秋の長雨。ここしばらくつづくこの雨を、テレビのなかの気象予報士さんはそう呼んだ。この長い雨がやむころには、紅く染まった木の葉たちもみんな散って、いよいよ冬がはじまるのだと。
秋がはじまるころには、今年の秋はなにをしますか、なんて話題で、夕方のニュース番組のひと時が盛り上がった。今年はもうちょっと読み物をしよう、とか、今年はちょっと遠出をしてみようとか、今年は食欲に素直になってみようとか、いろいろな秋の過ごしかたが語られた。わたしの秋は読み物の秋。といっても、春も夏も冬も、読み物の季節なのだけれど。
おおぶりな傘が、ざあざあと落ちてくる雨粒をばちばちと受ける。白地に無数のもみじの葉が描かれたお気に入りの傘。中学生のころ、本を買うこと以外に唯一、お年玉を使ったもの。銀の細い露先からおおきな雨粒が滴って、黒のスニーカーを濡らす。
『秋の長雨』に濡れて、『市立図書館』のプレートのくすんだ緑色は、晴れた日よりもずっと濃く、くすんで見えた。ドアを開けてすぐのところに、濃紺色のマットが敷かれていた。マットを踏んで多少の水気を落とした靴底が、床を蹴るたびキュッキュッと鳴った。館内につづく自動ドアのすぐ近く、白い自動販売機の側においてある、ごくシンプルな黒のアイアンの傘たてに傘をおく。先におかれていた傘のうち、一本が目についた。ピンク地に、くまのキャラクターが不規則にたくさん描かれている。ころんとした頭にころんとした体が愛らしいキャラクター。傘布のうち金色のボタンがついたバンドから覗く一部分によく見えるそのキャラクターの全身。そのきゅるんとした目となんとなく視線が合っているような気がして、一本の傘から視線を外すのにちょっとだけ時間がかかった。
自動ドアが勢いよく開く音が、しんとした館内におおきく響いた。こういうとき、なかにいるひとたちのじゃまをしたんじゃないかと思って、なんとも申し訳ない気持ちになる。
図書館には、本を買うお金がない、学校の図書室を使う勇気がない、とないない尽くしのときにくる。といっても、学校の図書室を使う勇気がないのはいつものことだけれど。ああ、それじゃあ結局、新しい本を買うお金がないときにきているんだ。
図書館にはよくくる。けれど、だからといって図書館が好きなわけじゃない。そりゃあ、本がたくさんあるし、お金はかからないしで、嫌いということはないのだけれど。それでも、やっぱりほかにひとがいる場所というのは苦手。ひとがいるからというだけで、ほかにたいした理由もないまま、ものすごく緊張してしまう。読みたい本があっても、見てみたい通りがあっても、そこにひとがいるとつい後回しにしてしまう。そんなくせに、心の中ではおもしろい本が借りられてしまったらどうしようと焦る。借りられてしまうのが嫌なら、すみません、と会釈して、ひとのいる通りに入っていって、見たいところを見ればいい、気になった本を手にとってみればいい。わかってはいても、どうしても、実際に行動に起こすのに勇気がいる。そしてわたしはいつも、その勇気を出せない。
楽なほうに逃げるのは、簡単でいい。だって、ひとと接する努力をしないで、本を読んでいればいいんだから。本を読むことはそれほど難しいことじゃない。目はよく見えるのに文字を読むことができないひとがいると教えてくれた『本』を、わたしが実際にどれほど『読む』ことができているかはわからないけれど。
ひとと話すのが苦手、ひとの目を見るのが苦手、話してくれたことにじょうずな相槌を返すのが苦手。苦手なことばっかりで、ひとりでいることに理由をつけるためでもあるみたいに、読み物をするようになった。そうしたら自然と、ひととの関わりが薄く弱いものになった。そうなってからはもう、読み物は習慣になった。席が変わっても、教室が変わっても、果ては学校が変わっても、わたしは本を読んだ。友だちと呼べるひとはひとりもいない。楽なほうに逃げたせいで、できなかった。友だちが欲しいと思うことはある。わたしも周りのみんなとおなじように、何人かで集まって話をしたい。あんなふうに何人かで、声をあげて笑いたい。
