秋の長雨。ここしばらくつづくこの雨を、テレビのなかの気象予報士さんはそう呼んだ。この長い雨がやむころには、紅く染まった木の葉たちもみんな散って、いよいよ冬がはじまるのだと。
 秋がはじまるころには、今年の秋はなにをしますか、なんて話題で、夕方のニュース番組のひと時が盛り上がった。今年はもうちょっと読み物をしよう、とか、今年はちょっと遠出をしてみようとか、今年は食欲に素直になってみようとか、いろいろな秋の過ごしかたが語られた。わたしの秋は読み物の秋。といっても、春も夏も冬も、読み物の季節なのだけれど。
 おおぶりな傘が、ざあざあと落ちてくる雨粒をばちばちと受ける。白地に無数のもみじの葉が描かれたお気に入りの傘。中学生のころ、本を買うこと以外に唯一、お年玉を使ったもの。銀の細い露先からおおきな雨粒が滴って、黒のスニーカーを濡らす。
 『秋の長雨』に濡れて、『市立図書館』のプレートのくすんだ緑色は、晴れた日よりもずっと濃く、くすんで見えた。ドアを開けてすぐのところに、濃紺色のマットが敷かれていた。マットを踏んで多少の水気を落とした靴底が、床を蹴るたびキュッキュッと鳴った。館内につづく自動ドアのすぐ近く、白い自動販売機の側においてある、ごくシンプルな黒のアイアンの傘たてに傘をおく。先におかれていた傘のうち、一本が目についた。ピンク地に、くまのキャラクターが不規則にたくさん描かれている。ころんとした頭にころんとした体が愛らしいキャラクター。傘布のうち金色のボタンがついたバンドから覗く一部分によく見えるそのキャラクターの全身。そのきゅるんとした目となんとなく視線が合っているような気がして、一本の傘から視線を外すのにちょっとだけ時間がかかった。
 自動ドアが勢いよく開く音が、しんとした館内におおきく響いた。こういうとき、なかにいるひとたちのじゃまをしたんじゃないかと思って、なんとも申し訳ない気持ちになる。
 図書館には、本を買うお金がない、学校の図書室を使う勇気がない、とないない尽くしのときにくる。といっても、学校の図書室を使う勇気がないのはいつものことだけれど。ああ、それじゃあ結局、新しい本を買うお金がないときにきているんだ。
 図書館にはよくくる。けれど、だからといって図書館が好きなわけじゃない。そりゃあ、本がたくさんあるし、お金はかからないしで、嫌いということはないのだけれど。それでも、やっぱりほかにひとがいる場所というのは苦手。ひとがいるからというだけで、ほかにたいした理由もないまま、ものすごく緊張してしまう。読みたい本があっても、見てみたい通りがあっても、そこにひとがいるとつい後回しにしてしまう。そんなくせに、心の中ではおもしろい本が借りられてしまったらどうしようと焦る。借りられてしまうのが嫌なら、すみません、と会釈して、ひとのいる通りに入っていって、見たいところを見ればいい、気になった本を手にとってみればいい。わかってはいても、どうしても、実際に行動に起こすのに勇気がいる。そしてわたしはいつも、その勇気を出せない。
 楽なほうに逃げるのは、簡単でいい。だって、ひとと接する努力をしないで、本を読んでいればいいんだから。本を読むことはそれほど難しいことじゃない。目はよく見えるのに文字を読むことができないひとがいると教えてくれた『本』を、わたしが実際にどれほど『読む』ことができているかはわからないけれど。
 ひとと話すのが苦手、ひとの目を見るのが苦手、話してくれたことにじょうずな相槌を返すのが苦手。苦手なことばっかりで、ひとりでいることに理由をつけるためでもあるみたいに、読み物をするようになった。そうしたら自然と、ひととの関わりが薄く弱いものになった。そうなってからはもう、読み物は習慣になった。席が変わっても、教室が変わっても、果ては学校が変わっても、わたしは本を読んだ。友だちと呼べるひとはひとりもいない。楽なほうに逃げたせいで、できなかった。友だちが欲しいと思うことはある。わたしも周りのみんなとおなじように、何人かで集まって話をしたい。あんなふうに何人かで、声をあげて笑いたい。
 だからせめて、本の世界に逃げ込むのをやめなくちゃいけない。そのためにはせめて、ひとがいる通りにも、すみません、といって入っていかなくちゃいけない。そのためには、ありたけの——ううん、ほんの少しの、勇気を出す必要がある。
 書棚の側面に貼ってある何枚かのプレートに『日本文学』と書かれたものが含まれている。その通りを覗くと、女のひとが立っていた。まるで癖のない、つややかな長い黒髪をさらりとおろした女のひと。黒っぽいジャケットを着て、黒っぽいプリーツスカートを穿いている。靴下は服よりも青っぽく見えて、靴は茶色っぽいローファー。年齢はわたしと変わらないように見えて、ようやく、その女のひとが制服を着ているのかもしれないと思い至る。館内が薄暗いから黒っぽく見えるけれど、実際にはわたしが着ている制服とおなじような濃紺色なのかもしれない。
 女のひとは日本文学の並んでいる棚を見ている。わたしも、あのあたりを見たい。
 ちょっとだけ、近くにいってみようか。ちょっとだけ、近づいてみようか。年齢は変わらないように見えるし、その女のひとは物静かなひとに見える。ほんの少しだけ、勇気を——。
 臆病者の鼓動はばくばくと騒ぎだす。大丈夫、なにも世間話をするわけじゃない。ちょっと近くにいって、相手がこちらに気づいてくれたら、すみません、とちょっとお辞儀すればいい。
 そっと、右足を前にだす。薄緑色のカーペットは、靴底と触れ合うときにほとんど音を立てなかった。左足で右足を追い抜いて、また右足で左足を追い抜く。そして足を止めて、書棚にずらりと並んだハードカバーの背を眺める。有名な作家——いわゆる文豪の全集がたくさん並んでいる。幻想集とか怪異集みたいに、ひとつのジャンルの作品を集めたものもある。こういう背を眺めているだけで楽しい。読みたいものが次から次に現れる。
 ふと、右腕にとんと衝撃が起きた。びっくりして見ると、先にこの棚を見ていた女のひとがすぐ近くにいた。思わず大声を出しそうになって、慌てて両手で口を塞いだ。女のひともわたしとおなじくらい驚いたような顔をして、口をぱくぱくとさせて両手をわちゃわちゃと動かして、そうかと思えば逃げるように走り出してしまった。その華奢(きゃしゃ)な背中とおおきく揺れるつややかな髪の毛を見送って、やがてぼんやりと湧いてきた冷静が、口から両手を下ろさせて、自由になった口にため息をつかせた。ああ、たったひと言、すみませんといえばよかっただけなのに。それだけのことが、できなかった。