マスロックのメロディーを詰め込んだヘッドホン。シングルコイルと思わしき音色の束が、夏特有の冷気を放つ。その冷たさに寝起きの目は刺激され、ページの止まった音楽雑誌の続きをめくり始める。
 だけど、それにも飽きていくので、結局天井と睨めっこしながら家に籠っていく。
  寝ては聴いて、そして読んで、そして飽きて、また狂った様に聴いて――ただ、それをずっと繰り返していく。
 音楽を聴くしか脳がない女子高校生の、夏休みの一日。
 何も得られるものがないから、毎日というのはとてつもなく軽い絶望みたいなものだ。
 
 夢や目標なんてない。学力も身体能力も、そこまで高くない。だけど音楽だけは聴いてきた。だから、シューゲイザーとオルタナティブ、それにグランジがないと死んでしまうのではないかと、本気で思う。大抵こういう類の話は、同級生の誰も知らないから、誰とも話せない。話す気になれない。
 犬ほど利口ではない。かと言って、猫ほど自由気ままでもない。私は、不器用なのだ。
 それでも、毎日本気なのだ。
 本気で普通に生きているのだ。
 本気で普通に生きて、引きこもる夏休みを過ごしているだけなのだ。
 今まで、何があっただろう?
 何を、得てきただろう?
 何が、私はできるだろう?
 最後には、こんな抽象的で否定交じりの自問自答で自己陶酔する。
 それにも飽きると、閉塞感であふれた部屋を抜け出して、重い足を動かし、ようやく街に出る。
 暑さは嫌いだ。汗ばんだ肌がインナーに吸い付くのが嫌いだから。だけど、汗ばんだ肌を見るのは好きだ。それは、本気で何かをやっている証みたいなものだから。
 夜の街は好きだ。歩いているだけで、昼間の風景とは全く違うから。それは別世界にいるのかと思えるほど、暗くて、冷たくて、全てを失っていて。
 何も無いは、何でもできるから、私にとってそれは自由だ。
 このどこにも行けないような雰囲気が、私にとっての幸福なのだ。
 気分をハイにするために、眼鏡を外す。世界の輪郭がぼやけて、境界線が曖昧になって、次第に全部が一つになっていく。
 ここには、何も無い。何も無いから、もうそこにはなにもいらない。
 深夜徘徊は、私にとっての本気の――たった一つの世界なのだ。
 そんな中、ある少女を見かけた。重そうなギターケースを左手に持ちながら、キョロキョロしてる女の子。
 見覚えがある。眼鏡をかけ直し、彼女を凝視する。
 同じクラスの同級生、夏来日向(なつき ひなた)
 誰かと話しているところは見たことない。だけど、根暗とは言い難い、童顔ショートヘアーの可愛げなルックス。
 ギターなんて弾けるとは、予想外だと思いつつも、そのキメの細かい白い肌からは、ダウナーの空気があり、確かにギター弾いてそうな雰囲気ではある。
 面白そうなので、後をつけてみることにした。

 「……ひゃあ!」

 二十数歩歩き続けた後、彼女は素っ頓狂な声を上げた。

 「……」

 「……いや、その。幽霊?」

 「幽霊って言うな」

 「えっと、クラスが同じの……何さん、やっけ?」

 「……夜野星羅(やの せいら)