だからせめて、本の世界に逃げ込むのをやめなくちゃいけない。そのためにはせめて、ひとがいる通りにも、すみません、といって入っていかなくちゃいけない。そのためには、ありたけの——ううん、ほんの少しの、勇気を出す必要がある。
書棚の側面に貼ってある何枚かのプレートに『日本文学』と書かれたものが含まれている。その通りを覗くと、女のひとが立っていた。まるで癖のない、つややかな長い黒髪をさらりとおろした女のひと。黒っぽいジャケットを着て、黒っぽいプリーツスカートを穿いている。靴下は服よりも青っぽく見えて、靴は茶色っぽいローファー。年齢はわたしと変わらないように見えて、ようやく、その女のひとが制服を着ているのかもしれないと思い至る。館内が薄暗いから黒っぽく見えるけれど、実際にはわたしが着ている制服とおなじような濃紺色なのかもしれない。
女のひとは日本文学の並んでいる棚を見ている。わたしも、あのあたりを見たい。
ちょっとだけ、近くにいってみようか。ちょっとだけ、近づいてみようか。年齢は変わらないように見えるし、その女のひとは物静かなひとに見える。ほんの少しだけ、勇気を——。
臆病者の鼓動はばくばくと騒ぎだす。大丈夫、なにも世間話をするわけじゃない。ちょっと近くにいって、相手がこちらに気づいてくれたら、すみません、とちょっとお辞儀すればいい。
そっと、右足を前にだす。薄緑色のカーペットは、靴底と触れ合うときにほとんど音を立てなかった。左足で右足を追い抜いて、また右足で左足を追い抜く。そして足を止めて、書棚にずらりと並んだハードカバーの背を眺める。有名な作家——いわゆる文豪の全集がたくさん並んでいる。幻想集とか怪異集みたいに、ひとつのジャンルの作品を集めたものもある。こういう背を眺めているだけで楽しい。読みたいものが次から次に現れる。
ふと、右腕にとんと衝撃が起きた。びっくりして見ると、先にこの棚を見ていた女のひとがすぐ近くにいた。思わず大声を出しそうになって、慌てて両手で口を塞いだ。女のひともわたしとおなじくらい驚いたような顔をして、口をぱくぱくとさせて両手をわちゃわちゃと動かして、そうかと思えば逃げるように走り出してしまった。その華奢な背中とおおきく揺れるつややかな髪の毛を見送って、やがてぼんやりと湧いてきた冷静が、口から両手を下ろさせて、自由になった口にため息をつかせた。ああ、たったひと言、すみませんといえばよかっただけなのに。それだけのことが、できなかった。
テレビのなかで、かわいらしい女のひとがかわいらしい服を着て、今日一日の空模様について伝えている。スタジオにいるアナウンサーは画面の端のワイプのなかでにこやかにその声を聞いている。
わたしはおおきく映った素敵な笑顔を眺めながら、トーストをかじる。普段のバタートーストに、ちょっぴり贅沢にシナモンパウダーをふりかけた。
「はい、そうですね、通勤通学の時間には傘はいらないでしょう。ただ、午後からはお天気が下り坂となりますので、お帰りの時間は折りたたみの傘だとちょっと心配かな? おおきめの傘を持っておでかけすると、安心です。以上、お天気でした」
かわいらしい女のひとのかわいらしい声のいうとおり、お昼ごろから次第に雲が多くなり、午後の授業がはじまるころには雨が降りだした。最近の天気予報はよくあたる。でもこれくらいなら折りたたみの傘でもしのげたかな、なんて思っていたら、放課のころには本降りとなった。最近の天気予報は、ほんとうによくあたる。きょうもお気に入りの傘の出番がある。
昇降口では「雨、長いねえ」なんて話しあう女子の声が聞こえた。「ほんとう、じめじめで嫌になる」と親しげな声が応える横で、わたしはもみじが描かれた傘を開く。すぐに中棒を肩にあてて、濡れて灰色になった階段をおりる。茶色のプラスチックのカバーがつけられた手すりもすっかりびしょ濡れで、ぽたぽたと雨粒を垂らしている。この雨がやんではじまる冬がやがて本格的なものになれば、こうして雨の日に垂れる水も凍ってしまうんだろう。つららで、バラかなにかの茎みたいにとげとげした手すりを、去年までつづいた中学校生活で何度も見た。信号が変わるのを待てなくて自転車を押して使った歩道橋で、すっかり懐かしく思える中学校の昇降口で。
