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「仁花、そろそろ向かおうか」
「うん」
お父さんに呼ばれて、私はゆっくりと座っていた椅子から立ち上がる。
朝の空港はたくさんの人で埋め尽くされていた。スーツを着て電話をしながら早歩きで搭乗口に向かう人、友達と楽しそうに会話を弾ませながら旅行先へ向かう人。本当にいろんな人がたくさんいる。
あぁ、私、本当に海を渡るんだ。あれだけ楽しみにしていたというのに、いざこのときがやってくると、これから先やっていけるのかという不安で押しつぶされてしまいそうになっている。
「(大丈夫、私はやっていける。大丈夫だ)」
家から持って来た大きなスーツケースを二つ抱えながら、お父さんのあとを追おうと一歩を踏み出した。そのとき。
「──仁花!」
耳に馴染む、聞き慣れた声。
こんなにもザワついてたくさんの人の声が行き来しているというのに、その声だけははっきりと耳に届いた。
「楓くん!?」
「俺との約束を破って先に海外に飛んじゃう仁花だけど、最後にやっぱり会っておこうと思ってね。来ちゃった」
「ご、ごめんね楓くん。お父さんの仕事の都合と、私が卒業を待たずに辞めちゃったから……っ」
「ハハッ、冗談だよ!ただ俺が仁花の顔が見たかったの」
楓くんの姿を捉えた瞬間、スッと心が軽くなっていくのが分かった。
本当に、昔から楓くんは私のヒーローだ。
「……私も、最後に会えて良かった」
「うわ、今日は仁花がえらく素直だね」
「うん。後悔、しないようにね」
そういうと、楓くんはニッコリと微笑んだ。
「私にとって、楓くんはヒーローなんだ。昔から」
「俺が?仁花の?」
「うん。幼稚園のときから今日までずっと、私がピンチのときはいつも楓くんがいてくれたから」
「へぇ、じゃあヒロインは仁花だね」
「わ、私が!?」
「だってヒーローとヒロインはセットでしょ?だから楓っていうヒーローには、仁花っていうヒロインが必要不可欠なんだよ」
「……っ」
「だから、少しの間だけそっちで待ってて。卒業したら一番に仁花がいる国に飛んでいくから。それまで少しだけ一人で頑張って、仁花」
「……うんっ。私、楓くんっていうヒーローに見合うくらい強くなって待ってる」
いつまでも暗い顔ばかりしてられない。
私は今日から『仁花』として、新しい人生の扉を開けるのだから。玲奈とまた会えたとき、楽しい話題をたくさん話してあげられるように。そして、玲奈の分まで幸せになるために……私は新しい一歩を踏み出すのだから。
「おーい、仁花。飛行機、そろそろだぞ」
「あ、うん、今行く!」
遠くの方で待っているお父さんに呼ばれて、私は小さく息をついた。
……もう、大丈夫。
「じゃあ、私行ってくるね。楓くん」
「うん、気をつけて。いつでも連絡、待ってるからね」
「あ、あのね──」
「あ、仁花──」
きっとこれが最後の言葉になるだろうと声をかけると、同じタイミングで楓くんが私を呼んだ。
二人で目を見合わせて、クスッと笑い合った。楓くんと離れるのが、どんどん寂しくなっていく。
「ハハッ、楓くん、何言おうとしたの?」
「いや、ここは先に仁花に譲るよ」
私にはまだあと一つだけ、ずっと言おうと思っていたことが残っていた。
「じゃあ私から言わせてもらうね」
「いいよ、どうぞ?」
「あのね、また私たちが再会できたら……そのときは楓くんに伝えたいことがあるの」
幼いときから、ずっと言えなかったこと、もう一つの私の気持ち。
この言葉を楓くんに伝えたいと思えるようになるまで、本当にいろんなことがあった。
「(ちゃんと無事に再会できたら、そのときは言うんだ。楓くんのことが"好き"だって)」
楓くんには玲奈のほうがお似合いだと決めつけて、はじめて芽生えた恋の芽を自ら摘んだ。そして彼は遠く離れた土地へ行き、私は玲奈を失い、そして『玲奈』として生きるようになった。
誰かを好きになるなんて、私の人生にはもう訪れることはないと本気で思っていた。だけど、『玲奈』として生きるようになって、初めて『友情』というものを学んだ。そして数えきれないほどの感情を覚えていった。嬉しいことも、悲しいことも、怖かったことも、悲しかったことも、楽しいことも、全部。
だけど、それはどれも完全に『仁花私』のものではなかった。
玲奈のお面を被り続けていた『私』は、次第に自分を見失いかけていた。
そんなときに再会した、楓くん。あなたがいつも私のことを『仁花』だと教えてくれたから、私はこうして今、『片瀬 仁花』として生きることができている。
どんなときでも私を救ってくれたあなたに、一度むしり取ってしまった恋というものが再び芽生えてきてくれた。
「伝えたいこと?」
「うん。だから、それまで私のこと……忘れないでね」
それがなんのことなのか、昔から察しのいい楓くんはきっと分かっている。
でも、まだ言わない。これは楓くんとまた無事に会えますように、という願いを込めた二人だけの約束にしておきたいから。
「分かった。じゃあ、それを楽しみに仁花に会いに行くから」
「うん。絶対だからね」
「約束、ね」
楓くんはそう言って笑って、小指を立てて指切りを求めた。
私は彼の小指に、そっと自分の小指を絡める。
「楓くんは、何を言おうとしたの?」
「最後に、仁花に聞きたくて」
「何を?」
「お前の名前は?」
「……っ!」
「もう一回、ちゃんとその口から聞かせて」
私よりも十センチ以上背の高い楓くんは、私を優しい視線で見おろしながら言った。
……もう大丈夫だよ、楓くん。
私、あなたが何度も私の名前を呼んでくれたから、自分を見失わずに済んだよ。
ありがとう、楓くん。
いつも『仁花』を守ってくれて。
その瞬間、楓くんがこれまで私にくれたたくさんのかけがえのない言葉たちを思い出した。
そのすべてが、私の宝物。
「私は、仁花だよ──」