 「……えっと、星羅さん。私は夏来日向っていいます」

 「知ってる」

 「あっ、はい」

 「それと、星羅、でいい。一応タメだから、さんはいらない」

 「……いや、いきなり呼び捨てとか……無理だよ。だってあなたの声、今初めて聴いたし」

 「うるさい。陰キャで悪かった、もう」

 「……いや、ごめん、星羅。突然だけど、変なこと、言ってもいい?」

 何かしら詫びるだろうと思っていたのに、この子はあっさり認めた風の返事をしやがった。

 「何?」

 「……私、ギター弾けるんだ」

 「……そりゃ、ギター持ってるから分かるよ」

 「……あっ、そっか!私、担いでたね!」

 「えぇ……」

 すごい、天然だ。
 なんか関わりたくない。けど、彼女を見ているのは面白そうなので、やっぱりついていくことにする。

 「どんな音楽聴くの?」

 「……いや、まあ。シューゲイザー、とか」

 「……しゅーげいざー?シュークリームの派生品、みたいな?」

 「分かった。もういい、もういいから」

 何でこういうとき、こういう話になると私が恥をかかなきゃならないんだ。

 「で、今から、どこ行くの?」

 「どこにも行かないよ」

 「……じゃあなんで一人でテクテク歩いてるのよ、こんな深夜に」

 「ただ、歩いてるだけだよ」

 「どこにも行かないんじゃないの?」

 「……うん、どこにも行かないよ。だけど、どこにも行けないから、『どこへだって行ける』って思いたいの」

 やっぱり天然だ。

 「……そんな訳で今から、弾き語りライブするから。良かったら聴いてってよ」

 だけど、この一言で、彼女の雰囲気が、少しだけ変わったような気がした。

 ❀

 「何で弾き語りを始めようと思ったの?」

 「……大した理由なんてないよ。私は、逃げたいの。どこか遠くへ。なんか、今起こってることをずーっと考えるのって、疲れちゃうじゃん。どこにも行けないというのが事実だったとしても、『どこかに行きたい』という思いはあり続けるから」

 答えになっていない。

 「だから私、嬉しいんだよ。こんな真夜中に聴いてくれる人が、解ってくれる人が、ずっと隣にいるってことが」

 あまりにも真っ直ぐすぎる言葉は、心がムズムズするから、その行先を曲げたくなってくる。

 「共犯者って、こと?」

 だから、うまい言葉を使って、ねじ曲げるように話をはぐらかした。

 「きょーはんしゃ?」

 「……言い換えると、日向って、すごく、かっこいいねってこと」

 「……えっ?」

 「いや。ほんとうに。私、驚いた」

 「いや。あわわわわ」

 「……すごい顔赤いけど、大丈夫?」

 「……えっ、いや、だって。そんな、同じクラスの子にかっこいいなんて言われたら、照れるというか恥ずかしいというか」

 チョロい。

 「……かっこいい。けど、かわいいね」

 「かっこいいとかかわいいとか、言い過ぎ!」

 そのとき、夜風が靡いた。
 少し埃ばんだ、大人の匂いの混ざった夜の匂い。彼女の清々しいまでに黒髪のショートヘアーが靡く。黒髪のショートヘアが蛍光灯の無機質な光を反射させる。そして、彼女は前を見た。
 そして、薄暗い私と彼女の二人きり。見つめ合うようにして、小さなナイトショーが始まる。

 「じゃあ、ここで一曲。『星と旅人』という曲を――ええっと、この曲は星の光と、それに見惚れた旅人を歌った曲だよ。旅人は自分勝手な性格で、星を追うけど、それがどこか愛おしくて、それは優しいの――」

 小さな風が止み、Cコードのダウンピッキングで、曲が始まる。そこからは、G、Am、Emと、王道のカノンコードだ。
 今まで、飽きるほど聴いていた――王道すぎて耳が拒んでいたこの旋律。
 どこか遠い果てを見つめているような黒い瞳を見ていると、こっちが吸い込まれていきそうで。私は、ただ見ることしかできなかった。
 きっとあの目は、夢に心奪われた者の目だ。太陽の熱気と光に日常を拒まれた者にしか見えない――音を奏でる彼女は、夜空の向こう、ただひとりきりで輝く、星の光みたいだった。
 曲が終わると、彼女はこう言った。

 「私は、星になりたい。だって太陽は、こんな私には眩しすぎるから」

 眩しかった。ただ、一瞬。数字にすると三秒に満たない。だけど、そこは、彼女の世界だった。理屈なんて存在しない、直感と妄想と戯言で満たされた、ただ純粋すぎて、触れたら壊れそうな小さな世界が、当たり前のように広がっていた。
 ――「星になりたい」。なんて、もし本気で言ってるのなら。ただ自分に酔ってるだけだ。私以外の全ての人に無視され、知らない人が、知らんふりをして馬鹿にされるだけの、ただ意味のない言葉だ。
 だけど、それでもいいのだ。
 その世界に、その一言に、私は騙されたいのだ。
 そして、騙されていくのだ、きっと、ずっと。

 「……えへへ、ちょっと、緊張して、汗かいちゃった」

 そんな彼女を見て、美しいと感じてしまう。
 この場で伝えたら、どう思うだろうか?
 ――ちょっと、恥ずかしい。
 私も彼女も、チョロい。
 後できっと後悔するタイプの人間だ。
  予期せぬ事が分かってしまった、そんな悩ましき事態に、私の心はドキドキしてしまう。
 