傘はきょうも、わたしに連れられて図書館の傘たてに納まることになった。わたしはきょうも、ピンク地に描かれたくまのキャラクターと目が合ったような気になって、自動ドアが開く音で館内にいるひとのじゃまをしたんじゃないかと考えた。
いくつかのプレートと一緒に『日本文学』と書かれたそれがある通りに、きょうはだれもいなかった。わたしは思わずほっと息をついて通りに入った。安心して本を選べる。
たっぷり五分ほど悩んで、棚から一冊を抜きとった。そのハードカバーの厚い一冊を持って席にいく。座面と背面にカーペットとおなじような薄緑色のクッションがついた、木製の重たい椅子を引いてそっと腰をおろす。椅子とおなじような優しい色味の木製の机のふちに手首をあてて表紙を開く。
最初に収録された作品を読み終えたとき、前のほうにひとの気配を感じて視線をあげると、くりくりとしながらどこか涼しげな、きれいな目と視線が重なった。きのうの女のひとだ、と気づいたときには、相手は慌てたように、自分で開いている本のページに視線を移した。
話しかけてみたい、話をしてみたいという、強烈な願望が胸に広がった。
なにを読んでいるんですか——そんなふうに舌を動かしそうになって、結局、相手の開いている本の表紙を盗み見るにとどまった。たしかにきのう、ちょっとぶつかったけれど、結局は知らないひと。知らないひとに、なにを読んでいるんですか、なんて声をかけるのはあまり多いことじゃない。あまり多いことじゃないはず。それを自分でやってみるだけの勇気は持てなかった。しかもそんなふうにしなくても、相手がわたしの持ってきた本に収録された作品を書いたひととおなじ時代に活躍した作家の作品集を読んでいることを知ることができた。
なにを読んでいるんですか。そんなことを訊く必要はもうどこにもないのに、胸のなかにはまだ、目の前の女のひとと話をしてみたいと望む思いが消えずに残っていた。わたしもその作家の作品を読んだことがあるとか、その本にはどんな作品が収録されているのかとか、あなたはその作家が好きなのかとか、話しかけてみたいと思うことへのいいわけみたいな話題がたくさん湧いてくる。
声をかけてみたい。話をしてみたい。
「あ、」自分でも気づかないうちに、かすれた声がでていた。臆病者なままの心臓はばくばくとうるさい。それこそ、すぐそばの書棚を見ているひととか、目の前の女のひとに迷惑なんじゃないかと思うほど。
だけど、それでも——……。
「あ、あの、……」
ちいさな、ごくごくちいさな声は、だれにも聞かれないまま、ただわたしの唇を、間抜けに開かせた。
朝、パンを買うのを忘れてしまったからといったお母さんのつくってくれたおにぎりを食べたころから降っていた雨は、気まぐれに弱まる瞬間はあったものの、いっときもやむことはなく、昇降口に向かって校門を通ったときとおなじように、昇降口に背を向けて校門を通るときにも傘を濡らした。秋の長雨。もう何度も降られてきたはずなのに、今年のそれは、なんだかとても長く感じる。気まぐれに弱まりこそすれ、このままずっと、やまないんじゃないかと。
『市立図書館』——。建物から差しだしたちいさな屋根のした、傘を斜めしたに向けてそっと閉じたり開いたりして雨粒を払う。なかに入って濃紺色のマットを踏んだ靴底がつるりとしたタイルにずるりと滑った。声が飛びだす前に片足が後ろについて、かあっと熱くなった体と、瞬間的な強い緊張にばくばくと騒ぐ鼓動が残った。深く吸いこんだ息をゆっくりと吐きだす。
アイアンの傘たてにはきょうも、ピンクのなかに浮かぶくまのキャラクターがいた。
きのう、帰る前に借りようか迷って、結局借りずに書棚に返した一冊を引き抜いて、席に向かった。椅子を引こうとして、心臓が一度、おおきく跳ねた。エントランスで滑ったときとおなじくらい、どきりとした。きのう、あれほど話したいと思ったひとが、また目の前にいる。
