向き関与していないという体裁を整えた。今回喧嘩を売ったのが魔女という妖精や精霊と同等の超越者だったからこその対応だった。
私を狙うこともなくなったようなので、それは嬉しい。もっともベルトラン様の関心は《真夜中の魔女》様に移ったというのは、だいぶ後になってオーガスト様から教えてもらった。
「昔、蛇の姿で迷子になったのを助けたのが、ルーシィだと思っていたらしい」
「まあ、そうだったのですね。確かに妖精さんや精霊さんを昔手当をしたことはありますけど……」
「それを何処かで聞いて、勘違いしたんだろうね。実際はあの魔女殿だったらしいし」
そう考えると、ベルトラン様を泥酔させて煽った人物は全てを見通していたのでは?
多分隣国の王太子か国王……だったのかも?
両国間では、使節団を送る形で交流を深めることが決まってめでたしめでたしだもの。
それとロイ様とマリアンヌ様はというと──。
本音を長年言い出せなかったこともあり、三日三晩言いたいことを言い合った結果、来週結婚する。なんというスピード婚。
今までの喧嘩は一体……。
両家の両親たちは泣いて喜んだとかなんとか。
冬が間近に迫る中、結婚式は初雪になるかもしれない。それはそれでロマンチックかもしれない。
それから──。
満月の前夜になると、時々だが私の姿が子ウサギになってしまう時がある。後遺症のようなもので、しばらくは続くとのことだった。なので外へのお出かけはまだ禁止されている。
でも、以前のようなちりつく痛みも、寂しさはない。
子ウサギの姿に旦那様はたいそう喜び、モフモフを堪能する。翌日は私が狼になる旦那様のモフモフを堪能するので、これはこれで──ハッピーエンドなのかもしれない。