 だけど、一つ、想うことがあった。
 ――きっと、私の日常は、これくらいの悩みがあれば、色づいていく。

 その想いの儚さに、私は感傷的になって、いつしか夜の匂いを辿っていた。

 ♦

 ポツポツとなる灰に似た雨は、全ての風景を暈していく。眺めていくと、心さえも滲んで消えていく、そんな感覚に陥ってしまう。
 半年後、日向の路上ライブはそこそこの人気を得た。来るとはいえ、五人か十人、あるいは二十人かそこら、だけど。

 「ごめんね。星羅。時間貰っちゃって」

 「うん。まだ、ライブまで時間あるし」

 「……私、ずっと考えてるの、あなたのこと。授業中も、家にいるときも、作曲しているときも」

 「日向。あなたを見ているだけで、私は幸せだよ」

 「そうなのかもしれない。あなたにとっては。だけど、私にとっての幸せは、あなたが傍にいてくれて、ただありふれた日々を送ってくれること」

 よからぬ雰囲気がした。なにかが、どっと押し寄せるような雰囲気だった。そしてそれは、確信へと変わった。

 「星羅、あなたが好き」

 「……えっ」

 「理由なんてわからないけど、ただ、どうしたって、好きなんだ、全てが。あなたを愛していたい。傍にいてほしい。だから謝るよ。私は、星になれなかった。理由は、星が、あなたが、綺麗すぎたから」

 彼女は、涙を浮かべている。それは、今日の曇り空にも似た、砂利色の泣き顔だった。

 私は、彼女が好きだ。
 それは何者にも染まることのない、穢れのない、日向のことだ。
 無茶な屁理屈ばかり語って、それでも希望を見出す、純粋で美しい、夏来日向のことだ。

 「……私は、嫌だ」

 だけど、その瞬間、あなたが泣きだした瞬間。「好き」と言った瞬間。その一瞬で、私は彼女を愛せなくなってしまった。
 その泣き顔は、私の愛する彼女を壊してしまった。私は、彼女の横顔が少しでも何かに汚されることを、どうしても許せなかったのだ。

 「分かってるよ。自分でも思うよ。こんなの馬鹿げてるって。でも、私はあなたとなら、何だってできる。それに、限りなんてないと思うの」

 違う。
 そんなのじゃ、ないでしょ。
 苛立ちと、不甲斐なさと、呆れと、諦め。ぐちゃぐちゃな私の感情が、彼女を拒む。

 「……嫌だよ」

 「……何で?……私のこと、もしかして、嫌?」

 「……違う。私だって、あなたが好き」

 「じゃあ、何で……」

 答えになっていない、なんて分かっている。それでも言う。
 彼女に、見切りをつけるために。

 「あなたと私の『好き』は、同じだよ。だけど、だけどね。どうしようもなく、それは全てが違っているの」

 私は、彼女が好きだ。理由なんてちっぽけだ。
 あなたの歌を聴いていたい。もっと、ずっと。
 私の傍にいてほしい。
 あなたの歌を、あなたの側で聴き続けていたい。
 理由なんて、全部、同じだ。
 だけど、どこか違うのだ。
 彼女は、変わりたい。
 私は、彼女に変わってほしくない。
 今のままの彼女を、変わらず見守っていたい。
 彼女は、私が好きだ。
 私も、彼女が好きだ。
 だけど彼女には、私を好きでいてほしくなかった。
 夢を、夢のまま。変わることなく追い続けている彼女だけ、私は愛おしいと思える。
 私はそんな彼女を、「愛おしい」と思いながら、ただ、見ていたいだけなのに――
 彼女は、その境界線を越えようとする。
 きっとそれは、どこへも行けなくても、どこかへ行こうとする思いが、彼女にはあるからだ。
 彼女の顔は大粒の涙で溢れている。
 それを見て、涙を拭くことも、慰めることも、抱きしめることも、手を握ることすらできなかった。
 純白だった彼女の顔が涙で溢れているのを、私は見ることしかできなかった。だけどそれを見ることしかできない私が、ただ許せなかった。彼女を愛せないのは、私のせいだから。
 何もないから、もうどこへでもいけない。
 どうしようもなくなって、私は言う。