女のひとは、臆病そうに目をきょろきょろとさせて、それからうつむきがちに口をぱくぱくさせて、そうして「よ、く、……会いますね、」と、ちいさく声をかけてくれた。とうに過ぎ去った夏の盛りの、暑いのに寒いような感覚がよみがえった。ああ、よろこびって、熱いんだ。よろこびって、震えるんだ。
自然にできあがった笑顔で、わたしは何度もうなずいた。
ふたりでほとんど同時に動きだして、席に着いた。わたしはきのうとおなじ望みを隠してページを開いた。二百ページちょっと前くらいだったはず……。
ふと、こんこんこん、と机を叩く音がした。顔をあげると、すぐ前の席に着いた女のひとが机のうえに紙を滑らせた。『高校生ですか?』と、整っていながらどこかかわいらしい字が並んでいる。
うなずきながら発した「はい」の声は、緊張でちょっと掠れた。
ちいさな顔の周りに垂れるきれいな黒髪の横で、人差し指と中指が立てられた。ちいさな顔には疑問符が浮かんでいる。わたしはそれをまねして、人差し指を立てて答えた。一年生。
紙があちらに帰って、そのうえをシャープペンシルが走る。紙が差しだされる。『ひとつ しただね』。ちいさな顔に浮かんだ、恥ずかしそうな、内気な微笑が親しみやすさを感じさせる。
わたしもちょっと、距離を縮めた話しかたをしてみようかな。わたしの気持ちを読んだように、紙の横にシャープペンシルがおかれた。わたしは微笑して受けとった。
『じゃあ、先輩だ』
文字を差しだすと、先輩は恥ずかしそうに微笑んで目を逸らした。先輩がそのまま本を読みはじめてしまったから、わたしもおなじように本を開いてページのなかに広がる小宇宙を眺めた。普段ならこの小宇宙に心を投げだすことなんて簡単なのに、きょうはそれがうまくできない。しっかりとした綱につながれているとわかっていても、バンジージャンプをするとしたら飛びだす寸前のところで怖気づくのに違いないように、今のわたしは、両手の間で広がる小宇宙に飛びだすのをためらっている。もっと話がしたい。本の世界に飛びこんでしまうのは、なんだかもったいないように思えてしまう。これまではあんなに楽しかった読み物が、今はどうしようもなく、退屈な作業に思える。こんなことより、もっと楽しいことがある。こんなことより、もっとしたいことがある。話がしたい。友だちになってもらいたい。顔が見たい。あのうるさい自動ドアを通って、思いきり話がしたい。
結局、本の世界には入りこめないで席を立った。そのときにちらと先輩の様子うかがった。普通に本を読んでいるように見えた。わたしたちは、たまたま何日かつづけて会っただけのひと。学校も学年も違う。おとなしそうな先輩と、ひとと付き合うのがへたくそなわたし。そんなわたしたちが赤の他人として出会ったのでは、会話が弾むはずがない。お互いの年齢を知ることができただけでも、会話はじゅうぶんに弾んだといえる。
本を書棚に返してうるさい自動ドアを通った。外にでた途端、雨が嫌いになった。雨のなか、傘をさして歩いて帰るのが嫌になった。—— やっぱり、先輩と話がしたい。
わたしはエントランスに設置されたちいさな休憩スペースに着いた。一枚板の机と一枚板の長椅子がおいてある。木のぬくもりのある瀟洒な椅子に座ってみる。自動ドアを通ってきたら、先輩はまた声をかけてくれるかな。
長く息をついて、ふと冷静になる。なんだか、恋でもしているみたいだ。先輩がおなじ学校の男のひとで、わたしはそのひとの部活が終わるのを待っている……。先輩との関係をそんなふうにしてかわいらしい絵で漫画になったら、少女漫画のようなきらきらとした恋物語にできそうだ。
自動ドアが開く音がした。少しして閉まる音がすると、足音がちょこちょこと走った。音に顔をあげると、ちょっと離れたところに先輩の顔が見えた。先輩はわたしと目が合うとこちらに走ってくる。
「い、た!……よかった!……」
「先輩……」
「もう、帰るの?」
