――あれは、雨上がりで、紫陽花の葉が濡れ、夏の匂いがする風が柔らかく拭いていた。

「ニャァ」

 歩いていたら聞こえてきた、小さな小さな仔猫の声に、俺は何気なく視線を向けた。
 そこには母猫と、白い仔猫が三匹いた。目が開いたばかりの様子で、必死に乳を飲んでいる。ぼんやりとそれを俺は立ち止まり見ていた。母猫は痩せ細っている。

「……」

 一時の慈悲などかけたところで、動物はおろか人間でさえ、この国ではすぐに死ぬ。
 それだけ魔獣の災禍は酷く、同時に爵位や階級による差別も根強い。
 尤も、俺の生まれたファーベル男爵家のような貧乏貴族よりは、豪商の平民の方が、ずっと地位や権力も上だが。制服のポケットに手を入れて、俺は昼食にしようと騎士団の待機室から貰ってきた栄養補給用の固形食を取り出した。ササミ味で、お世辞にも美味しいとは言えないが、これ一本で一日分のカロリーが補給できる。俺はそれを二つに割って、片方を砕き、母猫の側にそっと置いて立ち去った。

 歩きながら、王都の街並みを見る。とても綺麗だ。だが、貴族の王都邸宅(シティハウス)にも位置に決まりがあり、序列に従い悪い立地があてがわれる。その端の端に、領地を持たない、つまり王都にしか家のない、ファーベル男爵家は立っている。

 本日は実家から呼び出されていたので、特例で立ち寄る許可を得ていた。

「帰ったか……」

 疲れきった顔をしているのは、若くして男爵位を継いだ兄だ。
騎士だった俺達の両親は、魔獣討伐の最中に命を落とした。以後、俺は兄と弟と三人で暮らしてきた。三つ年上の兄は、両親が没した十五の歳に男爵となり、現在二十歳。弟は四つ年下で、現在十三歳。俺は食費と生活費がかからないからという理由で、十五の歳にルードフェルド魔法学院の試験を受けた。

 あとは、必死だった。
 なんとしてでも、職にありつかなければ、死ぬ。両親の遺産は少なく、その少ない財産も、嬉々として親戚連中が、兄を唆して奪っていった。幼かった俺はなにもできなかったし、兄もまた幼かった。弟は論外だ。

 日々の食費にも困っている家族を思いながら、俺はひたすら技能を学び、騎士団の臨時の求人に応募した。実技と紙の成績で上位だった俺は、歓迎され、すぐに正式に騎士団に所属する事となった。嬉しかった。兄に仕送りが出来るからだ。これで弟も、きちんとパンを食べられるはずだと喜んだ。

 次第に、騎士としての任務は苛烈を極めていく。
 そんなある日、俺は騎士団宿舎で、控え室に入ろうとして聞こえてくる会話を耳にした。何気なく立ち止まったのは、自分の名前が出たからだ。

「いやぁ、ロイドは最高だな」
「そうだな。完璧な捨て駒が手に入ったな。いつ死んでもいい人間で、あれほど実力がある奴は、中々いない」
「そうだなぁ。貧乏男爵家というか、貴族だなんて名ばかりだ。今じゃ、平民は差別だなんだと煩いからな。お貴族様が率先して死ねば、納得して喜ぶ始末だ」
「やばい敵もガンガン倒してくれるし、ロイドは本当に戦うために生まれてきた感じだな。葬儀の用意はしておかないとならないが」
「銅貨一枚じゃ、さすがに多いか?」

 そんな事を言い合って、控え室の人々は笑っていた。
 さっと体が冷たくなった。別に、認められたいと思っていたわけではない。ただ、無性に納得していた。どんどん激戦地に送られる理由が分かった。自分と同じように騎士団に所属していたり、内定をもらい臨時で働いていても、爵位が高い者はせいぜい雑用であり、最前線に出て大けがを負ったりはしていないからだ。

 ――いつ死んでもいい、捨て駒。

 それは、確かに自分を正確に表す言葉だなと、妙に納得した記憶がある。

「ロイド、見合いをして欲しいんだ」

 兄の言葉で、俺は我に返った。

「見合い?」
「ああ。相手は、その……悪いな、平民だ」
「いや、構わないが。どんな相手だ?」
「……爵位を欲している富豪だ。騎士は、ほら……一代限りの爵位を与えられるだろう?」
「ああ、まぁ……そうだな」

 実際そういう王国法が存在し、騎士は、騎士団に所属した段階で、その者限りの爵位を得る。それが何代か続くと、陞爵される。ファーベル男爵家も、曾祖父の代に、騎士を輩出してきた家柄だとして、男爵位を賜った。

「その地位と、あとは貴族との繋がりが欲しいそうだ。それで、お前にと話が来た。すまない……その……」

 兄の申し訳なさそうな声と、頭を下げる姿に、首を振りながら俺は笑って見せた。

「いや、いい。そうか、富豪か。ならば、美味しい食事も食べ放題だろうな。楽しみだ。必ず、話はまとめる」
「……ありがとう、ロイド」
「気にしないでくれ」

 そう告げて、俺は帰寮する事にした。
 見合いといった人生における重要な話し合いがある場合は、外部から学院の敷地内の離れに、人を招くことは許される。見合いはそこで行われるのだろうと、俺は漠然と思った。