 「泣いても、意味なんてないよ」

 「……泣く以外に、何もできないよ」

 「……そんな顔なんて、見たくなかった。だから涙に意味なんてないよ」

 「よく、そんなこと、言えるよね」

 そう言って、日向は、私の頬を叩いた。

 「……あなたのせいだよ!私が今泣いているのも、私があなたを好きなのも、そもそもこんな私になったのだって、全部、全部、あなたのせいだよ!」

 「……そうだね。私のせいだ」

 だけど、私が日向を愛することができないのも、ずっと愛し続けている日向のせいだ。
 私がこんな捻くれた感情を持ったのだって、何もかも、あなたのせいだ。

 「あなたのことなんて、大っ嫌いだ」

 ❀

 私は、高校を退学した。理由なんて要らなかった。ただ、何をすればいいか分からなかった。
 どうでもいいと思った。別に。誰が、どう生きようか、なんて。毎日本気だったのだ。
 本気で普通に生きていたかったのだ。
 本気で普通に生きようとして、結果としてそれが出来なかっただけなのだ。
 だけど、時々思い出す。

 「私は、星になりたい。だって太陽は、こんな私には眩しすぎるから」

 そう彼女は言っていた。
 その言葉を思い出す度、吐き気がした。
 目眩がした。耳を塞いでも思い出してしまうから、耳だけ引きちぎりたかった。どこへ逃げても思い出してしまうから、消えてなくなりたかった。
 ――もう、終わりなんだ。どこへも行けないのだ。全て、無かったことにでもして、閉じこもるんだ。
 一人で深夜の路地を歩く。誰もいない、ただの道。冷たく、暗く、何も無い道。
 私には、何も無い。何も無いから、もうそこにはなにもいらない。それだって、れっきとした、たった一つの世界なのだ。
 ギターの音が鳴っていた。それは、音と音が交じりあって、絡み合っている。悲観と楽観の両方を感じさせる音色。
 そして、歌が聴こえた。ずっと、心に閉じ込めていた、あの日の星の歌と、あの日の少女だった。

 星はまだ、綺麗だ
 だけど、いつか消える
 だから急がなくちゃ
 まだ、許してくれるかな
 まだ、覚えていてくれるかな

 私は、ただ想っていた。

 ―なにも、いらなかったのだ。
 彼女さえいれば。
 ―なにも、恨まなかったのだ。
 彼女さえいれば。
 ―なにも、嫌いたくなかったのだ。
 彼女さえいれば。

 涙が、止まらなかった。どうあがいても、どう見つめても、彼女の横顔が綺麗すぎて、ただ涙を流すしかなかった。
 彼女の緩やかな優しさの音が、鼓膜と喉につき刺さって、思わず嗚咽をもらしてしまう。今まで溜まっていた苦しみを吐き出すように。何度も。何度も。
 あちらも、こっちに気づいたみたいで、寄り添うように近づいてくる。

 「ばーか」

 「……ごめん……ごめん……ほんとに、ごめんなさい」

 「……ふふっ、すごい泣き顔。なんか、じゃりじゃりしてる」

 「……うぅっ、日向、ごめん。私は、ただ……」

 「……泣いても、意味なんてないよ」

 彼女は私を抱き寄せる。優しく、暖かい彼女の体温が、私の冷たいだけの肌に移る。越えられない境界線に、足を踏み入れるみたいに。

 「……泣くこと以外、何もできないから。だからっ、だから私は、泣いているの」

 ああ、そうだ。私はただ、騙して欲しかっただけ。彼女に、騙されていたいだけ。この気持ちを、この涙を、この「好き」を。

 「……日向。私、知らなかった。『好き』は、こんなにも脆くて、ぼろぼろで、尊いものだってこと」

 ただ、寂しいのだ。
 日向がいないと。
 だから、縋っていたいのだ。甘えていたいのだ。優しさがほしいのだ。ずっと、一緒にいてほしいのだ。

 「……『許して』なんて、卑怯だけど。だけど、一つだけ……私は、あなたの傍にいたい、あなたの奏でる音を聴いていたい。あなたの歌声を、そばで聴いていたい。もっと、ずっと。願うなら、星より近くで」