「あ、いや……」もっと話をしたかったのに。あんなふうに、顔を見たいなんて思ったのに。いざこうして相手が目の前に現れると、心におろおろした臆病な自分がひょっこりと顔をだす。
先輩は鞄からメモ帳を取りだすと、ページを開いてシャープペンシルを走らせた。文字をわたしに見せる。『もっと お話したかった』。
わたしは思わず笑ってしまった。「ここは外だから、声をだしてもいいんだよ」
先輩は何拍かおいて、「わたし、」とちいさな声を発した。
「わたし、その……耳が、よく聞こえなくて……」
ずきんと胸が痛んだ。ひどいことをいってしまった。先輩が館内で筆談をしたのは、ちいさな声で話すのでは聞こえないからだったんだ。そして、きのう声をかけてみても返事がなかったのも、そのせいだったんだろう。
「ごめんなさい!」わたしは深く頭をさげた。
「あ、あ、やめて。あなたは、悪くないから」
ゆっくりと顔をあげる。先輩は困った顔をしていた。
「わたしが、こんなふうに話しかけたのも、よくないんだよ。こんなふうに話をしたら、普通のひとだと思って当然だよ」
たしかに会話ができている。先輩はきれいな髪の毛を耳にかけて、横を向いた。耳のなかに、ちいさなプラスチックのようなものが入っている。
先輩はこちらを向き直って微笑んだ。「これがあれば、ちょっとだけ聞こえるんだ」
「そうなんだ」といいながら、どんな顔をしていいかわからない。
「あ、えっと、……いきなり話しかけたりして、ごめんなさい」
わたしは慌てて手を振る。「いや、全然、そんな……」
「わたし、どうしても、お話がしたかったの。何度か見かけるうちに、話をしてみたいって気持ちが、どんどん強くなって……」
「う、うれしいです」
「あ、あの、わたしと、……友だちになってください!」
「えっ?……」
なんだか、急展開。
「あ、はい……よろこんで……」
ちょっと、ドラマティック。
雨に降られた図書館は、あの素敵な友だちとの待ち合わせ場所になった。知らない学校に通う特別な友だちとの、放課後の待ち合わせ場所。わたしはもみじの描かれた傘をさして、友だちはくまのキャラクターの描かれた傘をさして、市立図書館に向かう。
傘の雨粒を払ってエントランスに入ると、休憩スペースに友だちがいた。濃紺色のマットで靴底の水気をとりながら、懐っこく、でもどこかぎこちなく手を振る友だちに手を振り返す。たぶん、おなじようにぎこちなく。
一枚板の長椅子に座ると、友だちはメモ帳とシャープペンシルを取りだして、「どんな学校に通ってるの?」といった。メモ帳もシャープペンシルも、わたしのほうにはこない。それは使わないの、と訊くことは、しばらく迷って、結局しなかった。あまりいいことではないように思えた。
普通の、とまずいいそうになって、声を飲みこんだ。言葉は簡単にひとを傷つける。本のなかのひとたちは、何気ないひと言をきっかけに、強い強い絆にひびを入れていた。その様子をページの外から見るたびに、言葉の恐ろしさを思い出した。
「県立高校」友だちが聞き返すような顔をしたから、もう少しはっきりと「県立高校」と答えた。口もはっきり動かすように意識してみた。
「楽しい?」
「あんまり。放課後、ここにくるほうが……」照れくさくて、声も口の動きも言葉がつづくごとにちいさくなった。
「わたしも学校は好きじゃない。自分が普通じゃないって、思い知らされる」
しばらく、両開きのドアの向こうから雨音が聞こえてくるばかりの時間が流れた。目の前の友だちには、この沈黙はどんなふうに聞こえているんだろう。
「学校で、」とわたしはいってみた。「学校で、友だちは?」
「ううん」と友だちは首を振った。「たぶんおなじ」といって、わたしと自身とを指で示した。「知ってる? 普通、友だちになるために、友だちになってくださいっていわないんだって。なにか、本でそんなせりふを読んだことがある」
わたしはちいさく笑った。たしかに、わたしたちはおなじかもしれない。知識はほとんど、本から得ている。
「好きな授業は?」と友だちがいう。「国語と歴史」と答える。少し考えこんで、友だちが申し訳なさそうにメモ帳とシャープペンシルを差しだしてきた。わたしはそれを受けとって、開かれたメモ帳に『国語と歴史』と書いて差しだした。
「科目は?」
「全部。古文も現文も漢文も好き。歴史も、日本史も世界史も好き」わたしは友だちに指の先を向けた。「そっちは?」
「わたしは、勉強は嫌い。小説を読むのも、授業になると楽しくない」
友だちが話を振ってくれるままに、しばらくお互いの学校の話をした。好きな先生のこと、嫌いな先生のこと、お昼ごはんはお弁当を持っていっているのか学食や売店を使っているのか。嫌いな先生のことについて話せば、そういう先生ってどこにでもいるんだね、というところに着地した。
「ちょっと飲みもの買ってくる」と友だちが席を立った。友だちが白い自動販売機で買ったのは炭酸飲料だった。わたしは炭酸が苦手だけれど、それをちょっとした話にすることはできなかった。
土曜日と日曜日は久しぶりにお天気が回復するでしょう、との予報だった。そのとおりになった。気象予報士は湿度の高い晴天になるでしょうともいっていた。そのとおりになった。長くつづいた雨のせいで空気がじっとりと湿っぽい。
雨の日と変わらないほど重たく、体じゅうにまとわりつく空気を、自転車をこぎながら浴びた。こいでもこいでもべったりとした空気が離れない。
書店の駐輪スペースは半分ほどが埋まっていた。空いていた隅に自転車をおいて、押しても引いても開くドアを押し開けてエントランスに入り、店内につづく自動ドアをくぐる。図書館のとは違う、静かに開閉する自動ドア。
店内は外に比べて空気がからりとしていた。
左手前に広がる文房具売り場に入る。シャープペンシルやボールペンや修正ペンなんかと一緒にずらりと並んだ消しゴムを眺めて、手にとったのはピンク色のカバーがついたもの。もっと有名な商品も並んでいるけれど、これが気に入っている。今使っている、ずいぶん前に裸になってしまった消しゴムは、これとおなじオレンジ色のカバーがついていた。今回ピンク色を選んだのは、……図書館の傘たてでよく目が合う、あのくまのキャラクターのせいかもしれない。あの傘は友だちのものだった。
「あ!」と声がして、どきりとした。声の聞こえたほうを見てみるけれど、その先にいたのはわたしの知らないひとで、わたしの知らないひととの遭遇をよろこんでいた。きょうは晴れている。——きょう、わたしは書店にきている。友だちとは雨の降る図書館でしか会ったことがない。友だちが、雨の日にだけあの図書館に現れる、不思議な美しい妖精かなにかででもあるように。
日曜日が過ぎれば、雨はまた降りだした。いつもどおりに見える月曜日、ふと、ちいさな変化に気がついた。
雨降りの昼休み。教室の真ん中のあたりで、おおきな笑い声が弾けた。本のページから顔をあげて、声のしたほうを見る。なにも思わないままページに視線を戻して、それから気がついた。ああ、うらやましいと思わなかった。あのなかに入りたいと、わたしはみんなのようにはなれないと、思わなかった。ああ、そうか、わたしは満ち足りている。
放課後、図書館に向かった。土曜日、文房具売り場から知らないひとと知らないひとの遭遇をよろこぶ場面を見たときとは違う、安定した心持ちで。だって雨が降っているから、図書館にいけばきっと友だちに会える。雨降りの図書館に、あの美しい友だちは現れる。雨天がわたしにその姿を見ることを許す、妖精のように。
傘を閉じて、エントランスに入る。休憩スペースにはだれもいなかった。わたしはすっかり定位置になった机に向かい、長椅子に座った。傘の持ち手を指先で撫でながら、友だちの現れるのを待つ。
ずいぶん長く感じる間、閉じたドア越しに雨の音を聞いた。館内から本を抱えたひとがでてきて、両開きのドアからひとが入ってきて、それからようやく、両開きのドアから友だちが入ってきた。やわらかく微笑んで手を振る友だちに、手を振り返す。
何気ない話をした。何時間目かの授業の感想とか、ある時間に先生が突然怒りだしたとか、廊下で滑って転びそうになったとか。