 日向はゆっくりと頷く。そして更に、離れない、離さないように、私をぎゅっと抱き寄せる。

 「星羅が望むなら、私はなんにでもなる。何でもする。だから、私が望んだときは、こうやって、優しく抱き締めていてほしい」

 彼女は続けた。囁くように笑って、泣いて。

 「あなたがいるから、私がいる。あなたが笑えるから、私だって笑える。あなたが泣いているから、私だって泣きたくなる」

 すでに瞳には、大粒の涙が溜まっている。それは、醜い砂利色でできた、この世で一番美しい泣き顔だった。

 日向は「愛」だとか「好き」だとか、他愛もなく言うけれど。

 「好き」という気持ちに「好き」という言葉をのせると、その心が壊れてしまいそうだから――

 ひねくれ切った私は、ここに来ても言いたくなかった。
 だから、その代わりに私は言う。

 「約束して。ずっと、あなたの音を聴かせて。私は、ここにいるから」

 それは「愛」も「好き」も拒む私の、無意味で、無価値で、わがままで――触れたらそっと消えてしまうような、ちっぽけな想いだった。


 ❀

 そんな出来事があって、数年が過ぎた。
 この世界には多くのものがある。見るもの、感じるもの、耳にするもの、その他諸々。
 その中にあるもののほんの一部が、私の生活を形作っていく。私はそのほんの少しのものだけで、生きていける。そしてその中の多くが変わっていく。高校中退から制服も着なくなったし、通学路の途中にあった喫茶店も、今では取り壊されている。
 だけど、変わらないものだってあるのだ。

 「ライブ絶対泣かすから!覚悟してよ。もし泣いたら、一つだけ私の願いを叶えること!」

 「……なんだってするよ。あなたがしたいことなら」

 「約束ね」

 「うん、約束」

 「……誰にも言わない?」

 「……言うわけないでしょ。そもそも、誰に言うのよ?」

 「……うん。よかった」

 「で?何して欲しいの?」

 「……えっと、そのぉ……疲れてたら、添い寝、かなぁ……」

 彼女が求めたのは、馬鹿みたいな甘やかし。セッションでもカラオケでも、練習の付き添いでもなかった。大きなため息をついた後、私は彼女の耳元にそっと触れる。触れたら壊れそうな世界に、そっと手を伸ばすように。

 「あわっ、ちょっ、やめっ。めっちゃくすぐったい」

 「……理性保てる?こんな弱々で」

 「……絶対、大丈夫……多分」

 覚悟が必要なのはどっちだ。

 「……まあ、頑張って」

 「うん」

 そうして、私は彼女にハグをする。

 「今日も、私の番だな」

 「うう〜、まだ何も言ってないのに〜」

 「じゃあ、明日は日向がしてよ、ギューって」

 「……えっと、私が。そんなハグは……いや、そのね。肌の感触とか、手の温度とか……そういうの気にしちゃって、なんか、ね」

 「うわー」

 「……いや!決してそういうのでは」

 「別に、そういうのも、していいよ。もし、日向が出来るのなら。良い曲聴かせてくれるみたい、その勇気があるのなら」

 「……じゃあ、もっと、そういう……妄想を、曲にすればいいのね……私、あんまりわかんないんだけど、それでも頑張る! 」

 あほくさ。まあ、高校退学する私が言えることじゃないけど。
 震えてビクビクしてる、ひきつった笑顔の日向。ゲンコツ代わりに頭を撫でてあげる。

 「あーもう。わかったわかった。どーせ出来ないんだから。ライブに集中。私、感想聞くの楽しみにしてるから」

 「……ごめん。変なこと言って」

 「……別にいいよ。あなた、元から変だし」

 「うん」

 「おー、認めた。さすが天然なだけある」

 「……あっ、そうじゃないの。私もライブ頑張るから、星羅も夜勤、頑張って、っていう意味」

 「うん、知ってる。そう言われると、頑張れる。じゃあ終わったら、いつも通りここで会おう」

 ――そう。私はそのほんの少しのものだけで、生きていける。  

 私たちは、たった二人きり。
 だけど、寂しくは無い。
  あるがままを、ただ、ありのままで――二人だけの嬉しさも悲しさも二人で創っていければ、それでいい。
 ただ音を奏でながら、どこへだって逃げていけるように。
 漠然とした世界をゆっくりと漂いながら、その世界のどこへだって駆け出していけるように。

 歌声が今日も鳴り止まない。それは星に憧れ、星を歌い続け、その傍にいる少女の歌声。歌って、泣いて、騙して、そして笑う。悩ましき私たちは、まだ物足りないのだ。
 つつがない日々は、ただただ繰り返していく。
 もしもある日、大きな困難に行き着いたとしたら。そこにある想いは色褪せて、いつしか劣化してしくのかもしれない。
 それでも、絶対に。星は、いつまでも輝き続ける。 
 その光に、その光さえあれば――私は、普通の日常を、ただ精一杯に生きていけるのだ。

 今日も彼女は、 私の星になって――囁くように歌い続けている。