そんななかで、友だちがふっと目を伏せた。
「どうしたの?」
「わたしが、噓をついてたっていったら、どうする?」
「噓? さっきまでの話に噓があったの?」
「さっきまで……といえば、まあ、そうなるのかな」
「ええ?」といってわたしは笑った。「なんだろう……」
「ねえ」
弱々しい声に、へらへらとした笑いが引っ込んだ。「うん」
「わたしの耳が、聞こえるんだっていったら、……どうする?」
「え?……」
「わたしの聴力に、問題がないっていったら」
「……べ、べつに、どうもしないけど……」これは、わたしがおかしいのだろうか。ひとと接するのがあんまりにへたくそで、なにもわからない。どういうときにどんな反応をするのが普通なのか、正しいのか、わからない。……まるでわからない。
「でも、……だってべつに、耳が聞こえないとか、聞こえにくいとか、そのためにこういう時間を楽しいって思ってるわけじゃないし……聞こえるなら、それよりいいことはないだろうし……」
でもひとつ、気になることができた。「耳につけてるのは?」
友だちは自分の耳に指先をあてた。「雑音を、聞こえなくするもの」
「雑音?」
「耳は、……聞こえる。相手がしゃべってるんだってことはわかる。……でも、なにをいってるのかがわからないの」
それは、どんな感覚なんだろう。
「日本語によく似た、不思議な言葉を聞いてるみたいなの」
「そうなんだ」つづきが喉の奥からでてこない。頭から喉まで、つづきがおりてこない。
「怒らないの?」
「どうして怒るの?」
「わたしは噓をついてたんだよ。聞こえるくせに、よく聞こえないなんていった」
「……怒らないよ。わたしは、……うん、怒らないよ」怒るのが普通なのかな。どうして噓をついたの、といって怒るのが、普通なのかな。じゃあ、どうして噓をついたのと怒ったら、それから次になんていうのが普通なんだろう。わたしを騙すつもりだったのというの? そんなに怒ることなんだろうか。友だちに噓をつかれたら、それだけ傷ついて怒るものなのかな。
「友だちって、今までいたことがないからさ」友だちが苦々しく笑った。「怒られるのが普通なのか、こんなふうに許されるのが普通なのか、わかんないや」
「わたしも、わからない。友だちが噓をついたのとき、どんなふうに感じて、なんていって、どんな顔をするのが普通なのか」
今まで読んできた本のなかのひとはみんな、どうしていたっけ。友だちに噓をつかれたひとだってたくさんいたはずなのに、そのひとがなにを感じてどんな顔をしてどんなことをいっていたのか、ひとつも思い出せない。
「ほんとうに耳が聞こえないひとだっているのにね」と友だちがつぶやいた。「そのひとたちを利用して、友だちに噓までついた」
友だちのいう噓はそんなに罪深いものなのだろうか。はっきり話してもらうには、耳が聞こえづらいというほうが簡単なはず。好きな音楽の話になったとして、名前をいっても伝わりにくい音楽アーティストが好きだったら、わたしはきっと、そのひとやグループの名前をいうより、そのアーティストの音楽をジャンルをまず答えると思う。それとおなじようなものじゃないだろうか。音はちゃんと聞こえるんだけど言葉が聞きとりにくいから、というより、耳が聞こえにくいから、というほうが、話す側も聞く側も必要以上の時間と力を使わずに済む。
「日本語が、日本語に似た不思議な言葉に聞こえるのだって、つらいはずだよ。こんなにスムーズに話ができるのだって、すごくがんばってる結果でしょう?」唇の動きを読んでいるのか、わたしの声に強く集中すれば声を言葉として拾いあげられるのか、あるいは話すひとつひとつの音を頭のなかでつなぎ合わせて言葉にしているのかわからないけれど、どちらにしたって簡単なことじゃないはず。
「わたしは、耳が聞こえにくいっていったのを噓だとは思わないし、そういったことに怒りもしないよ」
自動ドアが開いて、館内からひとがでてきた。そのひとはくすんだ緑色の傘を持ってエントランスをでていった。
友だちがそっと唇を開いた。「ありがとう」
朝から降ったりやんだりを繰り返して、放課後は傘がいらないほどの霧雨だった。昇降口では、折りたたみの傘を広げようとして、そのあとの片づけが面倒に思えたのか、結局広げかけた折りたたみ傘を使わずに帰るひとを見かけた。
わたしはそっと傘を広げた。「さして帰るの?」と声がしてそちらを向く。おなじ教室にいる女子だった。前髪を、大胆にもおでこのうえでおおきなヘアピンで留めている。丸く広いおでこは魅力的で、大胆な髪型もよく似合っている。
「おまじない」とわたしは答えた。
「おまじない?」
「うん。雨が降ってると、友だちに会えるから」
明るい笑い声が弾けた。「おもしろいひとなんだね」
「……そう、かな」
「いつもひとりで本を読んでるから、もっとこう、とっつきにくいひとなのかと思ってた。その友だちとは、雨が降ってないと会えないの?」
「……わからない。でも、会う日はいつも雨が降ってるの」
「へえ。その友だちは雨神さまなのかもね」
「神さま?」
「雨を司ってるんじゃない? 今はこんな霧雨だけど、これから友だちと会う場所に近づくにつれて強くなるかもよ」
「そうかな。でも、神さまっていうより……天使かも」
「使いのほうだったか」
「うん」
わたしを変えるために、こうしてはじめて話すひとともそれなりに話すことができる程度には成長できるように、神さまがわたしの元に使わせた天使。そうと聞いても驚かないほど、あのひとはわたしを変えた。
「だって、こんなに話せる」
「話せる?」
「わたし、人見知りなのに」
はは、と笑われた。「人見知りなひとは自分で人見知りだなんていわないよ」
わたしははじめて、きれいなおでこのしたの目を見た。ぱっちりというより細い、優しい目だった。わたしはその目の形と表情を知ることができたことにうれしくなって笑った。「うん、そうだね」
わたしはもう、人見知りじゃない。
わたしの友だちは雨を降らせる神さまではなかった。霧雨はほんの一瞬、ぽつぽつと傘を鳴らしたけれど、図書館に着くころにはやんでしまった。
そして、わたしの友だちは雨の図書館にだけ現れる美しい妖精でもなかった。雲の切れ間から太陽が顔をだしているからなんとなくそわそわとしながら待ったけれど、ふわりと微笑んで現れた。
「おつかれ」という声に「おつかれ」と応える。
「ねえ、わたし、学校で友だちができそうなんだ!」——。興奮した声が重なった。
「わあ、すごい!」
いつまでも声が重なるから、ふたりして可笑しくなって笑った。
「どんなひと?」わたしが訊いた。
「髪をポニーテールにしてるひと。大胆に前髪も全部まとめちゃってるの」
「へえ!」
「顔は……優しい目をしてる。前髪あげててかわいいくらいだし、かなりかわいいひとだと思う」
「すごい、わたしが友だちになれそうなひととそっくり! ポニーテールにはしてないけど、前髪をピンで留めてるの。おでこのうえで。それがよく似合ってて、やっぱり優しい目をしてるの」
「すごい偶然」と友だちは笑った。
きょうもたくさん話をした。なんだかここで会ってから変わったなあとか、それまではこんなふうに過ごしていたんだとか、こんな本が好きなんだとか、この作家さんが好きなんだとか。
でもこれからは、本を読む時間が減りそうだとか。
傘の出番は次第に減った。そのうちに布団からでるのがつらくなった。着替えるのに服を脱ぐ瞬間が一日のうちで一番嫌いになった。朝、外にでてあくびをすると吐いた息が白く見えるようになった。
友だちは雨の日にだけ現れる妖精ではなかった。神さまがたまたま、雨の日に巡り合わせてくださったひとだった。
制服のうえにコートを着こんだ寒い寒い朝、朝に比べれば寒さのやわらいだ昼を越えて、夕焼けのきれいな放課後。オレンジ色のあたたかい西日の射しこむ休憩スペース、一枚板の机に肘をついて話すわたしの声に、友だちの笑い声が弾ける。
学校でもでかけた先でも、もう、うらやむものはなにもない。
西日が、地面に机と長椅子の影を写す。机を挟んだ長椅子に座る影はふたつずつ。